プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

小畑正治

2015-08-23 22:00:41 | 日記
フォーム・・右投スリークォーター 球種…シンカー

1955年

なんのかんのと強気なことをいっていても第一線に力の差をみせつけられた南海は技心両面において完全な受身であった。この劣等感を吹き飛ばして精神面で五分と五分にもっていったのが飯田のホームランである。その意味からこの一撃はまさに値千金、南海はここから勝利の道を見出したといえるのだ。そしてこの道を間違えなく案内したのが小畑の好投であった。小畑の試合前のウォーミング・アップをみた蔭山が「きょうは普通以上の調子で、あの調子をマウンドにもっていけば相当いける」といっていたように、小畑は巨人打線を恐れず、一回南村を抑えるときに不敵な笑いを浮かべたほどの度胸のよさ、この南村をストレートの四球に歩かせたときも少しも動揺していなかった。それが平井に対する初球のシンカーとなり投ゴロで巧く併殺、二回にも四球の走者を投ゴロに併殺で退けた。スピードには特に注目すべきものをもっていなかったが、このシンカーは球速の不足を補うのに十分であり、巨人は最後までこのボールになる球に手を出していた。
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大竹仁

2015-08-15 11:15:52 | 日記
1955年

毎日オリオンズでは二十三日大竹仁(20)=稚内高-東洋高圧砂川=外野手と正式契約したことを発表した。同選手は五尺八寸五分、二十一貫、左投左打すでに昨秋の産業対抗野球に六番打者で出場し、その柔軟な体がプロ野球の目にとまった。日本最北端稚内の出身、しかも東洋高圧砂川入社後一年間は投手をやっていたので注目されなかったが、肘の故障で打撃に専念して以来本領を発揮してきたもので二、三日前から参加した東大球場のキャンプでも長打をとばして目をみはらせた。

大竹選手談 学校を出たときある球団から誘われたが、すでに東洋高圧入社が決定していたのでダメだった。どうせ野球をやるのならばプロ野球でと思っていたところ別当監督からお話があったので会社の了解を得て契約した。伯父が大のオリオンズファンでプロに入るならオリオンズといわれていたこともあり喜んで入ったのだから大成できるよう頑張るつもりでいる。プロ野球はすきだったので機会のあるたびに見ているが、相当勉強しないとレギュラーになれないと思う。特に今まで左投手に当っていないので左投手はいやだしミラクル投手も苦手だ。

別当監督談 体がとても柔かいし力もあるから選球眼と腰から下の鍛錬ができれば大打者になる素質を十分に持っているので期待している。要は早くプロ野球になれることだ。すぐ使うかどうかはオープン戦の結果を見ないとわからないがオープン戦にはどしどし使うつもりでいる。なお背番号は「24」(従来の「24」本堂は「32」に変更)である。
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西田稔

2015-08-14 23:11:41 | 日記
1955年

阪急ブレーブスではきのう二十七日午後二時から同球団事務所で木地社長、宇都宮マネージャー、丸尾スカウトの立ち合いのもとに立命館大学のエース西田稔投手=(20)右投右打、五尺八寸、十八貫=と正式契約を結んだ。西田投手は立命高校から同大に進学し関西六大学リーグでは右腕から繰り出す切れのよいカーブ、鋭いシュートに定評を持ち技巧派投手として安定したピッチングを身上としていた。昭和二十九年秋のシーズン前に西尾、紀藤が退部したため主戦投手となり、今秋のリーグ戦には優勝決定戦に持ち込む奮闘を示した。なお今回の入団に際しては西田投手自身が阪急入りを熱望して直接入団交渉にあたったものである。背番号は21と決定している。

西田投手談 球道ただ一筋に生きたいというのがプロ入りの動機です、だからこのたびの契約については私個人で決めたことです、学校の方には手紙をもって通知しておきました。阪急を選んだ理由としては私は派手な性格ではないから阪急の地味なカラーが私にぴったりだと思ったからです、両親の承諾はとってあります。

木地社長談 とにかく阪急を熱望して入団してくれたということは喜びにたえない、あいにく西田君のピッチングは見てないが、京都から種田投手もいることだし西田君の活躍ぶりはかねがね噂に聞いていたし、その活躍は大いに期待している。

太田立命監督談 あまりにも突然のことで驚いている。彼の阪急入りについてはもうとかくいわないが、学業を全うしてから進んでほしかった。まだ二年生であり、来季の活躍を楽しみにしていただけに、その被害は大きい。
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黒田勉

2015-08-14 21:45:11 | 日記
1955年

ノン・プロ日本鋼管野球部の黒田勉投手(19)は二十七日午後二時半丸ビル三階の近鉄東京事務所で次兄昭治氏にともなわれ大北近鉄代表との間に入団の契約を行った。同投手は昨夏の全国高校野球大会に鶴見工高のエースとして出場、今春卒業と同時に日本鋼管(鶴見製鉄厚生課)へ入社、春の選抜都市対抗、さらに夏の全国都市対抗には日石カルテックスに補強されて活躍した。

黒田選手談 ほとんどの在京球団から勧誘されましたが、関根さんをしたっていたことと岡本さん(トキコ)や佐藤さん(日石)など知友のいる関係で近鉄を選びました。生やさしい世界でないことは承知の上ですし一生懸命やるつもりです。

大北近鉄代表談 去年の高校野球の時から猪子社長がほれこみ、一年かかりの交渉で入団の運びとなった。私自身直接みていないがうわさでは相当のものと聞いているからきっとやってくれると期待している。

黒田選手は昭和十一年八月二十八日生、中学時代は陸上競技選手としてならし、湘南高入学後もしばらく陸上競技をやっていたが、野球への志望もだしがたく約半年で鶴見工高へ転向した。鶴見工時代も野球のかたわら陸上をやり二十九年春神奈川県大会では四百に53秒6の好記録を出した。本格的に硬球をにぎってからまだ三年目というが五尺九寸の長身、十八貫三百の体から投げおろす速球には期待がもたれよう、右投右打。
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西村修

2015-08-14 20:57:52 | 日記
1951年

桐蔭高校時代から剛球が認められながら制球難の激しかった投手の一人。昨年二軍に入って一年感ミッチリ練習に励んだ甲斐あって今春から一軍に昇進した。十九で左投手、藤村弟、梶岡、駒田らをたすけてしばしば登板に浴し、成績は4勝3敗で一つの勝ち星をのこした。インドロに凄みがあり、まだコントロールを欠く弱みはあるが、精進次第で大いに将来を嘱望されている。調子はこれからというときに負傷して大分損をしたが、松木監督はよくこの弱冠投手を注視している。西村の投球フォームをみると一寸ギコチないように見えるが、その全身バネといった強靭さはたのもしいものがある。その球質の重さはリーグ随一といってよかろう。
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増田浩

2015-08-14 20:42:00 | 日記
1955年

鐘紡化学にあって産業野球大会でも強打ぶりを発揮した増田浩三塁手(20)=向陽高=は阪急ブレーブス入りが決定、近く正式契約を行う。同選手は五尺八寸、十七貫五百、右投右打、選球眼が良くスムーズなスウィングで右に左に好打を放ち産業大会最終戦は4打席4安打、大会中の打率は四割二分一厘で左翼席に痛烈なライナー性の本塁打をたたき込んでいる。また守備は長身のためやや腰高のところがあるが、グローブさばきは一際きれいであった。
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河文雄

2015-08-14 16:56:54 | 日記
1951年

高岡中出、小樽協会から昨秋遅く入団した右投手。初登場の今春は大いに活躍を期待されたが西村同様に練習時のシュート多投にヒジを痛め出場回数は少なかった。1勝1敗で目だった働きはなかったが、秋にはヒジも全癒して持前のドロップを生かしていたようだ。制球力が良いのと新人には見られぬ種類の球を持っているのが強味、来シーズンはもっとかせげる投手だ。
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荻原隆

2015-08-14 16:40:33 | 日記
1951年

熊谷高校から今春プロ入りして大いにマウンドを死守した。大洋は林、高野ら今西といった好投手を持ちながら、どうもクスぶって、サッパリ振るわず、投手陣はあわれを呈した。こういう中にあって十九歳というポッと出の荻原が若いにも似合わぬプレート度胸を買われて登場の機会を得た。右投手で球威にはこれといったすご味はないが、門前捕手のサインに黙々と投じているフォームは新人放れのしたコントロールがあり、これが今年とくに重宝がられた所以だった。州四試合に出場して、さし当りリリーフ専門ではあったが、6勝8敗の星、投手成績からいけば林に次いで大洋投手団中で第二位である。大洋はこの新人萩原の成長を誰よりも楽しみにしているらしい。今季の活躍にむくいて昇給させたとか。
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島本和夫

2015-08-14 16:32:43 | 日記
1951年

新田監督がロビンスに就任してから、最も眼につけていた廿一歳の右投手だが、廿四年に入団して二軍生活を送っていた当時に比すればグッと上達している。まだまだ安心してマウンドを任すところまでに至ってないようだが、スピードはかなりで、試合慣れがせぬために正直すぎた投球をくり返している。ドロップにも相当鋭いものがあるが、カーブは未だしの感が深い。大島、真田、江田といった昨年のかせぎどころが今シーズン不振のなかにあって小林(恒)を助けてよく登板したが、実績は少なかった。シーズン当初はそれでもよく先発として活躍し、その片りんをみせた。
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野口正明

2015-08-14 08:23:04 | 日記
1951年

飯塚商から十七年名古屋軍に入社した時の野口のポジションは一塁手だった。大体投手が本職なのだが、当時の記録をひっくり返してみると一塁手となっている。野口が投手として出場出来るようになったのは翌十八年、名古屋ではこの二年だけ。十九年には産業軍、戦後廿三年は急映、廿四年大阪、廿五年西鉄と今日に至っている。これに伴って投手としての出来も中々芽生えずにあった。ところが昨年末から長足の進歩をそのピッチングにみせるようになり、今シーズンでは西鉄投手陣の川崎、緒方と並んで最も安定性のある投手となった。十年選手といってもようやく通算年数で十年を経過しているが、実働機関は七年間である。近年において暫くそのピッチングを認められて来ただけに従来の投手実績はまことに寂しいものである。プロ第一年の十七年は投手として登場していないので十八年がスタートの年となる。この年野口は廿五試合、十二完投で十二勝四敗の好成績で、この記録は彼の過去七年間の投手では最高のものである。十九年は十三試合、十完投六勝六敗の五分の厘、廿三年は州試合、四完投、六勝五敗、廿四年州四試合、十二完投、十二勝十三敗、廿五年州八試合、十六完投十勝十三敗、今シーズン廿一試合、九完投、十二勝八敗となっている。サイド・スロー気味の投方からくせのある球を投げ、シュートはすばらしく大きいし、鋭いものだ。コントロールがメッキリよくなって来たのが昨年来からの進歩で、これにプレート度胸も中々のものになっている。西鉄に移るまでは、どことなく安定感が伴わずこのため起用される度数も少なかったが、目立たないながらも随次向上の一途をみせていることは本人にとっても、またチームにとっても、かけがえのない喜びである。来年度は是非廿勝投手となることである。
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入江巡一

2015-08-13 23:00:50 | 日記
1967年

高校時代

強気のリード実結ぶ 入江巡一捕手(真岡高)

いつもファイト満々、大きなゼスチャアでナインを引きしめる姿は本大会のファンにはすでにおなじみ優勝候補の宇学を打ち破った瞬間、入江捕手はマウンドにかけよって、高橋投手と抱き合い勝利を喜んでいた。1点の先行を許した真岡は三回、高橋投手の二塁打を足がかりに野沢の内野安打で同点とし、逆転打はこの入江捕手が三遊間をぬいたもの。「夢中で打ちました。ワン・ストライクのあと、シュート気味のボールでした」といささか興奮した面持ち。汗のふき出る青かんな顔に一㌢ほどの不精ひげがのびている。入江捕手の功績は投手リードの面でも大きい。一回戦の対壬生高戦で10四球を連発して荒れに荒れる高橋投手を落ち着かせるのに一苦労。やっと二回戦から高橋投手も立ち直り、武器の内角低めの速球がよく決まった。入江捕手が変化球を捨てさせ、速球一本ヤリという強気のリードが功を奏した。「二人のバッテリーを信頼して思うままに投げさせています。入江君のサイン通りに高橋君も投げていることでしょう」と、鶴見監督もほめる。この二人がバッテリーを組んだのは昨年の秋からだが、小学校時代からマスクをかぶっている入江捕手の経験がものをいっている。一㍍七〇、七〇㌔のがっしりした体つき、しかし捕手の体力の消もうは激しく、本大会で三㌔もやせたという。好機に強く、栃木工戦でも適時打を放って2打点あげている。家は真岡市台町で石材店を営んでおり、長男だが、まだ進路はきめていない。「ここまできたからには高橋投手の武器のシュートを使って真っ向から作新とぶつかっていきたい」と相変わらずファイトおう盛だ。

・捕手は文字どおりチームのカナメ、各チームとも元気いっぱい声をかけてチームを引き締めている。真岡高の入江巡一捕手もこの日は、主将で四番打者という重責にめげずに元気いっぱい。キャッチャーフライは対戦チームのベンチまで追いかけるなど、そのおう盛なファイトに炎天下の観衆も感心していた。真岡高のエース高橋投手はこの日、制球に苦しみ再三の四球フェンスに直接あたる大暴投に、入江捕手は何とか落ち着かせようとやっきになり、ついにみずから投手のまねをして投球かっこう。これには観衆は大笑い。
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元近鉄テスト生

2015-08-05 21:38:30 | 日記
1967年

去る八月二十五日から一週間、新人テストを行い、入団の内定していた東新昇外野手(18)=178㌢、70㌔、右投げ右打ち、岡山県琴浦高、釜野照義外野手(20)=174㌢、66㌔、左投げ左打ち、川西高出、北泰幸内野手(18)=176㌢、69㌔、右投げ右打ち、市和歌山商、近藤義之投手(15)=175㌢、66㌔、左投げ左打ち、川崎中原中=の以上四人と推薦による原野一博投手(18)=山口竜谷高=の計五人に対し、十一日、統一契約書を郵送し、正式入団を通達した。これらの選手は第三軍として教育されるわけだが、来年一月二十日から行われる自主トレーニングに参加する。
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元産経のテスト生

2015-08-05 21:31:36 | 日記
1967年

産経は十一日午後五時、東京・有楽町の球団事務所で金の卵九人の大量入団を発表した。先月十九日、二十六日の二回の新人テストで二百二十七人の応募者のなかから選ばれた合格者で、同日発表に先だって入団の手続きをすませた。残る合格者は五人で、後日発表される。新人選手名つぎのとおり。

投手

政山恵一(24)=神奈川大中退、リッカー、林建設、178㌢、76㌔、右投げ右打ち
金城進(18)=奈良御所農高、170㌢、67㌔、右投げ右打ち
荻原久男(19)=川越富士見中、大崎電気、174㌢、70㌔、左投げ左打ち
寺沢高栄(18)=長野中央高、175㌢、67㌔、右投げ右打ち
小松昭二(19)=秋田増田高、175㌢、80㌔、左投げ左打ち

捕手

関根勇(23)=大阪高、PL、広島カープ、174㌢、74㌔、右投げ右打ち

内野手

諸伏徳政(18)=横浜高、176㌢、73㌔、左投げ左打ち
古川明(21)=銚子商、山本クラブ、179㌢、70㌔、右投げ右打ち
関口穣二(21)=東京攻玉社高、180㌢、73㌔、右投げ右打ち
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川口敏春、溝口健二

2015-08-05 21:21:48 | 日記
1966年

西鉄は九日、福岡市大名二丁目の球団事務所で、長崎九州経営学院の二選手、川口敏春投手(17)=175㌢、72㌔、右投げ右打ち、背番号82=と溝口健二内野手(18)=172㌢、70㌔、右投げ右打ち背番号81=の新入団を発表した。
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元産経テスト生

2015-08-05 21:16:25 | 日記
1967年

六新人の入団を発表した。これは、さきに一般から公募して採用した選手の追加分。これで公募の入団選手はさきの九人と合わせて、十五人となった。

(投手) 潮田輝雄(20)=1㍍77、75㌔、右投げ右打ち、水戸商中退。
(捕手) 工藤守彦(20)=1㍍76、76㌔、右投げ左打ち、明大中退ー大昭和製紙。
(内野手)鈴木幸弘(24)=1㍍82、75㌔、右投げ右打ち、明大ー清峰伸銅
君島洋造(21)=1㍍75、73㌔、右投げ右打ち、水戸商
西村秀一(20)=1㍍65、60㌔、右投げ右打ち、鳥取工ー大阪鉄道局
(外野手)金井元三(18)=1㍍71、69㌔、右投げ右打ち、東洋大付属商業
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