プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

芝正

2020-07-29 16:18:45 | 日記
1982年

四国球界では球道クン(高知商・中西投手、現リッカー)と並ぶ本格派投手として評判を取った。1㍍85、78㌔と恵まれた体格から投げおろす速球は、マッハ・田中(電電関東)と比較しても決してヒケを取らない。今シーズンも5月19日の西武5回戦では11奪三振でノーヒットノーラン。チームの11連敗を救い、ファームのエース格にのし上がった。だが、この試合でも7四球を許すなど、「課題の制球力をつけること」(宮田二軍コーチ)は、まだ解消されていなかった。昨年は6試合に登板、防御率2.45だった成績が、今シーズンは16試合に登板。79回で三振は60個を記録しながら、四死球もほぼ同数の59個。このため防御率も4.67と悪くなっている。「結局は、まだ下半身が出来ていない、ということです。下が安定していないので、ボールを放す位置がバラバラになるわけです」岩下二軍監督が指摘するように、スタミナ不足で、いま一つ精彩を欠いた、というのが今シーズンだ。性格もどちらかというと真面目過ぎるほど真面目で、仲間には新宿二丁目(おカマっぽい)といわれるほどだ。だがマウンドでの図太さは持ち合わせている。「自分としては、逃げ腰にならず、気合を込めた全力投球だけを心掛けている」そうで、昨年のヤンキースの教育リーグでは堂々と3勝をマークしている。持ち味はストレートにカーブに、今季から手掛けているシンカーがある。宮田コーチにいわせれば「厳しさも足りないし、もっと欲を出してほしい」とのこと。それが、いいものを持ちながらも川本、荻原らの先輩を抜ききれない最大の原因となった。「今覚えているシンカーをものにできれば、一軍でやれる自信はある。とにかくじっくりと走り込んで下半身を作ることが先決」と密かに夢をふくらませている。果たして第二の岡部、工藤までに飛躍できるかどうか楽しみだ。
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橘健治

2020-07-29 14:21:32 | 日記
1980年

橘は柿8年の9年目で実を結ぼうとしている。47年のドラフト3位。同期の1位佐々木、2位梨田、4位羽田、6位平野は、いわばV1の中心戦士たちばかり、そんな中でたった一人の落ちこぼれ組。かつて東京(現ロッテ)-阪神と渡り歩いたG・アルトマンそっくりの風貌から、入団2年目ごろに伊勢(現ヤクルト)らからジョージとアダ名を頂戴した橘。コワ面の風貌の中にどこか気弱な面をチラつかせ、184㌢、87㌔の恵まれた体格に右打者の胸元をえぐるシュートを持ちながら、出世が遅れていた。そんなジョージが今季、目を輝かせ口元にも厳しさが加わった。入団3年目に2勝をあげながら、以後、4年間は鳴かず飛ばず。ファーム暮らしが続く中でいつしかしみ込んでしまったアカ。埋没しかけていた大器に、二つの救いの手があった。一つは、同期の羽田、梨田であった。人もうらやむ猛牛の仲良し三人組。私生活では、行動をともにすることがほとんど。かつては海外旅行も一緒に行ったこともある。高校から実社会に出て巡り合った気の合う仲間は、ときとして師となり、先輩となる。羽田、梨田とともに正面だって「何をしてるんや、がんばらんか」とはいわない。相手を気遣うことを知っている好青年2人は、ちょっとした機会をとらえて、激励を送るのである。橘も温かい言葉に、耳を傾けた。だが、それ以上に、胸にズシーンとくるのは、彼らが意識せずに送る無言のシッタであった。3人がよく寄り合うおスシ屋さんが、大阪の京橋にある。例えば、地方遠征などがあると、梨田、羽田などは手土産をさげてそこへ寄る。だが、橘には、持つべき土産などない。藤井寺のファーム暮らし。仲良しに会う楽しさはあっても、そこには一つの越えられない壁があったのだ。「寂しいというか情けないというか、そんな気は、よくしましたよ。オレも、いつまでもフラフラしていてはいかん。もう新人なんていうトシじゃないですからね」男のプライドをちょっぴり傷つけられて、きっとオレも…とようやくソノ気になり出したころ、二つめの救いの手が現れた。53年、ピッチングコーチに就任した真田氏が、橘に目をつけたのだ。「こいつを何とか一本立ちさせたい」とジョージの馬力にホレ込んだのだった。友の激励と投手コーチの熱い視線。四人兄弟の末っ子でどこか甘さ、ひよわさが残っていたジョージに、最後の勝負を賭けるハラが固まる。昨年の最終戦、プレーオフが終わった後のロッテ戦でプロ入り初完封、そして日本シリーズは、わずか1イニングながらも無失点で抑えた。遅咲きの大輪を生かす土壌はできた。オフになって真田コーチから「正月から走ってキャンプからブッ飛ばせよ」とアドバイスを受けたが、いわれなくても橘はそのつもりであった。もう9年もプロでやっていれば、一軍スレスレの選手にとって、一番大事な時期がいつであるのか…。早くも自主トレから飛び出した。「仕上がり№1だな」と報道陣に冷やかされて「すぐメッキがはげますよ」と冗談にごまかしていたが、目の色の違いは、長い間、橘を見てきた担当記者間でも「今季のジョージはひと味違うな」と囁かれたものだった。4月27日の阪急戦。チームを6連敗でストップさせる完投勝利。「ただ1イニングでも多く投げることだけを考えた」とヒトミを輝かせる橘の横で西本監督は「いまウチで、最も安定しているピッチャーを先発させたが、よく期待にこたえてくれた」と相好を崩した。一時的にせよ、ジョージは、近鉄№1の評価を御大からもらったのである。あの鈴木、井本、柳田をさしおいて…。「もう、今年が最後だと思って、必死にやってきましたよ。今年が一番、一生懸命やったでしょうね。いままでは、野球は野球、遊びは遊びと間違った割り切り方をしていた。もう年齢的にも若くはないし、やれるだけのことをやってやろうと、思っているんですよ」野球以外のことに、目を奪われたこともあった。しかし、いま二つの救い手に支えられて、ただただボールを投げることに全精神を集中させている橘。「最近ネ、よる野球の夢を見るんですよ。この間もネ、リリーフに出て逆転負けされてしまった夜なんですけど、羽田がサヨナラヒットを打ったんですよ。やった!と思ったら、夢だったんですよ。朝起きて、ガックリきましたけどね」夢にまで野球が出てくるとはもはや、その情熱たるやいうことなし。3DKで家賃3万円のアパートで独り身。いまだ一軍最低保証の360万円にも届いてないジョージの前途に、光が射し始めてきた。
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田中勉

2020-07-29 11:36:18 | 日記
1965年

張本の暴行事件を知った田中勉は「鬼のいない間にひとつかせぐか」と宿舎で冗談を飛ばしていたがその予言どおり東映を1点に押え完投勝利をおさめた。最近の田中勉は勝運に恵まれず去る六月十二日の対阪急六回戦に五勝めをあげてから連敗している。しかしその間、田中は新しいタマを身につけた。それはフォークボールである。「まだ武器とはいえない。当分はカウントをかせいだりファールを打たせたりするとき使うつもりです。ランナーがいるときは投げられない」と田中勉はいっていたが一カ月間の努力がこの試合で実った形だった。女房役の和田の弁では「立ち上がりのタマが走らなく苦しかったが途中からスライダー・フォークボール、直球などいろいろなタマをミックスして投げ込んでいるうちタマが走り出した。前半はともかく後半はいいピッチングでしたよ」とほめていたが田中勉は「アグリーの一発がきいた。その裏の田中久さんの好守も助かりましたよ」とバックの援護に感謝する。しかし最後には「これでツキが回ってきたようです」とニッコリ笑ってつけ加えた。
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緒方勝

2020-07-29 11:16:24 | 日記
1970年

シートバッティングで緒方が好投。ノーヒット・ノーランの目前で西園寺、長井に打たれたが、カーブ、スライダーがコーナーいっぱいにスイスイ。新人捕手大矢とのコンビもぴったりだ。RC砲、宮原はノーヒット。桑田が初安打。新人では長井、大矢が期待どおりの好打で、一軍入りを早くも手中にした感じ。
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奥宮種男

2020-07-29 11:04:43 | 日記
1969年

大洋を突き放した奥宮の一発はプロ入り二年めの初ホーマーだった。九州工業出身。ホームランの快音を地元九州で聞けたのだ。「よくあそこまでとんだと思う。地元で打ててうれしい。これを機会に打ちまくりたい」と素直に喜んだ。岡島コーチは「奥宮は捕手として守りはうまいが、バッティングが劣る」と欠点を指摘しているが、初ホーマーで気をよくした奥宮は「きっかけはつかんだから、こんごはバッティングの研究に力を注ぎたい」と意欲を燃やしていた。
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成重春生

2020-07-29 10:39:01 | 日記
1982年

野球バカーいまでは死語のようになっているこの言葉を成重春生さん(34)は、思い出させてくれた。九州のまったく無名の高校生が、「プロ野球に入りたい!」という執念だけを頼りに、どんな逆境にもめげず、プロ入りを果たし、日本シリーズでの1勝をあげるまでの軌跡は、まさにドラマである。このドラマは、多額の契約金を積まれてプロ入りした選手には決して作れないものだ、それだからこそ、成重さんはそのドラマを大事にする。

大分高田高の成重投手は、3年になっても、先発させてもらえない投手だった。2年生が先にマウンドに登り、打たれると成重投手の出番である。高校時代の戦績はゼロに等しい。だが、プロでやりたい!ヤクルトのテストを受ける。中日も受けた。しかし、結果は「残念ですが…」それなら社会人と松下電器のセレクションに。「ちょうど加藤英(阪急)が受けにきてました」(成重さん)福本(阪急)は、すでに1年前に入社していた。プロ顔負けの社会人チーム。当然のごとく不合格。が、成重さんは諦めない。今度は静岡まで足をのばし、大昭和を受けた。ここでようやく「内定」の通知をもらう。静岡で1年、北海道で4年、だが、ほとんど試合で投げることはなかった。会社から「野球をやめて、現場に戻れ」の指示が出る。野球を取り上げられたら会社にいる理由はなくなる。すぐに辞表を出し、九州まで帰るみちみち、手当たり次第にプロのテストを受けてみることにした。その最初が、ロッテだった。「ボストンバッグ一つぶらさげて、知合いのタオル屋さんの倉庫にころがり込んだ。そこから東京球場でのテストに通いました」(成重さん)木樽、村田らの剛速球にド肝を抜かれる。「ちょうど雨続きでね。雨天練習場で投げてる。だから、よけい速く感じたんでしょうねえ」シッポを巻いて退散…が、成重さんは合格だった。46年の11月のことだった。狭き門を通り抜けると、あとは案外楽だった。といっても、何勝もあげたわけではない。だが、成重さんはプロで投げるだけで、うれしかったのだ。ファームと一軍の往復も苦にならなかった。そんな中で、とんでもない幸運が舞い込んだのが49年の日本シリーズ。阪急とのプレーオフにはベンチ入りしていない。当然、日本シリーズもはずれ。打撃投手をやらされた。が、中日との第一戦、先発KOされた金田留が、第2戦のベンチ入りからはずれた。成重さんは、いわゆる員数合わせでベンチに呼ばれた。がなんと、その員数合わせの男が勝利投手になる。「6回の一死二、三塁で出ましてね、なんとかうまく切り抜けた。次の回もノーヒット、まあ、ホッとしましたけどね」この時点、3対5で中日のリード。しかし、8回に一気に引っくり返し、同時に、成重さんに勝ち投手の権利がころがり込んできた。「忘れられそうになると現れる、というのがボクの人生ですネ」と成重さんは笑うが、このとき26歳、テスト生上がりの野球バカは最高の青春の思い出を作ったのである。西武、巨人と歩いて55年に引退、現在は船橋市で焼き鳥屋「野球鳥」の主人。いかにも野球バカ・成重さんらしいネーミングではないだろうか。
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幸田優

2020-07-29 09:08:17 | 日記
1982年

プロ野球の珍記録もここにきわまった、という感じがするのが幸田優さん(43歳)の「一イニング4三振」だ。振逃げがあったために三振が4個になったが、それだけ、幸田さんの変化球は鋭く変化した。その魔球を武器にさあこれからという時に、幸田さんは右側頭部に打球を受けた。これがもとで幸田さんは球界から身をひいた。が、中年以上のファンの脳理には、このひとの魔球のすばらしさが強く焼きつけられている。

「もう20年になるんですね」船橋市にある「船橋水産」のオフィスで幸田さんはこうつぶやいた。37年限りで引退してから、もうふた昔になるのだ。が、幸田魔球の伝説は20年後も生き続けている。それほど、このボールはよく変化した。幸田さん自身の口からこれを語ってもらう。「とにかくおもしろいようにクルクル回ってくれた。いまの日本ハムのコーチをやってる宮田さんの落ちる球に似てたかなあ」その魔球の威力が百パーセント発揮されたのが34年7月5日の広島戦大和田空振り三振(振逃げ)、藤井空振り三振、横溝空振り三振、上田左前打、そして興津が4個目の見逃し三振、これが大記録の中身だった。上田(現阪急監督)にタイムリーを打たれ、1点を献上したのはご愛敬というところ。この記録、注目されたのはよほど後になってから。「注目されたころは、誰からどう三振を取ったか、すっかり忘れてました。なにせ、あの時、キャッチャーの土井さんに振逃げなんかさせやがって、バカタレと叱られたのばかり記憶に残ってましたから」と幸田さんはニガ笑い。とはいえ、50年近くプロ野球の歴史で、一イニング4三振はこれ一度だけ。大記録であることは間違いない。しかし、幸田さんにはツキがなかった。37年のキャンプ中、打撃投手を務めている時、打球が右側頭部を襲い、骨折する重傷。マウンドに復帰したのは8月。だが、言葉がもつれたり、左手の握力が「小学生並み」(幸田さん)に落ちる後遺症に悩まされ、この年いっぱいで球界を去った。実働わずか5年だった。が、幸田さんに悔いはない。「何万人というファンに注目されるなかで何時かを成す、なんてことは野球やってなければ味わないもの。やはり野球選手をやってよかったと思います」むしろ、悔いといえば、こちらの方に悔いが残った。「プロでやるにしろ、やらないにしろ大学へいっておけば、と思うことがあります」東京・荏原高で成績優秀だった幸田さんは、慶大志望で、合格の自信もあった。セレクションにも参加した。が、家庭の事情で、受験日の10日前に進学を諦めた。もちろん、すでに2月である。それからあたふたと鹿児島キャンプへとかけつけた。18歳の少年には、幸い選択だったに違いない。「大洋の選手の名前なんかほとんど知らなかった」という。プロ野球音痴が、50年に一度の記録を作るところが人生の妙だ。プロ野球は見ない。テレビでも滅多に見ない。理由は、現在の仕事にある。船橋市中央卸売市場内に会社があるため、出社はなんと早朝の4時半。どうかするともっと早いときもある。だから夜ふkしなどできる相談ではない。「もっぱらお年寄りや子供相手に草野球を楽しんでますよ」と幸田さんは笑った。
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甲斐和雄

2020-07-28 15:54:27 | 日記
1970年

石の上にも三年。甲斐はその三年目の昨年後半に、やっとチャンスをつかんだ。待望のベンチ入りがかなった。「甲斐はなかなか見どころのあるヤツだ」と先輩の間では評判がいい。ポジションは遊撃手。島原キャンプでは軽快なプレーをみせただいま売り出し中。長所は肩が強いことだ。とくに二塁ベース寄りの打球処理と速いモーションからの送球はあざやかだ。「こんないいショートがいるとは知らなかった」と関東、関西からやって来る野球評論家を驚かせている。また、西鉄内野陣の共通した欠点は、野手の正面を襲う打球処理だが、甲斐は二軍時代に仕込まれた思い切りのいい突っ込みでうまくさばいている。「守備なら不安なし」稲尾監督もタイコ判を押しているほどだ。遊撃には一年先輩の浜村ががんばっている。「とても浜村さんにはかないませんよ」と甲斐は遠慮してみせた。それも徹底している。「なにかにつけてひっ込み思案なんです。性格なんですね。だから人を押しのけてもといった気持ちになれない。弱いのですよ。それに無口で…」そういえば守っていても、ほとんど声を出したことがない。「でも、もうそれは反省しました」という。昨年の暮れ、滝内コーチに「そんなことでは、一流プレーヤーにはなれん。せっかくの素質をお前は自身でつぶしている」とこっぴどくしかられたからだ。島原キャンプの甲斐の打力の向上を最大の課題としている。ビシッー宿舎国光屋旅館の横庭にあるサウンドバッグをにらみつけながら、力いっぱいのスイング。しかし、東田などのスイングとは随分と音が違う。「馬力のないことがうらめしい」そうだ。177㌢の身長にくらべ体重は70㌔。「少なくとも80㌔の体重がほしい。そうなれば、でっかいホームランも打てるのに…」とこぼす。馬力はいまさら望めそうにないが、足の速さはチーム一、二を誇っている。日南高時代も俊足で鳴らしたそうだ。そんなことから馬というニックネームがつけられた。「もっとも、ぼくの顔も馬に似ていますが…」よく見ればポニー(小馬)の表情。「ことしは平和台でも走りまくりますよ。だから大いに宣伝してください」プロ意識にも目覚めたようだ。「ことしは勝負の年。あつかましいけど浜村さんと競争してみます」とヤングライオンズの鼻息は荒い。
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無従史朗

2020-07-28 14:17:31 | 日記
元南海の無徒史朗選手を知ってますか?
1965年

三年前、ニキビ顔の小がらな男が南海のテストを受けた。試験官の各コーチも野球校としては無名に近い関西大倉商業出身のニキビ男をあまり意識していなかった。肩が弱いのが難点だったが、足もあり、左打者でバントさせてもなかなか器用だった。まあカベ(ブルペン捕手の意味)でもよいからとってやろうーということで無従の南海入りが決まった。あれから三年め、いまや若タカの中で、だれよりも貴重な存在となった。イモ、イモと愛称をつけられたのは真っ黒い顔にニキビの跡が多く残っていて、サツマイモに似た感じだったから、だれいうともなくいまではイモが無従の代名詞になっている。卓越した素質があったわけでもない。この三年間は二軍でずいぶんたたかれ鍛えられた。国貞ほどの図太さはないが、無従は周囲から愛された。昨シーズンは国貞が一歩先んじて一軍入りしたが、ことしはこの無従をはじめ小泉、唐崎、県らがそれぞれの場でチャンスを与えてもらっている。そのなかでも無従の働きは群を抜いている。本拠地で連勝記録を更新した夜も鶴岡監督は「イモ(無従)がラッキーボーイになっていることが連勝に大きく寄与している。泥くさいプレーだが基本に忠実や。バッティングアイもよいし、左右にも打ち分けることができる。いまのウチは若タカ連中の台頭が逆に古参選手にハッパをかけているかっこう。イモはえがたい切り札や」…と手放しに無従をほめている。無従は半田学級の優等生で半田自身がまじめなプレーヤーだっただけに、唐崎とともに基礎訓練をいやというほど仕込まれた。それがようやく花が咲き、みのってきた。いまのところ三塁のポジションを与えられたが、無従の真価は代打要員。その活躍は南海の勝利に再三再四貢献している。打数33安打12、二塁打4、本塁打1、四死球6、三振2で打点5、打率3割6分4厘というりっぱな成績、守っては華麗さこそないが無失策で堅実派。代打としてももっとも光っていたのは対東映4回戦。延長13回戦、1点リードされたその裏、好投の尾崎に痛烈な打球をぶっつけ転倒させ、逆転の糸口を切った一打がそれだ。2-1と追いこまれながら尾崎の速球を投手に打ち返した打球の鋭さ、これで尾崎はすっかり狂ってしまい、ついにサヨナラ負けを喫した。「いま調子がよいのはツイているんです。ちょっと調子がよいからとうぬぼれていたらガチンと頭をうちますからね。一打席、一打席がぼくの勝負だと思ってボックスに立ち、それがたまたまヒットになったり選んだりするだけ。三振だけはしたくないのでボールに食いついてます」…無従はうれしさのなかにも謙虚さをみせる。三振しないバッター無従はよいバッティングをしているから、その持ち味を鶴岡監督がこれからもうまく引き出すことだろう。
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テハダ

2020-07-28 13:42:13 | 日記
1970年

遠いパナマからスカウトしてきた近鉄の新戦力テハダの来日第一号本塁打が五回に飛び出した。来日9打席目に出た快打、勝ち越しをきめる2ランだった。白い歯を見せながらダイヤモンドを一周するテハダ。ナインの手洗い祝福に悲鳴をあげる。試合後、どっとつめかける報道陣に目をパチクリ。ヒーローになるのも、多くの記者に取り囲まれるのも、これが初めてのこと。「きょうは本塁打を打ててうれしい。チームの勝利に貢献できたしね。打ったのはストレートの外角寄り高めだった」つまようじを口にくわえながら、山本通訳を通じてのインタビュー。人なつこい顔に終始笑みがのぞき「グッドラック」を連発する。本当にうれしそうだ。来日当時は練習不足で打球が飛ばず、首脳陣を心配させていたが、このときから三原監督は「タマのとらえ方がうまい。野球センスもある」と見込んで使い続けてきた。やっとその三原監督の期待にこたえたこの日の一発だった。「日本の投手は変化球が多いし、タマのタイミングをとるのがむずかしい。はじめはとまどったが、やっといいタイミングをとれるようになってきた」カナダ・リーグで活躍、通算3割を記録、うまいタイプの中距離ヒッターというふれこみだった。須古社長室付きがことしの二月中旬、中南米に単身出かけ獲得してきた選手。パナマには家族五人を残してきたが「すぐ呼びたいのはヤマヤマだが、渡航手続きやいろいろの事情があり、今シーズンはむりに呼ばないつもり」だそうだ。テハダは他球団の外人選手と違い、いまは気楽な合宿生活。「いまのところ申し分ないね。カナダ・リーグのときは料理もセルフサービスさ。いまの生活は何もいうことないよ」若い仲間と一緒の藤井寺合宿所の毎日は、テハダにとって楽しいそうだ。「ビフテキが一番うまいね」野球と同様、日本の生活をたんのうしているようなテハダだった。
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藤本和宏

2020-07-28 11:44:44 | 日記
1968年

十一月二十八日で満二十歳になったばかりの藤本は、ライオンズ道場の一室で、同室の金子投手と細々と誕生祝いをしたが、来年の誕生日にはもっと多くの人から祝福されるに違いない。もともと力のあった投手だがめきめき頭角をあらわした左腕。わずか一年のあいだに、ガラリと評価はかわり来季のホープさんといわれている。別に実績があるわけでない。ウエスタン・リーグでも2勝しただけだが、期待のウラには、シーズンオフからの相つぐ好投がある。内輪同士ながら、シーズン終了後の紅白戦で、一軍主体の紅軍を1点に押さえたのが十月十二日。つづいて巨人とのオープン戦では3イニングだったが、巨人打線をぴしゃりと押え「自分ながらやっとマウンドなれしてきた」と自信のほどをのぞかせた。175㌢、77㌔。投手としてはチビッ子ながら、力のあるストレートが武器。タマの切れは、巨人へ移籍した井上以上だ。プロ野球の投手は農村育ちより海浜で育ったものが成功する。豊後水道で小さいときからロをこいだ稲尾しかりだし、池永もそうである。藤本が「子供のときからてんま船をこいでいた」というのも奇妙な共通点だ。実家は光市の近くで近海漁業の漁師である。光市の聖光学園の一年まで柔道をやりはね腰を得意ワザとしていたためか、腰はめっぽう強い。ただ、腰の強さに比べて、ヒザが弱かったために、いままではコントロール不足だった。見かけあ横着な人間にうつりがちだが、本当はライオンズ道場の規則でも一番守っているのが、この藤本である。大阪遠征にユニホームを忘れて同行した失敗談もあるが、シンはしっかりしているといえそうだ。「いまは野球するのが楽しくてしようがない」と張り合いも出てきたようだ。入団のときから藤本を見守った武末コーチは「ひとりっ子で、わがままな面が随分とあったが、最近は練習に身が入ってきた。うまくスタートすれば来季は相当勝ちますよ」と、その左腕にユメを託している。
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岡村佳典

2020-07-28 09:09:19 | 日記
1968年

岡村の特徴はズバリ小器用なことだ。なにをさせても小器用にソツなくこなすが、この器用さは運動神経の発達と通じる。浜田高時代、野球のほかにバスケットボール、卓球、水泳、スキーをやっていたという。のみこみも早いほうで、自分でも「野球に関しては人並みのことはできる」といっている。高校時代にすでにフォークボールを習得していた。現在の岡村のピッチングについても、器用さが表面に出ているといえそうだ。藤本にしても伊東にしてもだいたい二軍の投手は、場あたり式のピッチングだが、岡村だけは例外。「ピシャリと押さえる力はないが9イニングスをまとめる点では、かれの右に出るものはない」といわれている。シーズン前半は肩を痛めて休んでいたが、この器用さが買われて、ウエスタン・リーグの公判では、あけても暮れてもマウンドにかり出されたものだ。しかし、はっきりいって、いまのままだったら、もの足りない。「肩を痛めてから思いきって投げるのがこわい」その点は多少差し引くにしても、まだまだスピード不足であり、初登板の対南海最終戦では野村という相手も悪かったが、左翼上段に一発たたかれた。かれ自身が「もう少し身体の横幅がほしい」というのも、そのへんの自覚だ。横幅がないために、浜村と同じ180㌢、75㌔の身体ながら、とてもそうはみえず、その点でも損をしている。岡村と同じ浜田高出身のプロ野球選手に阪急佐々木誠投手、中日新宅捕手がいる。両者とも岡村とはちがい無器用なタイプだが、粘り強い点では共通したものがある。まだ一軍への道程はかなりあるようだが、独特の粘りで、ぜひカベを突き破ってほしいものである。無類の野球好きである父親勲さん、母親登喜子さんは、わが子の成長を楽しみに、平和台でも広島、大阪でも、ウエスタン・リーグの西鉄のゲームを、ひまさえあれば追いかけている。
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小室光男

2020-07-28 09:09:19 | 日記
1968年

小室は背だけのことを聞かれるのが一番ニガ手だ。メンバー表には170㌢とあるが、本当は2㌢ほどたりない。もちろんライオンズで一番チビッ子。実際の身長を本人も聞くのがいやで、高校二年のときから、はかったことがない。いわばチビッ子コンプレックス。比較的、底のあついクツをはいたり、ツマ先で歩くのも、背たけを大きくみせるための、涙ぐましい努力のあらわれだ。こういうタイプの男は、ピリッと辛いものを持っているが、小室も例外ではない。石井茂が調整に登板したウエスタン・リーグの阪急戦で、3-1とリードされた九回、チビッ子小室はありったけの力をふりしぼって逆転の3ラン・ホーマー。大男の荒武や竹之下(今シーズン退団)を脱帽させた。一事が万事というわけでないが、たしかに実践的な選手である。一軍へ登用しても、まともに使えるものが少ないファームの選手のなかで、コツコツと当てるバッティングはうるさいし、遊撃、二塁のどこを守らせても小まわりのきく内野手として及第点をとっている。かれに一軍の二塁、遊撃にアナがあいた場合、無難にアナ埋めするのがこの小室。そして、それが持ち味でもある。しかし、いくら世にあげてのミニ時代でも、絶対的な力にかけるのはどうしようもない。非常にまじめで、練習熱心だが、努力とか練習で補ったところで程度ものである。名遊撃手として鳴らした阪神吉田もチビッ子だったとはいうものの、かれには上背を補うヒップがありそれが馬力の源だった。昨年からめきめき腕をあげた巨人黒江もまたヒップの大きい点は吉田と同じである。小室もやや小太りの70㌔ということだが、もう少し横ハバをたくましくして、吉田なり、黒江を目標にしてほしい。
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甲斐和雄

2020-07-28 08:51:44 | 日記
1968年

上背が179㌢ある甲斐は、チーム内で大きいほうだが、これほど目立たない選手も少ない。ユニホームよりも背広が似合いそうな色白の美青年。そんな外見的なものより、性格的におとなしいからだ。あまりにも一般的になるが、まじめな努力家。同僚のなかには「おとなしすぎる」と評するものもいる。だが、おとなしいだけなら、甲斐のいまの成長はない。かれ自身がいう「ファイトを持っているつもり」という言葉を信じよう。ことしの七月、大阪球場で行われたウエスタン・リーグの南海戦、6-6の同点で迎えた延長10回に、バントのサインを二度見のがし、長谷川コーチから「なにを、ぼやぼやしているんだ」とどなりあげられたあげく、バントの構えからヒッティングに転じ、こんどはサインを見落とさずに、みごとにセンターオーバーの大三塁打を放って、逆転サヨナラを演じたのである。甲斐はもともと遊撃だが、プロ入り後、三塁を守っている。不慣れなポジションで、失策が多く、ウエスタン・リーグの罰金支払い王だった。しかし、いまでは「守備範囲がぐーんと広くなった」と長谷川コーチからほめられるほど。一軍首脳陣からも「ヒザがもう少し柔らかくなれば、いい三塁手になる」と期待されている。これからの課題は、もう少しバッティングに力をつけることと、内に秘めたファイトをもっと外に出すことだ。バッティングの力をつけるために、もう少し体力をつちかうことだが「いまはだんだん太っている」という割りに68㌔しかない。今シーズン途中、神経性胃炎にかかったそうで、もっと図太い神経を持つことが体力の強化につながるかもしれない。いまのままでは、ファームきっての俊足も宝の持ちぐされになりかねない。
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小坂敏彦

2020-07-28 08:33:19 | 日記
1970年

「変わったフォームで投げるでしょう。ああいうフォームは左バッターには打ちにくいでしょうね」ピッチング練習をしている小坂を見ながら、川上監督はこう言った。腕を振りかぶり、右足をあげたあと、投げる直前にあげた右足を一度うしろに引いてから踏み出す。そこでワンポイント、タイミングがずれるというわけだ。「ショートリリーフにはおもしろい」というのが小坂への評価である。173㌢、68㌔は投手として小柄。プロにはいってまず感じたことは「みんなからだが大きいなあ」だったそうだ。しかし、自主トレから多摩川キャンプ、宮崎キャンプと続くと「もうからだが小さいことは気にならなくなりました」と言うから、しだいにプロの水にも慣れてきたということだろう。「初めてプロのキャンプに参加して、やはり違うと思った。守備練習や連係プレーなどいろいろやるでしょう。大学ではやらなかったことで、やはりあのような練習は必要でしょうね」高松商ー早大と野球のエリートコースを歩いてきた小坂は、巨人にきて新しい野球を発見したようだ。金田が引退して、左腕投手は高橋一だけになった巨人投手陣。小坂は貴重な左のルーキーだ。「からだは小さいが、大学時代四連投した経験があるというし、思ったよりスタミナはあるらしい。なんといっても腰の切れ、タマの切れがいいのが特長だ」投手陣の責任者・中尾二軍監督の評価は高い。「ショートリリーフだけでなく、先発にも使えるのではないかな」早大のエースとして22勝8敗の記録を残した実績を買っている。大洋からロッテに移籍された平岡に似たピッチング・フォーム。しかし、平岡ほどひねくれダマは投げない。「からだが小さいので相手打者に威圧感を与えないし、タマ筋が素直だ。カーブはいいものを持っていて、右打者のふところに食い込んでくるが、どうもこぢんまりとまとまっている感じ。ショートリリーフならともかく先発はとても無理ではないか」とみるのは評論家の野口正明氏。小坂は「ショートリリーフでもなんでも、とにかく試合に使ってもらえるようになることが先決。そのためには、コントロールと、もう少しスピードをつけることが課題」と言っている。いっしょに巨人入りした阿野は早大時代の女房役。「かれがいっしょなので、寂しくなくて助かった」と笑うが、阿野に言わせると「小坂みたいな気の強いヤツはいない」となる。サインが気にいらないと、いつまでも首をタテに振らなかったというし、一度決めたことはあくまでやり通すシンの強さもある。「いや、本当は気が小さいから大きくみせようとしているだけです」話していても愉快な男である。「この前も話したのだけど、谷沢(早大ー中日)と顔を合わせたら、お互いにやりにくいでしょうね」と言いながら、谷沢との対戦を楽しみにしているような感じも受ける。小坂ー谷沢の対決はファンを喜ばせることだろう。
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