プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

近藤重雄

2018-05-26 17:11:37 | 日記
1964年

緒戦の東芝を4安打の1点、最後のいすゞ戦を4安打の完封、あざやかなピッチングだった。「虎若ひとりの投手陣」という定評をみごとにくつがえし、優勝への原動力となった。「トラさんが春から故障で投げられなかったでしょう。ボクが投げなければならないという責任がありましたから懸命でした」毎日二百球のピッチングは欠かさなかったという。永井監督も「近藤はまじめな男で、僕のいうとおり、一生懸命やってくれた。こんにちあるのも彼の努力の結果だ」とベタほめ。何しろコントロールのよいのが強みだ。内外角いっぱいをつくストレート、カーブ、シュートと球質が多く、ぎりぎりのところをよぎっている。東芝にしてもいすゞにしてもはやいところで追い込まれ、くさいタマを打たされ凡打に終っている。「虎若だと思って左を中心に練習していたんだが・・・」という東芝鈴木監督のことばを待つまでもなくスイ星的な出現だ。川崎を席巻した新鋭近藤の右腕は後楽園でも活躍が期待される。二十一歳、石川高校出身。
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原野一博

2018-05-23 21:32:52 | 日記
1971年

近鉄の原野一博投手が、何の前ぶれもなしに同僚の前からこつ然と姿を消したのは、今シーズンのオールスター戦の直後だった。球団職員の話では「事務所に現れてきょうでやめますと言った切りです」原野は竜谷高から入団、ことし四年目だった。170㌢、72㌔と小柄なのにスカウトされたのは足腰の強いバネにあったという。だが、これまでは一軍に登用されるどころか、二軍のリリーフ専門に明け暮れていた。彼は退団の理由を明確にしていなかったそうだけれども、練習に疲れ、希望が日ごとに薄れていくその心中はわかるような気がする。どこへ行ったのか。合宿の仲間だった一人はこう話す。「あいつは競輪の選手に興味を持っていたな。下半身の強さを生かして競輪選手の養成学校に通っているというウワサを聞いたことがありますよ」と。まだ二十一歳の若さ、西鉄を自ら出て名をあげているプロゴルファー尾崎の行き方を夢見て第二の人生に踏み出したのかもしれない。
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藤田訓弘

2018-05-23 08:16:07 | 日記
1971年

藤田はことしの六月中旬のある日突然、胃に激痛を感じた。医者の診断は「出血性胃カイヨウ」だった。完治には手術が必要といわれ、その代わりメスを入れたら「二度と野球は出来ない」と条件をつけられた。からだをとるか、野球をとるかー。日ごろの不摂生がその原因とはいえ、初めておとずれた人生の岐路に悩んだ。「オレから野球を取ったら何も残らない。医師に、頼むから野球をやらせてくれ、と頼んだ。からだよりも野球を選んだんですよ」と告白する。広島商から南海を経て阪神へ。ことしで七年目。南海入団のときもらった約八百万円の契約金で広島に家を建てた。いま野球をやめても住むところはあるが、貯金はなし、何の職業を選んでいいか見当もつかないという。「二カ月入院して出てきたら体重が10㌔も減って68㌔しかなかった。力もなくなった。でも来年もう一年やってみる。もっとも、球団が契約してくれればね・・・」と複雑な表情を見せた。藤田は来季の契約を二十二日に終わった。これで来季の保証はもらった。だが安心とばかりはいかない。
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矢ノ浦国満

2018-05-22 23:26:30 | 日記
1971年

矢ノ浦国満選手、といえば、たいていのプロ野球ファンならまだ覚えていることと思う。近鉄時代、華麗な守備でパ・リーグ、ナンバー・ワン遊撃手の折り紙までつけられながら、生来のギャンブル好きがたたり、あちこちに借金ができて球界を追われるように去ったのが三年前。グローバル・リーグ東京ドラゴンズにコーチ兼選手として参加したりしたが、その後は音信が途絶えていた。その矢ノ浦さんが、プロボウラーとして再出発するウワサがあるのだ。現在、父親・保喜さんの関係で堺市の永井燃糸という会社に勤めるかたわら同市百舌頭待ちの中もずファミリーボールに通って腕をみがいている。本人は「年齢的にも三十の坂を越えたし、実力からいってもアマの域を出ない。プロ?その気がないわけじゃないけど、当分はアマで気楽にやってみます」と語っているが、同ボウル支配人の増野敬さんは「一般の人と違って足腰のバネ、手首の強さは抜群。努力しだいでは・・・」とプロ入りを進言しているとか。プロ野球から転身組では杉町(元西鉄)山本(元巨人)竜(元ロッテ)などが活躍しているが、JBC(全日本ボウリング協会)アベ193の矢ノ浦さんの名前がプロとしてクローズアップされる日も近いのではなかろうか。
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鏑木悦純

2018-05-22 21:14:16 | 日記
1971年

先ごろのトレード会議で巨人移籍が決まった大洋の鏑木悦純投手(27)。昨年の第一回会議で阪神から大洋入りしており、二年連続の渡り鳥ということになる。来年はプロ入り十年目だが、阪神時代も公式戦にわずか6試合に登板しただけで、勝敗に無関係。心機一転を期した大洋での一年間も、イースタン戦ですら登板のチャンスがなかった。今度の巨人移籍も、戦力としてではなく「打撃練習用投手として」という見方が強いが、本人は一年間に同じケースで巨人入りしながら、埋もれた素質を見出された阿部の例もあるので「一生懸命やれば、一度ぐらいチャンスがもらえるかも・・・」と、巨人への移籍にいちるの望みを託している。一粒種の達也ちゃん(一つ)を抱いて「一度でいいから、パパが一軍のマウンドを踏む姿を見たい」と語る伝夫人の願いをかなえてやるためにも、鏑木はがんばらねばなるまい。
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小笠原正一

2018-05-22 20:57:51 | 日記
1971年

プロ野球の阪神タイガースは、日通盛岡の小笠原正一選手(25)=身長177㌢、体重78㌔、右投げ、右打ち、盛岡農高出=の入団を十日午後二時すぎから、大阪・梅田の阪神本社六階ホールで発表した。紺の背広姿の小笠原は、二十人を越える記者、カメラマンに取り囲まれてびっくりしたようす。戸沢球団社長に紹介される間も、端正な顔を上気させていた。しかし、しばらくするとすっかり落ち着き、プロ入りの動機を「もうすぐ二十六歳だし、おそいプロ入りなんですが、自分の力をためしてみたかった」とはきはきしゃべった。抱負は「一刻も早く阪神の戦力になりたい」とのこと。かたわらから河西スカウトが「おっつけのきいたバッティング本番で出た包装陸上の砲丸投げで全国一位になったほどで、腕っぷしは強い。左投手は好きだし、いい選手です」とたのもしげに補足する。小笠原選手は三十九年、盛岡農高から日通盛岡へ入社、四番打者、外野手として活躍。都市対抗全国大会には、強肩強打が買われて新日鉄釜石の補強選手として後楽園の土を踏んでいる。ことしの都市対抗には盛岡鉄道局の補強選手として出場、三番打者の重責を与えられた。先月十九日のドラフト会議では阪神から9位(同球団は11位まで指名)で指名された。十一月九日に正子夫人と結婚した新婚ほやほやだが、当分は合宿住まいで、野球一筋の生活をするという。日通盛岡の畠山馨コーチは「小笠原選手が抜けるとうちの戦力はかなり苦しくなる。しかし、小笠原選手が長年プロに進むことを願っていたのだから、心から祝福して送り出したい」と語っていた。
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神農清治

2018-05-22 20:15:50 | 日記
1971年

プロ球団のロッテオリオンズは一日午後二時、東京新宿の球団事務所で花巻商業三年神農清治外野手(18)=身長180㌢、体重80㌔、右投げ、右打ち、紫波郡日詰出身=ら五選手の入団を発表した。中村長芳オーナーが「岩手のカンノウくんです」と記者団に紹介すると、ピクリとほおを緊張させながら「一生懸命やります」と胸を張っていた。神農選手は花商で中堅を守り三番を打った。十一月十九日のドラフト会議ではロッテから14位(同球団は15位まで指名)で指名されていた。一日午前十時過ぎ、高橋多喜男花商野球部副部長に付き添われて球団事務局を訪れると、さっそく「いい体格だな」と記者団の祝福?を受けた。黒いもめんの学生服は小さめで大きな手足がニューッとはみ出している。「プロに指名されるとは思っていなかったので、早大か立大に進学するつもりでした。入団交渉を受けて、少し迷いましたが、結局は自分でこの道を選びました。今ではロッテの一員であることに誇りを持っています」とはきはき語る。紫波郡紫波町日詰の生まれで、仁徳氏の三男。紫波第一中では投手だったが、花商に進学してからは打撃を生かすため外野に回った。高橋副部長は「足も早いし、打撃の素質がある。三年間で打率三割五分ぐらいだが、まじめで根性もあり、私は初めからプロ向きだと思ってました」と言う。でっかいからだに似合わず、色白の童顔である。プロ球界では花商の先輩である巨人の阿部成宏外野手を尊敬すると言い「阿部先輩は大洋時代を加え、七年間の下積み生活に耐えて、今秋巨人の一軍に昇格した。私もどんなことがあってもやり抜きます」ときっぱり語る。

赤川宏花巻商高野球部監督の話 本人の希望通りになり、うれしい。プロ野球のきびしさを自覚してがんばってほしい。神農の素質からすれば、基本を三年間みっちりやれば、ものになるだろう。体力がある上に脚力もあるから大いに期待してよい。長所の強肩とバッティングを伸ばすことに専念すべきだ。本校からは阿部雄厚(近鉄)、阿部成宏(大洋、巨人)、泉沢彰(西鉄)に次いで四人目のプロ選手。三人の先輩に負けないように全力を尽してほしい。

神農選手の父親仁徳さん(63)の話 中学時代から野球が好きで野球で身を立てるつもりでいたようだ。希望通りに入団出来たのは、全く幸運だ。からだに恵まれているので、きっと力いっぱいやってくれるものと信じている。ただやる以上はとことんまでやってほしい。中途半ぱな形で終らないようにいってある。あとは本人の精進次第だ。
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関根勇

2018-05-22 19:35:42 | 日記
1971年

元プロ野球選手の第二の人生は、それこそ「十人十色」。プロゴルファー、プロボウラーからバーのマスター。タクシーの運転者まで並べたてれきりがないが「クラブのホスト」というのは異色中の異色だろう。その、あっと驚く転身をやってのけたのが、元広島、サンケイの関根勇捕手(26)=大阪高出=だ。選手時代はまったく芽が出ず、四十四年にグローバル・リーグの東京ドラゴンズの一員として渡米したとき、ちょっと名前が出た程度だったが、現在は東京・銀座のレディース・クラブ銀座騎士のナンバー・ワン・ホスト。「酒も好きだし、こういうムードは大好き。結局、ボクに一番向いている職業ってことなんですかね」と苦笑まじりに語る関根さん。月収は「なんやかやで六、七十万円」というから、プロ野球選手ならレギュラーでも上のクラスだ。「三十歳まで働いて、自分の店を持つのを目標」に目下、カクテル光線ならぬ銀座のネオンの中で、素質を発揮している。
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妹尾幸一

2018-05-22 19:22:45 | 日記
1962年

かねてプロ入りのうわさのあった徳商の妹尾幸一投手(18)=城東中学出身=はこのほど南海ホークスへ入団することになった。同選手はさる九日に上阪して十日、大阪球場で南海球団の岩瀬常務、鶴岡監督、中原コーチ、富永スカウトが立ち合ってピッチングのテストを行ない、これに合格して入団が決まったもの。身長1㍍82、体重78㌔、右投げ右打ちで、徳商二年の三十五年春、夏の甲子園、秋の熊本国体に一塁手として出場、大型打線の主軸として桝田(大阪住友金属へ就職予定)広野(慶応大受験)両外野手らとともに活躍した。三年間の通算打率は3割4分6厘。三年生になってから投手(12勝5敗1分け)に転向していた。今後その柔軟な長身を生かして速球投手としての成長が期待されている。なお同選手は二十四日から中モズ球場ではじまる南海の自主トレーニングに参加する。

妹尾選手の話「念願だったプロ野球、それも南海というりっぱなチームに入団することができてうれしい。投手の経験は徳商三年生のとき一年しかないので、すぐ出場できるとは思わない。二、三年みっちり練習して早く第一戦で投げられるようにがんばります」

徳商須本監督の話「ピッチングか、打力か、いずれにしても体格がよいから、プロへ入っても精神的にさえしっかりすれば一人前になれると思う。プロで鍛えなおしてもらって一日も早く第一戦に出場してほしいものだ」

南海岩瀬常務の話「私が徳島(鳴門市)出身の関係から知人を通じて話があり、テストの結果、採用することになった。鶴岡監督も体格に恵まれているうえ、スピードもかなりあるので、投手としてその将来性を買っているようだ。私も技術は別として根性がありそうなので楽しみにしている」
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小林浩二

2018-05-04 16:22:00 | 日記
1971年

大洋がドラフト3位に指名した小林浩二外野手(21)=1㍍78、73㌔、右投げ右打ち、九州産交=は一日、熊本市辛島町の九州産交本社で大洋・引地スカウトと会い、契約金などの条件提示を受けて入団を承諾した。交渉には九州産交から岡社長、野口野球部監督が立ち会い、大筋の話し合いを終わった。小林選手は大牟田南高卒、ノンプロ九州産交の四番打者で、九州では強打強肩の持ち主として有名だった。

小林選手の話 まだ決定はしていないが、一応お世話になる気持ちになった。社長や監督の理解もあるので、スムーズにプロ入りできると思う。どこまでやれるかわからないが、大洋は打撃のチームと聞いているので、みんなに負けないよう打ちまくりたい。
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入江道生

2018-05-04 15:57:36 | 日記
1976年

広島は二十九日、広島市基町の球団事務所で入江道生内野手(24)を任意引退選手にすると発表した。
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林真人

2018-05-04 15:43:04 | 日記
1976年

阪神・林真人外野手(19)=1㍍73、68㌔、右投右打=が野球生活を断念、競輪選手を目指して第二の人生へスタートする。同選手は一昨年工藤投手とともに土浦日大高から入団。ドラフト外ながらも百㍍を12秒で走る快脚と勝負強いバッティングを期待されていた。だが、非力が災いして二軍暮らしを続けていた。今後は、競輪選手を目指し、十一月十日に故郷の茨城県取手で競輪学校の入学試験を受ける。
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奥田直也

2018-05-04 15:26:50 | 日記
1976年

阪神の新人テストが十四日午前十時から甲子園球場で行なわれた。プロ野球選手を夢見て腕に自信のある若者が七十三人参加。吉田監督、コーチ陣が見守る中でピッチング、バッティング、遠投、五十㍍タイムトライアルに挑戦した。三年前、掛布がこのテストを踏み台にして頭角をあらわしてきただけに、関係者の期待も大。だが、一次試験で三十五人がピックアップされ、第二次試験では投手五人、捕手二人が残っただけ。「ドラフト会議の結果を見て最終的には何人とるかわからない」(小林スカウト次長)狭き門だった。

「もう野球に未練はありません。きっぱりとあきらめます」第一次試験で落選した奥田直也君(24)はがっくりと肩を落とした。四十七年にロッテに入団、四十八、四十九年に中日に在籍したが芽が出ずじまい。一度は球界から足を洗ったが「どうしてもユニホームを着たくて」と二年間アルバイトをしながら再起を目指していたもの。だが「最後のチャンスと思って全力投球したんだが・・・。でもこれで決心がつきました。新しい仕事を見つけて出直しです」と第二の人生に気持ちを切り替えていた。
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斎藤喜

2018-05-03 20:42:34 | 日記
1970年

再就職の道を決めるには、斎藤喜にとってはプロ野球界から身を引くことの方が先だったのだろうか。自分で決めこんでしまった五年目の転機を、なんとかしなければいけないと思いこんでしまったのである。宝塚市にあったマンションも十一月二十七日で引き払ってしまって「一家三人の生活のメハナが着くまで、船橋のオヤジの家の隅の方で居候でもさせてもらいます」といって、郷里へ帰っていった。ウエーバー会議では、そんな斎藤喜を中日が指名したのだが斎藤喜は中日の関係者と一度も会っていない。斎藤喜は中日の関係者と一度も会っていない。斎藤喜にすれば、中日がどんな形で自分を必要としているのかわからない。指名した中日は、斎藤喜と直接会う前に、阪急を通じて、斎藤喜の翻意をうながしている。阪急が斎藤喜の説得に成功し斎藤喜がもう一度プロの世界で自分の限界を試してみようという気になってから、中日は斎藤喜と話し合うつもりでいる。ところで、宝塚のマンションを引き払って船橋に帰ってしまった斎藤喜が、阪急と話し合う機会は困難になり遠のいたように思われていたが、近頃になって、再出発をはかったはずの斎藤喜の気持は、指名した相手が中日ということもあって、多少ぐらいついてきていると伝えられている。というのは、中日の新人王谷沢は習志野高時代の同僚、といっても中日がいまや谷沢と斎藤喜を同じラインで扱ってくれるはずはないが、斎藤喜の胸の中で「谷沢と一緒なら、もう一度あのころの野球に対する情熱を取り戻せるかも・・」という気持も芽生えかけているからである。そうした心境を斎藤喜は次のように語る。「自分自身にも、どうしても辞めなければならないという明確な理由はないんです。強いていえば、その人生の間に何度か訪れる転機を確実に生かして、自分の人生を築いていきたいといったところです。でも中日さんが指名してくれたのだから、一度は中日さんのお話を聞いてみるのが筋であり順序だと思うんです。近日中に自分の方から中日さんに連絡をとって話し合ってみたいとは思っています」その結果、中日がどのような形で自分を必要としているのかがわかったら、斎藤喜は「中日で再出発してみます。これも転機を生かすひとつの道かもわからんですからね」という。ただなんとなくヌルマ湯の阪急にいて、そのまま終ってしまいそうな自分の野球人生だが中日に移れば、あるいは別の野球人生が待っているかもわからないというわけだ。「マンネリから抜け出したい。自分の力でなにかをやる」それが斎藤喜の阪急退団の理由だとすれば、運送会社で車の運転をするのも、中日で気分一新し情熱を燃やすのもマンネリ脱出の道にはなる。どちらを選ぶか、斎藤喜は「年内には決めます」といっているのだが・・・。
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斎藤喜

2018-05-03 20:11:14 | 日記
1970年

渓間代表はその話を聞いたとき唖然とした。昭和二十三年生まれの二十三歳。入団五年目で、これからという選手が「辞めさせてください」といってきたのである。「一体、どうしたというのだ」こんな質問にも、斎藤喜の答は「とにかく辞めたいんです」というだけで要領は得なかったが、理由はともかく、斎藤喜の退団の意志は堅かった。「誰でも、一度は自分のやっていることに懐疑的になったりするものだ。斎藤喜の場合も、一時的な迷いだろう。そのうち、またやる気を起すだろう」渓間代表は、こう軽く見ていた。そうして、その後に開かれたウエーバー会議に斎藤喜をリストアップしたのだった。この会議で、斎藤喜がどこからも指名されなければ、辞めるにしろ、再びやる気を起すにしろ、阪急内部の問題として、話は簡単に終わるはずだったが、ウエーバーに名前のあがった斎藤喜を、中日が指名したのである。これで話はややこしくなった。リストアップしておきながら、指名された選手が「辞める」といっては、阪急としても相手チームの中日に対して面目が立たない。「辞める気でいる選手を、なぜリストアップするのか・・・」といわれても仕方のないところ。さいわい斎藤喜の指名順位は三位以下だったため、トレードマネーが不要だっただけがせめてもの救いだった、しかし、斎藤喜は、ウエーバー会議の前に、渓間代表に対して退団を申し入れている。阪急はそれを知っていてリストアップした・・。ということが問題なのだ。斎藤喜は、最初に決意したとおり、中日に指名されたあとも「どこでやる、あそこでやるの問題ではないのです。とにかく辞めたいんですから」といって、せっかく中日に指名されながら、いまだに翻意をするところまでいっていない。今シーズンでちょうどプロ生活五年間を終ったところの斎藤喜は「人生にはいろいろな意味で区切りがあると思うんです」という論法からすれば、プロ生活は、ひとつの区切りになるのだろう。その区切りの中で斎藤喜は何をしたのか・・・・。斎藤喜は、高校時代、ことしの新人王である中日の谷沢と三、四番を打っていた。谷沢は早大に進み、斎藤喜はストレートにプロ入りした。プロ入り初のキャンプ、阪急の青田コーチがいた。腰高のきらいはあったが、大きなストライドで打球に追いつき、矢のようなボールを一塁に送る強肩。打っては痛烈なライナーを、フェンスまで持っていくシャープなパワー。「おい、あの新人、鍛えようによっては長嶋二世になるかもわからんぞ」青田コーチが思わず目を細めた。長嶋の出身地、佐倉とは離れているが同じ千葉県である。青田コーチのひと言で、斎藤喜は注目を受け脚光を浴びたこともあった。だが、シーズンが始まり、チームが優勝を争うようになっては、上層部に斎藤喜をゆっくり育てようという悠長なムードが消えざるを得なかった。勝つために、より確実性の高い選手がどんどん登用されていった。いつの間にか二軍でくすぶったまま三年が終り、四年目の昨年、シーズン途中だったが、斎藤喜は野手から投手にコンバートされた。中学時代には投手の経験もあった斎藤喜だが、なによりも投手転向の大きな要素となったのは、その無類の強肩にあった。この投手転向について西本監督は斎藤喜と膝をまじえてたっぷりと話し合った。「ボクみたいな選手が監督に不満なんかあるはずがないですよ。それどころか、辞めるなんていい出して監督には申し訳ないと思っているんです。投手に転向する時でも、監督さんはほんとうに親身になってボクのことを考えてくれていました。あんないい監督に目をかけてもらって、辞めるのはボクだって辛いんです」こう言う斎藤喜であるのに、それでも辞めようと、なぜがんばるのか・・。「未練がないといえば嘘になります。自分の青春と情熱を賭けた野球の世界ですから、できることなら、一流の選手として名をあげたい」とはいっても、現在の斎藤喜の年棒は百万円前後、月額にして八万円を少し越えるぐらいである。昨年のシーズンオフに結婚した斎藤喜はすでに一児の父親である。「いずれは辞めなければならない世界ですから、先のことを考えたら、このへんで新しい人生を考えた方がいいとも思うんですよ」はっきりいえば、ダンプの運転手をしても月収十万円ぐらいにはなる。こと稼ぎに関する限り、斎藤喜にとってはプロ野球の世界も一般の社会も変わりはないというわけだ。野球そのものの情熱とは別に、一家の長として収入を考えれば、新しい人生を切り拓くのは早い方がいい。だが、辞めるとはいったものの、斎藤喜は「知人のやっている運送会社に来ないかと誘われてはいるんですが、まだ正式に決めたわけではないのです」とのことで、はっきりした再就職の道はきまっていない。
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