プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井上圭一

2018-08-30 22:22:21 | 日記
1976年

井上圭一さん、二十四歳。社会人ナンバーワン投手も、ロッテー阪神の三年間で一試合も登板せず球界を去った。現在は静岡県吉原市の自宅から「再就職に役立つように」と自動車教習所に通う毎日。いわば就職浪人の身だが「野球はきっぱりあきらめました。約二千万円の契約金は定期預金で残っているから、これを元手に将来を考えている。それにしても三年間で二千万円なんてもうけた感じです」とかえって「辞めてよかった」とでも言いたげな表情。
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難波孝将

2018-08-30 22:00:41 | 日記
1975年

南海・難波孝将投手(26)に、ようやく正月がやってきた。年棒が五十万円アップして十一日の里帰り。だが、まともならはずむ足が、もう一つ重かった。球団にクビを宣告され、一ヵ月後に「間違いでした」と、頭を下げられての再契約、「うれしいような、悲しいようなとは、こんなことでしょうかねえ」笑いかけてこわばった顔が、複雑な心境を語っていた。

ショックに打ちのめされたのは、昨年の十二月七日。難波にとって、予想もしないクビの宣告だった。そのつい二日前の秋季練習では、首脳陣から「来年はうまく調整してキャンプへこい」と励まされたばかりだった。昨年もほとんどを一軍のバッティング投手で過ごした。勝ち星はまだない。だが、合間を見て登板するウエスタン・リーグでは、自分でも力がついていくのがわかってきた。「これでは、田舎に帰れんなあ。カッコ悪くて・・・」が、ショックのつぎに浮かんだ実感だった。岡山・久世中から南海へ入団したのは十年前。めずらしい中学出のプロ選手。クラスメートや、町内の人に、英雄扱いされての南海入団だった。新年をふるさとで、とうれしそうに帰る同僚とさびしく別れ、就職口を探し歩いた。だが中学出身の学歴しかない難波には、世相はきびしかった。がっくりして思案にくれているところへ、ヤクルトをはじめ二、三の球団から打撃投手としての契約申し入れが舞い込んだ。ところが、この話を耳にしてあわてたのが、クビにした南海。こんどは手のヒラを返したように、再契約を申し出た。自分のところも、調べてみたら、打撃投手がいない。おそまつな話だが「こちらの手違いで・・・」と頭を下げた。おわびのしるしに・・・と五十万アップして、年棒二百万円になった。こんな球団のやり方に、むろん難波はカッとなった。こうなったら、誘ってくれる他の球団へ行くことに一度は決めた。だが、野村監督と穴吹二軍監督に「お前が必要なんや」とくどかれて、決心がぐらついた。難波は十一日、遅い正月を迎えるために、新幹線に乗った。「まずはハラいっぱいモチをくって・・・。いままでノドを通りませんでしたからねえ。それから十八日の自主トレめざして、からだをつくって・・・」一ヶ月の間に、殺されたり、生き返ったり。「ボク与三郎ですね」と苦笑する男は、また打撃投手を踏み台に一軍をめざす。
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1976年 自由契約選手 巨人

2018-08-26 21:52:46 | 日記
1976年

巨人の新しいスター候補生、藤城、赤嶺の入団が決まった。夢を抱いて巨人のユニホームを着るルーキーたちとは対照的に、さびしく巨人を去っていく選手たち・・・。大竹、大本、谷山、魚、岡が自由契約を言い渡されてから一か月が過ぎようとしている。このうち現在落ち着く先が決まったのは岡ただひとりだ。浦和にある実家で家業の医療機械の製造を手伝うことになった。「父も後継者ができたといって安心してくれています。入団したときから、やめたときには家を継ぐ約束だったから、別にとまどいはなかった」帰る場所があった岡は幸せな方だろう。一時はユニホームを脱ぐ決心をした大竹は「まだまだやれる」の周囲の声に励まされ、日本ハム・福田コーチ(元巨人)のつてを頼りに「新天地でもう一度、がんばってみたい」と最後のチャンスにかけている。他球団で再びボールを振り、バットを振れる可能性のある選手はまだいい。大本は入団した昨年の夏、右足を脱きゅう、今年はキャンプで背筋痛を起こし、夏場の東北遠征でガラスの破片が太モモにつきささる事故に見舞われて二年間満足なシーズンを送れなかった。それだけに「もう一度実力を試してみたい。でも実績がないから、どこもとってくれないだろう・・・」大本はそういいながらも一分の可能性を求めてどこかの球団のテストを受けるつもりだという。十一日に故郷の富山県新湊市で結婚式を挙げる魚。いちおう大洋への話をすすめているが、もしこの話が破談になれば行き先は・・。実力だけが幅をきかせるプロの世界。入団の時にはチョウよ花よともてはやされても、力がなければ相手にされない。一軍での経験があり、長島監督からも将来を嘱望されていた谷山は「どこかほかの球団へ行っても、どうせまた二、三年でやめなきゃいけない。それなら若いうちに堅実な道を選んだ方がいい」とユニホームへの未練を断ち切って、運動具店への就職を求めて走り回っている。勝負の世界はきびしい。
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柴田民男

2018-08-26 21:28:48 | 日記
1976年

大洋は二十八日、ドラフト外でノンプロ、富士重工の柴田民男投手(27)=1㍍80、80㌔、右投右打=と入団契約を結んだ。契約金は七百万円、年棒は二百四十万円(いずれも推定)。柴田は四十七年三月、日大卒業後、富士重工に入社、エースとして活躍。四十九、五十、五十一年と三年連続都市対抗に出場している。コントロールのよさに定評のあるサイドスローで、内角にシュート、外角に速球、スライダーをたくみに投げ分ける。スカウト間では、プレート度胸のよさ、ピッチングの安定感とともに、即戦力としてかなり高い評価を得ていたが、やや年齢的に峠をこえているということもあって、今年のドラフトでの指名は見送られていた。しかし、関本との交換で山下律をクラウンへ移籍した大洋では、中継ぎ要員が不足することもあって、ドラフト会議後から獲得に乗り出していた。東海大学リーグでは、阪神・山本和、亜大)クラウン・玉井(東洋大)と同期。今年はスポニチ大会、日立製作所に補強された都市対抗で、合計四試合後楽園のマウンドを踏み、二十二回三分の二を投げ、1・57という好防御率を残している。
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鳥坂九十九

2018-08-26 21:15:52 | 日記
1979年

新春一月六日。大安のこの日、藤井寺球場から歩いて十分ほどのところに一軒のお好み焼き屋が開店する。オープンの日には、巨人・長島監督、王選手らから届けられた開店祝いの花輪が店頭を飾る。屋号を「九十九(つくも)の店」という。近鉄ー巨人と七年間、ユニホームを着て、今年限りで引退した鳥坂投手。といってもよほどの野球狂でない限りわからないかもしれないが、近鉄時代、プロ野球選手の中で最も重い背番号99をつけていた鳥坂九十九投手といえば「あの選手か」と思い浮かべる人がいるだろう。その鳥坂が古巣、近鉄のフランチャイズ、藤井寺球場のそばで店を出す。十一月末、熱海で行なわれた巨人の納会の席で、この話を聞いた長島監督、王選手がその場で花輪を贈ることを約束した。友情の輪はさらに選手にまで広がって、河埜、淡口らが次々に「おれたちの名前が役に立つなら使ってくれ」と強力を申し出ている。「二年前、巨人へ入るとき、バッティング投手でもいい、ただ小さいときからあこがれていた長島監督や王さんといっしょのチームでやれるだけでうれしかった」いま鳥坂は連日、知り合いのお好み焼き屋に通って、慣れない手つきで包丁を握ってキャベツのきざみ方から勉強している。帰宅はいつも午前様だという。「夏に右ヒジを痛めたときに、今年でやめようと思ってました。そのヒジが包丁を使うときにまだ痛むんです。そんなとき、何もわからない商売の世界へ飛び込んだ辛さも感じます。でも、僕は巨人での二年間のバッティング投手の経験から、耐えることを学びました。それにくじけてしまっては長島監督や王さんらに申し訳ないです。友情を無にはしません」来年の三月、巨人がオープン戦で大阪に遠征したとき、90番はじめ、選手たちは「九十九の店」を訪れる。「その時までに店を軌道に乗せなきゃいけないですね」一介の元バッティング投手が、ONのバックアップ、ナインの友情に包まれて、第二の人生をスタートさせる。
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野崎恒男

2018-08-26 20:24:19 | 日記
1979年

近鉄・池辺豪則外野手(35)と野崎恒男投手(32)の退団が二十五日、発表された。池辺は三十七年、長崎海星高から大毎に入団、四十九年阪神に移り今シーズンから近鉄へ。そしてこの一年、左投手用の代打として渋いバッティングで初優勝に貢献した。十八年間の通算成績は1732試合に出場、1377安打、打率2割6分4厘で156ホーマー。また野崎は立正大から富士重工を経て四十七年、南海へドラフト一位で入団。五十一年クラウン(現西武)に移り、近鉄には五十三年から在籍。九年間で131試合に登板し9勝13敗、防御率4.33。両選手とも「体力に限界を感じた」のが退団理由で任意引退選手となる。
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三橋豊夫

2018-08-26 19:56:32 | 日記
1976年

ヤクルトはきょう二十五日、東京・東新橋の球団事務所で若手選手全員の契約更改交渉を行う。ほとんどが年棒二百万円台のファーム組だが、その呼び出し名義から名前のもれている選手も三人いる。大型左腕と騒がれた三橋豊夫投手(27)もそのうちの一人だ。四十五年の十一月のドラフトでヤクルトから二位に指名され、ノンプロ日通浦和から鳴り物入りで入団したときは大変な騒ぎだった。球団側も球史に残る大左腕・金田投手(現ロッテ監督)が国鉄時代につけていた背番号34を用意。「金田二世として売り出す」と大きな期待を寄せたものだった。しかし、今年までの六年間で一軍のマウンドを踏んだのはわずか一回。それも入団一年目の四十六年九月六日、神宮球場での巨人戦にたった一人の打者に投げただけ(しかも四球)だった。あとはフォームをくずしたり、腰やヒジを痛めたりで、ファームの試合でも思うように投げられずじまい。病院に通って輸血をしたことさえあった。ところがー。今年六月に突然体全体に黄だん症状が表れ、食欲もなくなってしまったという。医師の診断では「血清肝炎」。多分、輸血したときに移されたのではないかといわれたという。よかれと思ってやったことが、完全に裏目に出たわけだ。入団した六年前に百八十万円だった年棒は、いまでも二百十万円。親子三人で暮らすのが精いっぱいだった男だけに、今後はいよいよ非情の自由契約の宣告が迫ってきた。毎年繰り返される悲劇の、これはほんの一部分だが、なまじチヤホヤされた選手たちが世間の荒波にこれからどこまで乗り切っていくかを心配せずにはいられない。幸い三橋投手の場合は球団がヤクルト販売会社への就職をあっせん中。今度こそ周囲の期待を裏切らずにがんばってほしいと思わずにはいられない。
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氏家雅之

2018-08-26 19:10:29 | 日記
1975年

中日は二十一日、氏家雅之投手(23)を任意引退選手とすると発表した。同投手は四十六年、ドラフト第一位で入団したが、その後は鳴かず飛ばず。公式戦のマウンドを経験しないまま、今シーズンはバッティング投手を続けてきた。なお退団後はサラリーマンとして再スタートする。
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日下正勝

2018-08-26 19:06:18 | 日記
1975年

大洋は二十一日、日下正勝外野手(31)を任意引退選手にすると発表した。同選手は東北高から三十八年大洋に入団、主に代打要員として活躍。今年限りでユニホームをぬぐ日下は「まだこれから何をするか決めていない。故郷(宮城県石巻市)に帰ってから考えます」といっていた。
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宮崎昭二

2018-08-26 19:01:28 | 日記
1975年

阪神は三日、宮崎昭二投手(32)今西和男内野手(29)の両選手の任意引退を発表した。宮崎は今シーズン日本ハムからトレードで入団したが、一軍では一勝もできず、ファーム暮らしが多かった。
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後藤和昭

2018-08-26 18:58:54 | 日記
1976年

日本ハム・後藤和昭内野手(32)が今季限りで引退を決意、二十五日、東京・六本木の球団事務所に三原球団社長をたずね、正式に退団届を出す。同選手は大沢監督に持ち前のガッツを買われ、今シーズン阪神から移籍したが、シーズン途中からほとんど出番がなくなり肉体的な限界を感じていた。今シーズンの成績は四十六試合に出場、七十七打数十七安打、2割2分1厘、2打点だった。すでに大沢監督には退団の了解を得ている。
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菊川昭二郎

2018-08-26 18:53:56 | 日記
1976年

ロッテは一日、今シーズン限りで整理する六選手とスカウト二人を発表した。

自由契約選手 上辻投手(28)上田投手(24)池畑外野手(24)森山学外野手(20)

任意引退選手 江藤内野手(39)菊川内野手(31)

退団 濃人スカウト、坂本スカウト
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野上俊夫

2018-08-26 18:45:30 | 日記
1976年

南海は野上俊夫(27)、井口龍三内野手(22)、山本利一外野手(23)の三人を自由契約選手にすることを決め、近く三人に通告する。四十二年、野上は市立和歌山商からドラフト一位で阪神入り。泣かず飛ばずで五十年南海へ移籍し、打者に転向したが、今季も二軍暮らしが続いていた。
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末永吉幸、森山正義、高橋二三男

2018-08-26 18:35:23 | 日記
1979年

末永吉幸内野手(31)森山正義外野手(29)を任意引退とし、高橋二三男外野手(31)を自由契約にすると発表した。
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1975年 太平洋 自由契約選手

2018-08-26 18:25:38 | 日記
1975年

太平洋の坂井社長は二十九日午後から福岡市中央区城内の球団事務所に、伊藤久敏投手(31)阪口忠昭投手(23)飯田敏光投手(26)忍全功内野手(26)の四人を呼び、自由契約選手にすることを通告した。また前田康介投手(30)にはスコアラー兼バッティング投手に転向することを要請したが、前田は態度を保留した。
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