POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 




 フランス中東部のアルザス地方のドイツ語の方言に「アルザス語(Alsatian、アルセイシャン)」があります。そのアルザス語に“Kut'zig”という語があり、それは「頭をむき出しに、帽子を被らずに」(bareheaded)という意味があるそうです。“Kut”はドイツ語の“Hut”(帽子)と関連があるのでしょうね。


 アルザス地方にはワインの銘醸地を巡ってくれる乗り降り自由のホップオンバス“Kut'zig”があります。この命名は、「髪に風を受けながら、ブドウ園を巡る」(The Kut'zig will get the wind in your hair while you're exploring the best of the vineyards!)ということなのだそうです。つまり、雨が降っていなければ、バスの天井を開け、オープントップ(open-top bus)になるということです(私たちが乗ったときには、降ったり止んだりで、開くことはありませんでしたが)。



                     (エギスハイム(Eguisheim、エギスアイム)のバス停前のKut'zig)

 このホップオンホップオフバスには、時計回り(B CIRCUIT)と反時計回り(A CIRCUIT)のコースがあります。A CIRCUITは、コルマール駅前(COLMAR Gare)→COLMAR Place Scheurer Kestner→リボヴィレ(RIBEAUVILLÉ Gare Routière、リボーヴィレ)→HUNAWIHR Parc NaturOparC→リクヴィール(RIQUEWIHR Poste、リクビール、リクビル)→ケゼルスベール=ヴィニョーブル(Kaysersberg-Vignoble、カイゼルスベルク)→テュルクアイム(TURCKHEIM Porte de France、テュルクハイム)→エギスアイム(EGUISHEIM Place de Gaulle、エギスハイム)→VOEGTLINSHOFFEN→コルマール駅前(COLMAR Gare、下車のみ)→COLMAR Place Scheurer Kestner(下車のみ)と巡ります。1周するのに2時間15分ほどかかり、また現在は3時間おきの運行なので、A CIRCUITに再度乗るにはコルマールからは45分ほど待つことになります。



 その歴史が400年ほど前の1626年に遡り、13代にわたって続いてきた家族経営のワイナリー「トリンバック(Trimbach)」は、リボーヴィレにあります。トリンバックは、ワインインポーターのENOTECA(アサヒグループ)が日本では扱っています。



 アルザスのワインメーカーに「Famille Hugel」(ファミーユ・ヒューゲル)があります。wikiによると、ヒューゲルはその生産するワインの80%近くを輸出に振り向けています(Hugel is highly export-oriented, with almost 80 percent of the wines produced being exported.)。日本の輸入代理店は「ジェロボーム株式会社」です。ジェロボームの主要株主は、ファミーユ・ヒューゲル社、ファミーユ・ペラン社ポル・ロジェ社で、家族経営のワイナリーを専門に扱う日本のワインインポーターです。ヒューゲルは、毎年200万以上もの人々が訪れる美しい街リクヴィールの旧市街の中心にセラーとテイスティング・ルームを構えています。



 私は、2017年5月27日にコルマールに一人でやってきて30日に夫と合流するためにバルセロナに移動するまでいました。そのときに訪れたワイナリーの一つがヒューゲル。リクヴィール(Riquewihr)にあります。今回は夫も一緒の再訪になりました。前回はこの“Kut'zig”がまだ運行していず(new way to visit the heart of the Alsace wine route))、宿泊ホテルでアドバイスをもらい、旅行案内所で尋ねて106番のバスでやって来ました。



 “Kut'zig”は、コルマール駅前からスタートします。コルマール駅前のバス停は駅出口の左側と右側の2か所にあって、“Kut'zig”の乗り場は駅出口を背にして右側にあります。106番のバス停も右側にあります。ちなみに、私たちはスイスのバーゼルから、長距離バス“flixbus”で移動してきましたから、コルマール駅前に到着したのは左側のバス停でした。



 “Kut'zig”の運行は、7月、8月、9月は、水曜日から日曜日までと祝日。シーズンの始まる6月とシーズンの終わる10月初旬は、金曜日から日曜日までと祝日のみとなります。10月中旬から5月までは、“Kut'zig”の運行はなく、この時期は106番のバス(時刻表は、こちら(PDF)から)を利用することになります。また、シーズンでも7・8・9月の月曜日・火曜日(祝日を除く)、6月と10月初旬は、月曜日から木曜日(祝日を除く)も106番のバスを利用することになります。このバスも日曜日の運行はありません。



                     (リクヴィール(Riquewihr)のバス停前の106番のバス)

 106番は、Colmar を 7:00、7:40、11:10、12:10、14:10、16:10、17:10、(18:10、19:10)に出て、Riquewihr におよそ 30分後に到着し、さらにおよそ 10分後に Ribeauvillé に到着します。Ribeauvillé からは、(6:00、6:40、7:55)、9:00、13:00、15:10、17:00、18:20 のバスを利用して Colmar に戻ってくることになるでしょう(時刻表は、2019年10月現在)。



          (“Scol.”とあるのは、学校休業日には運行しません(fonctionne UNIQUEMENT en période scolaire))

 Colmar - Ribeauvillé 間を往復するには、“TICKET DUO”(Billet Duo(Un aller retour dans journée)、往復切符、その区間では乗り降り自由)を手に入れることになります。バス運転手から現金で買い求めます。2人用の“2 PASSENGERS”で14.00€しました(料金は、2019年9月現在。1€=120円で換算すると、一人当たり840円)。



            (感熱紙に印字されたもので、乗るときに提示します)

 “Kut'zig”は、一人当たり15.00€でした(料金は、2019年9月現在。1€=120円で換算すると、一人当たり1,800円)。



            (感熱紙に印字されたもので、QRコードで管理されていますので、読み取り部分にかざします)

     (この項、未完)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 昔、TBSテレビで大橋巨泉氏が司会を務める「クイズダービー」という番組がありました。その回答者のひとりに珍回答をすることの多い篠沢秀夫学習院大学教授がいました。レギュラー回答者を11年間(1977年~1988年)続けました。


 篠沢秀夫教授はフランスのワイン産地を巡る旅を「ワインの里の物語」に著しています(2000年)。1996年8月末から9月にかけてのブルゴーニュ・プロヴァンス・ツアーと1998年9月始めのボルドー・ガスコーニュ・ラングドック・ツアーをメインとして、1991年6月のフランス政府観光局の委嘱を受けてのガスコーニュ地方旅行、9月のボーヌでの講演、11月のボーヌのワイン祭への参加(このとき、1年間フランスに滞在していた)、1996年3月の「ブルゴーニュ・ワインの騎士団」叙任式への参加の経験を基に記述しています。



 妻「あみ」と私は北イタリアを巡った後に、2018年10月22日にフランス、リヨン(Lyon)へとやって来ます。ボーヌ(Beaune)を起点としてブルゴーニュ地方を1週間ほど見て廻ることになります。29日リヨンからボルドー(Bordeaux)に飛びます。ボルドーには数日の滞在です。滞在日数の少なかったボルドーについて、篠沢教授の「ワインの里の物語」を参考にボルドー・ワインとその周辺を勉強してみることにします。


 今回の旅行は、北イタリア、ピエモンテ州のアルバ(Alba)という街で行われる「白トリュフ祭り(Fiera di Tartufo Bianco)」(10月6日から11月25日まで)の会期中の土曜日と日曜日に開催される「白トリュフマーケット(Mercato Mondiale del Tartufo Bianco d‛Alba)」を見学して、フランス、パリのポルト・ドゥ・ヴェルサイユ見本市会場(Paris Expo Porte De Versailles)で行われる世界最大のチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ(Salon du Chocolat)」(10月31日から11月4日まで)に行き、その間にブルゴーニュ地方とボルドー地方にも行こうというもの。


 成田からコペンハーゲン経由でミラノ(Milano)に入り、バスでトリノ(Torino)に移動し、そこからアルバへ。バローロ(Barolo)を訪れ、白トリュフ祭りを見る。ブラ(Bra)を訪れ、ラ・モッラ(La Morra)のレストランで白トリュフを賞味し、トリノに戻り、街を散策。アスティ(Asti)からバルバレスコ(Barbaresco)に往復、ピアチェンツア(Piacenza)、パルマ(Parma)、ヴェネツィア(Venezia)からリヨンへ。この目まぐるしいスケジュールを組んだために、ボルドー滞在の日数が激減。ボルドー滞在の主たる目的がワイン博物館(La Cité du Vin)とサンテミリオン(Saint-Émilion)だけになってしまいました。



 何とも残念なので、篠沢教授の「ワインの里の物語」の記述を頼りに彼の体験をこのblogで追体験をしようというのです。では、ボルドーの街を紹介する彼の記述で今回は終わりにします。




 ボルドーは深く長い入り江の奥の港である。近代の巨船はもはや入れない。その石造りの船着場は広い川に面す。ジロンド河は大西洋に注ぐまでまだ60キロも流れなければならない。道幅も広い。その道の内陸側に立ち並ぶ4階や5階の建物は主に18世紀のものだ。パリの中心地が19世紀半ばのオスマン計画でできているのは名高いが、一目であの古いパリよりさらに古いのが分かる。それでいて皆現に使っているのがゆかしい。ある角に大きな建物が広場を前にして立つ。まわりには高層近代ビルはないから雲流れる青空に堂々と聳えている。昔の税関、今の博物館だ。また、河を背にしてゆるやかに上る広大な道がある。両側の建物はいずれも由緒を感じさせるが、とりわけやがて右側に坂の上まで続く巨大な石積みの建物が目立つ。グラン・テアートル(大劇場)である。坂の上が広場となり、それに面して正面玄関がある。1780年完成の大建築だ。これが百年後にパリのオペラ座の模範となったといわれる。 (近代文芸社刊「ワインの里の物語」より)


 画像は、グラン・テアートル(Grand-Théâtre de Bordeaux)の道路を隔てた向かいにあるメゾン・ジョルジュ・ラルニコル(Maison George Larnicol)のショーケース。ブルターニュ、カンペール(Quimper)生まれのショコラティエ「ジョルジュ・ラルニコル」のお店です。フランスでは20店舗以上展開されているようです。M.O.F.(Meilleur Ouvrier de France、フランス国家最優秀職人賞)の称号を持っているそうです。妻「あみ」からは歴史的建造物より、「食」に関するものの方がよい、ということでこの画像になりました。




                          (この項 健人のパパ)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




パルマのカフェでオペラ歌手のお二人と知り合いになりました。私の旅行の目的の一つは「食」。その地のスーパーマーケットや市場(メルカート、マルシェ)に出向いて、その地の食材を入手し、調理して楽しむことです。その話しを前日したところ、あずささんが珍しい食べ物ということで馬肉のお店、そしてマルシェのチーズと生ハムのお店に連れて行ってくれることになりました。ともにパルマ王立歌劇場の近くにあるのだそうです。


10月も下旬に入り、パルマはそろそろ寒くなるという話しの流れで、身体を温めると言われている馬肉のお店に連れて行ってくれるということになりました。



Olga Macelleria Equina というお店は持ち帰りの提供しかなく、月曜日から土曜日の営業時間は、朝の7時30分から午後1時30分まで。着いたのは12時を少し過ぎた頃。お店の前は順番待ちの人で溢れています。馬肉のタルタルステーキを求めて待ちます。香辛料と塩味が絶妙なバランスで、美味しかった~。ああ日本でも食べたい。



チーズは日本と比べると格段に安い。種類も非常に多く、大きなサイズのものは普通に量り売りをしています。お店の人は大きなハードチーズに包丁を当てながら、「このくらい?」、お客さんは「もうちょっと多め」などと言って、やり取りをしています。チーズの売り場にはよく行列ができています。


あずささんは日本に一時帰国するときは結構な量のハード系のチーズを持ち帰リ、皆にとても喜ばれるそうです。あずささん自身はそれほどチーズは食べないそう。チーズの好きな夫は「それはもったいない」という顔をしました。


あずささんのお薦めはしっかり熟成された少しお値段の高い生ハムだそうです。とても美味しいのだそうです。ですよね、パルマの名産ですものね。プロシュット・ディ・パルマ(Prosciutto di Parma)はイタリアのパルマ近郊で作られているプロシュットです。プロシュットは、豚のもも肉のハムで、非加熱のものはプロシュット・クルード(prosciutto crudo)、加熱したものはプロシュット・コット(prosciutto cotto)と呼びます。



ハムは肉を加工したもので、保存性を良くするために塩分が高いので、我が家ではたまにしか食べません。パイナップルやマスクメロンを巻いたら美味しいとは思いますが、塩分の強いものに拒否反応を示す夫には好みではありません。普通の味付けでもしょっぱいと言い出し、場合によっては夫用と大学生の息子用と2種類の味付けのものを作ったりします。


パルマは1泊なので、自炊なしで、ひたすらスーパーマーケットやケバブ屋など簡単かつ美味しく食べられるものを探して歩いていました。私の趣味の1つは「食」なのに、食べるものに殆んど関心のない夫をお伴に旅行を続けていると会話が噛み合わないことが多い。美味しいものを探し歩いていると私のテンションは上がって来るのですが、それに比べて夫のテンションの低いこと!昨日のオペラを話題にしていた時の夫のテンションの高さとの落差の大きいこと!


夫はひたすら私たちについて来るだけで、ほとんど会話せず。いまあなたには愛想笑いだけが処世術なのね。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 北イタリアの東西に長いエミリア=ロマーニャ州の最も西に位置する県はピアチェンツァ県 (Provincia di Piacenza) です。その南に接して、パルマ県(Provincia di Parma)があります。そのパルマ県の北にピアチェンツァ県に接してコムーネ(基礎自治体)、「ブッセート(Busseto)」があり、ここはジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi)の出生地として有名です。


 ヴェルディは、19世紀を代表するイタリアのオペラ作曲家であり、1813年10月10日に誕生しています。ブッセートは、当時パルマ公国を併合したフランス第一帝政(ナポレオン・ボナパルトの軍事独裁政権)の支配地域であり、ヴェルディはジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) という名を持っていました。



 ヴェルディの誕生日が10月10日であることから、ヴェルディ・フェスティバルがその日を挟んで毎年1か月ほど行われています。プログラムはヴェルディ尽くしで、パルマ王立歌劇場(Teatro Regio di Parma)のほかに、木組みの内装が美しいファルネーゼ劇場(Teatro Farnese)、ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale del Giardino)、アルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団(Filarmonica Arturo Toscanini)の本拠地パガニーニ・オーディトリアム(Auditorium Niccolo Paganini)、さらにはブッセートのヴェルディ劇場(Teatro Giuseppe Verdi di Busseto)などを使ってオペラやコンサートが開かれています。




 パルマ音楽院の卒業生でイタリア各地の歌劇場の舞台に立っているあずささんと音楽院に在学中の瑠衣さんとパルマ王立歌劇場にやってきました。



 “regio”(レージョ)とは、「国王の、王室の、王立の」という形容詞です。そこで、“teatro regio”(テアトロ・レージョ)は、「王立劇場、王立歌劇場」ということになります。トリノ王立歌劇場(Teatro Regio di Torino)と区別するために、パルマ王立歌劇場(Teatro Regio di Parma、テアトロ・レージョ・ディ・パルマ)と呼ばれています。


 オーストリア皇帝フランツ1世の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后であったマリア・ルイーザ(Maria Luisa)は、ファルネーゼ劇場が手狭であることから、隣接した聖アレッサンドロ修道院の土地に新たに劇場を建てることにして、建築家の二コラ・べットーリ(Nicola Bettoli)に依頼します。ナポレオンがセント・ヘレナ島で死去した1821年に着工し、2度目の夫ナイペルク伯アダム・アルベルト(Adam Albert conte di Neipperg)が亡くなった1829年に竣工しました。経営は、パルマ公国、イタリア政府から地方自治体のパルマに移っていますが、王立という名は留めています。



 パルマ音楽院ことアッリーゴ・ボーイト音楽院(Conservatorio di Musica Arrigo Boito)は、1769年にフィリッポ・ディ・ボルボーネ(Filippo di Borbone)に仕えていたギョーム・デュ・ティヨ(Guillaume du Tillot)によって王立声楽学校として創立されましたが、1816年マリア・ルイーズが音楽院に改革しました。1888年この学校の院長を務めたアッリーゴ・ボーイト(Arrigo Boito)の名前を取って現在の名前になっています。彼は、ヴェルディのオペラ「オテロ」(1887年)、「ファルスタッフ」(1893年)などの台本作家でした。


 この音楽院は、質の高い音楽教育を誇り、数多くの優れた音楽家を輩出しており、パルマ出身で世界的指揮者であったアルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)もここの出身でした。学生は声楽だけで150人ほどもおり、ほとんどが東洋人のようです。東洋人は自国の大学を卒業してから留学する人が多く、当然レベルも高い。声楽科教授は10人ほどおり、スカラ座で活躍したプリマドンナであって、リリコ・レッジェーロからリリコのレパートリー、特にロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティのベルカントのレパートリーを得意としていたルチェッタ・ビッツィ(Lucetta Bizzi)さんもいるようです。



 この画像に収まっているのは、瑠衣さんの学友さんたちです。ほとんどが韓国からの留学生さんたちなのだと伺いました。



                  (この項 健人のパパ)







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2018年の10月から11月にかけて1か月ほどワインとチーズの勉強でイタリアからフランスへと夫と2人で旅行をしました。日本からトリノに入り、アルバ、バローロ、ブラ、バルバレスコ、アスティと移動しました。ワインを味わい、チーズをかじり、トリュフの香りを楽しみました。

しかし、私にはもう一つ目的がありました。2017年にワインの勉強で一人でフランスを巡ったときに、フランクフルトで購入したドクターコスメのファンデーションを気に入りました。それをdm というドラッグストアにまた求めに行きたかったのです。

このdmというドラッグストアは夫の調べたところではドイツやドイツ国境付近のフランスにはたくさんあるが、イタリアには殆んどないといいます。イタリアは、ビアチェンツァという町にはあるがアスティからベネツィアに移動しようと計画している旅程では遠回りになると夫は反対しました。

「ちょっと待って。ピアチェンツァは、アスティとパルマのほぼ中間地点よね。パルマと言えばパルミジャーノ・レッジャーノの町じゃない。チーズの勉強をしているなら、絶対行くべきよ。」

夫は感情には流されません。「お願い!」と甘えても動きません。しかし、理屈ぽいから合理的理由とやらにはめっちゃ弱い。というわけで、ピアチェンツァに1泊、パルマに1泊と計画を新たに立て直しました。化粧品も買って私の目的のひとつは達成。日本からネットでも購入できるのですが、やはり安く手に入れたい。

次は夫の目的の一つを叶えさせる必要があります。パルマでは、パルミジャーノ・レッジャーノの製造工場は町中にはなく、見学に行くには、ローカルのバスに乗る必要があります。まずは、バスに乗る前にカフェに寄ってカプチーノを飲まなきゃ、朝は始まらない。面白いお店がないかと、「どこでもいいじゃないか」と面倒くさがる夫をあちこちと引きずり回して探していました。

それを道路の向かいのカフェの外に置かれたテーブルから見ていた2人の若い日本女性が声をかけてきました。旅慣れない日本人夫婦のように見えたそうです。一緒にそのテーブルでお茶をすることになりました。2人はオペラ歌手だと知ることになります。誰とでもすぐに仲良くなれる私と違って人見知りをする夫はこういうことを嫌います。

ところがです。2人がオペラ歌手だと知って、夫はペラペラとオペラについて談笑し始めたのです。なにこの人!私は、アングリして見ていました。この上機嫌は何!パルマは、来たくなかったはずなのに。初めて会った人とは話しができないはずなのに。

これが日本でオペラのコンサートを開催するきっかけになることは夫も私もまだ気づいていませんでした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )







あみと健人のパパは、mini Opera Concert を開きます。


開催日は、5月18日(土曜日)です。昼の部と夕の部があり、昼の部は完売で、夕の部に10数席の空きがあります。


チケットの入手先は、カフェ・サンクです。「気楽にオペラ」という催しなので気楽にいらっしゃってください。


子供料金の設定はありません。10歳以上の方はチケットが必要になります。コンサートを楽しめる方が対象ですので、10歳未満のお子さまは入場できません。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






(参考) 「骨粗鬆症治療薬「テリボン」の副作用にはどのようなものがあるか。

 次のようなコメントを当ブログの読者の方から頂戴しました。

  2か月前に、膝上の顆上骨折で手術致しました。骨粗鬆症の検査で標準値より少し低くなっていたために、フォルテオの自己注射をすすめられ、本日で5日目です。2日目から夜眠ったかなと思う頃から痒みを伴う湿疹で眠りが浅くなりました。

(注) 大腿骨の下部で膝関節に近いところ(「遠位部」という)には、「顆部(かぶ)」と呼ばれる部分があります。「顆」とは顆粒(小さなつぶ)の「顆」で、大腿骨の下部端の丸く膨らんだ部分が「顆部(condyle)」です。その上部が「顆上(supracondyle、femoral supracondyle)です。「大腿骨顆上骨折(だいたいこつかじょうこっせつ、supracondylar femur fractures)」はその部位が骨折するもので、骨粗鬆症がある高齢者であれば、転倒などの比較的軽微な外力が加わることでも起こります。高齢化社会を迎えている現在では、大腿骨顆上骨折、大腿骨顆部骨折はその発生が増えてきており、治療が難しい骨折の一つです。

 骨粗鬆症の検査では、骨の強さを維持する成分であるカルシウム、リンなど「骨塩(bone mineral)」の量を測定します。「骨密度(BMD、Bone Mineral Density)」は、単位体積あたりの骨塩の量(骨量)ですが、その単位は g/cm2 です。例えば、DXA法では測定部位を輪切りにするように2つの異なったエネルギーを持つX線を照射し、それぞれのX線がどの程度吸収されたかによって骨塩の量を測定します。つまり、輪切りにした面の単位面積あたりの骨量と考えてよいことになります。その一般的な数値はおよそ 1.0 g/cm2 です。


 骨密度(骨密度は原則として「腰椎」骨密度とする。ただし,高齢者において,脊椎変形などのために腰椎骨密度の測定が適当でないと判断される場合には「大腿骨頸部」骨密度とする)の正常値は、腰椎(脊椎の下部、腰の部分。5つの椎骨からなる)では20~44歳の平均値、大腿骨近位部では20~29歳の平均値を基にしており、検査結果は例えば、YAM何%などと表現されます。

 YAMとは、Young Adult Meanの略称で、「若年成人平均値」という意味です。例えば、YAM85% とは若年成年の骨密度の85%の骨密度であるということになります。80%以上だと、正常域であり、70~80%ならば、骨密度が減少しており、要注意と判断され、70%未満しかないときは、骨粗鬆症と判断されます。

 骨量の検査結果は例えば、次のように出てきます。

 「腰椎 L.234 を測定しました。」(腰椎(lumbar)は上から下へと第一腰椎から第五腰椎まで5つあるが、“L.234”とは第二腰椎から第四腰椎までを測定)。
 「あなたの骨密度は、0.720 g/cm2 です。」
 「若い人と比較した値は、71%です。」(“%YAM”と表示されることもある。「骨密度がもっとも多い、29.1 歳の骨密度を 100%としたときの比較」とする骨量検査機器のメーカもある)。この値が低くなるほど骨粗鬆症が疑われる。80%以上は心配ない。70~80%は骨密度がやや低下している。食事・運動などの生活に気をつける必要がある。70%未満は一度、精密検査を受ける必要がある)
 「同世代と比較した値は、98%です。」(骨密度は年齢とともに少なくなっていくが被検者と同年齢の人の骨密度を100%としたときの比較。“%AGE”と表示されることもある)
 「骨面積: 36.337 cm2 骨塩量: 26.167 g」


フォルテオとは、





 「骨折の危険性の高い閉経後骨粗鬆症の外国人女性患者において、カルシウム・ビタミンDを基礎治療とし、テリパラチド20μg及び40μgを長期皮下投与した際の、新規椎体骨折、並びに新規非椎体骨折を発生した患者の割合の減少効果、また腰椎及び大腿骨近位部の骨密度に対する効果、及び安全性について検討した(ブリッジング対象試験)」という資料の<安全性>の項目の「有害事象」には次の記述があります。

 テリパラチド20μg群又は40μg群の発現率が3%以上で、プラセボ群とテリパラチド投与群とのp値が0.1以下でテリパラチド投与群の方が発現頻度の高かった有害事象は、悪心(プラセボ群 7.5%、20μg群 9.4%、40μg群 17.8%、以下同様の順)、頭痛(8.3%、8.1%、13.0%) 、下肢痙攣(1.1%、3.1%、2.4%) 、嚢胞(0.9%、1.7%、3.1%)、失神(1.7%、3.1%、0.7%)、爪の障害(0.4%、1.3%、3.1%)であった。(注の終わり)



 主治医に申し上げましたら、湿疹痒みが出るのは1%くらいで、まずは勘違いであろうとのことでした。

 試しに1週間止めてみて、もしもフォルテオが原因ならば、2、3日おきとか4、5日おきに注射するようにとのことですが、毎日注射しなくても効果は同じでしょうか?

 湿疹痒みのほかに眠くなって車の運転が困難にもなりましたが、そんな副作用もあるのでしょうか?お尋ねいたします。(2014-12-22 22:02:18)

  ----- この記事は、徐々に記述していきます -----



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 東南アジアの多くの国には、鍋料理(hot pot meal、(中国や台湾では)火鍋(フオグオ、huoguo)、(韓国では)찌개(チゲ))があります。鍋料理の多くは、卓上に鍋を置き、煮立たせた鶏のだし汁などの中に、肉、魚介類、練り物、野菜などの具材を入れて煮て、たれにつけて食べるものです。

 シンガポール、マレーシア、タイ、フィリピン、ブルネイなどではこの鍋料理を「スチームボート(steamboat)」と呼んでいます。スチームボートに使われる鍋の形状が「蒸気船(steam boat)」に似ているからなのだそうです。鍋の真ん中に突き出たパイプ状のものが蒸気船の煙突に見えるからなのでしょう。しかし、スチームボートにも普通の形状の鍋が使われるようになって、この形状の鍋を最近では見かけることも少なくなっています。それでも鍋料理に使われる鍋はいまだスチームボートと呼ばれることがあります。


steam boat

(参考) 「「マレーシアへ」-「客家」の味とペトロナスとタクシーの話と、、、

 KAZUKO さんから次のようなコメントをいただきました。

 アジアが好きで毎年クアラルンプールを拠点に旅行しています。それで、「アイラブ スチームボート」というお店に行きたいのですが、場所と行き方をご存じでしょうか? どうぞよろしくお願いいたします。 (2014-12-14 10:52:06)

 まず、ヤフーマレーシアの検索窓に“I love steamboat restaurant”と入力し、検索してみます。


yahoo malaysia

 検索結果の上から6番めの“malaysian foodie”のページを開いてみましょう。


検索結果の画像

 マレーシアの首都クアラルンプールを取り囲んでいるセランゴール州(スランゴール州)のプタリン・ジャヤ(クアラルンプールから南西に車で20分くらいの場所にある)のコタ・ダマンサラ(27-1, Jalan PJU 5/4, Dataran Sunway, Kota Damansara, 47810 Petaling Jaya, Malaysia)にある“I Love Steamboat”というレストランでは新しいコンセプトのサービスが行われているようです。鍋に入れる具材が回転寿司のようにベルトの上を流れてきて(自助旋転式、Sushi Conveyer Belt Style)、お客さんが自由に選べるのです。

 鍋は1人に1つ(individual Shabu Shabu pot)であり、牛肉、鶏肉、豚肉といった肉類は、鮮度のいいものが欲しければ、店員に注文して冷蔵庫に保管されているものを出してもらうこともできるようです。野菜の類は、サラダバーのような場所があり、そこから選んでくることになります。

 スープはプレーン、トムヤム、薬膳の3つから選ぶことになります。アイスクリームが数種類あり、またフライドチキンも楽しむことができるようです。

 どのような料金体系になっているか詳しくはわかりませんが、ビュッフェスタイルと謳っていることから、食べ放題なのでしょう。およそ30RMです(2014年12月で1,000円ほど)。営業時間は12:00~23:00のようです。

 では、どこにあるのかですが、グーグルマップの検索窓に“I Love Steamboat”(アイ・ラブ・スチームボート)の住所“27-1, Jalan PJU 5/4, Dataran Sunway, Kota Damansara, 47810 Petaling Jaya, Malaysia”を入れて、検索します。表示されたページでは、ストリートビューでレストランの外観も確認できます。


map

 次は、アクセスです。タクシーで行くのがいちばん確実ですが、地図を見ると、近くにバス停が確認できます。“Sunway Gaza Mall”(このモール自体はいまは閉鎖されている)というバス停に99番のバス(Metro Bus No.99)で行けばいいことになります。主要なバス停は、Pudu (near to Bangkok Bank there)←→KL Central←→Brickfield←→Midvalley←→Federal Highway←→Asia Jaya (RapidKL Station)←→SS14 (metrojaya)←→SeaPark←→SS2←→Damansara Uptown←→Ikea←→Pelangi Damansara です。

 クアラルンプール市内からは、RapidKLのクラナジャヤ線(Kelana Jaya Line)に、例えば KLCC駅(KJ10)やKL Central駅(KJ15)から乗り、Asia Jaya駅(KJ21)まで行き、そこでメトロバス(Metro Bus No.99)に乗り換え、スリアン通り(Persiaran Surian)にあるバス停“Sunway Gaza Mall”で降りて、あとは徒歩というアクセスが考えられます。

 スリアン通りには「イケア(Ikea)」がありますから、Rapid KL Bus の“U88”に KL Sentral から乗って、Ikano Power Centre (Persiaran Surian)で降りて、Ikea で遊び、Metro Bus の“No.99”に乗って、“Sunway Gaza Mall”で降りるというコースも面白いかも知れません。

 参考にした情報はインターネットから得られたもので、現況である保証はありませんから、現地で例えばホテルのレセプションなどで再確認してくださいね。では、また。

 ところで、ダマンサラ(Damansara)は、クアラルンプールの北西にある住宅地域で、その北部には大きな森林が残されています。ムチアラ・ダマンサラ(Mutiara Damansara)には、話題にしたイケアのほかに、ザ・カーブ(The Curve)、テスコ(Tesco)などの大型施設があります。「サンウェイ・ガザ・モール(Sunway Gaza Mall)」というバス停のあるスリアン通りの「スリアン(Surian)」はセンダン科の広葉樹で、フィリピンではカランタス(Kalantas)、ニューギニアではレッド・シダー(Red cedar)と呼ばれ、街路樹に使われることもあるようです。スリアン通りに並んでいる街路樹は、この「スリアン」なのでしょうか。

(参考) 「「マレーシアへ」 - 「ワン・ウタマ(1 Utama)」にはどうやって行く?

                (この項 健人のパパ)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






 北海道札幌市で創業された(1983年、今から30年ほど前)チョコレートの会社に「株式会社ロイズコンフェクト」があります。英語名は、“ROYCE' Confect Co., Ltd.”です。「ROYCE'」を「ロイズ」と読ませています。この名称の由来に興味を抱く人も多く、検索すると出てきます。創業者(現取締役社長)は「山崎泰博(Yamazaki Yasuhiro)」氏です。自分の名前を会社名にするということはよく行われることです。「森永太一郎」氏が「森永製菓」を設立するといったことです(正しくは、「森永西洋菓子製造所」(1899年~)→「株式会社森永商店」(1910年~)→「森永製菓株式会社」(1912年~))。

 ちょっと洒落て、「石橋正二郎」氏が1931年に設立したのは、「株式会社ブリヂストン(英語名:Bridgestone Corporation)」でした。この社名は、英語の「ブリッジ(bridge、橋)」と「ストーン(stone、石)を合成したもの。「石橋」という姓を英語にして、語呂をよくするために、前後を入れ替えたものです。

 山崎泰博氏は、自分の名「ヤスヒロ(Yasuhiro)」を社名にしようとします。しかし、このままでは社名としては響きが悪い。後ろから読んでみることにします。「ロヒスヤ」。「ロヒス屋」という響きになりました。和菓子を製造販売する「株式会社虎屋」の英語名は、“Toraya Confectionery Co., Ltd.”です。‘confectionery’(コンフェクショナリー)には、「菓子製造業」という意味があります。そこで、「屋」を「コンフェクト」とします。「ロヒスコンフェクト」をもう一歩進めて、「ロイスコンフェクト」。さらに進めて、「ロイズコンフェクト」。それに「ROYCE’」という英語綴りを与えることにします。「ROYCE’S」(ロイスズ)の‘S’を省略したものという解釈をしています。

(参考) 「チョコラティエ「ゴディバ(Godiva)」の名前の由来は、それだったの?

 ロイズは新千歳空港の国内線旅客ターミナルビルと国際線旅客ターミナルビルを結ぶ連絡施設に国内初の空港内チョコレート工場とミュージアムを開設しています(営業時間:8:00~20:00 (※ファクトリースペースは、8:30~17:30))。



 私は北海道に生まれ、東京の大学に進学するまでは北海道に暮らしていました。北海道を離れて40年以上も経ちますが、郷愁という感情を持ちません。北海道はすぐそこにあるのです。行こうと思えば、バスに乗って1停留所行けば着けるような心理的距離なのです。そこに妻「あみ」は観光に行こうと言い出しました。北海道の新千歳空港から台北に飛ぶ航空券が格安だったので、すでに購入したというのです。新千歳空港から飛ぶ前に札幌の観光もいいかなと考えて航空券をとっているというのです。成田→札幌(新千歳空港)→台北→成田という旅程にしたのだそうです。

 私にも同じ旅程での旅行を提案してきました。しかし、我が家には自分からは勉強をしない高校1年生の息子「健人」がいます。2学期の中間テストが控えています。テスト準備をさせるためには、10日間も家を空けるわけには行きません。成績が悪くなれば、授業料免除という特待生の資格を取り消されてしまうのです。

 最初は全行程を一緒にと言ってきたのですが、札幌の3日間は同行するという妥協案にOKを出しました。妻は旅行好きです。若いころに北海道はすでに10数回も行っているというのです。でも、私とは異なり、そこは非日常が味わえる心理的にも遠い都市なのでしょう。札幌行きにあまり関心もないので首を横に振り続けていたのですが、妻の粘りに根負けしてOKを出したのが、出発の間際。それでも航空券は取れるのですね。バニラという格安航空会社の航空券でした。40年以上も前に千歳空港から羽田に飛んでいたときよりも安く航空券が買えたのです。



 今回の旅行で最も関心を抱いたのが、国際線旅客ターミナルビルで妻の台北行きを見送ったあとで、国内線旅客ターミナルビルへ移動するときに、連絡施設で見学したロイズ・チョコレート・ワールドにある「ミュージアム」。展示物の数は少なく、小さな小さな博物館ですが、チョコレートの知識を得るのにはよくまとめられていると言えます。

 物理的距離は近いのですが、心理的距離は遠く、ベルギーにはるばる来たようです。妻がいれば、「何を興奮しているの」と言われそうですが、ショコラティエール(chocolatiere、ショコラを作る道具)が、チョコレートポットとモリニーリョ(Molinillo、撹拌棒)の現物が見られるのです。

(参考) 「ブルージュの「チョコレート博物館」へチョコレートの知識を深めに

妻「嬉しそうね」
私「目の前に本物があるんだよ」
「チョコレート、好きよね」
「好きだね」
「甘い物といえばチョコレートぐらいしかない時代に育った?」
「おいおい、失礼な」
「チョコレートとケーキがあったらどっち選ぶ?」
「チョコレートかな」
「やっぱり、好きよね」

 妻がその場にいれば、モリニーリョやココアポット(チョコレートポット)を見ながら、そんな会話を交わしていそうです。



 上の画像は、モリニーリョという攪拌棒です。中米(メソアメリカ)のマヤ族は、カカオ豆を乾燥させて、石臼で挽いて、トウモロコシの粉と水を加えて飲料として口にしていました。どろっとしている(トウモロコシの粉がとろみを出している)がざらざらもしていて、舌触りが悪いことから、泡立てることで舌触りを良くして、飲んでいたようです。マヤ族は、器から器へと勢いよく注ぎ込むことで泡立てていました。16世紀、スペイン人たちは、泡立てるために攪拌棒を使い始めます。それが、モリニーリョ(Molinillo)なのです。



 Royce' Chocolate World のミュージアムでの解説を引用してみます。

 メソアメリカでは、マノ(すりこぎ棒)とメタテ(石臼)でカカオ豆やトウモロコシをすりつぶし、水に混ぜて飲んでいました。また、飲みやすくするため、高いところからポットやジャーに注ぐことで泡立てていました。



 そもそも、カカオとは何でしょう。常緑樹であるカカオノキ(学名:Theobroma cacao、テオブロマ・カカオ)は、中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産としています。赤道を挟んで、北緯20度あたりが生育の北限、南緯20度あたりが南限で、年間平均気温27℃以上の高温で、規則的な降雨(ただし、排水のよい土壌が必須)、湿潤な気候が必要であり、標高約300メートル程度の丘陵地に自生するといいます。樹の高さは5~10m程度のようです。2階建てや3階建ての家屋程度の高さの樹木です。

 カカオノキは、発芽成長に強い光よりも湿度を必要とするため、ほかの木の陰で生育させる必要があります(「陰樹」)。このため、カカオノキは、広大な面積の土地に単一作物を栽培する大規模プランテーションの樹木には向いていないといわれています。これをミュージアムでは「甘えん坊のカカオ(Cacao - The Pampered Child)」というタイトルで次のように説明しています。

 カカオの木への直射日光や風あたりを和らげるために「シェイド・ツリー」というバナナやヤシなどの背の高い木を周囲に植えます。その下で栽培されることから「甘えん坊の木」と呼ばれます。

 コーヒーの木も直射日光が強いと木の新芽が焼かれてしまって発育を妨げられることから、コーヒー農園ではバナナやマメ科の木などの背の高い樹木をコーヒーの木と一緒に植えて、適度な日陰を作るということが行われることがあります。このときのバナナやマメ科の高木を「日陰樹」(shade tree、シェイド・ツリー、シェード・ツリー)と呼びます。

(参考) 日陰樹(ひいんじゅ)と陰樹(いんじゅ)の違い
 日陰樹は、その樹木の作る日陰が利用できるもので、樹冠(じゅかん、樹木の上部にある枝と葉の層で太陽光を受ける)の大きな樫(カシ、oak)、楓(カエデ、maple)、楡(ニレ、elm)、梣(トネリコ、ash)、菩提樹(ボダイジュ、linden)などの樹木をいいます。例えば、アラビカ種のコーヒーノキは乾燥に弱いことから、直射日光から守るために、日陰樹を植えることがあります。日陰樹に日傘のような役割をさせるわけです。こうすることでコーヒーノキに適度な陽射しを当てることができるのです。
 樹木はすべて光のない暗所では育たず、光を必要としますが、直射日光(日当たり)を好むもの(陽樹、intolerant tree)からあまり好まないもの(陰樹、tolerant tree)まで、多様です。その成長、枝や葉の密生度が日照の強さと日照時間に影響を受けるのです。日当たりをあまり好まない樹木を日当たりの強い環境に置くと、例えば「葉焼け」を起こします。少ない光エネルギーで光合成を行っている種類の樹木に過剰な光エネルギーを与えると、余剰の光エネルギーが活性酸素を発生させ、葉の細胞を傷害します。葉の一部の緑色が薄くなったり、葉の周辺が褐色となって部分的に枯死する現象が葉焼けです。
 “shade tolerance”と言えば、「陰光耐性、耐蔭性(耐陰性)」を指すことになります。ブナ(山毛欅、Japanese beech)、カエデ(楓、maple)などは陰樹に分類され、比較的低い光量でも成長が可能な(陰光耐性がある)樹木です。(参考の終わり)




 カカオノキは樹齢4年程度で花を咲かせ、直径3cmほどの花を新しく伸ばした枝ではなく幹に直接つけるといいます(「幹生花」(cauliflory、コーリフローリ))。幹生花(かんせいか)は、温帯に住む私たちにとっては珍しいものですが、熱帯ではそれほど珍しいものではないようです。でも、幹や太い枝に花が咲いていると寄生植物が花をつけているようにも見えますよね。



 花はやがて果実をつけますが、やや小振り(長径で20cmほど)のラグビーボール(26cm~30cm)のような形をしています(カカオポッド、cacao pod)。幹に直接実がなっているのは、やはり珍しいですね。カカオポッドの中には白いパルプ質の果肉に包まれたカカオ豆が30粒から40粒ほど入っています。花が5弁ですから、入っている豆の数も5の倍数なのかな。



 カカオ豆は、カカオポッドから白いパルプごと取り出され、発酵という過程を経ることになります。バナナの葉を被せたり発酵槽に入れたりして発酵をすすめると、1粒ずつカカオ豆を包んでいたパルプは1週間ほどで溶けてしまいます。発酵はパルプを取り除くだけの目的で行われているのではなく、カカオ豆と果肉であるパルプ(果汁を含む)とを反応させるという目的もあります。



 カカオ豆がどのように出荷されるかをミュージアムの解説で見てみます。

   1 収穫 カカオの木からカカオポッドを収穫します。

   2 採果 カカオポッドよりパルプ(果肉)に覆われたカカオ豆を取り出します。



   3 発酵 バナナの葉を被せたり、発酵槽を使うなどして発酵し、パルプ(果肉)を取り除きます。

   4 乾燥 カカオ豆の水分がおよそ8%以下になるまで乾燥します。

 水分量は幅があるらしく、日本のチョコレート・ココアの製造者の団体である「日本チョコレート・ココア協会」のサイトでは「発酵の終わった種子は水分を6%以下に乾燥させます」とあります。



   5 袋詰め カカオ豆60~70㎏を麻袋に詰め、出荷します。



 長くなったので、続きは次回の記事にします。


                  (この項 健人のパパ)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






 赤血球に含まれる「ヘモグロビン」の構成物の一つにヘムがあり、その分解代謝物にビリルビンがあります。ビリルビンは、胆汁や尿から排出されますが、異常に濃度が上昇することがあり、それは何らかの疾病への罹患を意味しています。ビリルビンの濃度が上昇して、眼球や皮膚といった組織や体液が黄色く染まった状態を「黄疸(おうだん。jaundice、ジョーンディス)」といいます。

 黄熱(yellow fever)は、発熱を伴い、重症患者に黄疸が見られることから、「黄」+「熱」と命名されています。黄熱は、黄熱ウイルス (yellow fever virus) を病原体とする感染症で、黄熱ウイルスは、フラビウイルス科(Flaviviridae)のフラビウイルス属(Flavivirus)に属します。この学名の由来は、黄熱ウイルスにちなんでおり、ラテン語の“flavus”(フラーウゥス)は、黄色または橙色の意味です。

 大豆などに含まれ、女性ホルモンの「エストロゲン」と似たような作用を持つといわれている「イソフラボン (isoflavone)」にも、“flavo-”という語幹が含まれています。また、植物体を太陽の紫外線から守る役割をしており、黄色などを発色させる植物色素に「フラボン (flavone)」がありますが、これにも“flavo-”という語幹が含まれています。

 話しを戻しますが、フラビウイルス属には、黄熱ウイルス以外に、日本脳炎ウイルス(Japanese encephalitis virus)やウエストナイルウイルス(west Nile virus、西ナイルウイルス)があります。このいずれもが蚊を媒介として、ヒトに感染するウイルスです。黄熱は、ネッタイシマカ (Aedes aegypti、エイイーディーズ・イージプタイ) などの蚊によって媒介されるウイルス感染症です。

 国立感染症研究所 病原微生物検出情報 (IASR) 2013年8月号によると、黄熱(黄熱病)は、「感染すると無症候の場合もあるが、通常ウイルス曝露後3~6日で発症し、発熱、筋肉痛などの非特異的症状が急激に始まる。一時緩解した後、15%のヒトでは2~24時間後に症状が再燃し、腎不全、黄疸、出血傾向、心筋障害が起こる。肝腎不全に至ると、20~50%が通常発症から7~10日で死亡する。」とあります。

 ネッタイシマカは、一般的には“yellow-fever mosquito”(黄熱蚊?)と呼ばれており、学名“Aedes aegypti”は、「エジプト縞蚊(しまか)」といったところでしょうか。“aedes”(エイイーディーズ)は、ギリシア語を語源とするらしく、「嫌な(hateful)」、「嫌で堪らない(repulsive)」という意味を持つようです。洋の東西を問わず、吸血する蚊は嫌われ者なのですね。ちなみに、英語“mosquito”は「小さなハエ」というだけの意味を、中国語「蚊(蚊子、wenzi、2-軽声)」はその羽音(昔の音は、wenでなくbun?)という意味を持っているようです。

 双翅目カ科ヤブカ属シマカ亜属は、胸部の背面などに白い縞模様(白条)があることから、縞蚊(しまか)と呼ばれ、昼間に活動して吸血します。ネッタイシマカのほかに、ヒトスジシマカ(Aedes albopictus、エイイーディーズ・アルボウピクタス、その見た目から tiger mosquito(タイガー・モスキートウ))、その生息場所から forest mosquito(フォレスト・モスキートウ))などがいます。“albopictus”は、「白条」を意味し、学名も「一条縞蚊(ひとすじしまか)」といったところです。

 ヒトスジシマカ(Asian tiger mosquito)は、アメリカ合衆国にも生息範囲を広げており、合衆国の東半分の州にはすでに生息しているといいます。ハワイ州を除くアメリカで、ヒトスジシマカが最初に発見されたのは、テキサス州ヒューストンで、1985年。すでに30年ほどが経っています。日本や台湾から輸入された古タイヤとともに、侵入してきたといわれています。

 あるサイトでは、“In the United States, the Asian tiger mosquito may spread diseases such as West Nile fever and encephalitis.”(アメリカで、ヒトスジシマカは、ウエストナイル熱やウエストナイル脳炎のような感染症を広げるかも知れない)と述べています。

 国立感染症研究所の感染症情報「ウエストナイル熱/ウエストナイル脳炎とは」によると、「ヒトにおける潜伏期間は3~15日である。感染例の約80%は不顕性感染に終わる。発症した場合多くは急性熱性疾患であり、短期間(約1週間)に回復する。一般的に、3~6日間程度の発熱、頭痛、背部痛、筋肉痛、筋力低下、食欲不振などがみられる。皮膚発疹が約半数で認められ、リンパ節腫脹を合併する。 時にデング熱と似た熱型を取る。」、「重篤な症状を示すのは感染者の約1%といわれている。これらは主に高齢者にみられ、致命率(患者数に対する死亡者の比率。致死率ともいう)は重症患者の3~15%とされる。アメリカ合衆国の患者のデータでは、筋力低下を伴う脳炎が40%、脳炎が27%、無菌性髄膜炎が24%にみられている。」と述べられており、また、

 「媒介蚊は主にイエカの仲間であるが、我が国では、日本脳炎のベクター(媒介動物)であるコガタアカイエカやヤマトヤブカなどもなり得ると考えられる。本ウイルスが本邦に侵入すると、蚊や鳥を介して広範囲に拡がる可能性がある。」、「ウエストナイルウイルスは成熟期のメス蚊の吸血時に増幅動物である鳥類に伝播され、腸で増殖後、唾液腺へ運ばれる。鳥類は曝露に続いて1~4日の間にウイルス血症を起こす。流行には渡り鳥の存在や感染蚊の移動の関与が示唆されている」という記述もあります。

 アメリカなどでウエストナイルウイルスの媒介が可能であるとされた蚊は、アカイエカ(house mosquito、culex、キューレックス)、ネッタイイエカ(southern house mosquito、culex quinquefasciatus、キューレックス・クウィンケファシエイタス、「5つ帯の家蚊(いえか)」といったところでしょうか)、コガタアカイエカ、ヒトスジシマカ、ネッタイシマカ、キンイロヤブカ、ヤマトヤブカなどであり、このうちのネッタイシマカを除けば、すべて日本に存在する蚊です。ウエストナイルウイルスは、日本脳炎ウイルスが、主にコガタアカイエカが媒介するのとは異なり、いろいろな蚊によって媒介されるのです。

 日本脳炎のワクチンを接種している私は、蚊に刺されることは、それほど気にはしていませんでしたが、蚊に刺されると刺された場所が大きく腫れるため、蚊に刺されることを極端に嫌う妻のように、これからは黄熱ウイルス(ワクチンはあるが、日本では一般的でない)、デングウイルス(ワクチンは開発の最終段階だが、まだ上市されていない)、ウエストナイルウイルス(ワクチンはない)などへの感染を防ぐため、蚊の活動する季節は蚊に刺されないように虫よけのスプレーをして、外出すべきなのでしょう。

(参考) 「感染患者報告数の少ない日本脳炎の予防接種は受けるべきではないか?

 2007年の生活衛生((社)大阪生活衛生協会(2011年に解散)が出版) Vol.51 No.4に掲載された「日本人はウエストナイルウイルスに交差免疫を持つか」(大阪市立環境科学研究所研究主幹「今井長兵衛」(現在:千里金蘭大学生活科学部食物栄養学科教授)著)には、次の記述があります。

 「ウエストナイルウイルスに対する交差免疫機能を期待できる日本脳炎抗体を保有する住民は年を追って減少しており、とりわけ大都市において、その傾向が著しい。したがって、ウエストナイルウイルスが不幸にして日本に侵入したときには、全国民、とりわく都市住民がウイルスの危険にさらされ、少なくとも日本脳炎抗体を保有していないヒトの間でウエストナイルウイルスが猛威を振るう恐れがある。

 ハムスターの感染実験で、日本脳炎ウイルスを接種した個体にウエストナイルウイルスを接種したところ、抗原抗体反応が起こったという報告があります。このことは、日本脳炎に感染した経験があれば、ウエストナイルウイルスに対して、発症予防の効果があるということになります。

 このような「交差免疫反応」は、抗体の側に「特異性の低さがある」(譬えれば、欧米人にはアジア系の人種を見分けることが難しくて、日本人もベトナム人も中国人と思ってしまうようなもの)、抗原の側に「抗原性の類似がある」(譬えれば、日本人の中にも韓国人や中国人に極めて似た面立ちの人がいるようなもの)ときに起こります。

 「ウエストナイルウイルスの日本侵入経路の一つとして、ウイルス感染渡り鳥のカナダ南部・米国北部からの渡来が懸念されていた。ところが、2005年になって新たな事実が判明した。シベリア東部のウラジオストック周辺で2003年から2004年に死亡した野鳥からウエストナイルウイルスが検出されたというのである。シギ・チドリやカモなどの大部分の渡り鳥の繁殖地であるシベリア東部にウエストナイルウイルスが常在するとなれば、ウイルス感染渡り鳥の飛来経路が短縮されるばかりでなく、個体数も劇的に増加する可能性がある。

 「日本脳炎ワクチンによる西ナイルウイルの感染に対する交叉防御」には、「沖縄本島では156人の被検血清の96%はJEV中和抗体陽性であり、抗体陽性者の55%からWNV交差中和抗体が検出されている」という報告があります。これをどう読むかというと、沖縄本島で、156人から血清を調べさせてもらったところ、150人は日本脳炎ウイルス(Japan Encephalitis virus, JEV)に対する抗体を持っており、その中の85人の血清はウエストナイルウイルス(West Nile virus, WNV)に対しても反応したということです(65人の血清は抗原抗体反応は起こらなかった)。

  -この記事は、徐々に記述していきます-

 2014年9月8日配信の産経新聞の記事からです。

 厚生労働省は9月8日、新たに東京都内でデング熱6人の感染者が確認されたと発表した。いずれも最近の海外渡航歴はなく、東京・代々木公園とその周辺を訪れていた。重い症状の患者はいないという。国内での感染者は計80人となった。

 厚生労働省によると、新たにデング熱と確認されたのは東京都の20代~60代の男女6人。デング熱の国内感染が確認された後に代々木公園を訪れて感染した人はいない。


 国立感染症研究所の報告した「デング熱国内感染患者 現時点での疫学情報のまとめ(平成26年9月8日)」によると、第75症例(40代男性、発症日8月29日、潜伏期間6日)、第76症例(20代男性、8月31日、不明)、第77症例(30代女性、8月28日、5日)、第78症例(40代男性、8月12日、5日)、第79症例(60代男性、不明、不明)、第80症例(20代男性、8月31日、不明)の6症例です。

 2014年9月8日配信の産経新聞の記事からです。

 静岡県疾病対策課は9月8日、県東部に住む50代の男性からデング熱の感染が確認されたと発表した。男性は8月30日に1人で代々木公園を訪れており、最近の海外渡航歴はないため公園付近で感染したとみられる。県内でデング熱の感染者が確認されたのは初めて。

 静岡県疾病対策課によると、男性は今月5日に38度以上の発熱や頭痛などの症状が表れ、自宅近くの医療機関で受診。9月8日になっても熱が下がらなかったため、再び同じ医療機関で受診していた。男性は胸部や腹部などに発疹がみられ、「代々木公園でトイレを利用した」「公園内で蚊に刺されたかもしれない」と話したため血液検査をしたところ、デング熱の感染が確認された。


 これが第81症例になるのでしょうか。50代男性、発症日9月5日、潜伏期間6日になります。

(追記‐2014年9月9日) 2014年9月9日配信のJNNニュースからです。

 「デング熱」の国内感染で、初めて東京以外で感染したとみられる患者が報告されました。厚生労働省によりますと、千葉市・稲毛区に住む60代の男性は8月31日、発熱や倦怠感の症状が出て、9月8日、「デング熱」の感染が確認されました。現在は入院中で容体は安定していますが、この男性は「代々木公園」や、その周辺など、最近、東京都内を訪れたことはないということです。

 男性は、稲毛区内の社会福祉施設に住んでいて、この施設の周辺で感染した可能性がありますが、今のところ男性以外に入所者の感染は確認されていません。千葉市と厚労省は施設周辺の蚊の調査を行い、感染場所の特定を進めています。これでデング熱の国内感染者数は9月9日までに、合わせて86人となりました。


 そろそろデング熱も終息するのではないかと考えていたのですが、新たな展開になってしまいました。(追記-2104年9月10日) 厚生労働省はこの症例について「9月9日に公表した、千葉市稲毛区在住のデング熱の患者については、国立感染症研究所におけるウイルス解析の結果、この患者から検出されたウイルスの血清型は、デングウイルス1型であり(デングウイルスには、DEN-1、DEN-2、DEN-3、DEN-4と4つの型がある)、遺伝子配列は、代々木公園周辺、新宿中央公園、神宮外苑又は外濠公園への訪問歴のあるデング熱の患者から検出されたものと一致しました。」と9月10日の報道発表資料で述べており、同時多発でなかったことになります。今のところ、代々木公園に端を発しており、それが各場所に、例えば、新宿中央公園に広がったと考えられます。

 ここまで追記を加えたところ、展開が早くこの記事が実際に起きていることに追いついていけなくなっています。千葉県に住む50代男性が、勤務先の東京都台東区松が谷周辺で蚊に刺され、デング熱に感染したとみられるのだそうです。また、神奈川県在住の20代男性は、東京都千代田区の外濠公園か港区の青山公園で感染したとみられるそうです。このウイルスも遺伝子配列が感染場所が代々木公園のウイルスと一致するのでしょうか。(追記の終わり)

 「デング熱国内感染患者 現時点での疫学情報のまとめ(平成26年9月9日)」によると、第82症例(10代男性、発症日8月30日、潜伏期間不明)、第83症例(40代女性、9月1日、11日)、第84症例(50代女性、9月5日、不明)、第85症例(20代女性、9月5日、9日)が新たにデング熱の発症者として追加されており、千葉市・稲毛区の60代の男性の発症は第86症例として、9月10日に発表になるのでしょう。

 デング熱は「ヒトが感染しても、発症する頻度は10%~50%」であるとされています。つまり、1人発症すると、その周辺に1人から9人ほどの感染しても発症しなかった人(不顕性感染者)がいることに理屈的にはなります。しかし、不思議なことに、報道ではデング熱の発症者の周辺に感染者はいません。8月25日から代々木公園北側の宿泊施設に滞在していた、デング熱を発症した大阪府高槻市の10代女性3人(発症はそれぞれ8月30日、8月31日、9月1日)を含むグループ24人のうち半数以上が「蚊に刺されたと思う」と話しているという報道があったのですが、このグループからの発症者はそのあとに報告されず、また感染者の報告もありません。

 これまでに80人を超えるデング熱の発症者が報告されています。ならば、感染者10人に発症者は1人(10%)であれば、800人ほどが感染しているはずであり、感染者2人に発症者1人(50%)であれば、160人ほどが感染しているはずです。報道が過熱して、住民に冷静さを失わせて、パニックを作り出すと考えて、保健衛生関係者は報道への通知を控えているのでしょうか。(追記の終わり)

                     (この項 健人のパパ)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ