パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2024年4月7日

2024-04-07 21:16:57 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:イザヤ 50:1-11
説教題:真の明りを求めよ

導入)
50章は、バビロンに捕囚となった南ユダ王国の人々への神のメッセージとなっています。神に不平を言っている彼らへの神からの答えになっている部分が有ります。また、神はイザヤを通して彼らに警告も発しています。また、この章にはメシア預言が含まれていることが重要な要素となっています。どのような神のメッセージになっているのかを確認してみましょう。

本論)
1節 神はユダヤの人たちに、彼らが経験している困難の責任は彼らにあるのだと答えています。神は非難されるべき方ではありません。
 離婚状が出て来ます。神がユダヤの国家を離縁して民を捕囚に追いやったのではないということです。
 債務者という表現もでてきます。当時、借金が返せない場合は、債権者は債務者の子供を売ってお金を回収する権利がありました。しかし、神はユダヤの人たちを捕囚に売り飛ばしたのではないということです。
 神は、エルサレムの破壊とユダヤ人のバビロン捕囚は、ユダヤ人に責任が有ると言っているのです。
2節-3節 ユダヤ人に責任があるというのは、彼らが正しく神に応答しなかったからだということです。神が来た時というのは、実際には預言者が遣わされて、神の御心を伝えた時と考えられます。また、神は、出エジプトの時に神が奇跡の業をもって彼らを助けたことを思い出させることによって、神の能力を問題にすることはできないことを示しています。
4節―5節 イザヤは神に任命された預言者であるという自覚がありました。イザヤの使命は、疲れた者たちを神の言葉で力づけることでした。イザヤは朝毎に、言い換えれば、毎日神の言葉を聞いていました。耳を開くということが4節と5節に繰り返し出て来ます。神に仕えている自覚の故に、神に逆らうことなく、また難しい使命からも背を向けることをしませんでした。
6節 神から遣わされたイザヤに対しする人々の酷い扱いが示されています。背中を叩かれた、もしくは鞭打たれた様子が書かれています。背中を打たれるのは刑罰の形体です。また、箴言には愚か者が背中を打たれる記述が有ります。髭を抜くのは、中近東では大変な侮辱でした。頬叩いたり唾をかけるのは、律法を守らず、義務を果たさない者がされることでした。勿論イザヤはそんな人物ではなかったのですが、人々は神に従わず、神の預言者であるイザヤに酷い扱いをしたのです。
7節―9節 そんな扱いを受けたイザヤの態度が示されています。主なる神という表現は、アドナイ・ヤーウェーとなっていて、神を表すことができる言葉が二つ用いられています。真の神がいてくださることを強調しています。修辞疑問文と考えられる「だれが」「どんな者が」という問いかけが三つ出て来ます。彼らは反抗的なユダヤの民のことですが、神の前には何でもないということです。彼らが神の前に何の力もないことが強調されています。彼らの行く末は、9節の最後に示されているように、滅びだということです。そのような者たちに卑しめられても、イザヤは少しも恥じる必要がなかったのです。顔を火打石のようにするという表現が有りす。火打石は大変固い石だと考えられていて、強い意思と決意を示しています。
10節―11節 預言者イザヤから人々への勧めと警告が述べられています。もし神を畏れる者がいるのであれば、主の御名に信頼し拠り頼めと勧めています。暗やみの中というのは、捕囚の苦しい生活と考えられます。光を持たないというのは、希望も彼らを正しい道に導く霊的な洞察もないことと考えられます。彼らは、神の契約によって、神に帰るならば、まだ恵みの約束の当事者なのです。
 一方で、神に従わない者たちへの警告も述べられています。よびかけられている人々が自ら火をともしているとされています。火と訳された語には、火花というような意味もあり、長続きしない火ということになります。彼らは神の光によって歩もうとせず、自分勝手に用意した明りに従って生きようとしていることになり、神に反逆しているのです。そのような者たちに、神の手が与えるのは、苦しみのうちに伏し倒れることだとイザヤは伝えているのです。

この、イザヤの受けた仕打ちと彼の覚悟及び、自分で火をともして生きようとする民の対比は、丁度、イエスの受難と覚悟及び自己義認によって意固地に生きるパリサイ人たちとの対比にもなっています。ヨハネ8:12では、イエスが世の光であると言っています。もし、イエス・キリストの光を受け取るならば、その人は救われるのです。しかし、自分で考えたやり方という明りで生きようとする者は、神の手によって倒されるのです。パリサイ人たちは、この預言の通りに、エルサレム崩壊の時に滅ぼされました。

まとめ)
 イザヤ50章が私たちに伝えていることをいくつか確認してみます。

1)真の光を求めなさい
  イエスは世の光であり、真の光である方です。イエスに拠り頼み従順しましょう。全能の神である主が、あなたを助け、祝福してくださいます。イエス不在の世界は霊的な暗闇なのです。神の招待を受け入れ、イエス・キリストの光にの中に入ってください。
2)主に聞きなさい
  預言者イザヤもイエス・キリストも、日々父なる神に聞いていました。イエスの弟子たちはイエスの教えを傾聴していました。ベタニヤのマリアは、イエスの教えを熱心に聴いていたことで、良い方を選んだと言われています。神の言葉が私たちを、そして、疲れた者を励ますのです。疲れた者と訳された語は、単数形です。疲れた者一人一人を神は心にかけていてくださるのです。
3)信仰に堅く立ちなさい
  イエス・キリストへの信仰のゆえに、人々に卑しめられても落胆しないと心に決めることです。全能の神が助け、義としてくださるからです。神に優る存在はありません。その神が助けてくださるのです。それだけではなく、イエス・キリストが私たちの罪の負債を代わりに払ってくださったのです。ですから、イエスの光に拠り頼み、自分の知恵や方法に拠り頼む生き方に帰らないようにしなければなりません。
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