パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

マリラ・カスパート

2020-07-28 23:51:04 | 赤毛のアンから辿る聖書の話
 マリラ ”Marilla” はアンの育ての親となる女性です。この形では聖書には出てきませんので、あまり聖書的名前という印象が有りません。英語の名前の起源等をネット検索して調べると、元来は「海辺」という意味が有るということです。同時に、マリア, Maria の変形という解説も出てきますが、音からの連想で後にそのようになったかもしれません。 
 マリアの変形という方から考えるとがる聖書的名前だということになります。この名前は、旧約聖書に出てくる大預言者モーセの姉、ミリアムに遡るものです。人気の有る名前で、新約聖書には6人のマリアが登場します。英語の聖書ではMaryです。中でも注目度が高いのは、イエス・キリストの母、聖母マリアということになると思います。モンゴメリもそちらのマリアに着想を得ている部分が有るのではないかと思います。
 マリラは赤毛のアンの育ての親で、母親のような立場です。イエスの母マリアは、イエス・キリストの地上の生涯における育ての親です。マリラは生涯結婚をしませんでしたが、アンを養子に迎えることによって母親の立場になりました。その部分が、イエスの母マリヤが、夫ヨセフによらず、聖霊によってイエスを身ごもった部分を連想するようになっているように思います。
 イエスの母マリアは、夫に先立たれて未亡人になりました。ですから、その後の生活はイエスが大工の仕事をして支えたと考えられています。このことは、家族を経済的に支えていた弟のマシューが先に亡くなってしまい、アンが地元に残って教師をしながらマリラの生活を支える部分に重なります。
 更に、イエスが十字架にかかって死ぬ時、(その後の昇天を念頭に入れて)イエスは母マリアを愛する弟子の一人であり、十字架の所までついてきたヨハネに託します。そのシーンはヨハネによる福音書19章26、27節に記録されています。

26 When Jesus therefore saw his mother, and the disciple standing by, whom he loved, he saith unto his mother, Woman, behold thy son! 
27 Then saith he to the disciple, Behold thy mother! And from that hour that disciple took her unto his own home. (King James Version)

26 イエスに愛された弟子の私(ヨハネ)もいっしょでした。イエスは、私と、私のそばに立ち尽くしているご自分の母親とを見つめ、「お母さん。ほら、そこにあなたの息子がいますよ」と声をかけられました。 27 それから、弟子の私に、「さあ、あなたの母ですよ」とおっしゃいました。その時以来、私は先生のお母さんを家に引き取ったのです。 (リビング・バイブル)

 アンがマリラの世話をするようになる部分には、イエスと弟子ヨハネの物語が二重写しになっているような気もします。

 さて、クリスチャンとしてイエスの母マリアを思い出す時に、一番心に留めるべき要素は何でしょうか。私は、ビートルズの歌にもなりました、”Let It Be” という神に物事を任せる信仰を持っていたことだと思います。
 マリアは天使ガブリエルの受胎告知を聞いた時、いろいろな疑問を持ちましたが、神にはできないことはないというガブリエルの言葉に応答して、「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いました。それは簡単なことではありませんでした。マリアは当時の結婚が許される年齢になっていましたから、14歳ぐらいではなかったかと考えられています。また、ヨセフという婚約者がいましたから、結婚して同居する前に妊娠していることが判明するのは、結婚破棄されて行き場を失い、社会から爪はじきにされて、場合によっては母子共に命を失うことも有ったかもしれません。想像してみると、恐ろしくてとてもそのような役割を引き受ける気にはなれないのではないかと思います。しかし、マリアは神への信頼と信仰を持ってそう答えたのです。(ルカによる福音書1章26節~38節参照)

 翻って、マリラ・カスパートにそのような神に全てを委ねて信頼する信仰を持っていたのかというと、あまり明確ではないような気がします。しかし、確実にキリスト教の信仰を持っていた人物として描写されていると思います。彼女がアンを引き取ることを決めたのは、感性が豊かで感じやすいアンをもう一人の里親候補者のブリュレット夫人には委ねたくなかったという部分が大きかったと思われます。(第6話参照)しかし、そういう決心をした背景に、”Let It Be” という神に委ねる信仰が皆無であったとは、私には思えないのです。
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日曜礼拝 2020年7月26日

2020-07-26 17:42:47 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ 前半 後半

聖書箇所:エステル 3章
説教題:神の御心が勝る

導入)
先月はエステル2章から「不敬虔な社会にも働かれる神」と題して説教をいたしました。その原則は3章でも活きているのですが、それに加えて、神の御心と契約は邪悪な時代と社会においても確立されていることを見ることができると思います。3章の物語がどのように進むのか見てみましょう。

本論)
 1~4節この章に記された年代から、3章の出来事はエステルが王妃になってから4年後のことだと考えられています。突然ハマンという人物が登場してきて、すべての首長たちの上の位置に昇進させられます。それは王に次ぐ地位だということになります。エステル記の記者は彼の昇進の理由を述べていません。
 学者やユダヤ人の伝統は、彼がアガグ人であるということに目を留めています。アガグは、1サムエル15章に出てくるアマレク人の王の名前です。神はサウル王にアマレク人を滅ぼすように命じました。その理由は申命記25章17節~19節の神の命令に示されています。ハマンがアマレクに属するということが、王の命令にもかかわらずモルデカイがハマンに跪かなかった理由かもしれません。神が敵とした民族はモルデカイにとっても敵であったということです。彼にとっては、これは個人的な問題ではなく、神との関わりで考えることだったのです。モルデカイはベニヤミン族でした。サウル王もベニヤミン族の出身でした。サウル王は神の命令を忠実に守ることができませんでしたが、モルデカイは神の御心に沿った態度を貫こうとしていたと考えられます。
 これらの背景を理解すると、4節の記述は更に意味の有るものになってくると思います。モルデカイは自分がユダヤ人であることを同僚の官僚たちに告白することによって、アマレク人であるハマンに跪かない理由を示したのだと思われます。そのまま放置しておくこともできたと思うのですが。彼らは噂話や権力闘争に関心が有るような人たちだったようです。ことの成り行きを見たいと思う彼らは、モルデカイのことをハマンに告げ口しました。
 5節以降からは、ハマンの邪悪で下劣な人間性が表れてきます。まず、彼はこモルデカイの態度に腹を立てました。彼は自分の価値を神に見出すことをせず、人間の評価によって自分の尊厳を見出そうとしていました。彼は自分の価値や尊厳を神との関係の中に見出そうとはしていませんでした。また、彼はユダヤ人を皆殺しにしようと考えました。王国中のユダヤ人を殺すということは、ペルシャ王国内のすべてのユダヤ人を殺すという意味なのですが、ペルシャは広大な領土を誇り、地上の全てのユダヤ人はペルシャ帝国内に住んでいたと言えますから、地上の全てのユダヤ人を殺すのと同じことでした。
 ハマンは王にモルデカイのことを訴え出て、王の命令を守らない人物として処罰することができたはずでした。しかし、彼はそれでは満足せず、ユダヤ人全体を滅ぼすことを求めました。ハマンもアマレク人とユダヤ人の歴史的な敵対関係を意識していたのかもしれません。彼は、全地の主である神の前に遜ることはありませんでした。
 7節からハマンは計画の実行に向けて動き出します。アハシュエロス王の治世の12年目の第一の月に、ユダヤ人皆殺しの計画の実施日を決めました。占星術師と相談して計画を立てることが常でしたから、くじを投げる時も、ハマンは彼らに相談をしたことと思われます。彼は天地の創造主を畏れる人物ではなかったわけです。くじを投げた結果、計画の実行は第12の月に決まりました。しかし、ここにも神の導きと介入が有ったと考えられます。年の最初の月に計画を立てて、実行の日が年の最後の月になったのですから、モルデカイをはじめとするユダヤ人は約11カ月という対策の期間が与えられたことになります。実際にこの期間が有ったので、モルデカイとエステルの対抗策が考案され、実行されたことはご存じの通りです。
 8節~9節にも、ハマンの邪悪な性質を読み取ることができます。彼がアハシュエロス王に話を持ち出した時、彼は具体的にどの民族のことかを明らかにしませんでした。ユダヤ人だと言ったら、王はモルデカイを惜しんで許可しないかもしれないと考えたのかもしれません。ハマンがユダヤ民族について語った時、彼は嘘をついています。ユダヤ人独自の法令はどの民族のものとも違っているというのは本当のことでした。モーセを通して与えらえた律法は独特でした。しかし、「彼らは王の法令を守っていません。」という非難は偽りでした。ユダヤ人たちは、王の法令を守って生活していました。
 9節でハマンは王に取り入る発言をします。彼は、その計画が実行されれば、国庫に銀一万タラントを納めると言いました。それは、学者によれば重量は345トンにもなるということです。また、ペルシャ帝国の一年の予算は一万五千タラントであったとする注解が有ります。すると、ハマンは国家予算の三分の二に値する資産を納めると言ったことになります。当然彼が個人的にそんな莫大な富を持っていたとはずはありません。彼は、ユダヤ人を殺害した時に奪う富を計算に入れていたと思われます。彼はそのような邪悪な心の持ち主でした。
 10節~11節には、その計画が王に受け入れられたことが記されています。アハシュエロス王は高貴な人柄ではありませんでした。自分の支配する国の民が滅びるというのに、それがどの民族かを確かめることもなく、ハマンに許可を与えました。指輪をはずしてハマンに渡したというのは、その件に関して全権を委任したということです。しかも、彼の提示した富はハマンに授けると言ったのです。
 12節では、第一の月の十三日に王の書記が招集されたと書いてあります。ですから、ハマンは年が改まると二週間もしない内に計画を実行する日を決め、王の裁可を取り付け、ペルシャには127の州が有り、多くの言語が話されていたわけですが、文書を作成させて急使を送り出したことになります。先に朗読しました箴言6章には「悪に走るに早い足」という表現が有りますが、ハマンによく当てはまっています。そして、アハシュエロス王とハマンは、罪の無い人々の殺戮の知らせで大騒ぎになっていることに頓着せず、酒を酌み交わしていたのでした。

まとめ)
この物語から、私たちは何を心に留めるべきでしょうか。

1)神の御心が勝ることを信じて不公正を耐え忍ぶ
  モルデカイはスサの都では王の高官の一人でした。しかも、アハシュエロス王を暗殺する計画を王に知らせ、王の命を守った人物でした。彼はその功績で更に高い位につけられてもおかしくなかったのですが、無視されていました。数年経って、突然ハマンが王の次の位につけられました。これは不公平、不公正なことです。しかし、モルデカイは不平を言ったりはしませんでした。彼は神が物事の背後で働いていることを信じて耐え忍ぶことができたと考えられます。私たちも職場等で不当な扱いを受け、自分の功績を他人に取られてしまったりすることが有るかもしれません。クリスチャンとして生活する中で、迫害を受けたり、信条を理由に不当な扱いを受けることが有るかもしれません。しかし、神の御心が勝るのだということを心に留めて耐え忍ぶことができます。

2)神の御心が勝ることを信じて罪とサタンに対抗する
  モルデカイは神の選ばれた民、ユダヤ人でした。ハマンは神が裁きを下し、滅びることになっていた民、アマレク人でした。この二人の対立は、クリスチャンと罪、クリスチャンとサタン、あるいは、クリスチャンと迫害者の対立のようなものと言えるかもしれません。神の憎む7つの性質の全てがハマンに当てはまりました。一方、モルデカイは神の御心に従って生きることを選びました。そして、彼は自分のその立場を公にしていました。私たちもクリスチャンとして、キリストの証人として、態度を明らかにし、罪とサタンに立ち向かって生きる心構えを持っていかなければなりません。

3)神の御心が勝ることを信じて神の約束・契約に信頼する
  ハマンがユダヤ人殲滅を計画し、実施日を決めた月は、ユダヤ人が過ぎ越しの祭りを祝う月でした。それは、神がユダヤ人をエジプトの王から救い、鴨居に血を塗ったユダヤ人の家を死の遣いから守ってくださったことを祝う祭りです。それは、神がユダヤ民族の守りと繁栄の契約をくださったことを記念する祭りでもありました。神のユダヤ人との契約には、メシア・救い主の到来が含まれていました。ユダヤ人が全滅すると、その契約は成就しないことになってしまいます。しかし、神の契約は人間の力で損なわれるようなものではありません。ハマンの邪悪な計画が進んでいるような時でも、神の契約が勝っているのです。神は私たちクリスチャンに神の永遠の契約と救済を思い起させるのです。先週の聖書箇所2ペテロ1章12節~15節でも、ペテロはクリスチャンに神の知識、その恵みの全てを思い起こさせようとしています。神の御心が全てに勝っているのです。神の契約が全てに勝って成就するのです。
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日曜礼拝 2020年7月19日

2020-07-19 15:56:50 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:2 ペテロ1章12節~21節
説教題:キリストの知識にとどまる

導入)
 1章の前半では、主イエスを知ること、神の尊く素晴らしい約束、神の召しについて言及しました。私たちクリスチャンはそれらがどのようなものであるかを知っていなければなりません。これらの知識に基づいて、彼の手紙は更に展開されていきます。今日の箇所は三つの部分に分けることができます。12節から15節は、この手紙の目的を述べています。キリストの知識を思い起こさせることです。16節から18節は、キリストの来臨、再臨は確実であることを示しています。そして、19節から21節は、聖書は神の言葉であるということを示しています。これらを、キリストの知識にとどまるという視点から確認していきたいと思います。

本論)
1)継続的に思い起こすことによってキリストの知識にとどまる
  ペテロは思い起こすという表現を三回用いています。(12節、13節、15節)神の約束と召しを含むキリストの知識が、私たちを永遠の命に入る豊な恵みに導くのです。ですから、ペテロは手紙を受け取った人々が現に真理に堅く立っていると分かっているけれども、それでも、それらを「いつも」思い起させようとしているのです。(12節)彼は自分の命がもう長くないといことを自覚していたので、そうしようという熱意と緊急性を感じていたのです。そのことは、「幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている」(14節)、「私の去った後に」(15節)という表現から知ることができます。
 彼のそういう自覚は14節に示されたように、イエス・キリストがはっきりお示しになったことによりました。それは使徒行伝に出てくるような幻によったかもしれません。あるいは、ペテロの境遇がヨハネ21章18節19節に出てくるペテロの最期についてのイエスの預言の有様と同じになっていたのかもしれません。そして、その時にイエスから委ねられた使命に最後まで忠実であろうとしたと考えることもできます。イエスはヨハネ21章で繰り返し、「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」と語りかけています。15節では、ペテロが死んだ後でもキリストの知識を思い起こさせるように努力したいという意思表示がされています。亡くなった後までどうしたらそんなことができるのでしょうか。マルコによる福音書はペテロの権威や監修のもとに書かれたと考えられいます。それがその努力の一つであったのではないかと考えられます。ペテロがどんなにかキリストの知識が伝えられ、保たれることに熱意を持っていたかがわかると思います。今日、私たちは、その思いを受け止めて行くべきではないでしょうか。マルコによる福音書をはじめとする、新約聖書に慣れ親しんでいくのです。

2)使徒達が伝えたキリストの知識にとどまる
  16節から18節のペテロの焦点は、イエスの再臨に有ります。(16節)ペテロはこの手紙の2章から偽教師への反論を述べます。この部分はその前哨戦という部分が有ると思われます。偽教師達は、イエスの再臨を否定していました。(3章4節参照)しかし、ペテロはヤコブとヨハネと一緒にイエスの変貌の目撃者でした。その有様は、イエスの再臨に確証を与えるものでも有りました。イエスがモーセとエリヤと交わした、どのようにイエスが栄光を受けるかという会話の中に、もしかすると再臨のことも含まれていたかもしれません。そこに一緒にいた使徒ヨハネは、1ヨハネ1章1節で、彼の証言が事実だということを、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書き表して主張しています。ここでペテロが用いた「目撃者」という語は、特別な語で、聖書では一度しか用いられていません。これは、異教の宗教儀式において位の高い人だけが参加したり見たりできる状況を含意しているということです。それによって、ペテロは、彼を含む三人の使徒しか目撃できなかったイエスの威光の証を強調したかったのだと思われます。それだけ彼の目撃したこととその意味が確かであったので、彼はイエスの教えに命をかけたのです。彼は死期が近いことを悟っていました。この三人はキリストの「威光」の目撃者でした。イエスの姿が変わるのを目撃し、また、イエスのメシアであることを宣言する神の声を聞いたからです。18節では、「自分自身」という強意表現を用いて、その声を聞いたことを強調しています。三人のうちの一人であったヤコブはこの時、既に殉教していましたから、なお一層思いを込めてペテロは証言していると考えられます。

3)聖霊によって啓示されたキリストの知識にとどまる
  19節でペテロは突然「預言のみことば」に目を向けます。それは、17節に出てきた「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」という神の声に関係していると思われます。聖書学者たちは、この言葉が詩編2編7節、イザヤ42章1節等を反映したものだと理解しています。マタイ17章5節では、「これに聞け。」という命令が付加されています。これは、申命記18章15節を反映しています。
  また、ペテロはイエスの再臨が確かなことを先に訴えたのですが、旧約聖書にはイエスの再臨の預言と考えられる記述も有ります。(ダニエル7章13節、ゼカリヤ12章10節参照)ですから、たとえ人々がペテロの目撃証言を疑うとしても、旧約聖書の預言がイエスの再臨を更に確実に証言しているのです。ペテロは、イエスの来臨・再臨の時まで、聖書の言葉に注意を払うことが、クリスチャンにとって霊的な暗闇を照らす光となることを確信していたのです。(19節)ここでは「明けの明星」という言葉がイエスを表していますが、ヨハネの黙示録ではイエスご自身が自分のことを「明けの明星」として述べています。ペテロはまた、預言の源を示すことによってその確実性を保証しています。それは、預言者から出たものではなく、聖霊によって示されたものだということです。この霊的事実に基づいていなければ、聖書は全く信仰と教義の上で信頼する根拠が無くなってしまいます。(複数の日本の聖書は20節で、人の私的解釈を戒める調子の訳をしていますが、「預言者の人間的考えによるのではない」という訳の方が原文の流れやペテロの思考の流れに則していると思います。)

まとめ)
キリストの知識にとどまることにおいて、ペテロの訴えている三つの点を再確認してみます。

1)継続的に思い起こすことによってキリストの知識にとどまる
  ペテロは来る返しキリストの知識を思い起させることに努力をしています。それは、私たちが物事を忘れやすい傾向が有るからです。説教を取り次ぐ私も二週前の説教のポイントが思い出せないことが有ります。ですから、繰り返し思い起こすという取り組みが必要なのです。もう一つの理由は、イエス、ペテロ、パウロ、ユダなどが警告しているように、偽教師や誤った教えが教会に入り込もうとするからです。繰り返し神の救いの恵みと約束がどのようなものであったかを振り返り、それが初めて聞いた説明や教えを支持するかどうかを確認する必要が有るからです。

2)使徒達が伝えたキリストの知識にとどまる
  モーセやエリヤの出現が伴うイエスの変貌と、天からの神の言葉が聞こえたことは、イエスが救い主であることの確かな印でした。それは、イエスの死と復活ひいては再臨の約束を伴うものであったと理解してよいでしょう。そして、そのことが三人の使徒によって目撃されたのです。ユダヤの法廷では、三人の証言が一致すれば、その証言は有効であるとされました。使徒というのは、主人の言葉を忠実に伝える伝令という意味合いが有ります。それが使徒達の使命であり、彼らはそれを忠実に遂行したのです。そのために、彼らは命さえかけました。ですから、聖書に見いだされる彼らの証言も信頼できるのです。

3)聖霊によって啓示されたキリストの知識にとどまる
  人間には自ずから神を理解する能力は有りません。聖霊を通して神がご自身を啓示してくださって初めて神の知識を得るのです。それで、私たちには新旧約聖書が与えられているのです。聖書66巻の統一性と預言の成就の正確さが聖書の信頼性を証言しているのです。そこに示されるキリストの知識にとどまる時、私たちは神の内に保たれ、永遠の神の国に迎え入れられる恵みをいただくのです。
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日曜礼拝 2020年7月12日

2020-07-12 18:53:25 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:2 ペテロ1章1節~11節
説教題:信仰における勤勉

導入)
  5月にペテロ第一の手紙のシリーズを終了しましたので、続けてペテロ書簡に取り組みたいと思います。この第二の手紙は第一の手紙の宛先に加えて更に多くの教会に届くことを念頭に書かれたのではないかとする注解があります。その最初の部分でペテロが書いていることは何でしょうか。今回は講解説教ではなく、繰り返し用いられる用語などのつながりと観察から確認した原則を確認していきたいと思います。

本論)
1)信仰における勤勉は真の神の知識に基づいている
  5節から7節にかけて、信仰に加えるべき事柄が列挙されています。5節には「あらゆる努力をして」という表現が有ります。同じ語幹からなる表現が10節では「ますます熱心に~しなさい」と訳されています。この二つの表現を「勤勉」という表現で表している聖書も有りますので、この表現にまとめたいと思います。
  8節の表現は、直前に列挙された事柄が身につくなら、イエス・キリストを「知る」点で役に立つ者となり、実を結ぶ者になるのだということを述べています。この部分の表現からすると、先に勤勉に取り組むから神の知識が備わるような印象になっていると思います。知識が勤勉からくるのではないかと思われるかもしれません。ここで、「知識」という語が用いられている、2節、3節に目を向けてみます。2節では、神とイエス・キリストを知る知識によって私たちに恵みと平安が与えられることが記されています。3節では、同様の知識が神の力を与え、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えると記されています。それが、先に示された七つの信仰に加えられるべき事柄の源です。言い換えれば、私たちは神とキリストの知識に拠って勤勉に信仰に取り組むことになります。その知識は聖書にまとめられて私たちに今日伝えられているのです。

2)信仰における勤勉は尊い神の約束に基づいている
  4節に神の約束についての言及が有ります。その約束はイエスの栄光と徳によって与えられたと述べられています。栄光というのは、イエスが神の栄光と力を持っていおられるからです。徳というのは、イエスの謙卑と十字架でなされた贖罪の業を指します。イエス・キリストは私たちを救うためにこの世に来られました。そのことを通してイエスは私たちに尊い、すばらしい約束をくださったのです。
  それが何であるかは、第一のポイントで示された、神の知識を持っているならばわかります。神は私たちがイエスを救い主と信じてその名を呼ぶ時に私たちの罪を赦すと約束されました。神は私たちにイエスの義をまとわせ、罪の責めを負わせないと約束されました。神は、そのお遣わしになった方、イエスを信じる時に、永遠の命を持つと約束されました。神は私たちに永遠の相続を与えると約束されました。神は、私たちに聖霊による助けを与えると約束されました。神は、私たちがイエス・キリストの教えを守る時、実を結ぶと約束されました。4節はその約束の結果の現れと言っても良いでしょう。この約束に基づき、また動機づけられて、私たちは信仰における勤勉を実践し、信仰に加えるべき要素に励むことができるのです。

3)信仰における勤勉は神の召しと選びに基づいている
  ペテロは信仰に加えられるべき要素の実践を読者に奨励するにあたり10節で再び召し、そして選びに言及しています。10節の記述から考えると、ますます熱心に取り組む、すなわち勤勉に実践するところから召しと選びが確かになるのです。しかし、神が先に召してくださるのでなければ、そのような信仰における勤勉な実践は始まりません。召しへの言及は3節に有ります。その記述からは、先ず神が私たちを聖徒として召してくださって、次に神の御力が神と敬虔に関するすべてのことを私たちに与えてくださるという流れを読み取ることができると思います。神の召しが無ければ、私たちには神に従っていこうという意思は生じることはなく、5節から7節に示された信仰における勤勉の実践をする意思も生じないのです。神は恵みによって私たちを天の御国に召し入れて、聖徒としてくださいました。その召しのゆえに、神は尊い約束を伴う神の知識をくださいました。そのことは、2節に示された恵みと平安の源にもなっているのです。神が私たちを御救いに召し、神の知識を与えてくださったので、恵みと平安を豊かに持つことができるのです。これらの全てと神の御力の助けによって、信仰の勤勉をもって5節から7節に示された要素の実践をすることができるのです。その結果、私たちは決してつまずくことがないのです。(10節)そして、その世の命の終わりには、永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。(11節)

まとめ)
  ペテロは私たちが努力して勤勉であることを奨励しています。今日の朗読からは、そのための三つの神からの力を確認しました。

1)信仰における勤勉は真の神の知識に基づいている
  真の神の知識は、特別啓示の中にのみ見出されます。それは、イエス・キリストご自身と、その教えです。それは、聖書を通して私たちに伝えられるのです。ですから、毎日続けて聖書を読むのです。信頼できる聖書研究サイトや聖書研究ソフトを購入することも一つの方法です。あらゆる方法を通して、真の神の知識に触れて行きましょう。

2)信仰における勤勉は尊い神の約束に基づいている
  勤勉に歩むには、明確な目標が必要です。仕事においても、何のために努力しているのかが疑問な時、気持ちを込めて働けないのではないでしょうか。私たちは神の約束に信頼し、それに拠って歩むのでなければ、ペテロの勧める努力をするのは難しいかもしれません。ですから、聖書に見いだされる神の約束を、できるだけ多く、できるだけ頻繁に思い出して、明確に意識して歩むのです。

3)信仰における勤勉は神の召しと選びに基づいている
  1ヨハネ4章9節、19節をご覧ください。神が先ずイエス・キリストを送って、命を与えることによって愛を示されました。その愛を知ったから、私たちも神を愛することができるのです。これが神の召しと選びによってなされました。そのことが私たちに神を愛し、神の戒めを守る動機を与えているのです。
  インターネットの動画で、雌ライオンがある男性に飛びついていくのを見ました。それは、彼を食い殺すためではありませんでした。男性をしっかり抱きしめて、愛情を表現するためでした。その雌ライオンが子供の時に、大怪我をして親に放置されていたのを、レンジャーであった彼が見つけて保護して命を救ったのです。ライオンのような猛獣にもそのような心が有ります。私たちも神の召しに感謝の心を持ち、神の国と神の義を求め、神の戒めを守って行こうとするのです。それによって、ペテロの勧める信仰の勤勉の実践を推し進めるのです。その先に有るのは、豊かな永遠の御国の恵みなのです。
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日曜礼拝 2020年7月5日

2020-07-08 01:47:13 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:エゼキエル22章30節~31節
説教題:とりなす者が必要です


導入)
エゼキエルは第一次バビロン捕囚で連行され、バビロンで預言者としての召命を受けたと考えられます。彼は祭司の家系の出身で、ユダヤ人の伝統にも国際関係にも通じていたようです。彼の預言の中にはエルサレムの崩壊も含まれていました。神のユダヤ人に対する裁きを預言したことになります。同時に、彼はユダヤ人に対して捕囚の地において同胞のユダヤ人と神と平和を保って生きるように励ましました。今回の聖書箇所では、神からエルサレムに対する裁きの宣告がなされています。22章は「次のような主の言葉が私にあった」という表現で三つに区切られています。順に確認してみましょう。

本論)
1節~16節
神が人々の罪の宣告をしています。3、6、12、13節で流血、殺人が責められています。私利私欲のために人を殺していたのです。4節では偶像礼拝が責められています。それはモレクという偶像に人身御供として子供を犠牲として捧げることが含まれているようです。10節、11節では性的な罪が責められています。彼らに対する裁きが4節にはのべられています。そのせいで、彼らは恥を見ることになります。更に、多くの人たちは捕囚になるということです。そのような不面目なことを通して、彼らはエゼキエルの預言を思い出し、主が真の神であることを認識するというのです。彼らは、神との契約を破ったのですから、当然罰せられるべき存在でした。

17節~22節
ここで、神のユダの民に対する評価が表されています。「わたしにとってかなかすとなった」という表現が18、19節に三度出てきます。かなかすというのは、無価値であるということを意味します。この溶鉱炉のたとえでは、それは精錬の過程ででてくるゴミや不純物ということです。それらは役に立たないのです。それで、彼らはエルサレムに集められて罰せられるという内容になっています。(19節)歴史的出来事としては、エルサレムは要塞都市でしたので、そこに行けば安全だと考えた人々が大勢逃げ込んできたのです。しかし、そのエルサレムが彼らの破滅と刑罰の場所となったのです。20節では溶鉱炉のたとえの雰囲気が少し変わります。人々は様々な金属のように溶鉱炉に投げ込まれるというのです。このたとえは20節から22節にかけて三度出てきます。火や熱は神の怒りを表します。確実に神の怒りをもって罰するという宣言になっています。彼らの罪が神との契約を破ったのですから、彼らは当然罰せられるべき存在だったのです。

23節~31節
この部分の始まりには、悲しい宣言がなされています。(24節参照)火のような神の怒りが臨む時には、その怒りを和らげる雨のようなものが無ければ、誰もそれに耐え、生き伸びることはできません。きよめるという表現は、道徳的に正すことや祭儀的清めを含むものです。しかし、神の怒りを和らげることができるはずのきよめも無いということです。このようなことが有りさえすれば、エルサレムは破壊を免れたかもしれなかったなのに。30節を読むと、それが神の御心ではなかったことが示されています。しかし、エルサレムには神の前に破れ口を修理する者がみつからなかったのです。実は、その役を担うべき預言者(おそらく偽預言者ですが)や祭司までが堕落していたのです。彼らは自分たちの利得や快楽を求めることに明け暮れていました。彼らは神の戒めや法を教えませんでした。その結果、首長や一般の人々まで一緒に堕落していたのです。それで、31節では神が裁きと破滅を宣言しているのです。

まとめ)
旧約聖書におけるイスラエルの民の歴史を読むと、彼らはなんと愚かなのだろうかと私たちは感じるかもしれません。しかし、私たちが自分を吟味してみると、私たちも同じ穴の狢ではないでしょうか。わたしたちも必死に神のとりなしを必要とする存在です。

1)それは、私たちが罪の性質を持った存在だからです
彼は殺人者、姦淫する者、偶像礼拝者として描写されています。私たちは実際にそんなことはしていないでしょう。けれども、神の基準によれば、兄弟を憎む者は殺人者だと第一ヨハネ3章15節は教えます。情欲をもって女性を見る者はその人と姦淫したのだとマタイ5章28節は教えます。信仰を持つ前は神ならぬものの奴隷であった、何事も信仰によらなければ罪だというガラテヤ4章8節やローマ14章23節の言葉を考え合わせると、私たちにも偶像礼拝者的態度を持っている瞬間が有るのではないかと反省することになります。私たちも罰せられるべき性質を持っています。ですから、私たちもとりなす者が必要なのです。それがイエス・キリストです。

2)それは、私たちが神を離れては無価値な存在だからです
20節に出てきたような銀、銅、鉄などの金属は、私たちの生活の中では役に立ち、価値の有るものです。人間は神の似姿に創造されましたから、その意味では私たちも価値ある存在です。しかし、私たちは神との関係が無ければ価値の無い存在です。イエスは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15章5節)」と言われました。神に対する信仰でつながり続ける必要が有ります。ですから、イエス・キリストというとりなし手が私たちには必要なのです。

3)それは、私たちへの神の怒りを避けるべきだからです
偉大な預言者とされるモーセは荒野で神に反抗するイスラエルの民のためにとりなし手となりました。彼らを滅ぼさないように神に頼んだのです。神はその願いを聞き入れられ、民を滅ぼすことはされませんでした。しかし、そのとりなしはその時のイスラエルの民に限定されるものでした。ですから、エゼキエルが預言した時代には別のとりなし手が必要でした。神の前に破れ口を修理する者、とりなし手がみつからなかったので、ついにエルサレムは滅ばされました。今日、私たちのためのとりなし手が必要です。私たちには、十字架の上で私たちの罪の贖いを成し遂げられ、信じる者に永遠の命を与えてくださるイエス・キリストがいらっしゃいます。(へブル9章24節~28節等参照)しかし、私たちはその恵みを受けるために、このイエス・キリストを信じる信仰を持つ必要が有ります。(ローマ10章13節参照)私たちは繰り返し悔い改めてイエスのもとに来るのです。そして、感謝をささげ続けるのです。私たちがもはや神の怒りを受けないようにしてくださったからです。
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