パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2018年10月28日

2018-10-28 20:32:23 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ15章11節~24節
説教題:覚えておくべき三つの「いかに」

(導入)
 この箇所は「放蕩息子」という題で記憶されていることが多いのですが、父親の物語である
部分もあり、神と人間の関係についての例話になっています。その関係において、覚えておく
べき三つのポイントを確認します。

1)私たちは神から離れた生活がいかに罪深く惨めであるかを覚えておかなければならない
  この例話を聞いた人は、なんと酷い息子がいたものだと思ったことでしょう。生きている
 うちにい財産を分ける父親はいましたが、息子のほうから願い出るものではありませんでし
 た。そんなことは、「お父さん死んでください。」というのに等しいことでした。同様に人
 間も神と断絶し、心の内で神の存在を否定する存在になってしまっていたりします。
  この息子の態度は更に酷いものでした。生前に財産分与をしても、父親の存命中は、その
 管理は父親がするものでした。しかし、この息子はさっさとその財産をまとめて出て行って
 しまいました。それは、神からいただいた命と生活を神抜きで生きようとする人間の姿に重
 なります。
  しかし、彼の生活は惨めなものとなりました。お金が続く間でさえ、彼には満足が無かっ
 たと思われます。一文無になったばかりではなく、飢饉にも見舞われました。それは神から
 の罰だと考えられていました。働いてもろくな賃金も貰えず、汚い動物に囲まれた生活にな
 りました。
  この息子の生活が惨めなものであるように、神から離れた私たちの生き方も実は惨めなも
 のなのです。

2)私たちは神がいかに慈悲深いかを覚えておかなければならない
  天の父は悪い者の上にも良い者の上に同様に太陽の光を照らす慈悲深い方であるとマタイ
 5章にも示されています。この例話では、生きているうちに財産を分けて欲しいという親を
 侮辱するような息子に対して、父親はそれをかなえてやっています。
  息子が帰ってきた時には、憐れみの心を示しています。年配の人が走るのは面目を失う行
 為だと思われていましたが、この父親は走っています。汚くて汗と豚の臭いがする息子を抱
 きしめて何度も口づけしています。
  旧約聖書では、ヤコブがエサウと再会する時に、エサウが走っています。そして、ヤコブ
 エサウに対して、神の顔を見るような思いで彼の顔を見ていると告白しています。この例話
 を聞いたユダヤ人たちには、この場面が連想されたであろうと思われます。

3)私たちは神にとって私たちの悔い改めがいかに喜ばしいかを覚えておかなければならない
  息子が悔い改めて帰ってきて、その気持ちを告白した時、父親がたいそう喜んだことはそ
 の待遇でわかります。
  まず一番良い着物を着せます。それは、ヤコブがヨセフに着せたような長い外套だという
 ことです。指輪と履物は、奴隷ではなく家族であることを表します。そして、全焼の犠牲を
 連想させる子牛が屠られて、食卓の用意がされています。
  神様は私たちの悔い改めをそのように喜んでいてくださるのです。



説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火曜聖書研究会 2018年10月16日

2018-10-26 11:48:57 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ11章45節~57節

研究ノート
45節) イエスがご自身について証されたことと、ラザロが生き返ったことが大きな証拠とな
   り多くの人がイエスがメシアであることを信じた。
46節) パリサイ人たちに報告をした者たちは、彼らが送り込んだスパイのような人物であっ
   たかもしれない。彼らはイエスを信じるにいたらなかったようである。
47節) すでにイエスを殺すことは決めていたが、それ以上の具体策がなかなか立てられなか
   ったのかもしれない。彼はイエスがしるしを行っていることは認めていた。そうすると、
   彼らの中では、イエスは申命記13章に警告されている偽預言者という認識であったかも
   しれない。
48節) イエスをメシアと認めて全国民がついて行けば、イエスは王になり、ローマからの独
   立を導くことになると考えられた。そうなれば、ローマ軍が送られて、自治は取り上げ
   られ、神殿も破壊される恐れが有った。
49節) 「その年の大祭司」という表現から、その職が聖書的に運営されていなかったことが
   わかる。大祭司はいわば終身制であった。だから、旧約の逃れの町の規定でも、逃れて
   町に入った者は大祭司が死ぬまでそこに留まらなければならないという規定が有った。
   大祭司の職は、この当時は金や権力で手に入れる部分が有った。カヤパの発言は、自分
   の立場を守るためでもあったかもしれない。イエスを殺すことを明確に後押し、世俗的
   な判断しかしていない。
51節) 次の52節と併せて記者ヨハネによる解説である。カヤパが語ったことは、神の働きに
   よる部分が有ることを示している。大祭司は年に一度至聖所に入る務めが有り、その時
   には神の言葉を取り次ぐことも有りえたから、その意味においては適任であった。
    「散らされている神の子たち」という部分は狭義に取れば、各地に分散しているユダ
   ヤ人で、広義に取れば、異邦人クリスチャンということになる。
53節) それまでもイエスを殺すことに決めていたから、これまでにもまして、綿密に殺害計
   画を立てるようになったということだろう。
54節) エフライムは田舎で、もしかするとやや山間に有る町であったと思われる。人目を避
   けていた。そこでは、弟子たちを教えることに専念されたかもしれない。
55節) 田舎からエルサレムに上った人たちがイエスの噂をしているのは、自分の町にはイエ
   スが直接来たことがないからであったかもしれない。
57節) イエスの居場所を知っている者は届け出なければならないという命令が公布されてい
   たので、イエスの噂をしていた人々の中には、賞金目当ての者もいたかもしれない。

ごく簡単なまとめ
・キリストのメシアとしての証は確かである。
・どんな証も受け入れない頑なな心の有様に注意しなければならない。
・イエスの死は神の摂理によることであり、単純に政治的事件ではない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2018年10月21日

2018-10-21 21:18:01 | 日曜礼拝
聖書箇所:コロサイ4章2節~4節
説教題:執り成しの祈り

導入)
 私たちはSNSなどでも祈りのリクエストをし、「祈ります」というコメントをつけてくれ
る人たちがいるという経験があるかもしれません。友人が耳の手術をするときに祈りのリクエ
ストをしましたら、たくさんのコメントが寄せられていました。 
 今回は、私たちの執り成しの祈りがどのようなものであるべきかということを、コロサイ書
から確認してみましょう。

(解説)
1)お互いのために継続的に祈ること
  1章3節や4章12節を見ると、「いつも」祈っているという記述が有ります。1章9節で
 もパウロは「絶えずあなたがたのために祈り求めています。」と言っています。これらのこ
 とからも、私たちの執り成しの祈りのあり様は、継続的なものでなければならないことが判
 ります。

2)お互いの霊的成長のために祈ること
  4章12節には、エパフラスがどのようにコロサイの人々のために祈っていたかが記されて
 います。完全な人になるという表現が有りますが、どのようなことをパウロやエパフラスは
 考えていたのでしょうか。同様なことが記されている1章から見ています。
  一つ目は、神が コロサイの人々を神のみこころに関する真の知識に満たされるようにと
 いうことです。(9節)私た ちが真の知識に満たされるためにはどうしたらよいのでしょ
 うか。霊 的な知恵と理解力と書 いてありますから、それが聖霊の働きによるものである
 と考えられるでしょう。それは、聖 霊の働きによって書かれた聖書を読むことによって得
 られるのです。
  二つ目は、コロサイの人々が、主にかなった歩みをするようにということです。その歩み
 の大事な源は、神を知る知識なのです。(10節)また、あらゆる善行のうちに実を結ぶこと
 (10節)や、父なる神に喜びをもって感謝をささげる(12節)ことがその表れでしょう。

3)福音を宣べ伝える機会が与えられるように牧師や奉仕のため祈ること
  4章3節にも、第一のポイントであったお互いのための祈りが表れています。パウロとエ
 パフラスがコロサイの人々のために祈るだけではなく、その反対に、コロサイの人々が彼ら
 のために祈るように要請しています。その中心は、「キリストの奥義」を語れることです。
  奥義という言葉は、原語では、「以前は謎ではっきり判らなかったが、今は明らかになっ
 たこと」という意味を持っています。それこそが、イエス・キリストの救いということです。
 旧約聖書の時代には部分的にしか判らなくて不明確であった神の救いの計画が、イエス・キ
 リストという特別啓示通して明らかになったのです。神の御子イエス・キリストが人として
 この世に来られ、人々の罪の贖いのために十字架にかかって死なれ、三日に死人のうちから
 よみがえり、天の昇られてたこと。それを信じる者には永遠の命が与えられるということで
 す。それが、「当然語るべき語り方」で「はっきり」語れるように祈るのです。




説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火曜聖書研究会 2018年10月16日

2018-10-18 10:33:20 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ11章30節~44節

研究ノート
・墓は町村の外に作るものであり、イエスはそこに行く予定だったので、村に入らなかった。
・葬ってから最初の三日はその死を悼み悲しむためと、命が戻って来ることへの期待から毎日
 墓に行って顔を見るのが習慣であったらしい。すでに四日目であったが。
・マリヤはマルタと同じ言葉をイエスに伝える。イエスが現場にいなければ奇跡をおこなうこ
 とができないかのような、限定的な信仰であった。
・イエスが憤りを覚えたとされている。用いられている動詞は不満の表現を伴うものであるか
 ら、マリヤの不信仰に不満を持たれたと考えることができる。
・イエスの動揺というのは、その不満が表情に出たことと考えられる。
・イエスが涙を流されたことには幾つかの意味が考えられる。人々の不信仰を悲しまれたとい
 うこと、マリヤ達の悲しみに憐れみの心をお持ちになったということ、また、泣く者と共に
 泣くという生き方の模範を示されたということなど。
・ラザロを死なせないようにはできなかったのかという考えは、イエスに対する反感を持って
 者たちのものであろう。死んだ子を生き返る奇跡に携わったエリシャよりも劣った存在では
 ないかという気持ちが含まれていたかもしれない。
・マルタのもう臭くなっているだろうという言葉は、もう墓を開けるには及ばないという考え
 が含まれており、23節で示されたラザロのよみがえりを、その場で起こることという信仰は
 持っていなかったことを示す。故にイエスは彼女に信じるなら神に栄光を見ると言ったでは
 ないかと言う。
・目を上げるのは当時の一般的な祈りの姿勢であった。イエスは五千人の給食の時もそうされ
 た。また、祈りの内容は5章で述べられたイエスと父なる神の関係を反映したもので、群衆
 に再確認させる目的が有ったことがはっきり表されている。その前提の元にラザロが生き返
 るならば、これ程はっきりしたメシアの証はない。事実、多くのユダヤ人が信じたと44節に
 書いてある。
・イエスが大声でラザロに呼びかけたのは、群衆がはっきりとその権威だけでことをなされた
 ことを見るためである。
・当時は、死んでも三日以内に命が戻る場合が有ると信じていたので、布は手足の自由を奪わ
 ないように巻かれていた。それで、ラザロは自力で墓から出てくることができた。

ごく簡単なまとめ
・イエスは心の底から我々の信仰、もしくは復活の信仰を望んでいらっしゃる。
・イエスは正真正銘の約束のメシアである。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2018年10月14日

2018-10-14 21:04:30 | 日曜礼拝
聖書箇所:士師記9章7節~15節
説教題:あなたの王は誰か

バイリンガル礼拝の説教音声からの編集です

説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする