パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2022年5月29日

2022-05-30 23:34:18 | 日曜礼拝
礼拝映像
パスコード:663Pi?0Y

聖書朗読:へブル13:15
説教題:感謝の祈り

導入)
  旧約聖書では、神はイスラエルの民に毎日の捧げものを命じています。私たちは旧約の儀式をすることはありません。それでも、そこから大事な原則を読み取ることができます。聖書に示されている御心を求めてまいりましょう。

本論)
  ダビデは祈りの人としての良い模範です。彼は詩編141:2 で、自分の祈りが香のように、夕方の捧げもののように受け入れられるようにと願っています。香は大祭司によって朝と夕に捧げられるものでした。(規定については出エジプト37:25参照)この夕方の捧げものは、犠牲の動物ではなく、小麦粉、油、香でした。このことは、私たちは毎日、最低でも朝と夕に祈らなければならないことを示しています。この捧げものは、和解の捧げものでした。香の良い香りのように、自分の祈りが神に受け入れられることを願ったのです。
  旧約聖書には、もう一組、毎日の捧げものの規定が有ります。午前9時と午後3時の小羊の捧げものです。犠牲の動物の捧げものは、罪の赦しのための捧げものです。イエスは午前9時頃に判決を受け、午後3時に十字架上で死にました。このようなことを心に留めて、毎日、罪の赦しを神に感謝して祈らなければなりません。悔い改めの祈りは、ホセア14:2では、くちびるの果実と表現されています。私たちの悔い改めと感謝の祈りは、神に対する捧げものとみなされます。ホセアの言葉に倣うように、へブル13:15では、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」という表現がされています。ここでは、絶えず、という言葉が加えられています。御名をたたえると訳された部分は、直訳すると、御名に感謝を捧げるというものになります。感謝を捧げることが、神を賛美することになることがわかります。私たちの悔い改めの祈りも、イエス・キリストの十字架の死を通して私たちの罪を赦してくださった神に対する感謝の捧げものとなるのです。そして、私たちの祈りは香のように神の御前に立ち上るのです。ですから、ヨハネは、黙示録で、神の民の祈りを香として言及しています。(黙示録5:8参照)大祭司に香の捧げものが命じられたように、全てのクリスチャンは王である祭司と呼ばれ、祈りの務めが有ります。(1ペテロ2:9参照)ですから、私たちは毎日その務めを果たさなければなりません。そういうわけで、パウロは1テサロニケ5:16 – 18で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と命じています。
  ここで、疑問に思われる部分が有るかもしれません。「すべての事について」と書いてあります。テサロニケの教会はまだ若い教会でした。迫害に遭い、偽教師が来て、イエスの再臨はもう有ったのだと言って信徒を惑わしていました。そのような状況を、どうして感謝することができるでしょうか。パウロには、ローマ8:28に示されているように、神がすべてのことを益としてくださるという強い確信が有りました。それは、アサフが詩編50:1-15で示したの同様の神への信頼から来ていました。困難な状況を感謝するのは容易なことではありません。むしろ、直面する困難について不平を言いたくなるでしょう。マーリン・キャロザースという人は、賛美の牢獄(邦訳は、獄中からの賛美)という題の本を書きました。彼は、1テサロニケの御言葉を読んだ時に、否定的なことも含めて全てのことを感謝するように導かれました。そのようにすると、神様が彼の心を変えてくださり、時には状況をも変えてくださることを経験するようになったというのです。多くの読者が同様の祈りに導かれて、神の恵みを経験しました。私たちは、まるで神への感謝の祈りで取り囲まれている牢獄にとじこめられているかのように生きるべきなのです。私たちの感情が躊躇う時でも、神の召しに従順するのです。ヨブが、何故苦しみを経験しなければならないのかを知らなかったように、私たちも何故困難を経験しなければならないのかわからないことが有ります。それでも、私たちは神が全てを統べ治めておられることを信頼しなければなりません。神はそういう御存在だからです。信仰の確信を持って、絶えず神に感謝の祈りを捧げましょう。

まとめ)
  感謝の祈りはどういうものであるかを振り返ってみましょう。

1)感謝の祈りは、王である祭司としての私たちの務めである
   私たちが王である祭司として召し出されたのであれば、私たちには、神に捧げものをする務めが与えられています。旧約の祭司達が、毎日香の捧げものと小羊の捧げものをしたように、私たちも、罪の赦しに対して、神との和解に対して、神の恵みに対して感謝の祈りを捧げるべきです。

2)感謝の祈りは、絶えずささげられなければならない
  香と小羊の捧げものは、日に二回捧げられました。パウロは、私たちに絶えず感謝の祈りを捧げるように指示しています。ネパール人の家族が韓国を訪問するテレビ番組を見ました。彼らは、仏像を見つけると何時でも、何処でも、跪くようにして祈り、敬意を表していました。博物館の展示に対してさえそうしていました。私たちは偶像礼拝はしませんが、同様の敬虔さ、恭しさを持って、神の恵みを数えて、絶えず神に感謝の祈りを捧げるべきです。

3)感謝の祈りは、すべての事について捧げられなければならない
  イエス・キリストの御名によって生きる私たちの生活は、神への生きた捧げものです。神が全てを治めておられます。ですから、すべての事が相働いて、神を愛する者のために益としてくださいます。私たちは、その神に信頼を置かなければなりません。ですから否定的な状況についても感謝の祈りをするのです。どうして困難を通らなければならないかわからなくても、不公正な取扱いを受けるようなことが有っても、天国の報酬は大きいのですから、喜びましょう。(マタイ5:10-12 参照)神の御命令への従順として、そのように行動しましょう。
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日曜礼拝 2022年5月22日

2022-05-22 21:29:11 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:2 コリント1:3 - 11
説教題:神の慰めの連鎖

導入)
  この書簡の始まりに、パウロは激しい迫害から神が守ってくださったことを感謝しています。(8節、9節)また、コリントの教会に謝意を表し、続けて祈りで支援してくれるように依頼しています。これらの関係を貫いている、神の慰めに目を向けてみましょう。

本論)
1)神の慰めは、神から出て私たちを満たしている(3節‐5節)
  3節でパウロは、神を、すべての慰めの神としてあがめています。4節では、その神が、どのような苦しみのときにでも、私たちを慰めてくださると述べています。この苦しみと訳された語は、問題や迫害の意味も有るものです。また、それは、苦痛や痛みを伴う経験を含むものです。鞭打ちや石打などが連想されます。しかし、そんなときでも、一度でも神の慰めを経験すると、神がどのように私たちをお取り扱いになるかがわかるようになります。そして、その確信もって、今度は他のクリスチャンを励ましたり慰めたりできるようになるのです。
  5節で、パウロは私たちが他の兄弟姉妹を慰めることができるようになることを、少し違った角度から述べているように見えます。使徒パウロはイエスが苦しまれたように、自分も迫害に遭いました。彼らはイエスを信じることに決めた時に、自分の十字架を負ってイエスについて行くことにしたのです。その結果、彼らは迫害されました。パウロ達が受けた迫害は、より頻繁で厳しいものだったかもしれません。それで、「私たちにキリストの苦難があふれているように」と表現しているようです。同時に、迫害に遭うことは、彼らにイエスの教えや約束を思い起させたことでしょう。(マタイ 5:10、ヨハネ 16:33 ローマ 8:28 参照)彼らは祈り、神はお答えくださいました。それで、同時に、「慰めもまたキリストによってあふれている」ということになります。
  原文に用いられている慰めという言葉には興味深い点が有ります。近くに呼び寄せる、誰かが個人的に神の判断を伝えるために親密さをもって呼ぶ、ということが含意されます。そして、その語の擬人化表現と言えるものが、聖霊を説明するために、イエスによって用いられています。ヨハネ14:16 で、助け主と訳されたものです。ですから、聖霊には慰める者という御性質も有るのです。神の霊は、私たちに対する御心を伝え、慰めるようにして働かれます。
  この箇所では、神が慰めの源であり、聖霊の助けと共に、イエスの言葉と教えを通して私たちを慰めてくださるということが示されています。ですから、私たちも、聖霊の慰めと助をいただけるように祈ることができます。また、み言葉を通して自分を奮い立たせるようにするべきなのです。

2)神の慰めは、苦難に耐え抜く力を与える(6節‐7節)
  パウロとテモテは、福音を宣べ伝えたために困難を経験しました。その事実がどうしてコリントの信徒にとって慰めと救いになるのでしょうか。コリントの信徒がパウロ達が困難に耐えていることを聞く時、パウロ達がいかに深く福音に確信を持っているかを知ることができます。それによって励まされて、自分達も確信に留まることができたに違い有りません。また、パウロ達がイエスの教えによって慰められていることを聞く時、コリントの信徒たちも同様に慰めを感じることができたのではないでしょうか。彼らもイエスの教えやお約束を思い出すことによって慰めを受けることができたでしょう。そのことが励ましになったと考えられます。そういう理解に立って、パウロはコリントの信徒の信仰に対して、動かされない望みを持っていると述べています。

3)神の慰めは死者をよみがえらせてくださる神への信頼から来る(8節‐10節)
  8節で、パウロは自分がアジアで会った苦しみについて知っていておいて欲しいと述べています。それは大変激しいもので、パウロは死を覚悟する程であったということです。しかし、それは、彼らを怯えさせるためではありませんでした。パウロは、そのような厳しい迫害や困難の中でも神を信頼し、神に助けていただいたということを証したかったのです。そのような困難は、パウロが死者をよみがえらせる神にのみ信頼するようにさせたのです。先に書かれたコリント人への手紙には、死者の復活を信じない信徒がいたことが示されています。(1コリント15:12等参照)パウロは復活を強く信じ、それをもう一度コリントの信徒にも示そうとした部分も有るかもしれません。この復活の希望と確信によって、パウロは慰めを得たのです。この箇所における大きな慰めと喜びは、神によってそのような死の危険から救い出していただいたということです。その結果、彼は、これからも救ってくださるという希望を持っているのです。

4)神の慰めは、執り成しの祈りを通して来る(11節)
  パウロの神の救いに対する希望は、コリントの信徒の祈りによっても強められました。パウロがその祈りの答えとして死の危険から救われたということが、パウロと祈った人々にとって慰めとなりました。その結果、多くの人が神に感謝の祈りをささげることができました。(なお、11節最初の一文は、実際は独立した文ではなく、10節の「神に望みを置く」という動作の付帯状況を表す副詞節です。)

まとめ)

1)神の慰めは、神から出て私たちを満たしている(3節‐5節)
  ヤコブ1:17にあるように、すべての良い贈り物、全ての完全な賜物は上から来るのです。聖霊に導かれてイエスの教えと約束で心を満たす時、人生のあらゆる否定的な経験の中でも慰めを得ることができます。それを、信仰生活に適用して実現させるのです。

2)神の慰めは、苦難に耐え抜く力を与える(6節‐7節)
  神の慰めは、私たちをキリストにある望みに目を向けさせます。その希望を持って、私たちは困難に耐えることができるのです。また、私たちは、そのような信仰の経験の証を分かち合うことによって、神の慰めをも分かち合うことができるのです。誰かがキリストへの信頼を堅持しながら困難な時を過ごしていることを聞くことは、励ましになることです。このことを、信仰生活に適用して実現させてください。

3)神の慰めは死者をよみがえらせてくださる神への信頼から来る(8節‐10節)
  クリスチャンにとっては、死者の復活、永遠の命と天国の報酬は大きな望みであり確信です。この地上で経験するいかなる困難においても、それは神の慰めです。そのような望みと信仰が無いなら、私たちの忍耐は無意味なものになってしまいます。復活の信仰を持っていらっしゃるでしょうか。この信仰に立って、神の慰めを得る歩みを実現させてください。

4)神の慰めは、執り成しの祈りを通して来る(11節)
  誰かが自分のために祈っていてくれるということは、大きな励ましになります。パウロは繰り返し自分のために、伝道のために祈ってくれるように要請しています。ましてや私たちはもっと仲間の祈りが必要なのではないでしょうか。互いのために祈り続けましょう。また、必要な時には祈りの要請をしていきましょう。このような働きにおいても、神の慰めの連鎖を体現していきましょう。
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日曜礼拝 2022年5月15日

2022-05-15 18:26:13 | 日曜礼拝
礼拝音

聖書箇所:マタイ17:1 - 13
説教題:キリストにのみ聞く

導入)
  直前の箇所で、イエスは弟子たちに、自分を捨て、自分の十字架を負って従って来るように教えられました。イエスは魂を救い、永遠の命に導いてくださる方ですから、従って行く価値が十分に有るのです。その救いは、イエスの苦しみ、死、復活を通して来るのが神の御計画でした。本日の朗読箇所も、神の救いの計画に関係の有る内容です。

本論)
1節 何か特別なことが起きることを予告する内容になっています。イエスが、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行く時には、死んだヤイロの娘が生き返りや、ゲッセマネの園の祈りなど、特別なことが記録される場合でした。また、高い山に登るということは、神から啓示や指示を受けることを予期させるものでした。モーセやエリヤは山の上で神の指示を聞いています。

2節 早速ここで、イエスの姿が変わったことが記録されています。実際には受動態で、変えられたという表現になっています。父なる神が、イエスの神性の片鱗を弟子たちに見せてくださったということです。

3節 モーセとエリヤが出現する意味は幾つか考えられます。1)ユダヤ人の伝統的な理解においては、メシアの来臨の時には、モーセとエリヤも現れるということでした。神が三人の弟子たちに、イエスはメシアだとお示しになったことになります。2)モーセは律法、エリヤは預言書を表します。イエスは、ルカ24:44で、モーセの律法と預言書と詩編がイエスについて記していると言われました。それは、イエスがメシアであることを示していますが、更に、ルカ24:46では、イエスが苦しみ、死に、復活することが記されていると述べられています。ですから、二人の預言者が現れたことは、16:21でイエスが予告されたことは必ず起きることを確認していることになります。3)モーセは死んで葬られました。エリヤは生きたまま神によって天へ連れ去れれました。いずれも過去の人物でありましたが、現在も天の領域に存在していて、よみがえりの体を持っていたことになります。そのことが、予告されたイエスの復活の理解の後押しをし、更には、イエスに従う者は同様な復活の体を持つことも示していると考えられます。

マタイは、モーセやエリヤが何を語っていたかを記していません。前の段落からの文脈と彼らが象徴的に意味するものを併せて考えると、イエスの苦しみ、死、復活について語っていたと考えることができます。

4節 ここで突然ペテロが口をはさみます。彼の言う通り、モーセとエリヤが一緒にいるのは素晴らしいことです。しかし、彼がイエス、モーセ、エリヤのために幕屋を建てるというのはどうい意図なのでしょうか。先ず、幕屋というのは、普通私たちが思い浮かべるテントではなく、雨風をしのぐために、木や枝を切って作る仮小屋のようなものです。仮庵の祭りの時に作られるのも、そのようなものであったようです。そういう幕屋を建てることは、客をもてなす意味も有ったようです。ペテロは、モーセやエリヤをもてなしたいと思ったのかもしれません。また、彼らと出会うことは、ペテロの言葉通り、素晴らしいことでした。もっと彼らを引き留めて、いろいろ話を聞きたいという願いも有ったかもしれません。

5節 ペテロの言葉終わらない内に、神は更に特別なことをされました。輝く雲にイエス、モーセ、エリヤが包まれました。通常聖書では、神の栄光と臨在を表すのは立ち込める濃い雲ですが、今回は光り輝いていたというのです。そして、神は、イエスのバプテスマの時と同じ言葉を述べられました。(3:17参照)そして、もう一言付け加えられたのです。それは、「彼の言うことを聞きなさい。」というものでした。ペテロ達は、モーセやエリヤの言葉を求める必要は無かったのです。彼らは、イエスの型であり、影でした。本質であるイエスが来られたのですから、イエスだけに聞き従えば良いのです。

6節‐7節 ペテロ達は恐れてひれ伏しました。神の臨在に触れると死ぬかもしれなかったからです。しかし、イエスは彼らに触れて、「恐れることはない。」と言ってくださいました。イエスが私たちの側に立ってくださるとき、私たちは恐れる必要は無いのです。

8節 彼らが顔をあげると、イエスしかおられなかったことは、イエスにだけ聞くようにという神の言葉を更に強調しているとも考えられます。

9節 ここでイエスは彼らに、彼らの見たことを誰にも話さないようにと命じられました。理由は16:20の時と同じです。人々がイエスを人間的な思いで王に仕立て上げることは避けなければなりませんでした。しかも、今回は、ユダヤ人の伝統で信じられている、モーセとエリヤが現れたということですから、そんなことが知れたら、人々の興奮と確信はとてつもなく大きくなることは目に見えていました。

10節‐11節 マラキ4:5-6には、メシアが来る前にエリヤが来ることが預言されていました。実際にエリヤを見た弟子たちは、その預言の意味を確認したいと思ったので、このような質問をしたのだと思われます。ルカ1章を見ますと、天使ガブリエルが、バプテスマのヨハネの誕生を予告する時、このマラキ書の預言を引用して、間接的にバプテスマのヨハネがエリヤであることを表しています。その到来の目的は、イエスの宣教への道備えをすることでした。11節はその説明になっていると思われます。

12節‐13節 多くの人たちはバプテスマのヨハネを認めて、バプテスマを受けに来ました。しかし、ユダヤ人の指導者たちは彼を受け入れませんでした。そして、最後にはヘロデ王に殺されることになりました。ですから、バプテスマのヨハネは苦しみにおいてもイエスの先駆者となったと言えるでしょう。

まとめ)
  今回も、解説を確認して、皆様が個人的にいろいろ感じる所の有る聖書箇所であると思いますが、まとめとして一応三つのポイントを示しておきます。

1)イエスは確実に旧約が約束したメシアである
  モーセとエリヤの現れたことが、イエスがメシアであることの証明となります。彼らは旧約聖書を象徴する人たちです。その旧約聖書が約束したのがイエスの到来でした。また、それは三人の弟子たちによって目撃されました。ユダヤの法では、三人の目撃証言は有効とされました。

2)イエスは苦しみ、死、復活を経験しなければならない
  モーセとエリヤの現れたことは、イエスが予告して自身の復活の証明にもなっていました。しかも、彼らは、イエスの苦しみ、死、復活のことを話していたのです。そして、9節で三人の弟子に命令をされた時も、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは」という表現をして、イエスは、ご自身の復活を保証していました。そのようにして、神の救いの計画は成し遂げられなければならないことが、再び示されたのです。
  
3)キリストにのみ聞くこと
  父なる神は弟子たちにイエスに聞くように命じられました。イエスは旧約聖書の律法と預言の成就ですから、モーセやエリヤに聞く必要は無いのです。弟子たちが目をあげた時にイエスしか見えなかったように、私たちもイエスにだけ目を留め、その教えにのみ耳を傾ければ良いのです。それは、イエスだけが私たちを救い、永遠の命に導いてくださる方だからです。
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日曜礼拝 2022年5月8日

2022-05-10 16:31:39 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ16:21 - 28
説教題:自分を捨て、自分の十字架を負う

導入)
  この箇所は、「その時から」という表現で始まります。その時というのは、直前のペテロの信仰告白のことです。イエスを神の御子、キリストであると告白しました。その告白の上にイエスは教会を建てると言われました。この告白ができるほどの理解が進んで初めて、イエスはご自身の受難の予告をされたのです。「その時から」ということは、それ以降続けて、という語感が伴います。イエスは繰り返し受難の予告をされています。(17:22-23、20:17-19参照)イエスの受難はこの時から半年程後のことでした。

本論)
21節 イエスがキリストとして為すべきことが述べられています。それらを経験しなければならないという表現になっています。必要であり不可避であるという語感の有る語で、原語では、神の定めによってしなければならないという意味合いが有るということです。イエスは永遠の大祭司として、救いの業を完成させるために、これらの苦しみを経験しなければならないのでした。イエスの十字架の死が、偶然ではなかったことが明示されています。その神の御計画の中には、勿論最初から復活が含まれていました。イエスの復活と死は、私たちが救われるためでした。

22節 キリストの言葉は、弟子たち皆にとって衝撃的な内容でした。弟子たちのリーダー格として、ペテロがイエスをわきにお連れしていさめはじめたと書いてあります。いさめると訳された語は、強く反対の意思表示をするという内容の言葉ですが、叱るというニュアンスでも用いられます。イエスが波風を叱り、悪霊を追い出す時にも用いられています。しかし、この時は、もっと異なる雰囲気であったと考えられます。ペテロがいさめ始めた理由は二つ考えられます。一つは、尊敬する師であるイエスのそのような経験をして欲しくないという気持ちが有ったことです。もう一つは、彼らが持っているメシアの、栄光の王というイメージとイエスの予告が合わなかったということです。新改訳2017では、「主よ、とんでもないことです。」と訳した部分は、元来、「神があなたが良くない経験をすることから守られるようにお慈悲を示してくださいますように。」という意味の表現が使われています。「そんなことが起こるはずがありません。」と訳された部分も、「そのようなことが起こりませんように。」という語感になります。ですから、ペテロの言葉は、同様の表現を繰り返して、イエスの無事を祈るような姿勢のものだったのです。

23節 そんなペテロへのイエスの返答は、かなり厳しいものとなりました。それは、荒野でサタンの誘惑を受けた時に言われた言葉を思い出させる表現になっています。(4:10参照)ペテロがここでサタン(敵)と呼ばれています。荒野では、サタンはイエスに十字架の苦しみを経ないでメシアになることを提案したと考えられます。そして、ペテロの言葉も、それと同様の意味合いを持っていたと考えることができます。イエスは、十字架にかかる直前でも、できることならばこの盃を取りのけてくださいと神に祈っているのですから、イエスにとって、ペテロの言葉は、激しい二打目をくらったのに等しい誘惑であったことを、私たちは理解しておくべきであると思います。ペテロはイエスの邪魔をするものと述べられています。神の救いの御計画を挫くことになる発言をしたからです。イエスの「下がれ」という言葉には、大事な原則が示されています。一つは、弟子というものは、師たる人物を導くような存在ではないということです。私たちは、イエスを、自分の思い通りに動かそうとしてはなりません。ただ、従っていくのです。また、イエスに従う者は、神の御心を求めるのであって、人の思いを求めるものではありません。それをイエスは神のこと、人のことと言っています。イエスの予告に表された復活は、大変重要なことでしたのに、ペテロは、その部分には関心を払いませんでした。もし関心を払っていたら、もっと違った反応になっていたことでしょう。

24節 イエスはここから弟子たち全体に語り掛けます。彼らの心もペテロと同様であったと思われます。それで、弟子としてどのようにイエスに従うべきかを示されたのです。もし真摯にイエスに従いたいと思うなら、その人は、自信を脇に置き、自分の道を追求することを止めなければなりません。十字架を負うということには、幾つかの意味が有ると思われます。その刑を受ける者は、衆目に晒されながら、刑場まで自分の十字架を担がなければなりませんでした。クリスチャンは、公に、自分が十字架を負う者、イエスへの信仰を持つ者であることを示さなければなりません。また、イエスが受けた拒絶、迫害、恥を自分も受けることを覚悟しなければなりません。現代でも、その信仰の故に命を落とす人もいるのです。しかし、その先には、確実にイエスに続く復活が与えられるのです。イエスは十字架にかかられて、永遠の大祭司の務めと、神の小羊の役割を担われ、信じる者のために執り成しをしてくださいました。王である祭司、聖なる国民として召し出されたクリスチャンも、そのお姿に倣って、執り成しの祈りをささげるのです。「ついて来なさい」というご命令は、継続的な動作を表すということです。付き従い続けなさいということになります。

25節―27節 イエスは、従って行かなければならない理由述べられます。一つ目は、イエスに従うことだけが永遠の命に至る唯一の道だからです。(25節)二つ目は、私たちの命は全世界よりも価値が有り、尊いからです。そして、その代価を払うことができる方、イエスをおいて他にはいないからです。(26節)三つ目は、イエスの再臨の暁には、従った者には報酬が与えられるからです。(27節)この希望は、パウロやペテロが書簡で人々を励ます時に何度も語られたものです。

28節 この節の理解はいろいろ有ります。続く17章の変貌の目撃のことだと考えるのが文脈的に整合性が高いとする説、イエスの復活の方が文脈に合うと考える説、ペンテコステの聖霊の来臨とそれに伴う教会の誕生と宣教拡大だとする説などです。いずれの説においても、全ての弟子たちが目撃するのではないという条件には合致しています。変貌の時には、ペテロ、ヤコブ、ヨハネしかいませんでしたし、それ以外の場面には、イスカリオテのユダはいませんでした。個人的には、イエスが復活を含むこれから起こることの説明をされた直後ですから、復活のことと考えるのが良いと思います。そして、この28節のお言葉で、イエスは、そのことが必ず実現すると宣言されていると考えるのが良いと思います。

まとめ)
  解説を確認して、皆様が個人的にいろいろ感じる所の有る聖書箇所であると思いますが、まとめとして一応三つのポイントを示しておきます。

1)キリストの救いの計画は必ず成し遂げられなければならなかった
  十字架で死ぬのは全く好ましいことではありません。それでも、神のご計画通りに事は起こらなければなりませんでした。復活は重要な要素でした。どのような形であろうと、神の御計画通りに実現しなければなりません。また、イエスは偶然の成り行きで十字架にかかったのではありませんでした。

2)キリストの弟子は心からイエスに従わなければならない
  弟子たちには自分の考えたメシア像が有りました。自分の地位が上がること目標にしていた者もいたでしょう。そのような自信やら自己中心的な目標を捨てなければなりません。神のこと、神の方法に従わなければなりません。他人と比較したりせず、とにかくイエスに焦点を合わせて行くのです。

3)キリストが備えてくださった将来の目標に焦点を当てる
  私たちにはイエスのご命令に従って行くべき理由が有ります。私たちの魂はイエス・キリストによってしか救われることはありません。イエスだけが私たちの罪の代価を支払い、命を贖い出すことのできるお方です。イエスに自身を委ね、明け渡しませんか。その決断の結果は、神からいただく報酬となるのです。
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日曜礼拝 2022年5月1日

2022-05-03 16:05:32 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:イザヤ 42:14 - 20
説教題:良い知らせは悪い知らせと共に

導入)
  イザヤ書42章は、主のしもべ、メシア到来の預言が記されていることで知られています。構成としては、1節から9節まで、神の言葉として、メシア到来の良い知らせ、10節から13節までイザヤの賛美の勧め、14節から20節まで、再び神の言葉による救いと断罪の宣告、23節から25節まで、イザヤのまとめ、というものになっています。
  朗読した14節から20節までの神の言葉に記された良い知らせと悪い知らせを確認し、神の御心を求めてみましょう。

本論)
14節 神は新しい救いの道をもたらす情熱を持っていらっしゃる。だから、ダビデに約束したメシアの到来を、約250年後、再びイザヤを通して預言しました。
15節 神は、愛する者の敵を罰し、滅ぼされる。
16節 主のしもべ、メシアがもたらす救いの道は、今まで誰も知らなかったものだ。イエスが神の子であり、メシアである。十字架にかかって人々の罪の贖いをし、三日目によみがえって救いを成就する。これらは、誰にも想像のつかない神のみが計画できる内容です。
17節 神以外のものに頼るのは偶像礼拝であり、それがユダヤ人の敵であろうと、ユダヤ人であろうと、退けられ、恥を見ることになります。
18節‐20節 実際には、メシアを必要としているユダの民は、霊的に盲目で耳の聞こえない存在でした。神の方から、聞き従うことを強く求められていましたが、それを心に留めようとしていませんでした。ですから、結局は退けられて、恥を見るのです。70年のエルサレム陥落は、その成就と言えるでしょう。


まとめ)
  良い知らせは、条件が付いていました。神に聞き従うことです。それが無ければ、先に示されたメシアの到来の良い知らせは、ユダの民のものとはならないのでした。この箇所に見出される良い知らせと悪い知らせを確認します。

1)良い知らせ1:神は私たちを救うことに情熱を持っておられる
  産婦の例えが用いられています。生まれて来る子供に期待して頑張るように、神には、新しく救われる民を見る期待と情熱が有ります。それが私たちにも届きました。

2)良い知らせ2:神は私たちを敵から救い出してくださる
  後にユダの民がバビロン捕囚から帰還したように、神は敵の縄目から信じる者を救い出してくださいます。私たちの敵は、悪魔や死です。

3)悪い知らせ:聞き従わなければ、救いと解放は与えられない
  20節には、「心に留める」という表現が用いられています。また、聞くと訳された語は、「注意を払って聞く」という意味が有ります。そして、その結果は、神の命令や指示に従うということになります。それが良い知らせの内容を自分のものにするための条件です。繰り返し悔い改めて、神のみ言葉に聞き従う歩みをしましょう。
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