礼拝映像
パスコード:663Pi?0Y
聖書朗読:へブル13:15
説教題:感謝の祈り
導入)
旧約聖書では、神はイスラエルの民に毎日の捧げものを命じています。私たちは旧約の儀式をすることはありません。それでも、そこから大事な原則を読み取ることができます。聖書に示されている御心を求めてまいりましょう。
本論)
ダビデは祈りの人としての良い模範です。彼は詩編141:2 で、自分の祈りが香のように、夕方の捧げもののように受け入れられるようにと願っています。香は大祭司によって朝と夕に捧げられるものでした。(規定については出エジプト37:25参照)この夕方の捧げものは、犠牲の動物ではなく、小麦粉、油、香でした。このことは、私たちは毎日、最低でも朝と夕に祈らなければならないことを示しています。この捧げものは、和解の捧げものでした。香の良い香りのように、自分の祈りが神に受け入れられることを願ったのです。
旧約聖書には、もう一組、毎日の捧げものの規定が有ります。午前9時と午後3時の小羊の捧げものです。犠牲の動物の捧げものは、罪の赦しのための捧げものです。イエスは午前9時頃に判決を受け、午後3時に十字架上で死にました。このようなことを心に留めて、毎日、罪の赦しを神に感謝して祈らなければなりません。悔い改めの祈りは、ホセア14:2では、くちびるの果実と表現されています。私たちの悔い改めと感謝の祈りは、神に対する捧げものとみなされます。ホセアの言葉に倣うように、へブル13:15では、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」という表現がされています。ここでは、絶えず、という言葉が加えられています。御名をたたえると訳された部分は、直訳すると、御名に感謝を捧げるというものになります。感謝を捧げることが、神を賛美することになることがわかります。私たちの悔い改めの祈りも、イエス・キリストの十字架の死を通して私たちの罪を赦してくださった神に対する感謝の捧げものとなるのです。そして、私たちの祈りは香のように神の御前に立ち上るのです。ですから、ヨハネは、黙示録で、神の民の祈りを香として言及しています。(黙示録5:8参照)大祭司に香の捧げものが命じられたように、全てのクリスチャンは王である祭司と呼ばれ、祈りの務めが有ります。(1ペテロ2:9参照)ですから、私たちは毎日その務めを果たさなければなりません。そういうわけで、パウロは1テサロニケ5:16 – 18で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と命じています。
ここで、疑問に思われる部分が有るかもしれません。「すべての事について」と書いてあります。テサロニケの教会はまだ若い教会でした。迫害に遭い、偽教師が来て、イエスの再臨はもう有ったのだと言って信徒を惑わしていました。そのような状況を、どうして感謝することができるでしょうか。パウロには、ローマ8:28に示されているように、神がすべてのことを益としてくださるという強い確信が有りました。それは、アサフが詩編50:1-15で示したの同様の神への信頼から来ていました。困難な状況を感謝するのは容易なことではありません。むしろ、直面する困難について不平を言いたくなるでしょう。マーリン・キャロザースという人は、賛美の牢獄(邦訳は、獄中からの賛美)という題の本を書きました。彼は、1テサロニケの御言葉を読んだ時に、否定的なことも含めて全てのことを感謝するように導かれました。そのようにすると、神様が彼の心を変えてくださり、時には状況をも変えてくださることを経験するようになったというのです。多くの読者が同様の祈りに導かれて、神の恵みを経験しました。私たちは、まるで神への感謝の祈りで取り囲まれている牢獄にとじこめられているかのように生きるべきなのです。私たちの感情が躊躇う時でも、神の召しに従順するのです。ヨブが、何故苦しみを経験しなければならないのかを知らなかったように、私たちも何故困難を経験しなければならないのかわからないことが有ります。それでも、私たちは神が全てを統べ治めておられることを信頼しなければなりません。神はそういう御存在だからです。信仰の確信を持って、絶えず神に感謝の祈りを捧げましょう。
まとめ)
感謝の祈りはどういうものであるかを振り返ってみましょう。
1)感謝の祈りは、王である祭司としての私たちの務めである
私たちが王である祭司として召し出されたのであれば、私たちには、神に捧げものをする務めが与えられています。旧約の祭司達が、毎日香の捧げものと小羊の捧げものをしたように、私たちも、罪の赦しに対して、神との和解に対して、神の恵みに対して感謝の祈りを捧げるべきです。
2)感謝の祈りは、絶えずささげられなければならない
香と小羊の捧げものは、日に二回捧げられました。パウロは、私たちに絶えず感謝の祈りを捧げるように指示しています。ネパール人の家族が韓国を訪問するテレビ番組を見ました。彼らは、仏像を見つけると何時でも、何処でも、跪くようにして祈り、敬意を表していました。博物館の展示に対してさえそうしていました。私たちは偶像礼拝はしませんが、同様の敬虔さ、恭しさを持って、神の恵みを数えて、絶えず神に感謝の祈りを捧げるべきです。
3)感謝の祈りは、すべての事について捧げられなければならない
イエス・キリストの御名によって生きる私たちの生活は、神への生きた捧げものです。神が全てを治めておられます。ですから、すべての事が相働いて、神を愛する者のために益としてくださいます。私たちは、その神に信頼を置かなければなりません。ですから否定的な状況についても感謝の祈りをするのです。どうして困難を通らなければならないかわからなくても、不公正な取扱いを受けるようなことが有っても、天国の報酬は大きいのですから、喜びましょう。(マタイ5:10-12 参照)神の御命令への従順として、そのように行動しましょう。
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聖書朗読:へブル13:15
説教題:感謝の祈り
導入)
旧約聖書では、神はイスラエルの民に毎日の捧げものを命じています。私たちは旧約の儀式をすることはありません。それでも、そこから大事な原則を読み取ることができます。聖書に示されている御心を求めてまいりましょう。
本論)
ダビデは祈りの人としての良い模範です。彼は詩編141:2 で、自分の祈りが香のように、夕方の捧げもののように受け入れられるようにと願っています。香は大祭司によって朝と夕に捧げられるものでした。(規定については出エジプト37:25参照)この夕方の捧げものは、犠牲の動物ではなく、小麦粉、油、香でした。このことは、私たちは毎日、最低でも朝と夕に祈らなければならないことを示しています。この捧げものは、和解の捧げものでした。香の良い香りのように、自分の祈りが神に受け入れられることを願ったのです。
旧約聖書には、もう一組、毎日の捧げものの規定が有ります。午前9時と午後3時の小羊の捧げものです。犠牲の動物の捧げものは、罪の赦しのための捧げものです。イエスは午前9時頃に判決を受け、午後3時に十字架上で死にました。このようなことを心に留めて、毎日、罪の赦しを神に感謝して祈らなければなりません。悔い改めの祈りは、ホセア14:2では、くちびるの果実と表現されています。私たちの悔い改めと感謝の祈りは、神に対する捧げものとみなされます。ホセアの言葉に倣うように、へブル13:15では、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」という表現がされています。ここでは、絶えず、という言葉が加えられています。御名をたたえると訳された部分は、直訳すると、御名に感謝を捧げるというものになります。感謝を捧げることが、神を賛美することになることがわかります。私たちの悔い改めの祈りも、イエス・キリストの十字架の死を通して私たちの罪を赦してくださった神に対する感謝の捧げものとなるのです。そして、私たちの祈りは香のように神の御前に立ち上るのです。ですから、ヨハネは、黙示録で、神の民の祈りを香として言及しています。(黙示録5:8参照)大祭司に香の捧げものが命じられたように、全てのクリスチャンは王である祭司と呼ばれ、祈りの務めが有ります。(1ペテロ2:9参照)ですから、私たちは毎日その務めを果たさなければなりません。そういうわけで、パウロは1テサロニケ5:16 – 18で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と命じています。
ここで、疑問に思われる部分が有るかもしれません。「すべての事について」と書いてあります。テサロニケの教会はまだ若い教会でした。迫害に遭い、偽教師が来て、イエスの再臨はもう有ったのだと言って信徒を惑わしていました。そのような状況を、どうして感謝することができるでしょうか。パウロには、ローマ8:28に示されているように、神がすべてのことを益としてくださるという強い確信が有りました。それは、アサフが詩編50:1-15で示したの同様の神への信頼から来ていました。困難な状況を感謝するのは容易なことではありません。むしろ、直面する困難について不平を言いたくなるでしょう。マーリン・キャロザースという人は、賛美の牢獄(邦訳は、獄中からの賛美)という題の本を書きました。彼は、1テサロニケの御言葉を読んだ時に、否定的なことも含めて全てのことを感謝するように導かれました。そのようにすると、神様が彼の心を変えてくださり、時には状況をも変えてくださることを経験するようになったというのです。多くの読者が同様の祈りに導かれて、神の恵みを経験しました。私たちは、まるで神への感謝の祈りで取り囲まれている牢獄にとじこめられているかのように生きるべきなのです。私たちの感情が躊躇う時でも、神の召しに従順するのです。ヨブが、何故苦しみを経験しなければならないのかを知らなかったように、私たちも何故困難を経験しなければならないのかわからないことが有ります。それでも、私たちは神が全てを統べ治めておられることを信頼しなければなりません。神はそういう御存在だからです。信仰の確信を持って、絶えず神に感謝の祈りを捧げましょう。
まとめ)
感謝の祈りはどういうものであるかを振り返ってみましょう。
1)感謝の祈りは、王である祭司としての私たちの務めである
私たちが王である祭司として召し出されたのであれば、私たちには、神に捧げものをする務めが与えられています。旧約の祭司達が、毎日香の捧げものと小羊の捧げものをしたように、私たちも、罪の赦しに対して、神との和解に対して、神の恵みに対して感謝の祈りを捧げるべきです。
2)感謝の祈りは、絶えずささげられなければならない
香と小羊の捧げものは、日に二回捧げられました。パウロは、私たちに絶えず感謝の祈りを捧げるように指示しています。ネパール人の家族が韓国を訪問するテレビ番組を見ました。彼らは、仏像を見つけると何時でも、何処でも、跪くようにして祈り、敬意を表していました。博物館の展示に対してさえそうしていました。私たちは偶像礼拝はしませんが、同様の敬虔さ、恭しさを持って、神の恵みを数えて、絶えず神に感謝の祈りを捧げるべきです。
3)感謝の祈りは、すべての事について捧げられなければならない
イエス・キリストの御名によって生きる私たちの生活は、神への生きた捧げものです。神が全てを治めておられます。ですから、すべての事が相働いて、神を愛する者のために益としてくださいます。私たちは、その神に信頼を置かなければなりません。ですから否定的な状況についても感謝の祈りをするのです。どうして困難を通らなければならないかわからなくても、不公正な取扱いを受けるようなことが有っても、天国の報酬は大きいのですから、喜びましょう。(マタイ5:10-12 参照)神の御命令への従順として、そのように行動しましょう。