礼拝音声
聖書箇所:ルカ 24:49 - 53
説教題;教会の土台
導入)
ルカは福音書だけでなく、使徒行伝も書きました。今回の聖書箇所は、ルカによる福音書の締めくくりなだけではなく、使徒行伝への橋渡し的な部分も有ります。使徒行伝の最初の2章は、教会の誕生の経緯が記されています。今回の聖書箇所も、教会の土台となっているものは何かを示しています。ルカの記述から読み取ってみましょう。
本論)
49節 父の約束してくださったもの、というのは、聖霊のことです。ですから、キリストは続けて「いと高き所から力を帰せられるまで」と言われたのです。ここでのキリストのご命令は、「都にとどまっていなさい。」というものでした。どのようにしてとどまっていれば良いのかは、弟子たちには明確であったようです。彼らはいつも宮にいて神をほめたたえていたと記されています。また、使徒行伝では、別の所でも集まって、祈っていたことが記されています。
50節 キリストは、11人の弟子と、彼らについてきた人たちを連れて、ベタニヤの行きました。キリストが昇天の地として、ベタニヤ地方を選ばれた理由を、私たちは考える必要が有ります。
ベタニヤという地名を聞いて私たちが思い出すことは何でしょうか。それは、マルタ、マリヤ、ラザロが住んでいた村の有る所だということです。マルタは、イエスを喜んで迎え入れてもてなした人でした。既にパリサイ人たちは、イエスをメシアだと言う者は会堂から追放すると決めていましたが、マルタには、キリストを愛することの方が、会堂から追放されることよりも大事だったのです。(ルカ10:38参照)マリアは、キリストの教えを一心に聞いていたことで記憶されている人物です。更に重要なことは、マリアはイエスの復活を信じていたということです。(ヨハネ12:3、マルコ14:8-9参照)マリヤはその信仰の故に、福音の伝えられる所ではどこでも、この女のしたことも覚えられると言われました。ですから、彼女はイエスの墓に出かけることはしなかったのです。ラザロは、キリストによって死者の中からよみがえらされたことで記憶されている人物です。この奇跡によって、神が死者を復活させられるということを、キリストは明確にされたのです。(ヨハネ11:3-44参照)そして、この時、弟子たちの前には、よみがえられたキリストがおられたのです。
ベタニヤは、キリストがバプテスマのヨハネを通して洗礼を受けた場所のある所です。その洗礼と、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」という天からの神の声を伴って、キリストの宣教は始まりました。そして、この場面では、キリストの地上での活動は終わろり、完成しようとしていたのです。バプテスマのヨハネの外見は、預言者エリヤのようでした。エリヤはヨルダン川のベタニヤに近い所から天に召し上げられました。キリストも同様にして天に上げられようとしていました。
キリストは、ベタニヤを昇天の地として選ばれることによって、キリストの教えの重要な原則を思い起させ、キリストの働きが完成したことをお示しになったのです。それから、キリストは弟子たちを祝福されました。
51節 キリストは、弟子たち祝福しながら天に上られました。民を祝福することは、大祭司の務めでした。キリストは、このようにして、継続的に天において神の民のために祝福を祈っておられ、また、父なる神の右に座して、神の民のために執り成しをしておられます。(へブル7:24-25参照) 祝福すると訳された語の原義は、何かについて良いことを述べるというものであり、そこから、祝福する、ほめたたえる、という意味が出てきています。41回の用例が有り、そのうち28回は、祝福する動作のために用いられています。そして、同じ語が、53節では神をほめたたえる弟子たちの動作のために用いられています。彼らは、神について、良いことを語り、告白していたのです。神の恵みと救いの御業についての告白だったと考えられます。ここに、神と聖徒の祝福の応答を見ることができます。神は聖徒たちに恵みを宣言されて祝福してくださいます。私たちを含む聖徒は、神の救いの御業と恵みを告白して神をほめたたえるのです。
52節 キリストの昇天は、弟子たちに悲しみをもたらすものではありませんでした。彼らはそこで先ず神を礼拝しました。それから、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰りました。非常な喜びという表現は、天使たちが羊飼いにキリストの降誕を告げ知らせた時に用いられたのと同じものです。キリストの昇天は、弟子たちに天国の命の希望と確信を与えました。ですから、彼らは神への礼拝の心を表さずにはいれれませんでした。ですから、彼らは何日も続けて共に神をほめたたえていたのです。使徒行伝1:13でも、彼らが集まって神の祈り続けていたことが記されています。それが一週間続いた後、ペンテコステの日が来ました。
それまでの経過は次の通りです。キリストは過ぎ越しの祭りの時に十字架で死なれました。それから三日三晩墓の中におられました。そして、復活された後40日間、弟子たちに現れて、体に触れさせられたり、食事を共にしたりして、復活を証明しました。そして、昇天された後一週間経つと、ペンテコステ、五旬節、50日目の祭りの日が来るのです。
ペンテコステは、収穫祭です。その日には、初穂が捧げられました。その日に、神は約束のものである聖霊を送ってくださいました。この出来事を通して、教会が誕生しました。キリストの宣教活動の初穂として、キリストに従う者たちが集められたと言えます。このことも、キリストによる律法の成就と見ることができるでしょう。このようにして。教会が創立されたのです。現代のクリスチャンである私たちも、その、キリストの体なる教会の一部です。
まとめ)
キリストの最後の働きと、聖霊の降臨によって始まった教会の土台は、どういうものでしょうか。今回の聖書箇所を通して確認してみましょう。
1)ベタニヤの精神
教会はキリストへの信仰に土台して建てられています。教会は、マルタのように、キリストをその人生に歓迎した者の集いです。彼らは、マリヤのように、キリストの教えに一心に耳を傾け、それを理解し、守ろうとするのです。彼らは、キリストと聖徒の復活を固く信じています。私たちは、それに加えてキリストの再臨と私たちが天の王国に迎え入れられることを信じています。これらの信仰が教会の土台です。
2)キリストの祝福と執り成し
キリストは、弟子たちを祝福しながら天に上られました。永遠の大祭司であるキリストがいらっしゃるので、私たちはいつもその祝福と執り成しに与るのです。(ローマ8:34、へブル4:14-16、7:24-25、9:24参照) キリストの祝福を通して初代教会は生まれました。キリストは今も私たちのために執り成しの業をしていてくださいます。キリストの贖いの業による罪の赦しは、その祝福の中心的な要素です。これらによって教会は成り立っています。
3)継続的な礼拝と祈り
キリストの祝福に応答して、非常な喜びをもって弟子たちは礼拝をし、祈っていました。ご命令に従って都に留まり、約束のものを待ち望みました。彼らは、キリストが昇天されるとき与えられた、大宣教命令を実行するための導きと力をも祈っていたことでしょう。彼らは、迫害に遭うことを知っていました。ですから、このような祈りの段階が、教会の誕生のためには必要だったのです。現代の教会も、同じ継続的礼拝と祈りの土台の上に建てられなければなりません。私たちも、キリストの証人として神の力をいただくために、いつも祈りましょう。
聖書箇所:ルカ 24:49 - 53
説教題;教会の土台
導入)
ルカは福音書だけでなく、使徒行伝も書きました。今回の聖書箇所は、ルカによる福音書の締めくくりなだけではなく、使徒行伝への橋渡し的な部分も有ります。使徒行伝の最初の2章は、教会の誕生の経緯が記されています。今回の聖書箇所も、教会の土台となっているものは何かを示しています。ルカの記述から読み取ってみましょう。
本論)
49節 父の約束してくださったもの、というのは、聖霊のことです。ですから、キリストは続けて「いと高き所から力を帰せられるまで」と言われたのです。ここでのキリストのご命令は、「都にとどまっていなさい。」というものでした。どのようにしてとどまっていれば良いのかは、弟子たちには明確であったようです。彼らはいつも宮にいて神をほめたたえていたと記されています。また、使徒行伝では、別の所でも集まって、祈っていたことが記されています。
50節 キリストは、11人の弟子と、彼らについてきた人たちを連れて、ベタニヤの行きました。キリストが昇天の地として、ベタニヤ地方を選ばれた理由を、私たちは考える必要が有ります。
ベタニヤという地名を聞いて私たちが思い出すことは何でしょうか。それは、マルタ、マリヤ、ラザロが住んでいた村の有る所だということです。マルタは、イエスを喜んで迎え入れてもてなした人でした。既にパリサイ人たちは、イエスをメシアだと言う者は会堂から追放すると決めていましたが、マルタには、キリストを愛することの方が、会堂から追放されることよりも大事だったのです。(ルカ10:38参照)マリアは、キリストの教えを一心に聞いていたことで記憶されている人物です。更に重要なことは、マリアはイエスの復活を信じていたということです。(ヨハネ12:3、マルコ14:8-9参照)マリヤはその信仰の故に、福音の伝えられる所ではどこでも、この女のしたことも覚えられると言われました。ですから、彼女はイエスの墓に出かけることはしなかったのです。ラザロは、キリストによって死者の中からよみがえらされたことで記憶されている人物です。この奇跡によって、神が死者を復活させられるということを、キリストは明確にされたのです。(ヨハネ11:3-44参照)そして、この時、弟子たちの前には、よみがえられたキリストがおられたのです。
ベタニヤは、キリストがバプテスマのヨハネを通して洗礼を受けた場所のある所です。その洗礼と、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」という天からの神の声を伴って、キリストの宣教は始まりました。そして、この場面では、キリストの地上での活動は終わろり、完成しようとしていたのです。バプテスマのヨハネの外見は、預言者エリヤのようでした。エリヤはヨルダン川のベタニヤに近い所から天に召し上げられました。キリストも同様にして天に上げられようとしていました。
キリストは、ベタニヤを昇天の地として選ばれることによって、キリストの教えの重要な原則を思い起させ、キリストの働きが完成したことをお示しになったのです。それから、キリストは弟子たちを祝福されました。
51節 キリストは、弟子たち祝福しながら天に上られました。民を祝福することは、大祭司の務めでした。キリストは、このようにして、継続的に天において神の民のために祝福を祈っておられ、また、父なる神の右に座して、神の民のために執り成しをしておられます。(へブル7:24-25参照) 祝福すると訳された語の原義は、何かについて良いことを述べるというものであり、そこから、祝福する、ほめたたえる、という意味が出てきています。41回の用例が有り、そのうち28回は、祝福する動作のために用いられています。そして、同じ語が、53節では神をほめたたえる弟子たちの動作のために用いられています。彼らは、神について、良いことを語り、告白していたのです。神の恵みと救いの御業についての告白だったと考えられます。ここに、神と聖徒の祝福の応答を見ることができます。神は聖徒たちに恵みを宣言されて祝福してくださいます。私たちを含む聖徒は、神の救いの御業と恵みを告白して神をほめたたえるのです。
52節 キリストの昇天は、弟子たちに悲しみをもたらすものではありませんでした。彼らはそこで先ず神を礼拝しました。それから、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰りました。非常な喜びという表現は、天使たちが羊飼いにキリストの降誕を告げ知らせた時に用いられたのと同じものです。キリストの昇天は、弟子たちに天国の命の希望と確信を与えました。ですから、彼らは神への礼拝の心を表さずにはいれれませんでした。ですから、彼らは何日も続けて共に神をほめたたえていたのです。使徒行伝1:13でも、彼らが集まって神の祈り続けていたことが記されています。それが一週間続いた後、ペンテコステの日が来ました。
それまでの経過は次の通りです。キリストは過ぎ越しの祭りの時に十字架で死なれました。それから三日三晩墓の中におられました。そして、復活された後40日間、弟子たちに現れて、体に触れさせられたり、食事を共にしたりして、復活を証明しました。そして、昇天された後一週間経つと、ペンテコステ、五旬節、50日目の祭りの日が来るのです。
ペンテコステは、収穫祭です。その日には、初穂が捧げられました。その日に、神は約束のものである聖霊を送ってくださいました。この出来事を通して、教会が誕生しました。キリストの宣教活動の初穂として、キリストに従う者たちが集められたと言えます。このことも、キリストによる律法の成就と見ることができるでしょう。このようにして。教会が創立されたのです。現代のクリスチャンである私たちも、その、キリストの体なる教会の一部です。
まとめ)
キリストの最後の働きと、聖霊の降臨によって始まった教会の土台は、どういうものでしょうか。今回の聖書箇所を通して確認してみましょう。
1)ベタニヤの精神
教会はキリストへの信仰に土台して建てられています。教会は、マルタのように、キリストをその人生に歓迎した者の集いです。彼らは、マリヤのように、キリストの教えに一心に耳を傾け、それを理解し、守ろうとするのです。彼らは、キリストと聖徒の復活を固く信じています。私たちは、それに加えてキリストの再臨と私たちが天の王国に迎え入れられることを信じています。これらの信仰が教会の土台です。
2)キリストの祝福と執り成し
キリストは、弟子たちを祝福しながら天に上られました。永遠の大祭司であるキリストがいらっしゃるので、私たちはいつもその祝福と執り成しに与るのです。(ローマ8:34、へブル4:14-16、7:24-25、9:24参照) キリストの祝福を通して初代教会は生まれました。キリストは今も私たちのために執り成しの業をしていてくださいます。キリストの贖いの業による罪の赦しは、その祝福の中心的な要素です。これらによって教会は成り立っています。
3)継続的な礼拝と祈り
キリストの祝福に応答して、非常な喜びをもって弟子たちは礼拝をし、祈っていました。ご命令に従って都に留まり、約束のものを待ち望みました。彼らは、キリストが昇天されるとき与えられた、大宣教命令を実行するための導きと力をも祈っていたことでしょう。彼らは、迫害に遭うことを知っていました。ですから、このような祈りの段階が、教会の誕生のためには必要だったのです。現代の教会も、同じ継続的礼拝と祈りの土台の上に建てられなければなりません。私たちも、キリストの証人として神の力をいただくために、いつも祈りましょう。