パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2022年6月26日

2022-06-28 13:48:33 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:ルカ 24:49 - 53
説教題;教会の土台

導入)
  ルカは福音書だけでなく、使徒行伝も書きました。今回の聖書箇所は、ルカによる福音書の締めくくりなだけではなく、使徒行伝への橋渡し的な部分も有ります。使徒行伝の最初の2章は、教会の誕生の経緯が記されています。今回の聖書箇所も、教会の土台となっているものは何かを示しています。ルカの記述から読み取ってみましょう。

本論)
49節 父の約束してくださったもの、というのは、聖霊のことです。ですから、キリストは続けて「いと高き所から力を帰せられるまで」と言われたのです。ここでのキリストのご命令は、「都にとどまっていなさい。」というものでした。どのようにしてとどまっていれば良いのかは、弟子たちには明確であったようです。彼らはいつも宮にいて神をほめたたえていたと記されています。また、使徒行伝では、別の所でも集まって、祈っていたことが記されています。

50節 キリストは、11人の弟子と、彼らについてきた人たちを連れて、ベタニヤの行きました。キリストが昇天の地として、ベタニヤ地方を選ばれた理由を、私たちは考える必要が有ります。
  ベタニヤという地名を聞いて私たちが思い出すことは何でしょうか。それは、マルタ、マリヤ、ラザロが住んでいた村の有る所だということです。マルタは、イエスを喜んで迎え入れてもてなした人でした。既にパリサイ人たちは、イエスをメシアだと言う者は会堂から追放すると決めていましたが、マルタには、キリストを愛することの方が、会堂から追放されることよりも大事だったのです。(ルカ10:38参照)マリアは、キリストの教えを一心に聞いていたことで記憶されている人物です。更に重要なことは、マリアはイエスの復活を信じていたということです。(ヨハネ12:3、マルコ14:8-9参照)マリヤはその信仰の故に、福音の伝えられる所ではどこでも、この女のしたことも覚えられると言われました。ですから、彼女はイエスの墓に出かけることはしなかったのです。ラザロは、キリストによって死者の中からよみがえらされたことで記憶されている人物です。この奇跡によって、神が死者を復活させられるということを、キリストは明確にされたのです。(ヨハネ11:3-44参照)そして、この時、弟子たちの前には、よみがえられたキリストがおられたのです。
  ベタニヤは、キリストがバプテスマのヨハネを通して洗礼を受けた場所のある所です。その洗礼と、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」という天からの神の声を伴って、キリストの宣教は始まりました。そして、この場面では、キリストの地上での活動は終わろり、完成しようとしていたのです。バプテスマのヨハネの外見は、預言者エリヤのようでした。エリヤはヨルダン川のベタニヤに近い所から天に召し上げられました。キリストも同様にして天に上げられようとしていました。
  キリストは、ベタニヤを昇天の地として選ばれることによって、キリストの教えの重要な原則を思い起させ、キリストの働きが完成したことをお示しになったのです。それから、キリストは弟子たちを祝福されました。

51節 キリストは、弟子たち祝福しながら天に上られました。民を祝福することは、大祭司の務めでした。キリストは、このようにして、継続的に天において神の民のために祝福を祈っておられ、また、父なる神の右に座して、神の民のために執り成しをしておられます。(へブル7:24-25参照) 祝福すると訳された語の原義は、何かについて良いことを述べるというものであり、そこから、祝福する、ほめたたえる、という意味が出てきています。41回の用例が有り、そのうち28回は、祝福する動作のために用いられています。そして、同じ語が、53節では神をほめたたえる弟子たちの動作のために用いられています。彼らは、神について、良いことを語り、告白していたのです。神の恵みと救いの御業についての告白だったと考えられます。ここに、神と聖徒の祝福の応答を見ることができます。神は聖徒たちに恵みを宣言されて祝福してくださいます。私たちを含む聖徒は、神の救いの御業と恵みを告白して神をほめたたえるのです。

52節 キリストの昇天は、弟子たちに悲しみをもたらすものではありませんでした。彼らはそこで先ず神を礼拝しました。それから、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰りました。非常な喜びという表現は、天使たちが羊飼いにキリストの降誕を告げ知らせた時に用いられたのと同じものです。キリストの昇天は、弟子たちに天国の命の希望と確信を与えました。ですから、彼らは神への礼拝の心を表さずにはいれれませんでした。ですから、彼らは何日も続けて共に神をほめたたえていたのです。使徒行伝1:13でも、彼らが集まって神の祈り続けていたことが記されています。それが一週間続いた後、ペンテコステの日が来ました。
  それまでの経過は次の通りです。キリストは過ぎ越しの祭りの時に十字架で死なれました。それから三日三晩墓の中におられました。そして、復活された後40日間、弟子たちに現れて、体に触れさせられたり、食事を共にしたりして、復活を証明しました。そして、昇天された後一週間経つと、ペンテコステ、五旬節、50日目の祭りの日が来るのです。
  ペンテコステは、収穫祭です。その日には、初穂が捧げられました。その日に、神は約束のものである聖霊を送ってくださいました。この出来事を通して、教会が誕生しました。キリストの宣教活動の初穂として、キリストに従う者たちが集められたと言えます。このことも、キリストによる律法の成就と見ることができるでしょう。このようにして。教会が創立されたのです。現代のクリスチャンである私たちも、その、キリストの体なる教会の一部です。

まとめ)
  キリストの最後の働きと、聖霊の降臨によって始まった教会の土台は、どういうものでしょうか。今回の聖書箇所を通して確認してみましょう。

1)ベタニヤの精神
  教会はキリストへの信仰に土台して建てられています。教会は、マルタのように、キリストをその人生に歓迎した者の集いです。彼らは、マリヤのように、キリストの教えに一心に耳を傾け、それを理解し、守ろうとするのです。彼らは、キリストと聖徒の復活を固く信じています。私たちは、それに加えてキリストの再臨と私たちが天の王国に迎え入れられることを信じています。これらの信仰が教会の土台です。

2)キリストの祝福と執り成し
  キリストは、弟子たちを祝福しながら天に上られました。永遠の大祭司であるキリストがいらっしゃるので、私たちはいつもその祝福と執り成しに与るのです。(ローマ8:34、へブル4:14-16、7:24-25、9:24参照) キリストの祝福を通して初代教会は生まれました。キリストは今も私たちのために執り成しの業をしていてくださいます。キリストの贖いの業による罪の赦しは、その祝福の中心的な要素です。これらによって教会は成り立っています。

3)継続的な礼拝と祈り
  キリストの祝福に応答して、非常な喜びをもって弟子たちは礼拝をし、祈っていました。ご命令に従って都に留まり、約束のものを待ち望みました。彼らは、キリストが昇天されるとき与えられた、大宣教命令を実行するための導きと力をも祈っていたことでしょう。彼らは、迫害に遭うことを知っていました。ですから、このような祈りの段階が、教会の誕生のためには必要だったのです。現代の教会も、同じ継続的礼拝と祈りの土台の上に建てられなければなりません。私たちも、キリストの証人として神の力をいただくために、いつも祈りましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2022年6月19日

2022-06-19 19:12:12 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:1テサロニケ 2:1 - 12
説教題:福音宣教の在り方

導入)
  1章では、テサロニケのクリスチャンが他の教会の模範になったことが示されていました。今回は、パウロの宣教チームのふるまいについて述べられている箇所です。これは、パウロ達はテサロニケの教会の人々の上に権威をふるい、お金をせしめようとしているという噂・非難が存在し、それに対する弁明を述べたものではないかと考える学者もいるよです。一方で、パウロの記述には、宣教チームのふるまいを律した福音の価値観が反映されている読み取れるように思います。パウロ達のふるまいを通して、然るべき福音宣教の在り方を読み取ってみましょう。

本論)
1)福音は大胆に語られなければならない(1節-4節)
  1節は、パウロのテサロニケでの宣教が実り有るものであったことを示しています。「むだ」と訳された語は、実りが無い、効果的ではないという語感があります。それが無いのですから、彼らの宣教は効果的で実りが有り、テサロニケの教会の設立につながったのです。
  2節では、迫害の中でも宣教が続けられたことが示されています。ピリピで酷い目にあったのですが、気落ちすることなく大胆にテサロニケでも宣教しました。ピリピでは、女奴隷から占いの霊を追い出したことで、訴えられ、取り調べもしないうちに鞭打たれて投獄されました。しかし、このことを通して看守の一家が信仰を持ち、ピリピの教会が始まりました。パウロ達は、翌日にはテサロニケに移らなければなりませんでした。そして、そこでもユダヤ人がパウロに反対して暴動を起こしました。それでも、彼らは大胆に宣教しました。
  彼らの宣教の大胆さは、第一に、伝えている内容が人間的な知識や、人から利益を引き出そうとする不純な動機によるものではないというとこからきています。(3節)もっと言えば、福音宣教は、神から出ているのであり、神を喜ばせるために宣教しているので、大胆であることができたのです。(4節)

2)福音は神の栄光のために語られなければならない(5節-9節)
  ここでは、先に3節、4節で述べたことを違う表現で繰り返して、人を喜ばせるためや、自分の利益のために宣教したのではないこと、神がそのことの証人であることを強調しています。それを土台として、パウロは6節で、彼は神に栄光を帰するために宣教していることを述べます。名誉と訳されている語は、栄光、誉という意味が有り、多くの場合は神の栄光を指して用いられています。また、自分の使徒としての権威を主張しなかったことも、神の栄光を帰した行動と言えるでしょう。使徒の権威を主張すれば、テサロニケの信者たちが、パウロ達を崇め称えるような雰囲気が生じたかもしれません。しかし、彼らは、イエスの教えを実践して、神に栄光を帰したのです。(マタイ20:25-28参照)
  彼のそういう実践は、子供を養い育てる母親のような優しさにつながりました。優しさを表した語は、元来成人に達していない意味で、謙遜なことを表すのに用いられています。また、それは、テサロニケの信者への深い愛情につながりました。(8節) いのちと訳された語は、心や魂を表す言葉でもあります。翻って、テサロニケの信者たちも、使徒たちの労苦を覚えて、愛による応答をしていたと考えることができます。覚えると訳されたごは、単に記憶しているということではなく、意識的に心に留めることを表すものです。

3)福音は、神にふさわしい生活に導くために語られなければならない(10節-12節)
  12節のまとめがこのことを表していると思われます。福音の内容とつながる三つの行動が分詞で述べられています。一つ目は、勧めるということです。熱心に勧める、さとす、という意味が有ります。悔い改めを勧める福音の働きにつながります。二つ目は、慰めるということです。罪の赦し、天国の希望が福音における慰めです。三つ目は、命じるということです。福音は、キリストの教えに従うように命じます。これらの三つの行動の目的は、神にふさわしく歩むということです。パウロの宣教チームは、そのような、そのような歩みの模範でもあったのです。


まとめ)
  私たちが福音宣教に直接携わることはあまり無いかもしれません。それでも、自分の信仰はどのようなものかを説明する機会はたまに有ることでしょう。そのような時にも、これらの原則を思い出すのは有効なことです。

1)福音は大胆に語られなければならない(1節-4節)
  人には選択の自由や思想信条の自由が有ります。決定権は相手に有ります。しかし、説明をする時には、それが自分の考え出したものではなく、神の啓示によることに信頼をして、大胆に説明できるように備えていましょう。

2)福音は神の栄光のために語られなければならない(5節-9節)
  私たちは、賞賛されればうれしくなります。しかし、承認欲求に飢えているようではいけません。信仰の話をする時は、神に栄光を帰する態度でしましょう。自分の聖書的知識を誇るような気持ではいけません。

3)福音は、神にふさわしい生活に導くために語られなければならない(10節-12節)
  信仰の歩みは、継続的なものです。個人の信仰の歩みにおいても、勧め、慰め、命じるという内容を繰り返し意識されなければなりません。それによって神にふさわしい生活に導かれていくためです。それが、私たちが聖書を読み、日曜礼拝を守ることを重要視しなければならない理由です。ですから、時間や移動手段が有る時に、日曜礼拝を休まないでください。また、互いに勧め合って歩みましょう。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2022年6月12日

2022-06-12 17:51:05 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:1テサロニケ 1:1 - 10
説教題:キリストに倣う教会の現れ

導入)
  テサロニケの教会は、パウロの第二伝道旅行の実です。この教会からパウロへの質問が有ったので、それに答えて書かれたと考えられます。キリストの再臨がその焦点であったようです。この書簡には再臨への言及が多いからです。1章でパウロは神への感謝とテサロニケ教会への賞賛の言葉を述べています。私たちもどのようにテサロニケの教会に倣うべきかを見てみましょう。2節から10節までは、一つの文ととらえることもできるものになっています。

本論)
1)信仰・希望・愛を実践する教会(3節)
  パウロは祈りの中でテサロニケの教会を、信仰・希望・愛が実践されている教会として覚えています。信仰の働きにおいて、働きと訳された語には、内側に有る熱望、意図、目的を実行に移すという感覚が有ります。クリスチャンの内側に有るのは、キリストの教えとそれに従順したいという思いです。そのことが彼らの実践に反映され、見て取れたのでしょう。愛の労苦において、労苦と訳された語には、痛みや悲しみを伴うこともある骨折りという感覚が有ります。私たちの愛の労苦はそのようなものでなければならず、特に、他の人をキリストに導くという労苦に現れるべきものではないでしょうか。伝道したい人のために祈り続けること、企画を立てること、文書を渡すことなどが含まれるでしょう。彼らは、また、キリストにある希望に基づく忍耐で覚えられていました。忍耐と訳された語には、何かを待ち望む上での不動の忍耐という感覚が有ります。その望みはイエス・キリストに基づいていますから、永遠のいのち、天国で受ける報酬と相続ということになります。その望みを明確に持って、教会は迫害に耐えたのです。この望みは、先の信仰と愛の実践にも力強い後押しになったことでしょう。

2)神の選びを心に留める教会(4節-5節)
  パウロはテサロニケの教会の人々を、神に選ばれた人々として記憶していました。パウロは、彼らを神に愛された人々と呼びかけています。神の選びを確信させる状況は幾つか挙げられます。パウロは、これまでの伝道で激しい反対にしばしば遭ったのですが、テサロニケの人々は福音を受け入れました。神が力と聖霊の働きを通して彼らに福音が確かな教えであるという確信を与えてくださいました。神はまた、パウロ達の行動を模範として用いられ、神を敬う生き方がどのようなものであるかをお示しになりました。そのような神の選びの恵みを思い起し、また、テサロニケの教会の人々にも思い起こさせようとして、彼の捧げる感謝の祈りの内容として言及しているのでしょう。詩編の記者が、度々神がしてくださったことを思い出すように勧めているように、私たちも、神がどのようにして私たちを信仰に導いてくださったかを思い起こして感謝するべきなのです。

3)キリストに倣う教会(6節-8節)
  この部分は、テサロニケ教会の人々への神の選びについての、彼の確信の理由の記述の一部です。彼らは神に選ばれ、その目的、もしくは結果は、パウロ達という信仰の良い模範に倣う者になったことです。パウロは使徒でした。使徒という語は、主人の言葉を忠実に伝える伝令という意味が有ります。ですから、パウロに倣うということは、キリストの教えに従うということであり、キリストに倣うことになるのです。天の父なる神の言葉をキリストが弟子たちに伝えたように、パウロはキリストの教えを人々に伝え、テサロニケの信者はその福音の言葉を聖霊の喜びをもって受け入れたのです。
  聖霊の力は、彼らを他の信者の模範となるように奮い立たせました。ここで用いられている動詞の形は、彼らが自ら進んで模範になろうとしたことを示していると考えられます。そして、彼らの在り方は、実際に模範となりました。それは、クリスチャンの商人たちによって、彼らの様子が他の都市でも語り伝えられたからです。テサロニケは、ペロポネソス半島の商業ルート上に有りました。それで、テサロニケの教会を訪れたクリスチャンの商人たちが、ピリピ、コリント、ひいては小アジアのエペソなどで、自分の見聞きしたことを伝えたのだと考えられます。私たちの教会も、この地域で、そのような働きのできるものでありたいものです。

4)証を分かち合う教会(9節-10節)
  人々というのは、マケドニア、アカヤ地方でテサロニケの教会の噂を聞いた人たちです。パウロとの出会いから始まって、どのように回心して、どのように固い信仰を持つようになったかということを、行った先の教会で伝えたということです。テサロニケのクリスチャンが最初に証をし、それを聞いた人が他の教会にもそれを伝えたのです。
  彼らの回心とは、偶像から真の神に立ち返ったということです。真の神でないものに頼って生きるなら、それが富や名声であっても、偶像礼拝です。
  10節の記述から、彼らのキリストへの信仰がどのようのものであったかがわかります。1)イエスが神の御子であること、2)イエスが人類を罪から救うために十字架で死なれたこと、3)イエスは死からよみがえって、神の御子であることを証明し、救いの業が確かなものであることを示したこと、4)救いには、父なる神の怒り、すなわち裁きから免れることが含まれていること、5)イエスの再臨の信仰と希望を持っていること、これらのことが読み取れます。それは、使徒信条に含まれていることです。
  私たちも、私たちが何を信じているのかを、互いに理解し合っている必要が有ります。必要なら、身の回りに有る文書、書籍なども用いて、互いに、また教会の外の人にそれを分かち合うのです。

まとめ)
  全ての教会がキリストに倣う教会として立っています。父なる神が、「これは私の愛する子、これに聞け。」と仰せられた、御子イエスの教えとご命令に従うことでそうすることができます。それが、テサロニケの教会でどのように現わされたかを再確認しましょう。

1)信仰・希望・愛を実践する教会(3節)
  私たちは、意識的に信仰を働かせているでしょうか。私たちは、互いに愛し合い、人々の救いのために祈っているでしょうか。私たちは、天国の希望を告白して、この世の生活の苦しみを耐え忍んでいるでしょうか。

2)神の選びを心に留める教会(4節-5節)
  神に選ばれたことを意識し、感謝しているのでしょうか。神がどのように私たちを信仰に導き、確信を与えてくださったかを、頻繁に思い出すようにしているでしょうか。あなたの人生で主がしてくださったことの全てを心に留めるようにしましょう。

3)キリストに倣う教会(6節-8節)
  私たちも神に倣うものになるように選ばれました。そのために、私たちも神のみ言葉を聞き、受け入れて行動しなければなりません。聖書を読んでください。あなたより後から信仰を持った人々のために、進んで良い模範となるように心がけてください。
 
4)証を分かち合う教会(9節-10節)
  信仰を持っている人でも、そうでない人でも、どのように自分が信仰に導かれたか、キリストをどのように理解して信じているのか、ということを伝えるようにしましょう。そこには、再臨と天国の希望も含まれていることが大事です。使徒信条の内容にも馴染んでいてください。  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2022年6月5日

2022-06-06 00:18:46 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:詩編34:1 - 22
説教題:神のすばらしさを味わう方法

導入)
  詩編34編には、少し長い前書きが有ります。ダビデがアビメレクの前で狂人のふりをした時に書かれた詩編だということです。1サムエル21:10 -15に記録されている出来事です。アビメレクというのは、アブラハムの時代からペリシテの王の肩書として用いられていたもので、実際の名前はアキシュでした。ダビデは、サウル王に命を狙われていることを知って、アキシュの所に逃げて行きました。ペリシテにとって、ダビデは大敵であったはずなのに、どうしてそういう選択をしたのでしょうか。一つの可能な説明が有ります。サウル王は周辺の国々を抑えていたので、そちらの方に逃げると、捕まってサウル王に差し出されてしまうかもしれないと思ったので、むしろ、サウル王に従わない強国に行く方が助かる見込みが有ると考えたのだというものです。ゴリアテを倒した時は、まだ少年でしたが、この頃には大人になっていて、見分けられないと思ったのかもしれません。しかし、彼の期待は裏切られ、ダビデだと言われたので、狂人を装って難を逃れたのです。その時の彼の恐怖は大変なものであったと思われますが、神の助によってアビメレクに追い出され、別に隠れ場を見つけました。ダビデは神に感謝して詩編を書きました。人間的な知恵で行動したことを反省していたかもしれません。彼の告白と賛美から、神のすばらしさを味わう方法を見てみましょう。

本論)
1)あらゆる時に神をほめたたえる  
  1節でダビデは、そう告白しています。それは、1テサロニケ5:16-18に通じるものが有ります。サウル王に命を付け狙われ、ペリシテに殺されるかもしれなく、洞穴に隠れて一人で生活しなければならないような時に、ダビデは意識的に神をほめたたえる決断をしているのです。彼は、そのように自分に言い聞かせることによって、自分を鼓舞したのでしょう。また、隠れていたダビデの所に集まってきた人たちにも、同じようにすることを勧めているようです。(2節、3節)
  どうして、彼はそうすることができたのでしょうか。それは、彼が神を求めた時に、神が応えてくださるという経験をしたからです。4節は明らかにダビデが感じた恐怖を表しています。しかし、神は答えて、彼を救い出してくださいました。また、ダビデの呼びかけに従った人々も、同様な恵みを経験しました。(5節)ダビデは、繰り返し、神が聞いてくださった、救ってくださったと告白しています。「すべての苦しみから救われた」と告白しています。ですから、死の恐怖ばかりではなく、生活の心配や思い煩いからも救ってくださったということになるでしょう。
  7節の表現は興味深いものです。主の使いは、単数形です。しかし、そのみ使いは、主を恐れる者の「回りに」陣を張るというのです。それほど、主の使いは大きくて強い霊的な存在だということでしょう。そして、多くの場合、「主の使い」というのは、神の顕現だと考えられています。私たちにとっては、それはイエス・キリストということになるのです。イエスが私たちを守るために陣を張る様を想像してみてください。それが、神の恵みと守りのイメージなのです。それが、あなたがあらゆる場合に神をほめたたえる決心をすることの結果なのです。

2)神を恐れ、悪を離れる
  ダビデは人々に神を恐れるように呼び掛けています。(9節)その理由は、神が養ってくださるからです。猛獣であるライオンでさえも、獲物が取れないで飢えることが有ります。獅子は、強い人という理解もできるそうです。ダビデは強い兵士でした。しかし、神の助けなしには食物が不足して飢えるということを、洞穴で生活する時に感じたのでしょう。
  神を恐れることの具体的な表れとして、悪口を言わず、嘘をつかないことが挙げられています。(13節)へブル13:15に示されているように、私たちの口から出る言葉は、神への捧げものの果実とならなければいけないのです。一方、神を恐れない者は滅びるのです。(16節)主を恐れることを勧める呼びかけは、洞穴にいるダビデの元に集まった人々にも語られたと思われます。(9節、11節)。

3)遜って神の赦しを求める
  ダビデは繰り返し神が私たちの声を聞かれ、すべての苦しみから救い出してくださると告白しています。(17節)この箇所では、18節に、救われる人々の条件が示されています。心が砕かれた者ということです。それは、絶望していると言う意味ではなく、神の前に遜って自分が無力であると認めている姿勢を示しています。そういう人は、19節では正しい者と表現されています。神はそのような人々の近くにいてくださるのです。(マタイ5:3参照)正しい者はどのようなことを神に求めたのでしょうか。それは、22節から考えることができます。敵から贖いだし、罪の赦しをいただくことです。ですから、イエスも、毎日祈るべき主の祈りで、罪を赦してくださいと祈るように教えておられます。

まとめ)
  ここで、主のすばらしさということに注目してみます。詩編34編に表れている主のすばらしさは何でしょうか。神が答えてくださること、祈りを聞いてくださること、救い出してくださること、守ってくださること、近くにいてくださること、養ってくださること、贖い出して赦してくださることが、繰り返し示されています。そのような主のすばらしさを味わいたいとおもいませんか。その方法は。

1)あらゆる時に神をほめたたえる
  ダビデは死の恐怖を味わいました。サウル王やペリシテ人に殺されるかもしれませんでした。洞穴で一人で生活しなければならない時も有りました。それでも、彼は、あらゆる時に神をほめたたえることに心を決めたのです。その模範に倣いましょう。

2)神を恐れ、悪を離れる
  この実践の例を13節で確認しました。同様の原則は、ヤコブ3:8 – 10にも出てきます。不信仰な言葉も口から出すべきではないでしょう。エペソ4:29は、更に進んで、人の徳を建てる言葉を話すようにと命じています。

3)遜って神の赦しを求める
  私たちは自分を救うことはできません。救いということに関して、私たちは無力なのです。そのことを自覚した時、私たちに残された方法は、神の前に遜って出て行くことしか有りません。私たちが神に赦しを求める時、それは、私たちが神の基準に達することが無い者であり、神だけが私たちを救うことができることを告白していることになり、それが神への賛美になっているのです。私たちの悔い改めは、神をほめたたえていることになります。

  最後に主のすばらしさを味わうということを考えてみます。味わうと言う場合、私たちはただ食物や飲み物を口に入れて直ぐ飲み込むということはしません。時間をかけて、味や香りを確かめるのです。同様に、神のすばらしさを味わう、見つめるために、私たちは時間をかけなければなりません。確認した三つの原則を思いめぐらし、実践することが、神のすばらしさを味わう方法です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする