パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2022年3月13日

2022-03-13 23:00:36 | 日記
礼拝音声

聖書箇所:マタイ16:1 - 12
説教題:パリサイ人とサドカイ人のパン種に気を付けなさい

導入)
  直前の15章では、イエスは異邦人の地方に行かれて、四千人の給食の奇跡をおこない、神の恵みは異邦人にも届くことを示されました。15章39節を見ると、イエスの一行はユダヤ人の地域に帰って来たことが分かります。そこにやって来たのは、パリサイ人とサドカイ人でした。彼らの持っていた問題点をさぐってみましょう。

本論)
1節 異邦人の地方では歓迎されたイエスでしたが、同胞であるはずのユダヤ人の地域に戻って来た時には、敵意を持った人たちに出会うことになりました。パリサイ人とサドカイ人が、イエスをためすためにやって来たのです。パリサイ人は律法主義で、モーセの律法だけではなく、後に付け加えられた律法にも熱心でしたが、偽善者とイエスの呼ばれていました。サドカイ人は、かなり裕福な人たちで、享楽主義的でしたし、神が人間の日常生活にも関わっておられるということを認めない人たちでした。この二派の人たちは、互いに敵対しているような関係でしたが、示し合わせてイエスをためすために一緒になってやって来たのです。ためすと訳された語は、粗探しをすることを試みるという意味の語です。その方法は、天からのしるしを求めるということでした。旧約聖書の天からのしるしの例を挙げれば、天から火が下る(1列王18:36-38参照)、稲妻と雹を降らせる(出エジプト9:22参照)太陽が動きを止める(ヨシュア記10:12 – 14参照)などが有ります。彼らは、そういうしるしを求めることによって、イエスがそれまでになされたしるしとしての奇跡を拒絶したことになります。癒しなどよりももっと壮大なしるしを見せろと要求したことになります。彼らの魂胆は、どんなしるしを見せても、そんなしるしでは不十分で、イエスはメシアではないと否定することであったと思われます。悪魔の力で奇跡をおこなっているのだと言いがかりをつけることもできたかもしれません。イエスはしるしとしての奇跡を行わず、警告をされました。

2節、3節 各地方に、その気候帯によって、様々な天気を読む方法が有ります。パリサイ人やサドカイ人も、空模様を観察して天気を予測することができました。しかし、彼らは、時のしるしを読むことができませんでした。それは、能力の問題ではなく、態度の問題でした。時のしるしというのは、メシアの到来のしるしを指します。旧約聖書に照らせば、イエスがなされた奇跡は時のしるしとして十分なものでした。バプテスマのヨハネにイエスが与えた回答がそのことを示しています。(マタイ11:4 – 6参照)しかし、彼らは頑固で、自己義認の姿勢のためにイエスをメシアとして受け入れることができなかったのです。彼らは、旧約聖書を重んじると言いましたが、旧約聖書の預言の成就であるイエスを受け入れませんでした。

4節 悪い、姦淫の時代という言葉が、パリサイ人やサドカイ人に向けて用いられています。彼らは悪い存在でした。神の御子であるイエスを支配しようとし、彼らの望み通りに動かそうとしたからです。彼らは姦淫の者でした。自分自身の高い地位を崇め、自身の権威や権力に頼っていたからです。それは、霊的な姦淫でした。
  ここで、ヨナのしるしを持ち出すことによって、イエスは彼らに警告を発しました。彼らにイエスの復活の知らせがもたらされた時には、彼らはイエスがメシアであることを受け入れなければならないのだ、と迫ったことになります。ヨナのしるしへの言及は、12:39 – 40にも出てきています。それは予め示され、且つ繰り返し述べられる大事なしるしでした。大魚の腹に三日三晩過ごした後、陸に戻されたヨナと同様に、死んで墓に葬られて三日目によみがえられるということは、もっとも強力な時のしるしでした。新約聖書の光によって見る時、ヨナはイエスの予表だと考えられます。大魚の腹から生還しましたし、異邦人に悔い改めを説くために神から遣わされました。イエスも15章等で確認した通り、フェニキアやデカポリスにも出かけています。
  この警告を残して、イエスは彼らを残して去って行かれました。マタイは、これまで、イエスの動作について、「退かれた」という表現を用いていましたが、ここでは「去っていかれた」という表現を用いています。それは、単に去るだけではなく、見捨てる、捨て去るという語感が有ります。より強い警告をし、尚且つ、彼らの頑な態度に見切りをつけたように理解することもできます。

5節―12節 弟子たちの問題については、2週前に扱いましたので、ここでは、「パリサイ人やサドカイ人のパン種」に焦点を当てて考えます。パン種は、イーストとも訳されることが有ります。パンがふくらむように入れるものです。旧約聖書の時代から、パン種は、否定的で悪い物事の象徴として用いられました。過ぎ越しの祭りでパン種を入れないで焼いたパンを用いなければならないのもその例です。ヘブル語では、パン種はハメツというような語が用いられ、酸っぱくする、苦くする、悪くなる(腐る)という意味にもなります。
  パン種の例えを用いることは、それを食べるという考えが含まれています。それを食べれば、味が悪いとか体調を崩すというような悪い影響が出るのです。ですから、イエスの弟子たちは、それを取り入れないように注意を受けたのです。最初は勘違いをしていた弟子たちも、イエスがパリサイ人やサドカイ人の教えを受け入れてはいけないということだと理解することになりました。
  パリサイ人やサドカイ人のパン種には、イエスの弟子たちの霊的な在り方をだめにする要素が有りました。その教えや態度を確認します。パリサイ人は、旧約聖書の律法だけではなく、伝統や口伝律法まで厳しく守らせようとしました。それを守ることが神の国に入る鍵でした。しかし、抜け穴のようなものも用意しており、それによって神の御心をないがしろにし、偽善的でした。サドカイ人は、死後の世界は無く、復活も無いと言っていました。(黄泉の存在は認めていたようです。)また、天使や悪魔を含む霊的な世界を否定していました。これらの教えや態度は、神の御心と救いのご計画に反するものでした。更に、両方とも、霊的な頑なさや政治的日和見主義のためにイエスを拒絶していました。

まとめ)
  イエスは、パリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけなさいという警告を弟子たちに与えられました。それは、現代に生きるクリスチャンに対する警告でもあります。私たちが気を付けるべきパン種を、この箇所から考えてみましょう。

1)時のしるしを受け入れない心
  時のしるしとは、キリストの到来を示すしるしのことです。皆さんは、イエスが旧約聖書の預言の成就であることを信じているでしょうか。イエスの処女降誕、死と復活を信じているでしょうか。もし、それを否定する心が有れば、それが気を付けるべきパン種です。それが皆さんの信仰をだめなものにするのです。パリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけてください。

2)生活の霊的な側面を受け入れない心
  神は私たちを霊的な存在として創造されました。(伝道者の書3:11参照)皆さんは、死後の世界を信じているでしょうか。主の裁きの座の前に立つことになりますが、イエスへの信仰のゆえに罪に定められることはないということを信じているでしょうか。イエスへの信仰によって、神の国で永遠の命を持つことを信じているでしょうか。それを否定する心が有れば、それが気を付けるべきパン種です。それが皆さんの信仰をだめなものにするのです。パリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけてください。

3)神の方法、様式を受け入れない心
  パリサイ人やサドカイ人は、神の与えられた時のしるしを受け入れませんでした。彼らは、物事が彼らの思うような形で起こることを望みました。神に信頼するのではなく、自分達の思うような方法で物事を支配しようとしました。自分達の権力を濫用して、自分達の正しいと思うように人々に行動させようとしました。しかし、彼らの理由付けは、神の御心を反映したものではありませんでした。皆さんには、実際は特に聖書の裏付けも無いのに、あることを正しいこととして他のクリスチャンに要求したりすることが時々有りませんか。それが皆さんの信仰をだめなものにするのです。パリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけてください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2022年3月6日

2022-03-08 23:42:17 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:創世記49:8 - 12
説教題:ヤコブによるメシア預言

導入)
  ユダヤ人の伝統によれば、旧約聖書に預言者は48人登場すると考えられています。ヤコブはその一人に数えられています。神の御心を後の人に伝えたからです。その中でも、ユダに対する祝福の祈りに表れているメシア預言は重要なものです。キリストの降誕の1885年程前にヤコブを通して与えられた預言を見てみましょう。

本論)
8節 ユダという名前は、ほめたたえられるという意味が有ります。(創世記29:35参照)ヤコブはここで、イスラエルが約束の地を征服する時のユダ族の勇敢さと力を予告しています。士師記1章を見ると、最初にユダが出陣するように神が指名しています。敵の首に手や足を置くのは、服従させたという象徴的行動です。8節は、少し違った言葉で同じことを述べる繰り返し表現で、他の部族がユダ族を賞賛することを予告しています。この預言は、更にダビデ王の時にも成就しました。この記述は、別のメシア預言である詩編101:1を思い起させます。イエスは、死とよみに勝たれた方です。サタンの支配から私たちを解放してくださいました。
9節 獅子、ライオンは王権の象徴です。王家の強さが表現されています。そして、イエスは、黙示録5:5では、ユダ族の獅子と呼ばれています。因みに、ダビデの町はアリエル(神の獅子)と呼ばれていました。
10節 王権はユダを離れずと訳されていますが、実際は、王笏を意味する言葉が用いられています。笏も杖も王権と指導者の象徴です。ついにシロが来て、という記述が続きます。このシロは地名ではありません。平和とも訳せる言葉ですが、広くメシアを意味すると理解されています。ユダヤ教のタルグムでも、この部分は、「王なるメシアが来るまで」という解釈が示されています。イエスが来られて福音を伝えられた後、ユダヤ人も異邦人もイエスを救い主として受け入れてひれ伏しました。再臨の後には、全人類がイエスにひれ伏すことになります。ですから、国々の民は彼に従うという預言がその時には完全に成就するのです。
11節‐12節 この二つの節が基本的に述べていることは、メシアの治める国の反映です。ロバが出てきます。ロバはブドウの収穫を運ぶために用いられました。雌雄のロバとその子供が表現されていますから、家畜の多産なことも示唆しています。ブドウの収穫が大変豊であるために、メシアはその外套をブドウジュースで洗う程だという誌的な表現がされています。12節は、意味が不明瞭な部分が有るということですが、ブドウも乳も豊な状態であることを示しています。エジプトを出たイスラエルの民に対して、約束の地となったカナンは、「乳と蜜の流れる地」と形容されました。蜜は、ミツバチの生産するハチミツだけでなく、主に、煮詰めたブドウジュースに対して用いられた言葉でした。
  11節の表現は、ワインやブドウジュースに浸かったメシアの外套のイメージは、後には神の怒りと裁きのイメージへと変容していきました。(イザヤ63:1 – 4、黙示録19:11 – 16参照)メシアは、神の民に解放と祝福をもたらします。同時に、その日には、この世への裁きももたらされるのです。
まとめ)
  ユダは、イエスの予表だとされています。それは、ベニヤミンをエジプトに連れていかなければならないことを語る場面で、もしベニヤミンを無事に連れ帰らなければ、自分が一生その罪を負うと宣言したところに表れています。そして、エジプトでベニヤミンが取られそうになると、その約束を持ち出して、交渉します。実際には自分の罪ではないことを、自分の罪として負おうとする所に、イエスの罪の身代わりの十字架の死を見るのです。(創世記43:8 – 9, 44:32 – 33参照)

さて、この聖書箇所から、何を読み取ることができるでしょうか。

1)イエスは信頼することのできるメシアです
  ユダに対するヤコブの祈りの言葉は、イエスの状況に合致しています。1885年も後に来るメシアの様子をきちんと預言しているのです。メシアは、私たちをサタンの責め、死と地獄から解放してくださいました。信頼するべき方です。

2)イエスはずべての賛美を受けるべきお方です 
  イエスが賛美を受けるべきなのは、すべての敵に勝利されたからであり、神と王としての権威の故であり、神の民への愛と恵みの故であります。罪の重荷から解放され、神の恵みと養いの中に生きています。私たちの感謝と賛美が常にイエスにささげられるべきです。

3)イエスは最後の審判で世を裁かれるお方です
  イエスの裁きは、私たちにとっては慰めとなるものです。神の民を迫害したものが裁かれ、正義がなされるからです。神の民は、イエス・キリストへの信仰の故に、神と和解し、神との平和を保っています。私たちは罪に定められることはないのです。そして、神の御国で受け継ぐ報酬が有るのです。私たちには、最後の審判の更に向こうに希望が有るのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする