パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2021年6月27日

2021-06-27 21:14:59 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:ヤコブ1:1 - 8
説教題:成熟と完全を目指すために

要約
  ヤコブは、ステパノの殉教の時に国外に散らされたユダヤ人クリスチャンに向けてこの手紙を書いていると考えられます。しかし、その内容は全てのクリスチャンに当てはまることです。この箇所では、成熟と完全を目指すために、三つの指示がなされていると考えられます。

1)試練をこの上もない喜びと考えなさい(2節-3節)
  その理由は、信仰が純粋なものであることが証明されて、困難な状況にあっても耐えていく能力や許容量が増していくからです。純粋な信仰は、私たちの主にある自己認識と尊厳を確かなものにし、悪口雑言を言われても動じないようになるのです。キリストが私たちをご存知だということ、迫害はキリストのゆえであることを思う時、それ以外のあらゆる困難をも含めて、それらをこの上もない喜びに変えていくことができるのです。

2)忍耐を完全に働かせなさい(4節)
  信仰による忍耐を完全に働かせるというのは、その結果を見るまで耐え忍ぶということでもあります。純粋な信仰と忍耐は直接的につながっています。忍耐を働かせるということは、信仰を働かせることでもあるのです。その結果、私たちは成熟して完全な者になるのですが、その意味するところは、神の目にしみも傷も無い者としてみていただけるということです。キリストの似姿に成長していくということでもあります。(ヨハネ16:33、ローマ5:1 – 5 参照)

3)神からの知恵を求めなさい(5節-8節)
  上記の二つの指示を守るのは必ずしも容易なものではありません。だから、それに従うための知識や能力が必要になります。それがここで言う知恵です。それを神に祈り求めるのです。条件が有ります。疑うことなく祈るのです。疑うと訳された語は、ある物事を真実ではないと考えるという意味が有ります。私たちが、神を信じているのに、祈りに応答していただけるだろうかと不安になるのとは違った意味です。しかし、そのような不安を持っていても、神への信頼と信仰が純粋であれば良いのです。アブラハムは息子が与えられることに懐疑的でしたが、ローマ4:20では、信仰の人として言及されています。
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日曜礼拝 2021年6月20日

2021-06-20 17:26:00 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:コロサイ2:16 - 23
説教題:三つの危険なクスリ

オリンピックなど公式な競技会に参加する選手は、ドーピング検査を受けなければなりません。結果が違反薬物に陽性となると、資格が剥奪されてしまい、出した記録も無効になります。パウロは霊的な歩みを競技に例えることが多くありますが、ここでは、違反となる薬物を使わないように警告するコーチのように、間違った霊的な教えを避けるように警告をしています。それを違反薬物に例えて確認してみます。

クスリ1:律法主義
食べ物、飲み物や祭りは旧約の律法の規定です。しかし、イエス・キリストもパウロも、食べ物は問題にならないことを述べています。(マルコ7:19、1コリント8:8 参照)偽教師は、ナジル人の規定を一般のクリスチャンにまで適用して、葡萄酒を飲まないように教えることもしていたようです。また、過ぎ越しなどの毎年の祭り、毎月の新月祭、毎週の安息日を守ることも偽教師は教え、そこに誇りを見出していました。しかし、パウロはそのようなことで誰にも批評させてはならないと言っています。それらは来るものの影であって、本体ではないからです。本体はイエス・キリストです。誰かを歓迎する時に、本人ではなく影に挨拶したりしません。そんなことをしたら、相手を歓迎するどころが侮辱していることにならないでしょうか。私たちは本体であるイエス・キリストとその恵にだけ目を留めていれば良いのです。

クスリ2:神秘主義
ここで言う自己卑下は、天使礼拝と直接関係有ることです。偽教師は、私たちは神の前に出る資格の無いものであるから、謙遜に天使に取り次ぎをしてもらわなければならないと教えました。そして、取り次いでくれる天使を崇拝することになるのです。しかし、私たちは恐れることなく神のみ前に出ることができるとヘブル4:16には書かれています。矛盾することに、そのような謙遜を教えながら、偽教師は天使と関係が有るとか幻を見たというようなことを誇っていました。パウロは、そのような者たちにほうびをだまし取られてはならないと言っています。だまし取るという語は、本来資格の有る人物を判定して賞を剥奪するという内容の言葉で、誤審と言える内容になっています。そのような偽教師を拒絶するようにと警告しています。聖会に行ったら金粉が降ったとか、祈祷会で第三の天を見たとか、霊的な存在である天使の羽が降ってきたなどといって喜んだり誇ったりすることもこのクスリの中毒・依存状態といえます。

クスリ3:禁欲主義
21節に禁欲的指示が示されています。すがる、さわるという二語は同義語で、相互に言い換え可能な感じになる語です。関係や交流の意味が有るということです。それを禁止するということは、夫婦関係を禁止したり、未信者との交流を禁じたりしたようです。味わうというのは食べることで、質素な食事や断食を奨励したのかもしれません。パウロの警告は、どうしてそのような定めに縛られるのかという疑問の形で提示されています。偽教師が禁じたことは、実際には神の祝福であったりします。人間の知恵や業で霊的により良くなることはできません。

パウロは23節で上記の三つのクスリを繰り返し提示して、それらが無意味で無価値なものであると締めくくっています。このような霊的なクスリに溺れるのは、霊的に成長したのではなく、退行したのです。それこそ、キリストの義を捨てるような行為であり、危険な行為です。このようなクスリに引っかからないようにしましょう。
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日曜礼拝 2021年6月13日

2021-06-13 18:11:15 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:コロサイ 2:6 - 15
説教題:キリストにあって歩み続ける

1)私たちの目指すものを認識してキリストにあって歩み続ける
ヘブル12:2には、「 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。キリストの内に、神の満ち満ちたご性質が宿っており、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。私たちがキリストに根差し、建て上げられて、信仰を堅くすることによって、感謝に溢れるようになることを目指して歩み続けるのです。

2)私たちがキリストにあって何者であるのかを認識してキリストにあって歩み続ける
神の恵みによって、私たちはキリストにあって完全な者とされました。私たちが神に自身を明け渡した時、神は私たちの罪の性質を取り除き、キリストにあって義としてくださいました。罪をなんとも思っていなかった私たちを、神の教えに従って行きたいと思う者に変えてくださったのです。私たちは主と共に死に、主と共によみがえらされるのです。私たちは主の目に義とされ、キリスト共に神の国の相続者です。

3)神が私たちのためにされたことを認識してキリストにあって歩み続ける
私たちが罪の内に死んでいた時でさえ、神はキリストの福音を私たちに届けてくださいました。神は私たちの罪の性質を取り除き、私たちを罪の宣告から解放し、サタンと律法からの告発から解放してくださしました。神はサタンと死の支配を私たちから取り除かれました。イエスはその復活と昇天によって、その勝利を証明されました。
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日曜礼拝 2021年6月6日

2021-06-06 18:12:05 | 日記
礼拝ビデオ

聖書箇所:ハバクク3:1 - 19
説教題:しかし、私は私の救いの神にあって喜ぼう
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