パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2022年10月30日

2022-10-30 22:16:34 | 日曜礼拝
礼拝音声は有りません。英語部、日語部合同礼拝でした。

聖書箇所:詩編126:1-6
説教題:喜びの歌(の背景)

導入)
  5節、6節は、教会の宣教やリバイバルに関連付けて引用されることが有ります。それがこの詩編の示すところなのかは、一度よく考えてみる必要が有ります。
  この詩編は、都上りの歌という副題がついています。120編から134編までの15の詩編に同じ副題がついています。これらの多くは、バビロン捕囚から帰還が許された後に書かれたもので、エルサレム巡礼の時に、特定の場所に来ると歌われたということです。
  それでは、この詩編の伝えようとしていることを確認してみましょう。

本論)
1節―2節前半 エルサレムへの帰還が許されて、まるで夢見る人のようだったという表現がされています。その部分に脚注がついている聖書も有り、健康が回復された人とも訳せるものだそうです。言い換えれば、理想的な状態に回復されたという理解になります。ユダヤ人にとっては、エルサレムの神殿で礼拝ができるということが、営巣的な状態の回復と言えるでしょう。彼らには、笑いと喜びの歌が有りました。70年もの間待ち望んでいたことが実現したのですから。

2節後半―三節 先ず、非ユダヤ人が、神のなされた回復の業について証言し、次に、ユダヤ人が同じ内容の告白をして確認するという流れになっています。神のなされた偉大な業というのは、クロス王が捕囚の民の帰還を許したということです。このことは、イザヤ45章に預言されています。ここでの彼らの喜びは、故国の土を踏んだということです。そして、エルサレムで自由に神を礼拝することができるということです。

4節 この部分は、祈願文、祈祷の文になっています。捕囚期間中のユダヤ人の祈りとも、帰還したユダヤ人がまだバビロンにいる同胞を思っての祈りとも考えることができるようですが、後者を支持する学者が多いようです。いずれにしても、祈りが大事であるという原則は同じです。
 ネゲブという言葉が出て来ます。ワジというタイプの川で、ユダヤ南方を流れていたようです。ワジは、乾季には干上がって、川床に藪が生えるそうです。しかし、春の雪解けの時には、とうとうと水の流れる川になります。それを、豊かさの象徴として、彼らは、私たちに豊かな繁栄をください、また、もっと多くのユダヤ人が帰還して共に礼拝ができますように、という思いを込めて祈ったと考えられます。

5節―6節 導入で取り上げた部分です。涙、泣くという表現は、何を示しているでしょうか。彼らは帰還を果たしましたが、70年も放置された田畑からは、良い収穫を得ることができなかったと思われます。また、干ばつに見舞われることもあったと思われます。そすると、家族が飢えることになります。彼らに食事をさせたいと思っても、手元に残っているのは、来年の収穫のために畑に蒔かなければならない種もみだけだったりするのです。うまく行けば、来年は30倍から60倍の収穫が見込めます。しかし、そのためには、家族を飢えさせることになります。て悲しい事ではありませんか。ですから、彼らは涙と共に種を蒔くことになるのです。しかし、神の守りと養いによってその期間を耐え忍ぶと、刈り取った収穫の束をかかえて、喜び叫びながら帰って来ることになるのです。
  
まとめ)
  この詩編には、喜びの歌を表す言葉が三回出て来ます。(2節、5節、6節)この喜びの歌の源は何でしょうか。1)捕囚からの帰還、もしくは、巡礼の喜び。2)神に礼拝し、祈れること。3)困難な期間の後の豊かな収穫、等が考えられます。
  この詩編は、回復と喜びの歌という流れが1節―3節、4節―6節と繰り返されます。そして、この詩編の中心に、4節の祈りが挟まれています。祈りこそが、私たちの生活と私たちの喜びの原則だということです。この詩編は、礼拝の回復、霊的な回復と同時に、収穫という物質的な回復についても言及しています。祈りは、この二つの回復をもたらすのです。神は、私たちの霊的な必要と物質的な必要の両方を満たしてくださる方です。最初に提起した5節、6節は、リバイバルよりは、物質的な必要が満たされることの描写だったことが判りました。このような理解を深めることも大事ではないでしょうか。
  ユダヤ人に喜びの歌をもたらした祈りの要素は何でしょうか。
1)全能の神に祈ること。神以外のものを頼みとしないことです。
2)神に信頼して祈ること。苦しい時程必要なことです。
3)霊的必要と物質的必要の両方のために祈ること。神は、両方の必要を満たしてくださる方です。
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日曜礼拝 2022年10月23日

2022-10-23 22:31:45 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:1テサロニケ 4:13-5:11
説教題:希望の要素

導入)
  パウロは、3章11節で、テサロニケの信徒の信仰の不足を補いたいと言っています。今回の聖書箇所は、パウロが急いで補いたいと思っていた不足部分として書いたものの一部ではないかと思われます。4章13節から察すると、彼らは、主の日、再臨の日に生きているクリスチャンだけが復活するという主張に触れて混乱していたのではないかと思われます。パウロは、キリストに在る希望はどういものかを、思い起こさせようとしています。この箇所で示されている希望の要素を、確認してみましょう。

本論)
1)希望の知識
  14節で、パウロは重要な希望の土台となる原則を示しています。キリストの死と復活は、キリスト教の中心的な教義の一つです。キリストの復活には次の三つの意義が伴います。1)キリストは神の御子であることを示すこと。本当に神の御子であれば、死んで滅びてしまうことは有り得ないのです。2)キリストは旧約聖書の預言の成就であることを示すこと。3)キリストはキリストにあって死んだ者たちの初穂であること。(1コリント15:20-22参照)それは、キリストの復活と同様に、我々も死後の復活を経験するということです。パウロは、このことを、1コリント15:3-4でも、「最も大切なこととして伝えた」ことの一部として示しています。初穂ということは、その後に続く収穫が有るということであり、キリストに続く復活をする人々がいるということです。
  希望の知識の続きとして、パウロは、主の日に起こる出来事の順序を説明しています。1)イエスキリストが天から下って来ます。号令とかラッパの響きというのは、キリストの勝利と聖徒が召集されることを示しています。2)キリストにあって死んだ者がよみがえらされる。3)生きている聖徒が天に携え上げられる。この記述は、既に亡くなっている聖徒はよみがえらないのではないかと思っていた人たちには、安心と慰めになったことでしょう。  

2)希望の適用
  キリストにある希望の知識は、テサロニケの信徒の中で肯定的に作用しなければなりません。18節でパウロが命じているように、先に説明された知識に基づいて慰め合うという実践が必要になります。慰めるという語は、励ますと言う意味も有ります。また、それは、「このことばをもって」、すなわち聖書的な知識を分かち合ってということになります。具体的には14節から17節のパウロの説明になります。そこに示されている私たちの信仰の希望の土台となる原則を心に留め、互いに励まし合うことが必要です。今日の私たちの実践としては、聖書を読み、集会や祈祷会の交流の中で励まし合うことです。パウロは、この命令を5:11でも繰り返しています。用いられている動詞は同じものです。更に付け加えて、「徳を高め合いなさい」という指示をしています。原文では、「建て上げる、人格を建て上げる、教化・啓発する、励ます」という意味を持つ語が用いられています。

3)希望に関する警告
  良い話には、警告が伴っている場合が多く有ります。パウロは、希望に関連する主の日、再臨についての警告をしています。テサロニケの信徒たちは、聖徒のよみがえりについては誤解をしていましたが、主の日の到来の有様については十分に理解していたようです。(5:2 参照)3節では、その到来を「滅び」と表現していますが、それは、信仰の無い人たちにとってそうだということです。4節、5節は、そういう人たちを霊的な暗闇、夜にいるという表現をしています。一方で、クリスチャンは、備えができている必要が有ります。目をさましているようにという警告が与えられていますが、どうしたら良いのでしょうか。答えは8節に出ています。先ず、愛と信仰にますます励むことです。(4:1、4:10参照)その実践が「胸当て」と表現されています。それが、クリスチャンの生活を守るのです。ローマ兵が用いていた胸当ては、首から腰までを覆うもので、殆どの臓器を守っていました。次に、信仰の希望の土台に目を向け続けるということです。それが、救いの望みをかぶととしてかぶるということです。思考の領域への、不信仰の言葉等の攻撃から守る姿勢を示しています。今回の聖書箇所から言えば、4:14や5:9の、よみがえりや救いの言葉をを思い起こして、不信仰、悲しみ、心配などを追い出すことになります。パウロは、「互いに」という言葉を繰り返しています。私たちは、一匹オオカミではないのです。私たちは、聖書の言葉によって互いに建て上げる者たちです。

まとめ)
1)希望の知識
  確認した、イエスのよみがえりと救いの教えは必須の知識です。キリストのよみがえりと、聖徒のよみがえりを信じていますでしょうか。救いと永遠にキリストと共に過ごすことを信じていますでしょうか。ベタニヤのマリアが、キリストに香油を注いだ時、イエス、この女のしたことは、福音が語られるところではどこででも覚えられると言われました。それは、マリアが復活の信仰を持っていたからです。私たちも同様に復活の信仰を保持していきましょう。

2)希望の適用
  キリストにある希望の知識は、私たちを力づけるものでなければなりません。私たちは、聖書の言葉によって、自分を、また、互いに励ましていかなければなりません。聖書の言葉は、初代教会の聖徒達が迫害に耐える力を与えました。

3)希望に関する警告
  私たちはキリストにある希望に深く根差した信仰生活をしなければなりません。パウロは、聖徒達に、ますます信仰と愛に励むように命じています。また、心に聖書の言葉を蓄えることを求めています。聖書の言葉によって、イエスによる救い、イエスのよみがえりと聖徒のよみがえりを、いつも思い起こしましょう。私たちの望みはイエスにのみ見出されるのです。
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日曜礼拝  2022年10月16日

2022-10-16 16:47:09 | 日曜礼拝
礼拝音声(聖餐式の間数分間ミュートされます)

聖書箇所:1テサロニケ4:1-12
説教題:ますます努めなさい

導入)
  パウロはこの手紙の冒頭から、テサロニケの信徒たちの信仰と愛の実践を誉めていました。先の段落では、なんとか再会して、彼らの信仰の欠けているところを補いたいという気持ちを表しています。この部分は、その欠けているところへの言及であるかもしれません。
  この箇所は、「ますます~してください」という表現で挟まれた構成になっています。(1節と10節)その基礎となるのは、神を喜ばす生き方ということです。彼は、新しい教えを伝えるのではなく、既に伝えた教えを思い起こさせて、「ますます~してください」と勧めています。どのように神を喜ばす歩みをすることを勧めているのか、確認してみましょう。

本論)
1)聖化のためにますます努める
  パウロは、この箇所に多くの言葉を割いています。聖くなること、というのは、ここにおいては、神の基準によって性的な不道徳から離れることを指しています。クリスチャンは、体を性的な不道徳のために用いてはなりません。神の御心に従った性的な関係を保つことが、聖いということであり、尊いということです。尊いと訳された語はは、価値が有るという意味もあります。聖書の規定するところの性的関係は、神の三位一体やキリストと教会の一致を示す部分が有るので、尊く価値が有るということです。
  パウロは、聖書的な基準の性的不道徳と、世間のそれとの違いを意識して、5節で、「神を知らない異邦人のように」という表現をしています。当時のギリシャ、ローマの文化では、売春婦や奴隷との性的関係は当たり前なことでした。そのため、旧約聖書の基準を守っているユダヤ人は、異邦人を性的に不道徳であると考えていました。テサロニケの信徒たちも出自としては異邦人なのですが、パウロは、このような表現をすることで、テサロニケの信徒たちは霊的には神の民となっており、異邦人ではないという意識を示したと考えられます。
  次に、パウロはそのような性的な不道徳が教会の中で実践されないようにという警告を思い起させます。踏みつけると訳された語は、つけ入る、利用するという意味が有ります。同じ信仰を持った信徒が、身分が奴隷だということで、世間の習慣に従って性的な関係を強要されるような状況が考えられます。欺くいうのも、そういう性的な関係を強いるために都合の良いことを言うことかもしれません。聖書学者の中には、この部分は、商売の時に不正なおもりや計量の道具を使うことも含まれると考える立場も有ります。
  パウロは、これらのことを「きびしく警告しておいた」と述べています。原文では、この表現は一語で、厳かに警告する、徹底的に証言をする、というような意味が有ります。すると、パウロは、この聖書的な性的関係の基準とその考え方について、詳細な説明をしたのだと考えることができます。それは、創世記1章27節、2章24節などから説き起こし、1コリント6章13節-20節のような説明であったと考えられます。
  7節では、パウロは、神の召命が聖潔を得させるためであることを思い出させ、その聖化の働きをするのが聖霊であることを示しています。

2)愛のためにますます努める
  9節におけるテサロニケの信徒たちの愛の実践についてのパウロの評価は肯定的なものです。彼らに愛を教えたのは神であるというのは、レビ19章18節等の聖書の教えであることを示していると思われます。彼らの実践のが広くマケドニヤの諸教会に知られていたのは、おそらく、それらの主要な都市が、商業都市で、テサロニケのクリスチャンの商人が行商に行って、行先の都市にある教会で良い実践を示していたということではないかと考えられます。また、他の都市のクリスチャンが、テサロニケに行商に来た時には、テサロニケの信徒のもてなしを受けたということもあったでしょう。
  パウロは、ここでも、そのような実践について、ますますそうであってくださいと勧めています。

3)証のためにますます努める
  10節のパウロが強く勧める事柄は二つ併記されていて、その二つ目が11節以降になります。落ち着いた生活をする、自分の仕事に御を入れる、自分の手で働く、という三つのことを勧めています。そうすることの目的が12節に示されています。「外の人々に対してもりっぱにふるまう」という部分が大事な部分であると考えられます。イエス・キリストという馴染の無い神を信じる者たちの振る舞いや生き様が、人に迷惑をかけてそしられるものでないように「強く勧める」ことをしているのです。

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日曜礼拝 2022年10月9日

2022-10-09 22:57:16 | 日記
礼拝音声

聖書箇所:1テサロニケ 3:6-13
説教題:パウロの慰めと祈り

導入)
  この箇所は、原文では二つの文から成っています。一つ目の主節は、「私たちは慰めを受けました。」というものです。慰めという語は、励ましをも意味することのできる語です。二つ目は、11節から始まる二つの祈願文です。日本語の聖書では、節の分割の都合上、「(神が)~してくださいますように。」という三つの祈願文のように訳されていますが、13節は、12節の祈願文の目的、もしくは結果の叙述になっています。パウロが述べている慰めと、祈願を確認してみましょう。

本論)
慰め、励まし 
1)パウロにとっては、テモテの報告で確認したテサロニケ教会の信徒たちの愛と信仰の歩みが慰め、励ましとなりました。私たちも、お互いに信仰の歩みが証となり、牧師や他の信徒の慰め、励ましとなるように心がけるべきです。

2)パウロは、単に報告を聞いて励まされただけでなく、そのことを感謝と喜びのうちに神に祈ることによっても、慰めと励ましを受けたと考えられます。私たちも、互いのために感謝を持って祈る実践をこころがけることが望ましいと考えられます。

3)パウロは、テサロニケの信徒たちの霊的、信仰的成長を祈ることによって、励ましを受けることが有ったと考えられます。私たちも、牧師だけでなく、信徒間においても、互いの信仰の成長を祈り合って、励ましを受けるものでありたいと思います。


祈り
1)パウロは、テサロニケの信徒たちが聖書的理解を深める必要が有ることを感じて、自分をもう一度テサロニケに送ってくださるように、神に祈っています。私たちは、そのような人が与えられるように祈り、また、自分でも求めて聖書を読み、知識を増し加えるように努めることが必要です。

2) パウロは、その次に、テサロニケの信徒たちが、これまでの実践以上に愛が増し加わり、溢れるように祈っています。神は愛ですから、信徒の共同体は、愛の関係が深まるように努めることになります。

3)原文の雰囲気は、「あなたの心が、聖別において責められるところのない様に強められるように」というものです。それが、愛が増し加わり、溢れることの目的・結果であるということです。強められるというのは、「確立する」ということが基本に有る語意です。私たちの愛は、この世の愛とは異なり、キリストの愛に対する信仰から出ています。ですから、そのような愛が増し加わるように生きる時、私たちは、この世の基準から取り分けられた・聖別された者として姿勢、生き方を確立していくことになるのです。そして、それは、イエスの再臨の時まで、キリストの身体なる教会に連なる全聖徒の継続的な取り組みとなります、
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日曜礼拝 2022年10月2日

2022-10-07 18:13:02 | 日曜礼拝
礼拝音声は有りません

聖書箇所:詩編17:1-15
説教題:主よ、私を守ってください

  この詩編は、ダビデがサウル王に追われていた時に書かれたものと考えられています。私たちには、命を狙われるような経験はすることがないと思われますが、神の守りを祈り求める時が有るのではないでしょうか。

ポイント
主よ、私を守ってください
1)私は敵に囲まれていますから
  具体的な敵でなくても、困難が私たちを囲んでいる時が有ります。ダビデがしたように、その困難の一つ一つを詳細に主に告白して祈りましょう。
2)私は主に信頼していますから
  ダビデは神の約束にしがみついていました。神がダビデを王に任命されました。彼は、神の契約を信じていました。私たちも、聖霊の証印によって、神の民とされました。聖書に示されている神の約束を信じて歩みます。
3)私は神の道を歩みますから
  私たちが神に信頼すると告白しても、神の教えを守らなければ、神と良い関係を持っているとは言えません。そのような時には、神からの良い応答を期待することはできません。暴力や偽証をすることで状況を切り抜けようとしたりすれば、神の守りを期待することはできません。そのような時には、神に信頼しているとさえ言えません。自分の武人としての能力を用いず、主に委ねたダビデの姿勢に倣いましょう。
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