礼拝音声は有りません。英語部、日語部合同礼拝でした。
聖書箇所:詩編126:1-6
説教題:喜びの歌(の背景)
導入)
5節、6節は、教会の宣教やリバイバルに関連付けて引用されることが有ります。それがこの詩編の示すところなのかは、一度よく考えてみる必要が有ります。
この詩編は、都上りの歌という副題がついています。120編から134編までの15の詩編に同じ副題がついています。これらの多くは、バビロン捕囚から帰還が許された後に書かれたもので、エルサレム巡礼の時に、特定の場所に来ると歌われたということです。
それでは、この詩編の伝えようとしていることを確認してみましょう。
本論)
1節―2節前半 エルサレムへの帰還が許されて、まるで夢見る人のようだったという表現がされています。その部分に脚注がついている聖書も有り、健康が回復された人とも訳せるものだそうです。言い換えれば、理想的な状態に回復されたという理解になります。ユダヤ人にとっては、エルサレムの神殿で礼拝ができるということが、営巣的な状態の回復と言えるでしょう。彼らには、笑いと喜びの歌が有りました。70年もの間待ち望んでいたことが実現したのですから。
2節後半―三節 先ず、非ユダヤ人が、神のなされた回復の業について証言し、次に、ユダヤ人が同じ内容の告白をして確認するという流れになっています。神のなされた偉大な業というのは、クロス王が捕囚の民の帰還を許したということです。このことは、イザヤ45章に預言されています。ここでの彼らの喜びは、故国の土を踏んだということです。そして、エルサレムで自由に神を礼拝することができるということです。
4節 この部分は、祈願文、祈祷の文になっています。捕囚期間中のユダヤ人の祈りとも、帰還したユダヤ人がまだバビロンにいる同胞を思っての祈りとも考えることができるようですが、後者を支持する学者が多いようです。いずれにしても、祈りが大事であるという原則は同じです。
ネゲブという言葉が出て来ます。ワジというタイプの川で、ユダヤ南方を流れていたようです。ワジは、乾季には干上がって、川床に藪が生えるそうです。しかし、春の雪解けの時には、とうとうと水の流れる川になります。それを、豊かさの象徴として、彼らは、私たちに豊かな繁栄をください、また、もっと多くのユダヤ人が帰還して共に礼拝ができますように、という思いを込めて祈ったと考えられます。
5節―6節 導入で取り上げた部分です。涙、泣くという表現は、何を示しているでしょうか。彼らは帰還を果たしましたが、70年も放置された田畑からは、良い収穫を得ることができなかったと思われます。また、干ばつに見舞われることもあったと思われます。そすると、家族が飢えることになります。彼らに食事をさせたいと思っても、手元に残っているのは、来年の収穫のために畑に蒔かなければならない種もみだけだったりするのです。うまく行けば、来年は30倍から60倍の収穫が見込めます。しかし、そのためには、家族を飢えさせることになります。て悲しい事ではありませんか。ですから、彼らは涙と共に種を蒔くことになるのです。しかし、神の守りと養いによってその期間を耐え忍ぶと、刈り取った収穫の束をかかえて、喜び叫びながら帰って来ることになるのです。
まとめ)
この詩編には、喜びの歌を表す言葉が三回出て来ます。(2節、5節、6節)この喜びの歌の源は何でしょうか。1)捕囚からの帰還、もしくは、巡礼の喜び。2)神に礼拝し、祈れること。3)困難な期間の後の豊かな収穫、等が考えられます。
この詩編は、回復と喜びの歌という流れが1節―3節、4節―6節と繰り返されます。そして、この詩編の中心に、4節の祈りが挟まれています。祈りこそが、私たちの生活と私たちの喜びの原則だということです。この詩編は、礼拝の回復、霊的な回復と同時に、収穫という物質的な回復についても言及しています。祈りは、この二つの回復をもたらすのです。神は、私たちの霊的な必要と物質的な必要の両方を満たしてくださる方です。最初に提起した5節、6節は、リバイバルよりは、物質的な必要が満たされることの描写だったことが判りました。このような理解を深めることも大事ではないでしょうか。
ユダヤ人に喜びの歌をもたらした祈りの要素は何でしょうか。
1)全能の神に祈ること。神以外のものを頼みとしないことです。
2)神に信頼して祈ること。苦しい時程必要なことです。
3)霊的必要と物質的必要の両方のために祈ること。神は、両方の必要を満たしてくださる方です。
聖書箇所:詩編126:1-6
説教題:喜びの歌(の背景)
導入)
5節、6節は、教会の宣教やリバイバルに関連付けて引用されることが有ります。それがこの詩編の示すところなのかは、一度よく考えてみる必要が有ります。
この詩編は、都上りの歌という副題がついています。120編から134編までの15の詩編に同じ副題がついています。これらの多くは、バビロン捕囚から帰還が許された後に書かれたもので、エルサレム巡礼の時に、特定の場所に来ると歌われたということです。
それでは、この詩編の伝えようとしていることを確認してみましょう。
本論)
1節―2節前半 エルサレムへの帰還が許されて、まるで夢見る人のようだったという表現がされています。その部分に脚注がついている聖書も有り、健康が回復された人とも訳せるものだそうです。言い換えれば、理想的な状態に回復されたという理解になります。ユダヤ人にとっては、エルサレムの神殿で礼拝ができるということが、営巣的な状態の回復と言えるでしょう。彼らには、笑いと喜びの歌が有りました。70年もの間待ち望んでいたことが実現したのですから。
2節後半―三節 先ず、非ユダヤ人が、神のなされた回復の業について証言し、次に、ユダヤ人が同じ内容の告白をして確認するという流れになっています。神のなされた偉大な業というのは、クロス王が捕囚の民の帰還を許したということです。このことは、イザヤ45章に預言されています。ここでの彼らの喜びは、故国の土を踏んだということです。そして、エルサレムで自由に神を礼拝することができるということです。
4節 この部分は、祈願文、祈祷の文になっています。捕囚期間中のユダヤ人の祈りとも、帰還したユダヤ人がまだバビロンにいる同胞を思っての祈りとも考えることができるようですが、後者を支持する学者が多いようです。いずれにしても、祈りが大事であるという原則は同じです。
ネゲブという言葉が出て来ます。ワジというタイプの川で、ユダヤ南方を流れていたようです。ワジは、乾季には干上がって、川床に藪が生えるそうです。しかし、春の雪解けの時には、とうとうと水の流れる川になります。それを、豊かさの象徴として、彼らは、私たちに豊かな繁栄をください、また、もっと多くのユダヤ人が帰還して共に礼拝ができますように、という思いを込めて祈ったと考えられます。
5節―6節 導入で取り上げた部分です。涙、泣くという表現は、何を示しているでしょうか。彼らは帰還を果たしましたが、70年も放置された田畑からは、良い収穫を得ることができなかったと思われます。また、干ばつに見舞われることもあったと思われます。そすると、家族が飢えることになります。彼らに食事をさせたいと思っても、手元に残っているのは、来年の収穫のために畑に蒔かなければならない種もみだけだったりするのです。うまく行けば、来年は30倍から60倍の収穫が見込めます。しかし、そのためには、家族を飢えさせることになります。て悲しい事ではありませんか。ですから、彼らは涙と共に種を蒔くことになるのです。しかし、神の守りと養いによってその期間を耐え忍ぶと、刈り取った収穫の束をかかえて、喜び叫びながら帰って来ることになるのです。
まとめ)
この詩編には、喜びの歌を表す言葉が三回出て来ます。(2節、5節、6節)この喜びの歌の源は何でしょうか。1)捕囚からの帰還、もしくは、巡礼の喜び。2)神に礼拝し、祈れること。3)困難な期間の後の豊かな収穫、等が考えられます。
この詩編は、回復と喜びの歌という流れが1節―3節、4節―6節と繰り返されます。そして、この詩編の中心に、4節の祈りが挟まれています。祈りこそが、私たちの生活と私たちの喜びの原則だということです。この詩編は、礼拝の回復、霊的な回復と同時に、収穫という物質的な回復についても言及しています。祈りは、この二つの回復をもたらすのです。神は、私たちの霊的な必要と物質的な必要の両方を満たしてくださる方です。最初に提起した5節、6節は、リバイバルよりは、物質的な必要が満たされることの描写だったことが判りました。このような理解を深めることも大事ではないでしょうか。
ユダヤ人に喜びの歌をもたらした祈りの要素は何でしょうか。
1)全能の神に祈ること。神以外のものを頼みとしないことです。
2)神に信頼して祈ること。苦しい時程必要なことです。
3)霊的必要と物質的必要の両方のために祈ること。神は、両方の必要を満たしてくださる方です。