パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

火曜聖書研究会 2018年6月26日

2018-06-26 17:02:43 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ8章12節~20節

研究ノート

・人々が去った後、イエスはまたご自身のことを証されます。パリサイ人がいることを考える
 と、少し時間が経ってからかもしれません。
・「世の光」という表現は、ラビたちの教えや文書の中では、神を表す言葉として用いられて
 いました。ですから、イエスはここで「私は神です。」と宣言したことになります。
・光に関する聖書箇所。詩編119編105節、箴言6章23節、マラキ4章2節、ヨハネ1章等。
・パリサイ人の反論は自分一人の証言は無効であるというものでした。
・イエスの反論は、父なる神の証言が有るということです。他にもパリサイ人が洗礼を求めた
 バプテスマのヨハネの証言、水からあがるイエスに天から下った父なる神の声、旧約聖書に
 記されているメシア預言の成就が証人といえる状況にありました。
・「わたしを遣わした父」という表現にパリサイ人たちは矛先を変えます。ナザレの出身で、
 ヨセフという父親が、どれだけ偉大なのかという侮蔑の意味が含まれていたかもしれません。
・宮の献金箱の有る所で話したというのは、公に人が多く集まる場所であったということを表
 しています。

ごく簡単なまとめ
・イエスは明確に「わたしは神だ」と宣言している。
・イエスが神から遣わされたメシアであることの証言は十分である。
・イエスと父なる神は一つであるから、イエスを知っていれば神を知っていることになる。
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日曜礼拝 2018年6月24日

2018-06-26 15:58:19 | 日曜礼拝
聖書箇所:1サムエル 17章31節~47節
説教題:ゴリアテの対処をめぐって (説教音声はありません)

(導入)
 サウルを王とするイスラエル人はペリシテ人と対峙していました。ヨシュアの頃からこの時
まで、彼らはイスラエルの強敵でした。13章にはペリシテ人がイスラエル人に武器を持たせな
いように、鍛冶屋の存在を許さなかったことが述べられています。すると、この戦争の時も、
イスラエル側は大変武器が少なく、心細い状況であったことがわかります。しかも、ゴリアテ
という身長が3メートル程も有る兵士に40日も脅されていたのです。
 そこにダビデが来て、ゴリアテに対して強い言葉を使いました。それがサウル王に報告され
ダビデが召し出されることになりました。


(解説)
 ダビデはゴリアテとの一騎打ちを志願します。しかし、サウル王はダビデは経験不足である
と判断しました。試してみるまでもないと思ったのでしょう。すると、ダビデは、自分の羊飼
いとしての経験を述べます。何度も猛獣である獅子や熊と戦って生き延びて来ていることを。
しかし、大事な点は、それが神が共におられるからだという信仰に有りました。(37節)
 サウロは神の守りを祈って許可を出しますが、実際には信仰は有りませんでした。ですから
自分の兜、鎧や剣をダビデに貸したのです。ダビデはそれを用いないことにしました。慣れて
いないからだと説明されています。それに、サウル王はイスラエル人で一番長身と言える人物
でしたから、サイズが合わなかったことでしょう。
 ダビデは日頃使い慣れているものを持って行きました。羊を導いたり猛獣を打ったりするの
に使ってきた杖と石投げでした。士師記20章には、石投げの勇者が戦士として記録されていま
す。昔の中近東では石投げは立派な戦闘の武器でしたから、その意味ではダビデも経験を積ん
だ戦士と言えました。
 
 立ち向かってくるダビデを見た時にゴリアテの反応は先ず、彼を軽蔑することでした。若者
であるからでした。この語は少年、青年、若者、小間使い等の意味が有ります。年齢の範囲は
14歳から20歳と考えられます。この物語の直後にサウルの息子であるヨナタンが、ダビデに自
分の鎧や剣を与えていること、この後の戦闘に動員されていることを考えると、間もなく20歳
になるぐらいの年齢であったと推測されます。戦闘員に数えられるのは20歳からなのです。ゴ
リアテは、彼の外見からしか判断をしませんでした。紅顔の美少年という描写から、普通は兵
士が生やしている髭や、戦闘の経験からくる傷跡が顔になかったことがうかがえます。しかも
鎧も無しに、杖を持ってきたのですから。
 次にゴリアテは、ダビデを呪いました。ペリシテ人の崇拝する神々の名で呪ったということ
ですから、バアル、アシュタロテ、ダゴンの名を挙げて呪ったことになります。
 更に、ゴリアテはダビデを脅迫しました。(44節)確実に殺してやる。死体は葬られず、野
の鳥や獣に食われる、惨めな死に方になるというのでした。

 ダビデの反応は、先ず神への信仰、信頼を告白することでした。武器を頼りにすることはし
ないと言いました。
 次に、ダビデはアブラハムに与えられた創世記12章3節の契約を心に留めていただろうと思
われます。ゴリアテはダビデを呪いましたが、アブラハムとその子孫を呪う者を神は呪うとい
う約束が有りました。ですから、ダビデは明確に神がゴリアテを彼の手に渡すと宣言すること
ができたのです。
 更に、ダビデはペリシテの敗戦によって神の御名が全ての国々に知られると宣言しました。
また、彼は、ペリシテ人のみならず、集まった全ての人々、すなわちイスラエル人にも、神が
ダビデとイスラエル人の味方であることを認識させようとしました。(47節)

 この戦いの結末はご存知の通りです。ゴリアテは倒れ、ペリシテ人は敗走しました。

(まとめ)
 多くの場合、この物語の題は「ダビデとゴリアテ」として提示されます。しかし、文脈から
考えますと、「ゴリアテの対処をめぐるサウルとダビデ」と題されるべき物語です。
 この時点では、サウルもダビデも王としての任職の油注ぎを受けていました。サウルはまだ
王座に留まっており、ダビデは次期の王であることが内々に決まっていました。サウルは既に
神に退けられており、ダビデは神の御心にかなう人物でした。その二人の違いは何であったの
か、どうしてダビデの方が御心にかなうのかということを示すのがこの物語なのです。

ゴリアテの対処をめぐって

1)ダビデは神と神の誠実さを信頼していました

   ダビデは神の力を信じていましたし、神が契約を必ず守られる誠実で真実な存在である
  ことを信じていました。神は約束の地の領土、祝福、守りを約束されました。ですから、
  ペリシテ人はイスラエルを脅かすことはできないと信じたのです。
   サウルにはその信仰は有りませんでした。彼はこの世の力に頼り、自分の軍は不利であ
  るということしか見ていませんでした。
   私たちもこの世のことだけに目を留めて恐れることが有るかもしれません。しかし、そ
  れでもダビデのように神に信頼していく方を選ぶ姿勢を持ち続けることです。

2)ダビデは神の恵みを心に留めていました

   ダビデは過去の猛獣との闘いを神が守ってくださったという認識が有り、それを告白し
  ました。また、神から与えられた杖や石投げの技術、賜物を認識していました。
   サウル王も過去にはアモン人、ペリシテ人、アマレク人を破った経験がありました。で
  も、彼には勝利が神の恵みから来たという思いが有りませんでした。ですから、罪を犯し
  て、神に退けられたのです。この時点であっても、心底悔い改め、この戦いのためだけに
  でも神の力を求める謙虚さが有れば良かったかもしれません。しかし、できませんでした。
   私たちも、日々の生活の中で、過去に神様がくださった恵みを思い返し、感謝しながら
  生活することが大事です。それは過去に終わった恵みではなく、引き続き神がくださる恵
  みを確信する助けにもなるのです。こうして、私たちは生ける供え物として生活の中で神
  を礼拝し、褒め称え、また、その恵みの一部として、私たちの信仰に励ましと力をいただ
  く歩みをしなければなりません。

3)ダビデは神に栄光を帰し、神を証した
   ダビデはゴリアテと一騎打ちをしました。ですから彼は声高に勝利の宣言をすることに
  なりました。公に彼の神への信頼が宣言されました。また、彼は神の誠実さ、真実さを証
  するために行動に出ました。
   難しい局面に在っても、私たちも私たちの信仰を告白し続けましょう。自分にそう語り
  かけるだけでも違った世界が開かれるでしょう。私たちには、もっと大きな罪と死という
  敵を打ち破ってくださったイエス・キリストがついていてくださるのです。
   若かろうが、年老いていようが、大事なのは信仰なのです。正直に自分を省みると、私
  たちもサウルのような考え方になっている時が有ります。しょっちゅうそういう状態にな
  っているかもしれません。それでもなお、踏みとどまって、もう一度ダビデのように歩む
  ことに繰り返し戻っていき、神に栄光を帰し、神を証しましょう。


 
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火曜聖書研究会 2018年6月19日

2018-06-19 16:38:44 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ8章1節~11節

研究ノート

・イエスと弟子たちは一度オリーブ山に移動して祈り、また夜を過ごした様子です。
・前日に役人たちがイエスを捕らえることができなかったので、直接律法学者とパリサイ人がイエ
 ス を罠にかけるために来たようです。
・姦淫の現場で捕まった女ということですが、相手がどうだったのかは定かではありません。しか
 し、このようなケースでは、証人は一人でも告発することができたということです。
・予想される答えは、石打にするか赦すかの二つですが、どちらにしてもイエスを社会的に葬るこ
 とができるはずでした。石打と答えれば、ユダヤ人はローマの支配下では死刑を宣告する権限が
 有りませんでしたから、反ローマ分子として訴えることができました。赦すと言えば、父なる神
 の御心を行うと言ったのに、律法を守らないから偽預言者であると結論づけることができました。
・イエスが地面に何を書いていたのかは、判っていません。諸説有りますが、どれも仮説に過ぎな
 いようです。
・イエスの「罪のない者」という表現には、定冠詞がついており、姦淫を指すことになります。実
 際の目的はイエスを罠にかけることでしたので、女性に対する判断とその実施は律法学者やパリ
 サイ人の頭には無かったようです。当時は、割合姦淫がはびこっており、慎重を期するために、
 有罪となっても一度目は刑罰を与えなかったという解説も有ります。
・そういう背景から、年長者には身に覚えのある人が多かったようです。ひとりひとり出て行くと
 いう表現は、こっそり立ち去るという意味合いが含まれているそうです。
・罪有りとする告発者がいなくなりましたので、普通の裁判の手順でも告訴取り下げと同じ状況に
 なります。ですから、イエスも問題なく彼女を去らせることができました。
・イエスは律法の完成者であり、最後の審判で裁きを下す方です。イエスはこの女性の罪も十字架
 で負われました。
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日曜礼拝 2018年6月17日

2018-06-17 21:12:42 | 日曜礼拝
聖書箇所:1ペテロ2章13節‐25節
説教題:キリストの故に

要約

 ペテロは直前の聖書箇所同様に、幾つかの奨励を述べた後に、その根拠となる説明をしてい
ます。ですから、ここでもその部分から確認を進めていきます。

1)私たちはキリストの模範に従わなければなりません
   20節には、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれるこ
  とだと述べられています。そればかりか、21節は、私たちがそのために召されたのだと述
  べられています。その召しの模範となる生き方をキリストは示されました。その模範とな
  る在り方の原則は、23節にある通り、「正しくさばかれる方にお任せする」ということで  
  す。ですから、それは単に耐え忍ぶことではなく、神に委ねた生き方をするということで
  あり、生きた供え物としての歩みをし、神を礼拝していることになるのです。

2)私たちは自身の霊的過去と現在を認識していなければなりません
   25節は18節から始まるひとまとまりの記述の一部ですが、まとめという部分も有ります。
  過去の状態は羊のようにさまよっていたのですが、現在は牧者であり監督者である方、す
  わちキリストのもとに帰ったのです。そういう霊的土台が無いと、私たちの本当の人生の
  意義を見出すことは、例え物事がうまく運んでいる時でも難しいのです。その土台となる
  キリストは、羊のために命を捨てた、愛に満ちた方です。この現在の霊的事実が動機とな
  りますから、いつも霊的過去と現在の状況を認識している必要が有ります。

3)私たちは何が良い行いであるかを認識しなければなりません
   15節には、善を行ってと書いてあります。具体的な例は13節から19節までに列挙されて
  います。その根拠は、良い証人になるためですが、それだけではなく、人の背後に働いて
  おられる神を尊び、また、神の似姿に創造されている他人を尊重するということが含まれ
  ています。
   18節に出てくるしもべは、奴隷とは異なる語が用いられています。今日の私たちに適用
  するならば、会社の上司や雇い主に良い態度で接することが考えられます。
   勿論、神の戒めに反するようなことを求められた時には、それに従う必要はありません。

説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
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日曜礼拝 2018年6月10日

2018-06-10 21:55:22 | 日曜礼拝
聖書箇所:1ペテロ2章1節~12節
説教題:私たちは生ける石なのだから

要約

 ペテロは旧約聖書を引用し、12節中5節を割いて「礎石」「生ける石」の例話を用いてキリ
ストとクリスチャンの関係について述べています。ですから、先ず「礎石」についての理解を
しておくのが良いでしょう。
 礎石は、壁や建物の角に配置され、土台として他の石を支える大事な役割が有り、大きくし
っかりした石が用いられます。この礎石がキリストであり、それに支えられて公同の教会を形
成している私たちが組み合わされた石ということになります。ここでは、キリストとクリスチ
ャンが共に生ける石とされています。
 また、礎石は頭石の意味も有ります。頭石は、石でアーチやドームを組む時に、一番最後に
頂部に入れて、建物を完成させる役割が有ります。キリストは救いの計画の完成者ですから、
正に頭石と言えるお方なのです。
 キリストによる救いの支えという土台の上に、またキリストによる救いの完成によって生け
る石とされているクリスチャンという理解の上で、ペテロが伝えようとしたことを三つのポイ
ントで確認してみます。

1)私たちは生ける石なのだから、み言葉を慕い求めなければなりません
   み言葉に従わなかった者たちにとってはキリストはつまずきの石となりました。しかし
  生ける石としてキリストに支えられる私たちは、「言葉」とされるキリストに従い、聖書
  の言葉を求めなければなりません。ドキュメンタリー番組で、生まれたばかりの動物の赤
  ちゃんが諦めずに母親を捜して乳を飲むように、聖書を読み続けましょう。

2)私たちは生ける石なのだから、キリストの良き証人でなければなりません
   生ける石としての在り方が9節には示されています。キリストが私たちをそのような者
  として召し出してくださった理由は、私たちがキリストの素晴らしい御業をのべ伝えるた
  めであると述べられています。12節でも、クリスチャンの立派な振る舞いがキリストに
  栄光を帰することが述べられています。

3)私たちは生ける石なのだから、肉の欲を遠ざけなければなりません
   この指示は11節でなされていますが、その具体例は1節に有ると言って良いでしょう。
  ここでペテロは私たちが天に属し、この世では寄留者にすぎないことを思い起こさせよう
  とします。そのことを思って肉の欲を遠ざけるように激励していることになります。この
  遠ざけるという言葉は、衣服を脱ぎ捨てる様を表す語でもあります。
   また、ペテロは肉の欲を「戦いをいどむ」ものとして述べています。実際に一国家が他
  国から戦いをいどまれたならば、必ず防衛します。私たちも受け身でいてはいけません。
  神のみ言葉を持ち、心の一新をもって防御しなければなりません。

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