パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2020年1月19日

2020-01-20 00:34:18 | 日曜礼拝
聖書箇所:1ペテロ3章18節~4章6節
説教題:キリストが苦しまれたのだから
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
 前回も触れましたが、このペテロの書簡は、小アジアで迫害されているクリスチャンを励ますために書かれました。本日の聖書箇所には、理解が難しい部分も有りますが、この文脈から理解することが大事です。そして、彼の励ましは、キリストが苦しまれたという事実に基づいています。

本論)
 18節は、前の17節の理由を説明しています。善を行って苦しみを受ける方が良いのは、クリスチャンの模範であるキリストもそのように歩まれたからです。キリストの受難を通して、クリスチャンは永遠の命の希望を得たからです。キリストは苦しまれたばかりではなく、よみがえられました。同様に、クリスチャンも迫害に苦しむだけではなく、永遠の命をいただくのです。
 19節は、キリストが救いを成し遂げた時に、霊においてなされたことが書かれています。その内容は、「捕らわれた霊たちのところに行って、みことばを語られた」ということです。注意を払わなければならないのは、動作は過去時制であるということです。これは過去に起こったたことであり、それは現在行われていないということです。「みことばを語る」というのは、報道者、伝令官が広告をするという意味の言葉です。キリストは一体何を公告したのでしょうか。その内容は22節まで待たなければならないようです。また、「捕らわれの霊たち」という表現の理解がなければいけません。新約聖書では、複数形の「霊たち」という表現は32回ほど出てきますが、ほとんどが、超自然的な力を持つ霊のことであり、大半が悪霊に対して用いられています。そして、特にノアの時代に活動していた霊たちという特定の霊であることが示されています。つまり、一般的な死者の霊のことではないのです。そういう霊が捕らわれているというのは、一般的なユダヤ的理解でした。ペテロは2ペテロ2章4節でもその理解を示しています。(ユダ6節も参照)
 ペテロはここで、ノアとその家族を迫害されているクリスチャンに重ね合わせているのです。ノアと家族は人々に嘲られていたかもしれませんが、大洪水という裁きから救われました。また、その時働いていた悪霊たちは捕らわれているということです。同様に、クリスチャンたちは悪口や間違った非難を受けていましたが、最後の審判の時には救われるのです。永遠の命の希望にもう一度目を向けさせています。
 21節は、水のつながりでバプテスマの話が出て来ます。原文には、「神に従わない人々を滅ぼした水とは違って、水のバプテスマはあなたがたを救うのです」という意味合いを含んでいる様子です。ペテロは、バプテスマについての誤解を避けようとして説明を加えているようです。(21節後半)バプテスマの中心的意義は神への誓いだということです。誓いと訳された語には、「応答、尋問への回答」という意味が有り、神への信仰をを持つかとい問への応答という雰囲気を含んでいます。そして、その救いの力は、水の力ではなく、キリストの復活によるのだと述べているようです。
 22節でペテロはもう一度キリストの復活に注意を向けさせています。キリストは、復活して神の右の座におられるます。それは、権威の座にいるという意味です。最後の審判の時には、神とキリストが審判をしますが、神はキリストにその権限を委ねているのです。キリストがこのような位置を取られたということが、キリストが霊において捕らわれの霊たちに公告した内容ということになります。福音を宣べ伝えたのではありません。悪霊に福音を宣べ伝えることなどはないからです。また、悪霊に福音が語られたという意味であったら、迫害下に有るクリスチャンを励ますという文脈に合いません
 4章1節は、「このように」という意味の接続詞を用いて、再びキリストが苦しまれたことに注意を向けさせています。主節、中心となる考えは、「自分自身を武装しなさい。」という部分になります。また、その条件・状況は、「あなたがたも同じ心構えで」となっています。つまり、キリストと同様に、神のみ心に従って、進んで苦しみに耐える心構えで、ということです。
 4節、5節でも、ペテロは引き続き迫害されているクリスチャンたちを励ましています。迫害する人たちは、悪口を言うのですが、彼らは神の裁きに合うのだということを思い起させています。神の公平な裁きが有るのだから、それに希望を持って耐え忍びなさいという励ましになっています。
 6節は、「というのは」という接続詞で、最後の審判を意識することが迫害されているクリスチャンにとって励みになるの理由を示しています。では、6節の伝えようとしていることは何でしょうか。それは、福音が宣べ伝えられた目的は、たとえこの世では迫害されて、最悪の場合は死刑判決を受け、死んだ後まで汚名を着せられても、キリストを信じ受け入れた者は霊においては生きた者となるためだということです。「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」という表現が誤解を招くことが有りますが、ここでもクリスチャンへの励ましという文脈と時制の確認から理解する必要が有ります。死んだ人々は現在すでに死んでいます。福音が宣べ伝えられたのは過去です。すると、その人たちが存命中に福音を聞いたということになります。励ましの要素は何でしょうか。殉教したり、迫害の苦しん環境の中で死んだりした人も神にあって霊は永遠の命の恵を受け継ぐのだということを明確にすることです。

まとめ)
 ペテロは、現在の苦しみと永遠の命、神の審判を比較しながら迫害されているクリスチャンを励まし続けています。その望みは、キリストの受難と復活を通してクリスチャンに与えられました。
 今回のペテロの文章は、あちこちに飛ぶような部分が有り、パウロの文書に比べると理論の流れがつかみ辛い部分も時には有るかもしれません。しかし、キリストの受難を念頭に置いて話を進めているのは明らかです。そこに注目して要点をまとめてみましょう。

キリストが苦しまれたのだから
1)クリスチャンは永遠の命の希望が有る
 ペテロはそういう希望を繰り返しのべています。その希望のゆえに、私たちも迫害、悪口、間違った非難等を忍耐して行けるのです。

2)クリスチャンは自分自身を武装しなければならない
 武装すると訳された語は、装備する、身支度をする、能力を養うというニュアンスが含まれます。私たちも心を決め、神のみ心に従う中で進んで苦しみや迫害に耐える心構えをしなければなりません。そこまで行かなくても、私たちは馬鹿にされたり、誤解に基づいた非難を受けることが有るのですから。

3)クリスチャンは人間的欲望に従って歩まない
 2節に有るように、神のみ心のために過ごすようになったのですから、3節に述べられているような人間の欲望に従うことは止めたのです。それは、クリスチャンは、自分を守ること、心の平安を保つこと、心地よくすることにおいても神にのみ頼ることに決めたからです。これらを、神以外に求める偶像礼拝の姿勢から離れるのです。
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日曜礼拝 2020年1月12日

2020-01-16 14:50:12 | 日曜礼拝
聖書箇所:1ペテロ3章13節~17節
説教題:キリストをあがめなさい (今週の説教音声は有りません)

導入)
 ペテロは小アジアのクリスチャンに対して手紙を書いています。彼らはキリストに対する信仰の故に迫害されていました。ペテロは彼らを励まし続け、どのようにするべきかを指示しています。

本論)
 13節は一般的な倫理的規範のようにも思えます。しかし、それは、彼らがクリスチャンである故に経験している迫害に関わるものです。善に熱心であるというのは、キリストの戒めに従っているということです。もし私たちがキリストの戒めに従って留まり、キリストが私たちと共にいるならば、神は私たちを守ってくださいます。(イザヤ50章7~9節参照)
 ペテロは更に、キリストの義、神の国の福音のメッセージのために苦しまなければならないとしても、それは幸いだと言っています。幸いだという語は、山上の垂訓でもちられているのと同じ語です。(マタイ5章11、12節参照)ペテロの中には主イエス・キリストの教えが確実に留まっていました。その原則は私たちにも適用されることです。ペテロはイザヤ8章13節を引用して、神に信頼し、神をあがめることの重要さを私たちに思い起こさせています。引用元になっているイザヤ書の記事においては、アハズ王がアッシリヤの圧力に苦しんでいました。イザヤはアハズ王にそのアッシリヤと同盟を結んではならないと警告し、神を畏れ、神をあがめるようにと告げたのです。ここまでの内容から引き出される原則は、

1)困難の中に在っても完全に神に信頼してキリストをあがめなさい ということになります。

 ペテロはイザヤ書の言葉を少し異なった仕方で用いています。「心の中でキリストを主としてあがめなさい。」と言っています。「あがめる」と訳されている語は、主の祈りで、「御名があがめられますように」という表現に用いられている語です。ペテロは迫害の中でどのように神をあがめるべきかを指示してます。先ず、キリストにある希望について説明できる準備を整えてです。その希望は聖霊とキリストを通して私たちの中に在ります。しかし、私たちは更に、その説明ができるように準備ができていなければなりません。そのために、私たちは福音をよく理解していなければなりません。そのためには、キリストにある希望がどのようなものかを日々確認し、思いめぐらさなければなりません。ペテロの直接的な指示は、弁明がきる用意をしておくということです。それは、法廷で自分のために弁明するのと同じ用語です。もし法廷に立って、自分を弁護しなければならないとしたら、きっと時間をかけて準備をするのではないでしょうか。同様に、私たちはキリストにある希望を説明することができうように準備をしておかなければなりません。私たちが時間をかけて、神がキリストを通して私たちを救うためにしてくださったことを思いめぐらし、あるいは、実際にキリストにある希望がどのようなものかを説明する時に、私たちは、心の中で、キリストを主としてあがめているのです。また、私たちのキリストへの信仰について弁明する時、わたしたちは優しく、慎み恐れてそうすることが求められています。時々クリスチャンは、自分に知識が有ると思って、信仰の弁明をする時に偉そうな態度になったりすることが有ります。しかし、それは神に栄光を帰する態度ではありません。それではキリストをあがめることになりません。16節の指示に従う時、私たちはキリストをあがめていることになります。ここまでの内容から引き出される原則は、

2)キリストにある希望について説明する準備をしてキリストをあがめなさい です。

 更にペテロはキリストをあがめるために必要な態度について別の指示をします。それは、正しい良心を保つことです。この良心は、キリストの教えに土台した良心のことです。私たちの信仰の故に、教会の外の人々ばクリスチャンに悪口を言ったり、誤った非難をしたりします。当時のクリスチャンは、皇帝崇拝をしなかったなめに、無神論者だとか無政府主義者だと非難されていました。それは、誤った非難でした。今日でもクリスチャンに対して同様の誤った非難をする人たちがいます。クリスチャンは彼らを憎んでいるような誤解をしている場合も有ります。聖書は私たちに境界線を教えています。私たちは教会の中の人については聖書に従って裁く場合が有りますが、教会の外の人を裁くことはしません。(1コリント5章9節~13節参照)私たちは物事の境界線を認識していなければなりません。
 次に、私たちは私たちの心を態度で表さなければなりません。私たちの信仰について誠実に説明をすることもそこに含まれるでしょう。そのような行いによって、クリスチャンを迫害する人たちが恥じるということをペテロは期待しています。恥じ入ると訳された語の語感は、「嘘つきであることが明らかになって恥じ入る」というものです。クリスチャンを迫害していた理由が事実に基づいていなかったことが判るということです。私たちはキリストにある良い行いを維持する努力が必要です。そのような態度や行いが伴わなければ、私たちの弁明や説明が教会の外の人には説得力が無い場合が出て来るでしょう。この部分から引き出される原則は、

3)健全な良心を保つことによってキリストをあがめなさい ということになります。

まとめ)
 ペテロはこの箇所を14節で述べた原則を繰り返すことで締めくくっていいます。私たちンの人生は神の手の中にあるのです。たとえキリストのゆえに迫害や困難に合わなければならないとしても、私たちはキリストにあって幸いで祝された存在であることを覚えておかなければなりません。(2章19~22節も参照)私たちの幸いは、2章25節にあるように、キリストの元に帰ったことにあるのです。そういう認識を持って、私たちも、たとえ迫害や困難の中に在っても、私たちの生活を通して神をあがめて行くべきなのです。
1)困難の中に在っても完全に神に信頼してキリストをあがめなさい
2)キリストにある希望について説明する準備をしてキリストをあがめなさい
3)健全な良心を保つことによってキリストをあがめなさい
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日曜礼拝 2020年1月5日

2020-01-05 18:24:43 | 日曜礼拝
聖書箇所:マタイ16章13節~20節
説教題:キリストが建てる教会
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
 この聖書箇所の直前に、イエスが五千人の給食と四千人の給食を思い出させている記述が有ります。そのイメージは、神の指示によって荒野で民にマナを与えたモーセにつながります。また、15章32節に記録せれている盲人の癒しは、旧約聖書に出てくるメシアのしるしであり、聖書の中ではイエスしか行ったことのないものでした。この頃までには、イエスはご自身が旧約聖書に預言されたメシアであることを証明していました。その後にイエスは13節に始まる質問を弟子たちにしました。

本論)
 最初の質問はその次の質問につなげるための導入でした。人々がイエスのことを何者だと言っているかというその質問に、弟子たちは4つほどの答えを示しましたが、どのような背景や理由が有ろうと、その理解は間違っていました。ついで、イエスは、弟子たち自身の回答を求めました。この頃までには、弟子たちは皆正しい答えを知っていなければなりませんでした。イエスの公生涯の始めから、これらの弟子たちはイエスが旧約に約束されたメシアであるという期待をもって集まって来ました。ヨハネによる福音書1章40節からの記述では、アンデレがペテロにイエスを紹介する時に、メシアに会ったと言っています。そして、彼らは神の国の福音を宣教するために教えを受けたのです。ですから、彼らはイエスについての明確な知識が無ければなりませんでした。
 イエスは弟子全体に質問をしたのですが、今回は代表としてペテロが回答しました。彼の回答の意味するところは以下のようになります。まず、イエスは旧約聖書に約束されているメシアであること。また、イエスが神であること。神の御子という表現は、神性を認めたものでした。ですから、イエスが神を父と呼んだ時には、人々はイエスが自分を神だと称したものとして石打ちにしようとしたのです。生けるという表現は、偶像の神と比較して、真の神であるということを示すものでした。
 ペテロの答えは正しいものでしたから、もう他の弟子の答えを待つまでもありませんでした。イエスはペテロに「あなたは幸いです。」と言いました。この幸いだという表現は、山上の垂訓で用いられた表現と同じです。それは神の国に属する幸い、祝福なのです。原文では、続きはなぜ幸いかを示す理由の節になっています。天の父なる神がイエスが生ける神の御子キリストであることをペテロ(ひいては弟子たち)に理解させたからだということです。民や指導者たちは旧約聖書の知識を十分に持っていましたが、彼らにはそういう悟りは与えられませんでした。ペテロと他の弟子たちはその意味において真に幸いだったのです。そして、その幸いは私たちにも与えられたのです。
 18節で次にイエスはペテロがイエスの弟子としてどのような存在であるかを宣言されました。イエスは一種の言葉遊びをされたようです。ペテロという名も岩という意味が有りました。イエスはペテロの上に教会を建てると言われたことになります。その成就は、彼の説教を通して三千人が信仰を持って教会が始まった使徒行伝2章のに記録されていると考えられます。イエスは教会を建てると言いました。教会という言葉は、イエスの時代のギリシャ語では都市に住む投票権が有る自由人の集まりという意味が有りました。特権が有る人たちの集まりということになります。イエス・キリストに召し出され、自由にされた私たちは最も特権の有る人たちということになります。ハデスの門という表現で、門は複数形になっています。強さや多様性を示す部分が有ると思われ、あらゆる死の力と考えることができます。イエス・キリストへの信仰の故に私たちには永遠の命が与えられています。
 19節には天国のかぎが出てきます。それは、ペテロの福音宣教と考えられます。つなぐ、解くという表現はユダヤ的表現です。つなぐというのは、律法に適っていないと宣言すること、解くというのは、律法に適っていると宣言することを意味します。(イザヤ書22章22節参照)ペテロが解いた事例の一つは、使徒行伝10章、11章のコルネリオの回心ではないかと思います。ペテロが異邦人であるコルネリオを訪ねたということで、ユダヤ人クリスチャンに責められた時、コルネリオも聖霊の扱いをいただいてクリスチャンであると宣言しました。つなぐ、もしくは閉じた事例は、使徒行伝8章で魔術師シモンが金を払って聖霊の満たしを与える権限を買おうとした時に、ペテロが「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。」と宣言しています。
 20節では、ペテロの重要な告白をだれにも知られないようにという指示がなされています。どうしてでしょうか。それは、イエスはメシアだという噂が広まれば、民衆がローマに対する反乱を起こすことが容易に想像できる状況だったからです。メシアには、外国の圧力からユダヤ人を守る王のイメージが有ったからです。彼らには、霊的な救い主としてのメシアの理解が無かったからです。

まとめ)
イエスは、わたしはわたしの教会を建てますと言われました。イエスが教会を建てる方です。イエス・キリストが建てる教会とはどういう教会でしょうか。

1)真理の上に建てられた教会
 ポンテオ・ピラトは「真理とは何か。」と尋ねました。ペテロはその答えを持っていました。それは、ナザレのイエスはキリスト、神の御子、救い主、真の神であり、信じる者に永遠の命を与える方だということです。この真理の知識が無ければ、それは教会と呼ぶことはできません。

2)キリストへの信仰の上に建てらえた教会
 ユダヤ人の指導者たちは、旧約聖書の預言をよく知っていましたが、イエスに対する信仰を持つことはできませんでした。福音は多くの人々の耳に入りましたが、皆がキリストへの信仰を持つようになったわけではありません。神がその真理を啓示し、私たちを信仰に導いてくださったので、幸いな人なのです。

3)福音の宣明の上に建てられた教会
 イエスは、この岩の上にわたしの教会を建てると言われました。それは必ずしもペテロの上に建てるということにはなりません。彼はイエスの弟子たちの筆頭であり、弟子たちの代表でもありました。18章18節を見ると、天国のかぎの使用、つなぐ、解くは、「あなたがた」にゆだねられたものになっています。弟子たち皆がすることになっています。そのことは、エペソ2章20節もそのことを表しています。そして、真の岩はイエス・キリストであり、使徒たちが宣明した福音の真理なのです。使徒たちがイエス・キリストから受け継いだ教えは、聖霊の啓示によって書かれた新約聖書を通して私たちにも受け継がれています。今日私たちには使徒はいません。しかし、イエス・キリストの教えに忠実な福音の宣教を通して、イエス・キリストは今もイエスの教会を建て続けているのです。2020年も、神の御業の一部を担い続けましょう。
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