聖書箇所:1ペテロ3章18節~4章6節
説教題:キリストが苦しまれたのだから
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)
導入)
前回も触れましたが、このペテロの書簡は、小アジアで迫害されているクリスチャンを励ますために書かれました。本日の聖書箇所には、理解が難しい部分も有りますが、この文脈から理解することが大事です。そして、彼の励ましは、キリストが苦しまれたという事実に基づいています。
本論)
18節は、前の17節の理由を説明しています。善を行って苦しみを受ける方が良いのは、クリスチャンの模範であるキリストもそのように歩まれたからです。キリストの受難を通して、クリスチャンは永遠の命の希望を得たからです。キリストは苦しまれたばかりではなく、よみがえられました。同様に、クリスチャンも迫害に苦しむだけではなく、永遠の命をいただくのです。
19節は、キリストが救いを成し遂げた時に、霊においてなされたことが書かれています。その内容は、「捕らわれた霊たちのところに行って、みことばを語られた」ということです。注意を払わなければならないのは、動作は過去時制であるということです。これは過去に起こったたことであり、それは現在行われていないということです。「みことばを語る」というのは、報道者、伝令官が広告をするという意味の言葉です。キリストは一体何を公告したのでしょうか。その内容は22節まで待たなければならないようです。また、「捕らわれの霊たち」という表現の理解がなければいけません。新約聖書では、複数形の「霊たち」という表現は32回ほど出てきますが、ほとんどが、超自然的な力を持つ霊のことであり、大半が悪霊に対して用いられています。そして、特にノアの時代に活動していた霊たちという特定の霊であることが示されています。つまり、一般的な死者の霊のことではないのです。そういう霊が捕らわれているというのは、一般的なユダヤ的理解でした。ペテロは2ペテロ2章4節でもその理解を示しています。(ユダ6節も参照)
ペテロはここで、ノアとその家族を迫害されているクリスチャンに重ね合わせているのです。ノアと家族は人々に嘲られていたかもしれませんが、大洪水という裁きから救われました。また、その時働いていた悪霊たちは捕らわれているということです。同様に、クリスチャンたちは悪口や間違った非難を受けていましたが、最後の審判の時には救われるのです。永遠の命の希望にもう一度目を向けさせています。
21節は、水のつながりでバプテスマの話が出て来ます。原文には、「神に従わない人々を滅ぼした水とは違って、水のバプテスマはあなたがたを救うのです」という意味合いを含んでいる様子です。ペテロは、バプテスマについての誤解を避けようとして説明を加えているようです。(21節後半)バプテスマの中心的意義は神への誓いだということです。誓いと訳された語には、「応答、尋問への回答」という意味が有り、神への信仰をを持つかとい問への応答という雰囲気を含んでいます。そして、その救いの力は、水の力ではなく、キリストの復活によるのだと述べているようです。
22節でペテロはもう一度キリストの復活に注意を向けさせています。キリストは、復活して神の右の座におられるます。それは、権威の座にいるという意味です。最後の審判の時には、神とキリストが審判をしますが、神はキリストにその権限を委ねているのです。キリストがこのような位置を取られたということが、キリストが霊において捕らわれの霊たちに公告した内容ということになります。福音を宣べ伝えたのではありません。悪霊に福音を宣べ伝えることなどはないからです。また、悪霊に福音が語られたという意味であったら、迫害下に有るクリスチャンを励ますという文脈に合いません
4章1節は、「このように」という意味の接続詞を用いて、再びキリストが苦しまれたことに注意を向けさせています。主節、中心となる考えは、「自分自身を武装しなさい。」という部分になります。また、その条件・状況は、「あなたがたも同じ心構えで」となっています。つまり、キリストと同様に、神のみ心に従って、進んで苦しみに耐える心構えで、ということです。
4節、5節でも、ペテロは引き続き迫害されているクリスチャンたちを励ましています。迫害する人たちは、悪口を言うのですが、彼らは神の裁きに合うのだということを思い起させています。神の公平な裁きが有るのだから、それに希望を持って耐え忍びなさいという励ましになっています。
6節は、「というのは」という接続詞で、最後の審判を意識することが迫害されているクリスチャンにとって励みになるの理由を示しています。では、6節の伝えようとしていることは何でしょうか。それは、福音が宣べ伝えられた目的は、たとえこの世では迫害されて、最悪の場合は死刑判決を受け、死んだ後まで汚名を着せられても、キリストを信じ受け入れた者は霊においては生きた者となるためだということです。「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」という表現が誤解を招くことが有りますが、ここでもクリスチャンへの励ましという文脈と時制の確認から理解する必要が有ります。死んだ人々は現在すでに死んでいます。福音が宣べ伝えられたのは過去です。すると、その人たちが存命中に福音を聞いたということになります。励ましの要素は何でしょうか。殉教したり、迫害の苦しん環境の中で死んだりした人も神にあって霊は永遠の命の恵を受け継ぐのだということを明確にすることです。
まとめ)
ペテロは、現在の苦しみと永遠の命、神の審判を比較しながら迫害されているクリスチャンを励まし続けています。その望みは、キリストの受難と復活を通してクリスチャンに与えられました。
今回のペテロの文章は、あちこちに飛ぶような部分が有り、パウロの文書に比べると理論の流れがつかみ辛い部分も時には有るかもしれません。しかし、キリストの受難を念頭に置いて話を進めているのは明らかです。そこに注目して要点をまとめてみましょう。
キリストが苦しまれたのだから
1)クリスチャンは永遠の命の希望が有る
ペテロはそういう希望を繰り返しのべています。その希望のゆえに、私たちも迫害、悪口、間違った非難等を忍耐して行けるのです。
2)クリスチャンは自分自身を武装しなければならない
武装すると訳された語は、装備する、身支度をする、能力を養うというニュアンスが含まれます。私たちも心を決め、神のみ心に従う中で進んで苦しみや迫害に耐える心構えをしなければなりません。そこまで行かなくても、私たちは馬鹿にされたり、誤解に基づいた非難を受けることが有るのですから。
3)クリスチャンは人間的欲望に従って歩まない
2節に有るように、神のみ心のために過ごすようになったのですから、3節に述べられているような人間の欲望に従うことは止めたのです。それは、クリスチャンは、自分を守ること、心の平安を保つこと、心地よくすることにおいても神にのみ頼ることに決めたからです。これらを、神以外に求める偶像礼拝の姿勢から離れるのです。
説教題:キリストが苦しまれたのだから
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)
導入)
前回も触れましたが、このペテロの書簡は、小アジアで迫害されているクリスチャンを励ますために書かれました。本日の聖書箇所には、理解が難しい部分も有りますが、この文脈から理解することが大事です。そして、彼の励ましは、キリストが苦しまれたという事実に基づいています。
本論)
18節は、前の17節の理由を説明しています。善を行って苦しみを受ける方が良いのは、クリスチャンの模範であるキリストもそのように歩まれたからです。キリストの受難を通して、クリスチャンは永遠の命の希望を得たからです。キリストは苦しまれたばかりではなく、よみがえられました。同様に、クリスチャンも迫害に苦しむだけではなく、永遠の命をいただくのです。
19節は、キリストが救いを成し遂げた時に、霊においてなされたことが書かれています。その内容は、「捕らわれた霊たちのところに行って、みことばを語られた」ということです。注意を払わなければならないのは、動作は過去時制であるということです。これは過去に起こったたことであり、それは現在行われていないということです。「みことばを語る」というのは、報道者、伝令官が広告をするという意味の言葉です。キリストは一体何を公告したのでしょうか。その内容は22節まで待たなければならないようです。また、「捕らわれの霊たち」という表現の理解がなければいけません。新約聖書では、複数形の「霊たち」という表現は32回ほど出てきますが、ほとんどが、超自然的な力を持つ霊のことであり、大半が悪霊に対して用いられています。そして、特にノアの時代に活動していた霊たちという特定の霊であることが示されています。つまり、一般的な死者の霊のことではないのです。そういう霊が捕らわれているというのは、一般的なユダヤ的理解でした。ペテロは2ペテロ2章4節でもその理解を示しています。(ユダ6節も参照)
ペテロはここで、ノアとその家族を迫害されているクリスチャンに重ね合わせているのです。ノアと家族は人々に嘲られていたかもしれませんが、大洪水という裁きから救われました。また、その時働いていた悪霊たちは捕らわれているということです。同様に、クリスチャンたちは悪口や間違った非難を受けていましたが、最後の審判の時には救われるのです。永遠の命の希望にもう一度目を向けさせています。
21節は、水のつながりでバプテスマの話が出て来ます。原文には、「神に従わない人々を滅ぼした水とは違って、水のバプテスマはあなたがたを救うのです」という意味合いを含んでいる様子です。ペテロは、バプテスマについての誤解を避けようとして説明を加えているようです。(21節後半)バプテスマの中心的意義は神への誓いだということです。誓いと訳された語には、「応答、尋問への回答」という意味が有り、神への信仰をを持つかとい問への応答という雰囲気を含んでいます。そして、その救いの力は、水の力ではなく、キリストの復活によるのだと述べているようです。
22節でペテロはもう一度キリストの復活に注意を向けさせています。キリストは、復活して神の右の座におられるます。それは、権威の座にいるという意味です。最後の審判の時には、神とキリストが審判をしますが、神はキリストにその権限を委ねているのです。キリストがこのような位置を取られたということが、キリストが霊において捕らわれの霊たちに公告した内容ということになります。福音を宣べ伝えたのではありません。悪霊に福音を宣べ伝えることなどはないからです。また、悪霊に福音が語られたという意味であったら、迫害下に有るクリスチャンを励ますという文脈に合いません
4章1節は、「このように」という意味の接続詞を用いて、再びキリストが苦しまれたことに注意を向けさせています。主節、中心となる考えは、「自分自身を武装しなさい。」という部分になります。また、その条件・状況は、「あなたがたも同じ心構えで」となっています。つまり、キリストと同様に、神のみ心に従って、進んで苦しみに耐える心構えで、ということです。
4節、5節でも、ペテロは引き続き迫害されているクリスチャンたちを励ましています。迫害する人たちは、悪口を言うのですが、彼らは神の裁きに合うのだということを思い起させています。神の公平な裁きが有るのだから、それに希望を持って耐え忍びなさいという励ましになっています。
6節は、「というのは」という接続詞で、最後の審判を意識することが迫害されているクリスチャンにとって励みになるの理由を示しています。では、6節の伝えようとしていることは何でしょうか。それは、福音が宣べ伝えられた目的は、たとえこの世では迫害されて、最悪の場合は死刑判決を受け、死んだ後まで汚名を着せられても、キリストを信じ受け入れた者は霊においては生きた者となるためだということです。「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」という表現が誤解を招くことが有りますが、ここでもクリスチャンへの励ましという文脈と時制の確認から理解する必要が有ります。死んだ人々は現在すでに死んでいます。福音が宣べ伝えられたのは過去です。すると、その人たちが存命中に福音を聞いたということになります。励ましの要素は何でしょうか。殉教したり、迫害の苦しん環境の中で死んだりした人も神にあって霊は永遠の命の恵を受け継ぐのだということを明確にすることです。
まとめ)
ペテロは、現在の苦しみと永遠の命、神の審判を比較しながら迫害されているクリスチャンを励まし続けています。その望みは、キリストの受難と復活を通してクリスチャンに与えられました。
今回のペテロの文章は、あちこちに飛ぶような部分が有り、パウロの文書に比べると理論の流れがつかみ辛い部分も時には有るかもしれません。しかし、キリストの受難を念頭に置いて話を進めているのは明らかです。そこに注目して要点をまとめてみましょう。
キリストが苦しまれたのだから
1)クリスチャンは永遠の命の希望が有る
ペテロはそういう希望を繰り返しのべています。その希望のゆえに、私たちも迫害、悪口、間違った非難等を忍耐して行けるのです。
2)クリスチャンは自分自身を武装しなければならない
武装すると訳された語は、装備する、身支度をする、能力を養うというニュアンスが含まれます。私たちも心を決め、神のみ心に従う中で進んで苦しみや迫害に耐える心構えをしなければなりません。そこまで行かなくても、私たちは馬鹿にされたり、誤解に基づいた非難を受けることが有るのですから。
3)クリスチャンは人間的欲望に従って歩まない
2節に有るように、神のみ心のために過ごすようになったのですから、3節に述べられているような人間の欲望に従うことは止めたのです。それは、クリスチャンは、自分を守ること、心の平安を保つこと、心地よくすることにおいても神にのみ頼ることに決めたからです。これらを、神以外に求める偶像礼拝の姿勢から離れるのです。