パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

火曜聖書研究会 2021年10月25日

2021-10-25 21:52:52 | 日記
実際には、月曜日に家庭礼拝の形で行いました。

聖書箇所:ヨハネ12章27節-36節

27節 過ぎ越しの祭りの7日目で、間もなく十字架にかかる時なので、「この時」はそのことを指す。このために世に来られたことを、ここでも明言されている。
28節 天の父なる神の声。すでに栄光を現したというのは、バプテスマの時の天からの声や、山の上での変貌の時のことと考えられる。また、イエスが求めた栄光の現れは、復活や昇天を含むものであったかもしれない。
29節 神の声は、それを聞くように定められた人にしかはっきりと聞こえないと考えられる。
30節 ここで、イエスは弟子たちに話している。(22、23節参照) 天の声がはっきり聞こえたのは、弟子たちのための印であったと考えられる。
31節 「この世を支配する者」は、サタンと悪霊のことになる。十字架を通して完全にその勢力は裁かれ、断罪される。また、その支配権が及ばない領域が広がる。
32節 イエスの昇天の後、召された人はイエスのもとに引き寄せられる。26節の言葉も参照。
33節 実際には具体的な死に方に言及していない。しかし、十字架の死と復活、救いの完成を視野に入れた発言であることは明白である。
34節 イエスは弟子たちに語ったのであったが、周囲にいた群衆が口をはさむ。地上から上げられるという表現が、いつまでも地上で生きているという彼らの知っているメシア像と合致しなかったことによる。すると、地上から上げられるイエスとは別にメシアがいるということなのか、イエスはメシアでは有り得ないのではないかという疑問。
35節 ヨハネが1章で示したように、光はイエスであり、闇はこの世、またサタンの支配。イエスの恵みの届くうちに霊的な歩みを確かにしなさい。
36節 イエスの福音を信じ、神の民となるようにという招き。光なるイエスを信じることは神のわざを為すことである。(6章29節参照)

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日曜礼拝 2021年10月24日

2021-10-24 17:19:26 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:エレミヤ2:1 - 13
説教題:神の民への告訴状

導入)
2章は裁判における告訴状の形式に準じていると考えられます。人々に呼ばわれという神の命令で始まっていますので、多くの人に聞かれなければならないという前提になっています。

本論)
2節-3節 被告
  エルサレムの人々、イスラエル人に聞かせるようにということですから、彼らが被告です。
  彼らは、神のとっては「主の聖なるもの」、「収穫の初穂」というべき存在でした。収穫の初穂という表現は、他に、最上のもの、精選されたもの、という意味が有ります。律法では、それは神のものと規定されていました。イエスらエル人が神にとっていかに尊い存在であったかを示しています。
  それに関連して、神が思い起させようとしているのは、出エジプトと、カナン定住の頃の神と民との関係です。

4節-9節 原告
  神は、わたしにどんな不正を見出したのかと問い質し、具体的な自分の実績を示すところから始めます。神が原告であるということを示しています。イスラエル人が神を念頭に入れない生活をしており、偶像礼拝に陥っていることを指摘し、9節で、原告として、わたしはあなたがたと争うと宣言しています。

10節-13節 罪状
  10節から12節までの記述は、罪状の中心的行為となる偶像礼拝についての指摘です。神は、イエスらエルの民と他の異邦の民との比較をしています。
  キティムは西側でケダルは東側を示しています。諸国は偶像礼拝をしていました。しかし、イスラエルの偶像礼拝と違う点は、彼らは自分たちの偶像神に忠実であったということです。イスラエル人はと言えば、彼ら唯一の真の神をから偶像神に乗り換えてしまったのです。それは、他の国々にはないことでしたので、ことさらその不誠実さが際立つのでした。
  神は13節でその罪状を二つの罪としてまとめています。それは、1)神を忘れ、神を捨てたこと。2)偶像礼拝に走ったこと。と示されています。

まとめ)神の告訴状から学ぶべきこと
1)私達は神がどのようなお方であるかを認識しなければならない
  イスラエルの60万の民をエジプトから救い出し、40年間荒野で養われたように、神は私達を罪から救い出し、私達を養い、私達を守られる方です。
2)私達は自分がどのような存在であるかを認識しなければならない
  私達は神の目に高価で貴く、神の花嫁のような存在である。神は御子イエスの血で私達を買い取ってくださったほどに神の愛の対象なのである。この自己像、アイデンティティーにしっかり立って考え、生きなければなりません。
3)私達は罪がどのようなものであるかを認識しなければならない
  神を忘れてしまうこと、自分で作り上げた方法で平安を得ようとすることが罪の中心的性質です。
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日曜礼拝 2021年10月17日

2021-10-17 17:39:23 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:エペソ 4:1 - 16
説教題:成長する教会

導入)
  イエスが昇天される前に弟子たちに語ったことを見れば、教会が成長することが神の御子ころであることは明らかです。本日の聖書箇所にも、教会の成長の原則が示されています。成長する教会の要素はなんであるかを、この箇所から読み取っていきましょう。

本論)
1)召命に応え、一致のために努力する教会
  キリストに有って召し出されたクリスチャンは、迫害にも耐え忍んでその証明に応えようとし、成長してきました。具体的にそのために努力するべき内容は、2節から6節に示されています。
  先ず、謙遜、柔和、寛容であるように努力することです。謙遜というのは、当時は奴隷に属する性質だと考えられていたそうです。イエスの教えと模範を通して、謙遜は一般的にも美徳とされるようになったのです。
  次に、愛をもって忍び合う努力をすることです。私たちは、神に忍耐や許しを請う祈りをしないでしょうか。神が愛をもって私たちの生き方を忍耐してくださらなければ、私たちは一瞬にして滅ぼされてもおかしくない存在です。そういう部分を自覚する私たちですから、お互いに対しても、愛をもって忍び合う努力をするのです。
  また、聖霊・聖書の教えの一致を保つ努力をすることです。3節から6節まで一つという言葉が繰り返されています。聖霊に導かれて、唯一の神、その教えと望み、唯一のキリストの体なる教会の一致を保つ努力をします。

2)キリストの賜物の恵みに留意する教会
  キリストによって賜物がひとりひとりに与えられていることが示されています。皆同じに与えられるのではなく、また限度無しに与えられるのでもありません。それぞれに「相応しく」与えられているのです。
  8節から10節の内容は、この賜物がいかに貴重なものであるかを説明しています。恵みと賜物の前提は、イエスが降誕され、十字架にかかり、黄泉に下り、三日目にに死人のうちからよみがえり、天の昇られたことだということです。ですから、救いの恵みばかりか、賜物も霊的に大変貴重なものであるという認識を持たなければなりません。
  8節には、凱旋する王や将軍のイメージが用いられています。凱旋の行列の末尾には、捕虜が引き連れられ、戦利品が見せられます。それらは、人々に分け与えられることもありました。私たちの賜物や能力が、イエスが敵から勝ち取った戦利品として描かれています。信仰を持つ前は、自分や、場合によっては悪魔の働きのために用いられて、罪の働きに寄与していたかもしれない私たちの能力や心構えなどが、イエスの勝利によって、悪魔からぶんどられ、聖なる業に用いられるものに変えられ、私たちに賜物として与えらえたのです。
  ですから、自然に身についた能力のように感じることであっても、イエスの計り知れない代価によっていただいたものなのだという認識をもって、努力して、教会のために意識的に用いるのです。それが、教会の一致と成長につながっていきます。

3)奉仕の働きと聖書の学びを継続する教会
  教会の一致と成長、また、先の二つの原則のまとめという着眼点から11節以降を確認します。
  教会はイエスの業を通して誕生しました。また、賜物の一部として、教会を導く人たちを与えられました。その目的は12節に、「聖徒を整えて奉仕の働きをさせ」と示されています。私たちひとりひとり参加、奉仕が教会を建て上げ、成長させることは明らかです。
  そして、その裏打ちとなるのが聖書の学びです。13節を見ると、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致が必要だとされています。その一致に至るためには、どうしても単なる聖書通読に留まらない、掘り下げた聖書研究が必要になります。現代では当時の時代背景、文化的背景、原文の用語の知識などが、読んだだけでは分からないことが多いので、尚更です。
  聖書研究の結果として、キリストに達するという表現が13節と15節に出てきます。それは、キリストが父の御心をわきまえ知っていたように、私たちが聖書に啓示されているキリストの教えをわきまえ知ることができるようになるという意味です。
  まとめの16節は、キリストの御心をわきまえ知ることによって、私たちの奉仕が相互に働き合って、教会が成長し、建て上げられるということを示しています。
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日曜礼拝 2021年10月10日

2021-10-10 18:46:23 | 日曜礼拝
礼拝ビデオ

聖書箇所:ルカ 19:11 - 27
説教題:私たちの務め

導入)
  イエスがこのミナの例えを話された理由が最初に示されています。人々が神の国がすぐにでも来るように考えていたからだというのです。メシアであると期待されていたイエスが、過ぎ越しの祭りの時にエルサレムに来たということがその考えの背景に有りました。メシアは過ぎ越しの祭りの時にエルサレムで挙兵すると考えられていたからです。この例えの目的は、第一には、イエスが王座につくのはまだ先のことであることを示すことでした。
  例えの背景には、それより30年程前に有った歴史的な出来事が有ります。ヘロデ大王の長男であったアケラオが、ユダヤの王になることの許可を求めに、ローマ皇帝のもとに出かけました。しかし、反対勢力が、ローマ皇帝に対して、彼を王にしないように嘆願する使者を送りました。結局ローマ皇帝は王ではなく領主という地位を与えましたが、王のように考えられることが有ります。アケラオは、ローマから帰ると、反対勢力を粛正し、約二千人が殺されたということです。イエスの例えは、この事実を思い出させ、そのイメージが生々しいものになる効果が有りました。

本論)
  先に示しましたように、この例えの第一の目的は、神の国は、民の期待のように直ぐに到来するものではないということを示すことに有りました。例話は明らかにイエスのことを指しています。身分の高い人が出てきますが、イエスは、神の御子であり、人間的にもダビデ王の血筋です。遠い国に行くのは、復活の後に昇天して父なる神の右に座することを示唆しています。そして、その身分の高い人が再び帰って来るように、イエスも再臨されるのです。
  次に、この例えは、イエスに従う者たちには、委ねられた務めが有ることを示しています。十人のしもべに十ミナが渡されたということですから、一人一ミナの配分になります。一ミナは、100日分の労働賃金と言われています。当時、このような大金を動かすことができる人は大変限られていたということです。この一ミナは、神の豊かな恵みと神の教えを象徴していると考えられます。商売をしなさいという表現がされていますが、それは、銀行や証券取引のような仕事に従事することを意味する語です。クリスチャンが皆商売をしなければならないということではありません。クリスチャンは、神の恵みと教えを広げる務めが委ねられているということです。
  また、この例えは、イエスに従う者たちが、その行いに従ってイエスに評価される時が来ることを示しています。忠実に商売をして、委ねられたミナを増やした者は、ほめられています。「ほんの小さなことに忠実であった」という表現が気になります。100日分の労働賃金と、それを運用することは、決して「ほんの小さなこと」ではないと思います。これは比較の問題です。神の国で永遠に生きることと比較すれば、この世での信仰の歩みはほんの小さなことだということです。厳しい評価をされた者もいました。三人目のしもべは、主人から預かった一ミナを、布にくるんでしまっておいたというのです。当時、お金を布にくるんでしまっておくのは一番愚かなお金の管理方法だという考えが一般的でした。このしもべは、一ミナの価値も、主人の言いつけも無視したことになります。
  しかし、もっと厳しい言葉を聞くことになる人々がいました。この身分の高い人物が、王になることを望まなかった人たちです。彼らは皆殺すようにという命令がだされました。イエスに王になってもらいたくないと思う人々は、霊的な滅びを経験することになるのです。

まとめ)
  今回は、イエスに従う者には委ねられた務めが有るという部分に注目して、私たちの務めについて知っておかなければならないことをまとめたいと思います。

1)私たちの務めの内容
  最低でも次の四つほどを意識していることが必要だと思われます。
  ・心から神に信頼すること。(ルカ12:28, 31 )
  ・神を愛し、互いに愛し合うこと。(ヨハネ15:16~ )
  ・主の前に遜ること。(1ペテロ5:5)
  ・いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝すること。(1テサロニケ5:16~)

2)私たちの務めの態度
  ・最初の二人のしもべのように、務めに誠実に取り組み、勤勉であること。
  ・やがて受け継ぐことになる永遠の命と報酬をいつも意識していること。
  ・取り組めば、恵みは増し加えられることを意識すること。

3)私たちの務めの実践
  ・私たちの家庭の中で。
  ・私たちの社会の中で。(近所、学校、職場)
  ・何よりも私たちの教会の中で。(神の恵みを最も尊ぶ人たちの集う教会は、霊的な銀行のような場所です。)

「よくやった、良い忠実なしもべだ。」と主に言っていただけることを目指して、私たちの務めを心に留めましょう。
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日曜礼拝 2021年10月3日

2021-10-03 23:15:47 | 日曜礼拝
聖書箇所:2列王記 4:38 - 41
説教題:聖徒の共同体

導入)
  前後の文脈を見ると、朗読した部分が含まれる4章は、神に従う人々に特に焦点を当てた記述であることが分かります。前後の3章、5章は、異国の王についての記述ですが、4章全体は、神に従う聖徒に関わる記述になっています。私たちも現代の聖徒ですから、私たちにどのように関係が有る内容なのかということを考えてみましょう。

本論)
  エリシャがギルガルに帰ってきたという記述が有ります。預言者サムエルがしていたように、彼も各地を巡回して預言や神の教えを伝えることをしたということです。預言者のともがらといわれる人たちが登場します。エリシャ一人で神の言葉を伝えるために行き巡るのは大変なことでしたので、エリシャに託されて代わりに言葉を伝えに出かける人たちが彼の周りにいたということです。預言は神に選ばれた人が神の霊に導かれてするものですから、預言者学校が有ったのだと考えることはできません。
  さて、ギルガルは飢饉であったということです。しかし、預言者のともがらを労いたいということでしょうか、エリシャは大きなかまで煮物を作るようにと使用人と思われる若者に命じました。大きなかまというのは、大人一人が隠れることができるぐらいのものを指す言葉だそうです。しかし、飢饉の時に食材を調達するのは楽なことではありません。使用人は野にでかけて食材を探しました。そこで彼は野生の瓜をみつけます。39節の終わりには、彼らはそれが何であるか知らなかったということが述べられています。つまり、それは良い食材ではなかったということです。
  食事を始めるとすぐに問題が発覚しました。「かまの中に毒が入っています。」と叫ぶ人が出てきました。使用人が収穫したうりは、小さいスイカや丸いきゅうりのような形状のものですが、毒が有りました。今日でも見られる植物だそうです。口にすると大変苦く、胃腸が痛くなり、下痢をし、その後、その炎症が他の臓器にも広がって行って死にいたるそうです。
  エリシャの指示したことは理解に苦しむ内容でした。かまに麦粉を入れなさいというのです。煮物にとろみをつけるために麦粉を入れることは有るかもしれませんが、解毒作用は有りません。しかし、そうすると、苦みも毒も消えていたというのです。他の聖書箇所でも、預言者の支持が常識的でないことが時々有ります。これは、神の力によって奇跡が起きたのだということになります。

まとめ)
  列王記は、ユダ王国末期に、人々の信仰をもう一度神に引き戻すために書き始められたと考えられています。私たちも、その当時と変わらない、もしくはそれ以上に霊的な乏しさ、飢饉の中に生きています。それでも私たちは預言者のともがらのように、力をあわせて忠実に生きていくのです。今回の聖書箇所箇所から読み取る原則を次のように考えました。

1)神の恵みとみ言葉は聖徒の共同体の中で分かち合われなければならない
  預言者のともがらが神の言葉を伝えたように、私たちも神の言葉を伝え、互いに確認し合って生きる必要が有ります。コロサイ3:16では、聖書の言葉をもって互いに教え戒め、また、み言葉を引用したり歌ったりするように勧められています。

2)霊的無知が聖徒の共同体に破壊をもたらすことがある
  煮物を用意した人たちは、野で取ってきたうりが毒であることを知りませんでした。霊的な飢饉の中では、滅びをもたらす異端や偶像礼拝が入ってくることがあります。コロサイのクリスチャンたちは、偽教師によるこの世の知恵に基づいて教えと、イエスのみ言葉の区別をすることができていませんでした。私たちは、そのような無知の中にいてはいけません。聖書をよく読み、聖書研究会などで知識を深めていきましょう。

3)神の恵みとみ言葉だけが聖徒の共同体を回復させる
  毒うりの入った煮物は麦粉によって解毒されました。これは象徴的に理解されるべきことであると思われます。神の言葉はパンにたとえられます。麦粉はそのパンの原料です。神の言葉の象徴と理解することも可能ではないでしょうか。麦粉が毒うりを解毒したように、神のみ言葉が私たちを滅びに向かわせるこの世の教えや考えという毒を解毒することができるのです。それが、私たちにとって、唯一の回復の源なのです。
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