本日の礼拝ビデオ
聖書箇所:出エジプト記29:38 - 42
説教題:イエス、神の子羊
導入)
バプテスマのヨハネはイエス・キリストを「見よ、世の罪を取り除く、神の子羊。」と紹介しました。彼はユダヤ人に対して話していました。ですから、律法の規定による動物の捧げものの子羊を知っていたでしょう。しかし、イエスがどう子羊に関係有るのかは、理解できなかったと思われます。
バプテスマのヨハネは、イエスが十字架にかかるおよそ一年前に、ヘロデ王に斬首されてしまいました。しかし、もし彼がイエスの十字架の死の様子を見たならば、確実にイエス・キリストが神の子羊であったと確認できたことでしょう。この聖書箇所の理解を深めていきましょう。
本論)
38節 動物の犠牲の捧げものは、罪の赦しのために捧げられました。それは、人々に神の慈悲と赦しを思いださせるものでもありました。罪の贖いのために神が制定されただけではなく、神の偉大な憐みを思い起させるためでもあったでしょう。
私たちは、この捧げものが、毎日捧げられなければならなかったことにも留意するべきでしょう。私たちも、神の憐みと赦しを毎日心に留める必要が有ります。
39節 捧げ方の規定がここに示されています。律法で定められた時間に捧げられました。この節の説明は、朝、夕方という表現で曖昧だと思われます。注解を見ますと、最初の羊は7時に祭壇に縛り付けられ、9時に捧げられました。二番目の羊は正午に祭壇に縛り付けられ、3時に捧げられました。
40節 犠牲の羊には、上等の小麦粉とワインの捧げものが添えられなければなりませんでした。パンとワインと考えても良いものです。それは、神と人間の交流を象徴する交わりの捧げものとも考えられています。旧約聖書では、ワインは神の祝福の象徴でもありました。ワイン無しには会食や宴会は終わらないものでした。神への捧げものにも宴会にも用いられるので、神と人の両方を喜ばせるものとして士師記9:13の例話に出て来ています。羊が二回捧げられましたが、小麦粉とワインの捧げものも毎日二回捧げられなければなりませんでした。神は、罪の贖いの必要を認識させたいだけではなく、神との関係と交流の回復ができることをも認識して欲しいと思っておられるのです。
41節 ここでは、この捧げものは「なだめのかおりの捧げもの」とされていますが、英語ではpleasing aroma という表現がされています。容易にイメージが沸くのではないかと思います。ステーキ・ハウスのそばを通ると、肉の焼ける良いにおいがして、食欲がそそられる感じを思い出してください。また、複数の英語の訳では、food offering という表現がされていて、会食や宴会のイメージが重なっています。
42節 代々にわたってと書いてありますが、私たちは、それをイエスが最初に来られて御業を成し遂げられるまでと理解します。イエスによって贖いの業は完成するからです。会見の天幕の入口という場所が示されているのは、そこに捧げものをするための祭壇が有ったからです。そこで、神はモーセ、ひいては民と語るというのです。神が御心を示される場所は、天幕の中ですから、それを意味しているかもしれません。
この旧約聖書の捧げものの規定が、どのように救い主イエス・キリストと関わりが有るのでしょうか。実は、イエスの受難は、この毎日の捧げものの規定に合わせるように進行していたのです。最初の羊は夜明けに祭壇に縛り付けられ、イエスはその時間に有罪判決を受けました。それから9時に羊は犠牲になりますが、その時間にイエスは十字架にかけられました。正午に二匹目の羊が祭壇に縛り付けられますが、その時間に太陽は陰って空は暗くなりました。その羊が犠牲になる3時に、イエスは霊を神に委ねて息を引き取りました。羊は毎日捧げられましたが、神の子羊であるイエス・キリストは、私たちの永遠の贖いの犠牲となられました。同時にイエスは大祭司の働きもされたのです。(ヘブル9:11 – 14参照)
イエスは神と人の関係を回復されました。神は、神の言葉と呼ばれるイエスを通して人類に語り掛けられました。イエスは神の救いの計画、福音を私たちに示されました。バプテスマのヨハネの証した通り、イエスは世の罪を取り除く神の子羊となられたのです。
まとめ)
律法の常供の捧げものの規定と、神の子羊であるイエス・キリストの関係を通して、神が私たちにして欲しいと思っておられることを考えてみます。
1)神は私たちにキリストの犠牲を思い出して欲しい
モーセを通して神がイスラエルの民に命じられたように、毎日の羊の犠牲を通して、私たちに罪の贖いの必要を思い出して欲しいのです。イエスは世の罪を取り除く神の子羊です。二匹の羊が毎日捧げられたように、最低でも日に二度、イエスの贖いの業に感謝の告白をしようではありませんか。イエス・キリストを救い主と受け入れるという従順。永遠の犠牲となられたイエスを賛美するという従順。このように、イエスを通して、私たちは主へのなだめの捧げものをすることができるのです。
2)神は私たちに神との和解を祝って欲しい
毎日の捧げものは、食物の捧げものという表現をされることも有ります。小麦粉(パン)とワインの捧げものを伴って、宴会のイメージが重なります。放蕩息子が宴会をもって受け入れられたように、神と人との和解と関係の回復を共に喜んで欲しいのです。私たちは、そのことを聖餐式にも見出すことができます。そして、イエスの再臨と裁きの後には、子羊の婚宴をもって祝われるのです。
3)神は、神の言葉を通して私たちと交流を持って欲しい
犠牲の羊が捧げられた後、神がモーセや民に語り掛けたように、神の言葉であるイエス・キリストを通して、また、聖書の言葉を通して、語り掛けたいと思っておられます。従順に、私たちは聖書を読み、主を知る知識に富んだ者とならなければなりません。また、読んだ聖書箇所を通して瞑想する必要が有ります。また、祈りを通して神と交流する必要が有ります。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが求められています。私たちは願いも捧げます。その交わりを通して、神は私たちが平安を持つことを願っておられます。
聖書箇所:出エジプト記29:38 - 42
説教題:イエス、神の子羊
導入)
バプテスマのヨハネはイエス・キリストを「見よ、世の罪を取り除く、神の子羊。」と紹介しました。彼はユダヤ人に対して話していました。ですから、律法の規定による動物の捧げものの子羊を知っていたでしょう。しかし、イエスがどう子羊に関係有るのかは、理解できなかったと思われます。
バプテスマのヨハネは、イエスが十字架にかかるおよそ一年前に、ヘロデ王に斬首されてしまいました。しかし、もし彼がイエスの十字架の死の様子を見たならば、確実にイエス・キリストが神の子羊であったと確認できたことでしょう。この聖書箇所の理解を深めていきましょう。
本論)
38節 動物の犠牲の捧げものは、罪の赦しのために捧げられました。それは、人々に神の慈悲と赦しを思いださせるものでもありました。罪の贖いのために神が制定されただけではなく、神の偉大な憐みを思い起させるためでもあったでしょう。
私たちは、この捧げものが、毎日捧げられなければならなかったことにも留意するべきでしょう。私たちも、神の憐みと赦しを毎日心に留める必要が有ります。
39節 捧げ方の規定がここに示されています。律法で定められた時間に捧げられました。この節の説明は、朝、夕方という表現で曖昧だと思われます。注解を見ますと、最初の羊は7時に祭壇に縛り付けられ、9時に捧げられました。二番目の羊は正午に祭壇に縛り付けられ、3時に捧げられました。
40節 犠牲の羊には、上等の小麦粉とワインの捧げものが添えられなければなりませんでした。パンとワインと考えても良いものです。それは、神と人間の交流を象徴する交わりの捧げものとも考えられています。旧約聖書では、ワインは神の祝福の象徴でもありました。ワイン無しには会食や宴会は終わらないものでした。神への捧げものにも宴会にも用いられるので、神と人の両方を喜ばせるものとして士師記9:13の例話に出て来ています。羊が二回捧げられましたが、小麦粉とワインの捧げものも毎日二回捧げられなければなりませんでした。神は、罪の贖いの必要を認識させたいだけではなく、神との関係と交流の回復ができることをも認識して欲しいと思っておられるのです。
41節 ここでは、この捧げものは「なだめのかおりの捧げもの」とされていますが、英語ではpleasing aroma という表現がされています。容易にイメージが沸くのではないかと思います。ステーキ・ハウスのそばを通ると、肉の焼ける良いにおいがして、食欲がそそられる感じを思い出してください。また、複数の英語の訳では、food offering という表現がされていて、会食や宴会のイメージが重なっています。
42節 代々にわたってと書いてありますが、私たちは、それをイエスが最初に来られて御業を成し遂げられるまでと理解します。イエスによって贖いの業は完成するからです。会見の天幕の入口という場所が示されているのは、そこに捧げものをするための祭壇が有ったからです。そこで、神はモーセ、ひいては民と語るというのです。神が御心を示される場所は、天幕の中ですから、それを意味しているかもしれません。
この旧約聖書の捧げものの規定が、どのように救い主イエス・キリストと関わりが有るのでしょうか。実は、イエスの受難は、この毎日の捧げものの規定に合わせるように進行していたのです。最初の羊は夜明けに祭壇に縛り付けられ、イエスはその時間に有罪判決を受けました。それから9時に羊は犠牲になりますが、その時間にイエスは十字架にかけられました。正午に二匹目の羊が祭壇に縛り付けられますが、その時間に太陽は陰って空は暗くなりました。その羊が犠牲になる3時に、イエスは霊を神に委ねて息を引き取りました。羊は毎日捧げられましたが、神の子羊であるイエス・キリストは、私たちの永遠の贖いの犠牲となられました。同時にイエスは大祭司の働きもされたのです。(ヘブル9:11 – 14参照)
イエスは神と人の関係を回復されました。神は、神の言葉と呼ばれるイエスを通して人類に語り掛けられました。イエスは神の救いの計画、福音を私たちに示されました。バプテスマのヨハネの証した通り、イエスは世の罪を取り除く神の子羊となられたのです。
まとめ)
律法の常供の捧げものの規定と、神の子羊であるイエス・キリストの関係を通して、神が私たちにして欲しいと思っておられることを考えてみます。
1)神は私たちにキリストの犠牲を思い出して欲しい
モーセを通して神がイスラエルの民に命じられたように、毎日の羊の犠牲を通して、私たちに罪の贖いの必要を思い出して欲しいのです。イエスは世の罪を取り除く神の子羊です。二匹の羊が毎日捧げられたように、最低でも日に二度、イエスの贖いの業に感謝の告白をしようではありませんか。イエス・キリストを救い主と受け入れるという従順。永遠の犠牲となられたイエスを賛美するという従順。このように、イエスを通して、私たちは主へのなだめの捧げものをすることができるのです。
2)神は私たちに神との和解を祝って欲しい
毎日の捧げものは、食物の捧げものという表現をされることも有ります。小麦粉(パン)とワインの捧げものを伴って、宴会のイメージが重なります。放蕩息子が宴会をもって受け入れられたように、神と人との和解と関係の回復を共に喜んで欲しいのです。私たちは、そのことを聖餐式にも見出すことができます。そして、イエスの再臨と裁きの後には、子羊の婚宴をもって祝われるのです。
3)神は、神の言葉を通して私たちと交流を持って欲しい
犠牲の羊が捧げられた後、神がモーセや民に語り掛けたように、神の言葉であるイエス・キリストを通して、また、聖書の言葉を通して、語り掛けたいと思っておられます。従順に、私たちは聖書を読み、主を知る知識に富んだ者とならなければなりません。また、読んだ聖書箇所を通して瞑想する必要が有ります。また、祈りを通して神と交流する必要が有ります。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが求められています。私たちは願いも捧げます。その交わりを通して、神は私たちが平安を持つことを願っておられます。