パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2021年4月25日

2021-04-25 15:30:04 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:出エジプト記29:38 - 42
説教題:イエス、神の子羊

導入)
  バプテスマのヨハネはイエス・キリストを「見よ、世の罪を取り除く、神の子羊。」と紹介しました。彼はユダヤ人に対して話していました。ですから、律法の規定による動物の捧げものの子羊を知っていたでしょう。しかし、イエスがどう子羊に関係有るのかは、理解できなかったと思われます。
  バプテスマのヨハネは、イエスが十字架にかかるおよそ一年前に、ヘロデ王に斬首されてしまいました。しかし、もし彼がイエスの十字架の死の様子を見たならば、確実にイエス・キリストが神の子羊であったと確認できたことでしょう。この聖書箇所の理解を深めていきましょう。

本論)
  38節 動物の犠牲の捧げものは、罪の赦しのために捧げられました。それは、人々に神の慈悲と赦しを思いださせるものでもありました。罪の贖いのために神が制定されただけではなく、神の偉大な憐みを思い起させるためでもあったでしょう。
  私たちは、この捧げものが、毎日捧げられなければならなかったことにも留意するべきでしょう。私たちも、神の憐みと赦しを毎日心に留める必要が有ります。
  39節 捧げ方の規定がここに示されています。律法で定められた時間に捧げられました。この節の説明は、朝、夕方という表現で曖昧だと思われます。注解を見ますと、最初の羊は7時に祭壇に縛り付けられ、9時に捧げられました。二番目の羊は正午に祭壇に縛り付けられ、3時に捧げられました。
  40節 犠牲の羊には、上等の小麦粉とワインの捧げものが添えられなければなりませんでした。パンとワインと考えても良いものです。それは、神と人間の交流を象徴する交わりの捧げものとも考えられています。旧約聖書では、ワインは神の祝福の象徴でもありました。ワイン無しには会食や宴会は終わらないものでした。神への捧げものにも宴会にも用いられるので、神と人の両方を喜ばせるものとして士師記9:13の例話に出て来ています。羊が二回捧げられましたが、小麦粉とワインの捧げものも毎日二回捧げられなければなりませんでした。神は、罪の贖いの必要を認識させたいだけではなく、神との関係と交流の回復ができることをも認識して欲しいと思っておられるのです。
  41節 ここでは、この捧げものは「なだめのかおりの捧げもの」とされていますが、英語ではpleasing aroma という表現がされています。容易にイメージが沸くのではないかと思います。ステーキ・ハウスのそばを通ると、肉の焼ける良いにおいがして、食欲がそそられる感じを思い出してください。また、複数の英語の訳では、food offering という表現がされていて、会食や宴会のイメージが重なっています。
  42節 代々にわたってと書いてありますが、私たちは、それをイエスが最初に来られて御業を成し遂げられるまでと理解します。イエスによって贖いの業は完成するからです。会見の天幕の入口という場所が示されているのは、そこに捧げものをするための祭壇が有ったからです。そこで、神はモーセ、ひいては民と語るというのです。神が御心を示される場所は、天幕の中ですから、それを意味しているかもしれません。

  この旧約聖書の捧げものの規定が、どのように救い主イエス・キリストと関わりが有るのでしょうか。実は、イエスの受難は、この毎日の捧げものの規定に合わせるように進行していたのです。最初の羊は夜明けに祭壇に縛り付けられ、イエスはその時間に有罪判決を受けました。それから9時に羊は犠牲になりますが、その時間にイエスは十字架にかけられました。正午に二匹目の羊が祭壇に縛り付けられますが、その時間に太陽は陰って空は暗くなりました。その羊が犠牲になる3時に、イエスは霊を神に委ねて息を引き取りました。羊は毎日捧げられましたが、神の子羊であるイエス・キリストは、私たちの永遠の贖いの犠牲となられました。同時にイエスは大祭司の働きもされたのです。(ヘブル9:11 – 14参照)
  イエスは神と人の関係を回復されました。神は、神の言葉と呼ばれるイエスを通して人類に語り掛けられました。イエスは神の救いの計画、福音を私たちに示されました。バプテスマのヨハネの証した通り、イエスは世の罪を取り除く神の子羊となられたのです。

まとめ)
  律法の常供の捧げものの規定と、神の子羊であるイエス・キリストの関係を通して、神が私たちにして欲しいと思っておられることを考えてみます。

1)神は私たちにキリストの犠牲を思い出して欲しい
  モーセを通して神がイスラエルの民に命じられたように、毎日の羊の犠牲を通して、私たちに罪の贖いの必要を思い出して欲しいのです。イエスは世の罪を取り除く神の子羊です。二匹の羊が毎日捧げられたように、最低でも日に二度、イエスの贖いの業に感謝の告白をしようではありませんか。イエス・キリストを救い主と受け入れるという従順。永遠の犠牲となられたイエスを賛美するという従順。このように、イエスを通して、私たちは主へのなだめの捧げものをすることができるのです。  

2)神は私たちに神との和解を祝って欲しい
  毎日の捧げものは、食物の捧げものという表現をされることも有ります。小麦粉(パン)とワインの捧げものを伴って、宴会のイメージが重なります。放蕩息子が宴会をもって受け入れられたように、神と人との和解と関係の回復を共に喜んで欲しいのです。私たちは、そのことを聖餐式にも見出すことができます。そして、イエスの再臨と裁きの後には、子羊の婚宴をもって祝われるのです。

3)神は、神の言葉を通して私たちと交流を持って欲しい
  犠牲の羊が捧げられた後、神がモーセや民に語り掛けたように、神の言葉であるイエス・キリストを通して、また、聖書の言葉を通して、語り掛けたいと思っておられます。従順に、私たちは聖書を読み、主を知る知識に富んだ者とならなければなりません。また、読んだ聖書箇所を通して瞑想する必要が有ります。また、祈りを通して神と交流する必要が有ります。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが求められています。私たちは願いも捧げます。その交わりを通して、神は私たちが平安を持つことを願っておられます。
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日曜礼拝 2021年4月18日

2021-04-20 16:18:04 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:コロサイ2:1 - 5
説教題:道に留まるための苦闘

導入)
  1節でパウロは自分がどんなに苦闘しているかを知って欲しいと述べています。苦闘すると訳された語は、陸上競技などで懸命に努力する様を表しています。彼は、自慢したり賞賛を得ようとしてそう述べたのではありません。その苦闘の目的を知ればそれがわかります。

本論)
1)キリストに在る一致を保つための苦闘
  パウロのような使徒が多くの教会の人々のために苦闘しているという事実が、彼らにとって励ましや慰めであったと考えられます。その苦闘の一つの理由は、キリストに在る一致を保つことでした。彼らの中には偽教師が入り込んできていました。その教えは、人々をエリートクリスチャンと普通のクリスチャンというように区別して分裂させるようなものでした。しかし、パウロは正に神を愛し、互いに愛し合いなさいと言われたイエスの教えである愛によって一致を保つことを目指していることが2節示されています。

2)キリストの真の知識を保つための苦闘
  全き確信という言葉が用いられています。このような確信や真の知識は、私たちにとっては、イエス・キリストにのみ属するものです。ですから、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためだと述べているのです。原典では、正確さをも表す語が用いられています。2節、3節の表現を見ると、パウロがが偽教師の教えと真のキリストの知識を対比させようとしていることが解ります。彼らも奥義、知恵、知識という言葉を、嘘の教えのために用いていたのです。我々にとっては、奥義はキリストであり、知恵と知識は、イエスがどなたであるか、どのように私たちを救ってくださったか、どんな栄光に満ちた将来を与えてくださるかを知っていることです。

3)キリストに対する堅い信仰を保つための苦闘
  4節、5節の表現から推察しますと、パウロが書簡を書いている時点では、偽教師の教えに従ってしまった人はいなかったのではないかと思われます。彼がこのような手紙を書いているのも、誰も偽教師に騙されないようにするためだとしています。パウロにはこの書簡を書くべき理由が有りました。それは、偽教師の教えが「まことしやかな議論」であったからです。この語の意味は、よく構成されて可能性が高いと思われるが間違っている議論というものです。だからこそ、コロサイの教会の信徒が聞いた福音を思い起させる必要が有ったのです。同時に、パウロは、彼らが秩序正しく、堅い信仰に立っていることを伝え聞いて喜んでいます。堅いと訳された語は、安定している、健全であるという意味も有ります。その故に、パウロはますます彼らを守るために苦闘し、祈りをもってこの書簡を書いたのです。

まとめ)
  パウロの苦闘は、同時に私たちも心掛け、時には苦闘するべき内容になっています。

1)キリストに在る一致を保つための苦闘
  私たちはキリストに対する信仰における一致を心掛ける必要が有ります。また、神を愛し、互いに愛し合うというキリストの戒めを守りますが、これは努力や苦闘が必要な時が有るのではないでしょうか。同時に、そうしている仲間を見ることが、互いの励ましにもなるのです。

2)キリストの真の知識を保つための苦闘
  キリストの奥義は十全に聖書に啓示されています。それに付け加えるようなことは決してしてはいけません。継続的に聖書を学び、豊かな全き確信とキリストを知る真の知識に開かれるようにしていきましょう。

3)キリストに対する堅い信仰を保つための苦闘
  私たちは正統なキリストへの信仰を受け継ぎました。私たちは健全で堅い信仰を保たなければなりません。導いてくださった神に感謝を表しましょう。また、私たちは、パウロがしたように、主に在る同信の仲間たちの歩みを喜び、その守りと霊的成長のために祈り合っていくのです。
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日曜礼拝 2021年4月11日

2021-04-11 22:36:22 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:コロサイ1:24 - 29
説教題:奥義を伝える喜び

導入)
  この箇所の始めに、パウロは喜んでいることを告白しています。彼の使命は、使徒のひとりとしてイエス・キリストの福音を宣べ伝えることでした。ここでは、それは、奥義として紹介されています。
  奥義と訳された語は、英語ではミステリーと訳されるものです。私たちが通常使うミステリーという語は、「説明されたことや理解されたことがなくて、知られていない事柄」というような定義になります。しかし、新約聖書の原典では、ムステイリオンという語が使われていて、「かつては知られていなかったが、今は明らかになった事柄」という意味なのです。26節を読むと、それがよくわかる記述になっています。パウロの奥義・ミステリーを伝える喜びの背後に有るものを確認していきましょう。

本論)
1)キリストの体である教会を建て上げる喜び(24節-25節)
  パウロは、このことの故に苦しむことをも喜びとしていると述べています。24節の表現は誤解してはいけません。パウロが、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているという部分です。キリストは十字架の上で救いの御業を完成させられましたから、キリストの業に不足が有ったと理解してはいけません。「欠けている」と訳された語には、「残りのもの、後から来るもの」という意味が含意されています。イエスの働きと、聖霊の降臨によって誕生した教会は、その後に成長していかなければならないのです。それが欠けたところということになります。
  満たしている、という表現は、自分の番を担うという意味が有ります。パウロは、教会を建て上げていく勤めを神から委ねられたことを喜んでいる様子が25節に有ります。

2)神のことばを宣べ伝える喜び(26節-27節)
  26節は、25節の「神のことば」の説明になっています。全体的に見ますと、奥義とは、神のことばであり、内住のキリストであり、栄光の望みであるという、同格の関係になっています。
  イエスの福音は、確かに、かつては知られていなかったが、今は明らかになった内容を持っています。メシア・救世主は、ユダヤ人を外国の圧政から救う王、英雄だと思われていたのに、実は神の御子であった。政治的な開放をもたらす存在だと思ったのに、人類を罪から救うために来られた方だった。このイエス・キリストを信じると、裁かれることなく、永遠の命をいただける。救いはユダヤ人のものと思われたのに、異邦人にもその救いが与えられた。
  パウロは、このような素晴らしい奥義・ミステリーを宣べ伝える勤めを委ねられたことを喜んでいます。

3)人々をキリストにある完全に導く喜び(28節-29節)
  私たちという一人称複数は、コロサイの教会を始めたエパフラスを念頭においたものと思われます。「戒め」と訳された語は、何らかの出来事、もしくは行動の結果に伴う危険への警告をするという意味が有ります。私たちが悔い改めなければ、神の怒りと裁きがその結果であるという警告のことです。その働きのために、彼は労苦し、奮闘しているのです。しかし、それは自分の力ではなく、キリストの力によってなされていることをも彼は喜んでいます。
  彼の戒め労苦の目的は何だったでしょうか。28節に、「すべての人を、キリストにある成人としてたたせるため」という目的が示されています。成人という訳が当てられていますが、関連する語は、成熟しているという意味の他に、完全であるという意味が有ります。「すべての人をキリストにあって、(キリストにある)完全なものとして差し出す」という意味合いが含まれるのです。
  もぐりこんできていた偽教師たちは、クリスチャンをまだ不完全だといって不安にさせ、間違った知識や知恵に導き、天使の助けを得て完全にならなければならないかのように教えていました。しかし、すでにイエス・キリストの義を着せられているのですから、完全なものになっているのです。このように、唯一の正しい道を伝えることが、パウロの喜びでした。

まとめ)
  この箇所は、パウロの個人的な喜びの記述にとどまりません。私たちにも関係が有ります。

1)キリストの体である教会を建て上げる喜び(24節-25節)
  恵により、私たちはキリストの体なる教会に迎え入れられました。私たちも、労苦して教会を建て上げていく必要が有ります。私たちは、教会の利用者であってはいけません。教会を建て上げる者であり続けましょう。

2)神のことばを宣べ伝える喜び(26節-27節)
  福音は私たちの喜びの源です。イエス・キリストが私たちにしてくださったことを思い、天の栄光の望みを瞑想するすることが、私たちに喜びをもたらします。ペテロが、書簡の中で奨励しているように、天の栄光の望みをしり、楽しみにすることが、迫害をも耐える私たちの力になるのです。いつもその恵を思い続けましょう。

3)人々をキリストにある完全に導く喜び(28節-29節)
  私たちは、どのようにしてキリストにある完全をいただいかを認識している必要が有ります。私たちの救い主イエスの恵をいただくことが唯一の解決です。キリストの証人として、人々がキリストのもとに来てその救いを受け入れることが私たちの大きな喜びです。

パウロは、第一テサロニケ5:16節で、「いつも喜んでいなさい。」と勧めています。その喜びの中に、これら三つの要素をも意識して行きたいものです。
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日曜礼拝 2021年4月4日

2021-04-04 18:52:19 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:1コリント15:12 - 19
説教題:もしキリストの復活がなかったら

導入)
  パウロは神の民の復活を、福音の一部として宣べ伝えました。ところが、教会の中に、死者の復活は無いと言い出す人が出てきました。使徒パウロが伝えたことを受け入れて信仰を持ったはずの人たちが、その信仰の内容に反することを言い出したことになります。これは矛盾しています。それで、パウロは彼らの主張が伝えられた福音に照らした時、非論理的であることを説明しています。彼らは霊的な目が曇って、そのような矛盾に思い至らなかったようです。

本論)
  パウロを含む使徒たちがイエスの復活を伝えていたことは明らかです。ローマの総督フェリクスが、パウロがイエスの復活の主張をしていることを証言しています。(使徒行伝25:19)使徒信条にも告白されている通り、イエスの復活は私たちの信条、確信です。
  パウロは更に別の面から語ります。イエスとそれに続く信者の死者の復活をパウロは伝えたのですから、もし死者の復活が無いならば、彼は嘘を教えたことになります。
  パウロは13節と16節で、繰り返し、死者の復活が無いならば、イエスの復活も無かったことになることを確認させようとしています。イエスの復活が人間の初穂、最初の復活者としての復活であり、神の民が続くことになるのです。
  更にパウロは、彼らが気づいていなかった大事な点を切り出します。イエスの復活が無かったとしたら、彼らの罪は赦されていないことになるということです。罪の赦しという救いを得させる福音を受け入れたはずなのに、彼らの主張することが、それを否定することになっているのです。そして、彼らの主張の方が正しいとすれば、彼らの信仰は無意味なものになるのです。そうすると、彼らの信仰は、この世で過ごす間の気休めに過ぎず、永遠の価値の無いものということになってしまいます。そんな気休めのために、イエスへの信仰を持っているとしたら、大変愚かしく哀れなことではないかと迫っています。
  イエスの復活が無かったら、他にも次のようなことが指摘できます。1)詩編16:10では復活が預言されていますから、イエスはメシアではなかったことになり、別のメシアを待たなければならないことになります。2)普通の人間と同じように死んで朽ちるのであれば、神ではありません。(その逆の事実はピリピ2:5 – 6参照)3)イエスがパリサイ人たちの前で予告した彼の復活と再臨は偽りになります。(マタイ26:64)4)イエスは約束を守らなかったことになります。(ヨハネ5:24、マタイ26:29等参照)5)弟子・信者たちは使徒の嘘のために殉教した。(ステパノ他)そんなことがあろうはずが有りません。
  パウロは20節で、強意の副詞を用いて、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と宣言し、再確認しています。今や、と訳された語は、本当に、という訳も可能です。クリスチャンは2千年以上、このことに命をかけてきました。不確かな物事のために命をかけることができる人はいません。

まとめ)
  私たちの敵である悪魔は、私たちの心に、もし復活が無かったらどうしよう、という疑いを起こさせようとする時が有ります。その時には、聖書に示されている説明でその思いを打ち消していかなければなりません。イースターは、復活の信仰を新たにする時です。復活を否定することは、イエス・キリストを否定することでもあります。そうなれば、私たちの信仰も無意味なものになってしまします。

  チャック・コルソンの言葉を紹介します。「私は復活は事実であると知っており、ウォターゲート事件が私にそのことを証明しました。どのようにかですって?それは、12弟子が復活のイエスを目撃したと証言し、その後一度もそれを否定することなく、40年間その真理を宣べ伝え続けたからです。彼らは打たれ、拷問され、石打ちにされ、投獄されました。証言が事実でなかったならば、彼らがそれを耐え忍べたはずがありません。ウォーターゲート事件には、アメリカで最も権力の有る12名が関わっていましたが、彼らは3週間とその嘘を隠し通すことができなかったのです。12弟子たちは、40年間も嘘をつき通したと仰るのですか。絶対不可能です。」

キリストは、本当に復活されたのです。
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