パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝(合同礼拝) 2020年10月25日 

2020-10-25 20:17:09 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ
視聴用コード:MLZm6#2E

導入)
   今回の聖書箇所では、イエスの母と兄弟への言及が見られます。聖書にはイエスの公生涯においては、四人の兄弟がいたことが記録されており、その名前は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダとなっています。(13章55節参照)また、姉妹たちがいたことも記されています。この箇所での、イエスの母と兄弟への対応を見ると、彼らを無視しているような印象を持つかもしれません。実際にイエスが伝えようとしたことは何であったのかを考えてみましょう。

本論)
   イエスにはよく有ることでしたが、群衆に取り囲まれていて、彼らと話しをしていました。直前のパリサイ人たちとの対話についての説明を加えていたのかもしれません。13章1節から、彼らはガリラヤ湖の近くにいたことがわかります。つまり、イエスの故郷のほど近い所にいたと考えられます。ですから、イエスの母や兄弟がイエスの所に来ることができたのです。彼らは外でイエスに話そうとして待っていましたが、群衆のために近づくことができませんでした。
   彼らはどうしてイエスが人々を教えている最中にやって来たのでしょうか。マルコの並行記事は、人々がイエスのことを「気が狂ったのだ。」と評していたことを理由に挙げています。それで、心配して、あるいは恥ずかしく思って、家に連れて帰ろうと考えたに違いありません。彼らは、イエスがメシアであると信じていなかったことがヨハネ7章5節には記されています。
   彼らがいることに気づいた地元の人たちは、イエスにそのことを伝えます。しかし、48節のイエスの応答は、彼らが予想しなかったものだったと思われます。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」と質問したのです。まるで、そんな人たちは知らないと言うかのように聞こえますが、その意図は、続く49節、50節で説明されています。確かに、私たちは家族を大切にしなければなりませんが、私たちの信仰の歩みにおいては、もっと優先順位が高いものが有るのです。それは、天の父なる神のみこころを行うことでした。この時、イエスは神の国の福音を宣教していました。イエスを家に連れて帰ろうとする家族によって、神のみこころである宣教を行っていたのですから、それが妨げられてはいけなかったのです。その意味において、神の国の宣教のためにイエスを支援し共に働いていた弟子たちと女性たちが、イエスの中ではもっと大きな部分を占めていたと言えそうです。母親と呼ばれるような人たちは誰だったのだろうと思われるかもしれません。ルカ8章には、イエスの宣教グループには、イエスと弟子たちにつかえる女性たちがいたことが記されています。そういう人たちのことにも心を留めて、イエスは、共に神のみこころを行う仲間である弟子たちと女性たちを、自分の母、また兄弟たちだと呼ばれたのです。

まとめ)
あなたは神の家族かという問いに、あなたはどう答えるでしょうか。はい、と答える私たちは、次のような資質を持っていることになります。

1)イエス・キリストを救い主として信じる
イエスは、神が遣わした者を信じることが神のわざだと教えています。(ヨハネ6章29節)すなわち、イエスを救い主と信じることが神のわざです。しかし、パリサイ人たちはイエスを拒絶しました。そして、イエスをメシアと告白する者は会堂から追放すると宣言していました。このような状況では、イエスに従って行くことは容易なことではありませんでした。しかし、イエスの弟子たちはそうしたのです。イエスは、それらの人々を自分の兄弟、姉妹、母なのだと言われたのです。私たちも、イエスを信じる信仰によって、神の家族として認められているのです。

2)福音の拡大を支援して神に仕える
イエスの弟子たちと仕える女性たちは、神の福音の拡大のためにイエスを支援していました。私たちも、イエスの体である教会を通して、様々な方法で福音を伝える働きに積極的に参加するべき存在です。
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日曜礼拝 2020年10月18日

2020-10-18 17:32:13 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ12章38節ー45節
説教題:あなたは誰の家か

導入)
  前の箇所の34節でも、イエスはパリサイ人たちを非難しています。彼らの発言はイエスを拒絶する思いに満ちていて、よこしまなものでした。38節では、別のパリサイ人や律法学者が再びイエスに挑戦的な発言をしますが、同様に悪い思いから出てきているものでした。

本論)
  イエスは既にメシアであることを証明するしるしとしての奇跡を行っていました。22節における盲目で口のきけない人の癒しは、明らかにメシア預言の成就と理解できるものでした。しかし、彼らはそれを受け入れず、異なったしるしを行うように求めました。彼らの態度は、イエスをメシアとして認めないと断言しているのでした。彼らが想定していた奇跡は、エリヤのように天から火を呼び下すとか、モーセが律法を伝えた時のように、山頂に厚い雲ができて、ラッパの音が鳴り響くというようなものだったかもしれません。
  彼らのよこしまな思いを見抜いておられたイエスは、39節から彼らに警告を与えています。ここで、イエスは、彼らが悪い姦淫の時代に属していると言います。人々が神に対して誠実でない時、彼らは霊的に姦淫をしていることになります。彼らは預言をないがしろにしたのですから、神を信頼していないことになります。ここから、イエスは、ヨナのしるしに言及して、ご自身の死とよみがえりの予告をしています。イエスの死とよみがえりこそが、最も重要なメシアとしてのしるしなのです。
  ヨナのしるし以外にはしるしは与えられないということですが、イエスのよみがえりのしるしに触れても、彼らにがイエスを信じることはないことをご存知でした。ここでも、イエスは旧約の時代の人々と比較しながら、パリサイ人たちを責めています。先ず、奇跡の後にヨナが遣わされたニネベの人たちの反応です。ヨナはニネベの人たちからしてみれば、ただの外国人であったのですが、彼らはヨナに耳を傾け、灰と荒布をまとって悔い改めたのです。一方、パリサイ人たちは、ヨナよりも偉大な方であり、メシアであるイエスに耳を傾けることはありませんでした。ですから、最後の審判の日には、彼らがパリサイ人たちを罪に定めるというのです。「立って」という表現が用いられていますが、これは、裁判において証人が証言台に立つ時の動作に用いられるものだということです。
  続けて、南の女王の話が出てきます。彼女はソロモン王の知恵を聞くために、遠い所から訪ねて来ました。ソロモン王の知恵は、神様からの賜物でした。南の女王は、異邦人でしたが、神の知恵を求めてやってきたのです。イエスは、ソロモンより偉大なメシアであり、その知恵を与えた方でありました。しかし、パリサイ人たちは、神の知恵にも神の国の福音にも耳を傾けることはありませんでした。ですから、最後の審判の日には、異邦人である南の女王がパリサイひとたちを罪に定めるというのです。
  43節からイエスは別の例話を話しました。22節では、イエスが悪霊の影響で目が見えず、口がきけなかった人を癒しています。同じ群衆が一緒にいた状況ですから、この例話は効果的で、現実味を持って聞かれたことでしょう。悪霊が人から出て行ったのは、神の権威によると考えられます。その霊が水のない地、言い換えれば荒地をさまようというのは、ユダヤ人的理解に基づいた描写です。同様の理解が黙示録18章2節の表現にも表れています。最後の審判の日までは、悪霊のすることは、人間に悪い影響を及ぼすことです。そういう性質が、44節の悪霊の言葉にも表れています。「出てきた自分の家に帰ろう。」と言っています。図々しい表現ではないかと思いますが、かつて自分の支配下にあった人なので、自分の家という表現になっています。戻ってみると、その家は掃除してきちんとかたずいていたということです。悪霊にとっては気に入らない状況だったでしょう。更に、家はあいていたということが問題です。35節にあるように、良い人は良い倉から良いものを出すのですから、その家も良いもの、イエスの福音と信仰に満たされているべきでした。しかし、家があいていたので、他の七つの悪霊まで入ってきてしまうことになったのです。それが、当時のユダヤ人たちの有様であったと考えることができそうです。バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを説きました。パリサイ人を含む、多くの人が悔い改めて、悪い生活から離れました。しかし、その後に受け入れるべきメシアであるイエスを受け入れることをしませんでした。後に、彼らはサタンの業をすることになりました。イエスをピラトに引き渡し、十字架につけよと叫んだのです。七つという数字は、ユダヤ人の伝統からは、厳しい罰を示すものでもあります。(レビ26章18節参照)実際に、紀元70年には、エルサレムが陥落し、多くの命が失われることになりました。それは、神からの厳しい罰であったと理解できます。

まとめ)
  例話の中の悪霊は、支配した人のことを「自分の家」と表現しています。さて、私たちクリスチャンは、誰の家なのでしょうか。私たちは、イエスの教えに満たされていなければならず、イエスの家でなければなりません。イエスの家として、私たちのあるべき姿はを、この聖書箇所から考えてみます。

1)私たちを救うために死んでよみがえられたイエスを信じる
  イエスの死とよみがえりは、私たちの信仰の中心となる教義です。よみがえられたイエスご自身が、そのことを解説しておられます。(ルカ24章45節‐47節)また、使徒パウロもそのことを確認しています。(1コリント15章3節‐4節、13節‐14節)使徒信条もはっきりと「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されているのです。

2)悔い改めて神の知恵を求める
  ニネベの人たちは悔い改めました。南の女王はソロモンを通して神の知恵を求めました。私たちも日々悔い改め、神の知恵を求めて歩むものです。悔い改めとは、方向転換という意味の言葉です。神も無く、自分が人生の主人と考える生き方から、神の国と神の義を求める生き方に方向転換したのです。私たちは継続的に悔い改め、また、継続的に神の国と神の義を求めて生きるのです。

3)神のみ言葉で心と思いを満たす
  この箇所の例話において、主要な問題は、この家があいていたことです。私たちは、神抜きに道徳的に生きよう、善人になろうと努力することがあるかもしれません。しかし、イエスはヨハネ15章5節で、イエス無しには何もすることはできないと言われました。また、使徒パウロは、ローマ14章23節で、信仰によらないものはすべて罪だと述べています。神とその教えと神への信仰をもって私たちの心を満たしていることが必要です。イエスを私たちの王としてお迎えしている生き方でなければなりません。
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日曜礼拝 2020年10月11日

2020-10-12 22:02:31 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ12章22節‐37節
説教題:あなたはイエスの味方か

導入)
  パリサイ人たちとの安息日問答の後、パリサイ人たちがイエスを殺す相談をしているということで、イエスはその場を離れました。しかし、多くの人たちがついてきたので、病気の人を癒しました。その中に、悪霊の影響で目が見えず、口のきけない人がいました。ご自身の権威によってイエスが悪霊を追い出すと、その人は視力を回復し、話もすることができるようになりました。
  人々は驚いたということですが、ここで用いられている語は、大変な驚き様を表すもので、場合によっては狂気とも訳せるようなものです。どうしてそんなに驚いたのかというと、彼らは旧約聖書に預言されているメシアに出会ってしまったかもしれないと感じたからです。それが、「この人は、ダビデの子なのだろうか。」という疑問に表れています。ダビデの子というのは、メシアの称号です。
  このような人々の声に反感を持つ人たちがいました。イエスの粗探しのために数人のパリサイ人たちがついてきていたのです。あまり考えもしないで言ったのではないかと思われますが、イエスはベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出しているのだと言って彼を貶めようとしました。彼らはイエスにある神の権威と力を認めていませんでした。それで、その癒しを悪魔を意味するベルゼブルの力に拠るものだとしたのです。これが、24節からのイエスの論議への前編、導入となっています。

本論)
  彼らの発言には二つの問題・矛盾が有りました。一つは、悪魔が悪魔を追い出すのであれば、それは内部分裂をしていることになり、悪魔の勢力事態が成り立たないということです。二つ目は、パリサイ人たちの実践についてです。「あなたがたの子ら」と呼ばれる人々が出てきます。これは、パリサイ人の弟子、仲間ということです。詳細は判りませんが、彼ら中にも神の権威に基づいて悪霊を追い出す人たちがいたことになります。同じことをしているのに、イエスの場合はそれがベルゼブルの力によると言い、自分の仲間の実践は神の力だとするのは、おかしいことです。
  28節では、仮定ような表現を用いていますが、イエスは、自分がメシアであり、神の統治と国が人々に既に及んでいるということを宣言していることになります。
  29節でイエスは例え話をしています。強い人というのは、悪魔や悪霊のことです。家財は、悪魔や悪霊に支配された人々のことです。強い人を縛れば家財を奪うことができるように、悪魔を制する神の権威をもってすれば、悪霊に支配された人を神の国に取り戻すことができるということです。それが、22節で癒された人の有様だということになります。
  パリサイ人たちはイエスに敵意を持っていました。30節では、パリサイ人はイエスの味方ではないということを明確に言い表しています。そして、続く31節、32節では彼らに厳しい警告をしています。彼らの態度は決して赦されるものではないというのです。先にイエスは、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。」と言いました。赦されるための条件を私たちは知っています。悔い改めて、イエスを救い主として受け入れなければならないのです。神の御霊、聖霊が私たちの霊的な理解を導き、イエスが救い主であり、唯一の救いに至る道であることを示されます。その神の救いの計画を拒絶するならば、それが聖霊に逆らい、冒涜することになるのです。
  ここで、疑問がわいてきます。三位一体の教義から考えると、イエスも聖霊も同等に神であるのに、人の子イエスに言い逆らっても赦されるが、聖霊に言い逆らうのは赦されないというのは、どういうことなのでしょうか。幾つか説明は有るのですが、今回はその内の一つを紹介します。「人の子」というのはメシアの称号であり、イエスのことですが、より人間性に重点が有る表現です。イエスの地上の宣教活動の間に、無知や誤解の故にイエスを拒絶するようなことが有っても、赦されると考えられます。使徒ペテロの例がこれに当てはまるのではないでようか。彼はイエスを三度否みましたが、悔い改めて赦されました。しかし、確実にイエスが救い主であることが示されたにも関わらず、それを拒絶することが、聖霊に逆らい、冒涜したことになります。それがパリサイ人たちに当てはまります。彼らは旧約聖書のメシア出現の預言をよく知っていました。イエスの行う奇跡がその預言の成就であると理解できる立場でした。にもかかわらず、イエスが聖霊の力で悪霊を追い出した時に、それを悪魔の力によるものだと言いました。彼らは聖霊を冒涜し、悔い改めることがありませんでした。ですから、イエスは34節で、彼らのことをまむしの末と呼び、彼らには良いことが言えないのだと言っています。
  33節から35節の流れで、良い、悪いという対比が出てきます。ここで良いというのは、神にとって喜ばしい状態を指します。人間的に考えれば、食べることができて美味な果実が良いということになぞらえることができます。この例話に出てくる実、倉から取り出される物というのは、人が話す言葉のことです。パリサイ人たちの24節の発言は、聖霊に逆らい冒涜しており、悪い実、悪い物ということになります。
  36節は、たとえたいして考えたのではないものでも、悪い実とされる発言をしたならば、そのような発言につながった心の状態に基づいて最後の審判の日には裁かれるのだということを表しています。37節は次の様に理解できます。あなたの発した言葉が、イエスは救い主だという告白であるならば、あなたは最後の審判の日において赦されるでしょう。あなたの発した言葉が、聖霊が啓示した、イエスを通して与えらえる神の救いの計画を拒絶するものであるならば、最後の審判の日において、罪に定められるでしょう。

まとめ)
  パリサイ人たちはイエスの味方ではありませんでした。彼らはイエスに敵意を抱いていました。あなたはイエスの味方でしょうか。クリスチャンであるならば、イエスの味方であるはずです。イエスの味方であるならば、私たちは良い実を結ぶ、良い木です。私たちの言葉は神の喜ばれるものでなければなりません。それは、どのような言葉でしょうか。

1)イエスは死と悪魔に勝利した救い主であるという告白
  パリサイ人たちは、イエスがメシアなのだろうかという人々の言葉を否定しました。彼らは、イエスがメシアであることを証明しているしるしとしての奇跡を否定しました。しかし、クリスチャンは皆、イエスはメシア、救い主であると告白するのです。また、イエスは死と悪魔を制する権威が有ると告白します。そのような告白の言葉をもって、神に栄光を帰するのです。日曜礼拝でばかりではなく、日常生活の中でも繰り返しそういう告白をして、生きた供え物としての歩みを続けるのです。

2)イエスへの信仰によって赦されたのだという告白
  イエスは、どのような罪でも冒涜でも赦されると言われました。それは、信仰によってイエスを受け入れ、悔い改めることによってもたらされるのです。それによって、神の国が私たちに臨んだのです。また、神の義を着せていただいたのです。このことも、日々の生活の中で告白していくべきことです。それによって、私たちの心と考えが正され、神の力と平安の中に歩むことができるのです。それが、神の喜ばれる良い実なのです。

3)教会を建て上げるのに役立つ言葉
  使徒たちは、キリストの教えを受けついで伝えました。私たちの言葉は、キリストの体と呼ばれる教会を養い、励ますことになるものとして、神に喜ばれるものでなければなりません。パウロは繰り返しその原則に基づいた奨励をしています。(エペソ4章29節‐32節、コロサイ4章6節、1テサロニケ5章9節‐11節)また、ヤコブも私たちに同様の原則に基づいて傾向をしています。(ヤコブ3章9節‐11節)
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日曜礼拝 2020年10月4日

2020-10-04 21:18:38 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:アモス3章
説 教 題:神の主権の下で

導入)
 アモスは北王国イスラエルの人々に警告をした預言者でした。それで、3章にもイスラエル、サマリヤなどの地名が出てきます。10部族はダビデ王家に反旗を翻して、分裂し、ヤロブアムを王に立てました。ヤロブアムは間もなくベテルとダンに金の子牛の像を作りました。建国の初期から、北王国は偶像礼拝で汚されていたことになります。その偶像礼拝の結果を、この3章にも見ることができます。この章からは次の三つの原則を見出すことができると思います。
1)イスラエルの民は特別に神に選ばれた
2)イスラエルの民は彼らの咎の故に罰せられた
3)神ははっきりと警告を発した

本論)
1)イスラエルの民は特別に神に選ばれた
  イスラエル(12部族として)が神に特別に選ばれた民であることが1、2節に示されています。これは申命記4章37節を元にした表現ということです。更に同様のことは、モーセの最後の祝福の祈り(申命記33章29節)、神がダビデに契約を与えた時の祈り(2サムエル7章23節)。神はイスラエルに特別の取り扱いをしてくださったのです。それは、イスラエルにだけ与えられた特権でした。クリスチャンも自分たちが神から与えられた特権が有ることを認識している必要が有ります。(エペソ1章3節‐8節参照)私たちはそれを当たり前に思ってはなりません。

2)イスラエルの民は彼らの咎の故に罰せられた
  2節の後半には、「それゆえ」と書かれています。特権が与えられたならば、その特権を与えられた者は、それに相応しく謙遜に生きなければなりません。反対に、特権を蔑ろにすれば、特権を与えてくださった方を傷つけることになります。相手が神であれば、その結果は明らかです。
3節から6節の一連の修辞疑問は、何かが起きたならば、それには必ず原因が有るのだということを示しています。神がイスラエルを罰するのは、そこに必ず原因が有るということです。3節は、神とイスラエルの合意が破られて、関係が壊れてしまったことを示しています。4節は、神はその原因を指摘して警告していました。5節は、神がイスラエルの罪を責め、鳥網を仕掛けているのだということを示しています。6節は、敵が攻めて来る時の警告の角笛を表し、既に警告は発せられたのだから、危機感を持てということを示しています。ここで神は、もし何かが起きたら、それは神の主権の元に起こしているのだと述べているのです。
  2節に示されているイスラエルの咎とは何でしょうか。その咎の様子は10節にも示されています。正しいことを行うことを知らないと述べられています。更に、暴虐と暴行を重ねているとも書かれています。それは、強奪と略奪とも訳せる語です。14節の「そむきの罪」と訳された語は、罪、違反、反逆というような語感が有ります。イスラエルは神に対して不従順であったのです。そこには偶像礼拝も含まれています。14節にはベテルの祭壇への言及が有ります。ベテルは先に述べたように、金の子牛が置かれた場所です。祭壇は複数形です。いろいろな偶像を礼拝するために幾つもの祭壇が作られたのでしょう。祭壇の角が出てきます。これは、四隅に角のような突起が作られていて、異教的理解では、それによって供物を縛って固定したり、儀式としてそこに血を塗ったりする場所で、最も神聖な部分と考えられました。犯罪者がそこにしがみつけば保護を要請できるとも考えられていました。しかし、神の罰が下る時には、それらの祭壇の角は少しも役に立たないのです。偶像も祭壇の角も、神の罰が下った時には、イスラエルの民の誰をも救うことは有りませんでした。後に、アッシリヤにイスラエルは破壊されてしまいました。その結果、イスラエルには、力もなく貧しい人々しか残されませんでした。12節がそのことの描写と理解されています。「獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように」と有ります。あなたが羊飼いだったとしたら、ライオンと戦って羊を取り返そうとして、二本の足や耳たぶしか取り返せなかった、それを「救い出した」と考えることができるでしょうか。人間的に見た時に、死んだ羊の二本の足、あるいは耳たぶは価値が有りません。同様に、イスラエルに残った人たちも、社会的には力の無い人たちだったということです。

3)神ははっきりと警告を発した
  神は突然イスラエルを罰するということはしませんでした。神は繰り返しイスラエルに警告をしてきました。この章だけを見ても、「聞け」「神は言われた」という内容の言葉が7回ほど出てきます。神は明確に警告を発していました。7節にはっきりそのことが示されています。神からのはっきりした警告は、クリスチャンに対しても、使徒たちを通して与えられています。パウロは神の恵みをむだに受けないように警告しています。(2コリント6章1,2節)ヨハネは第一の手紙を「偶像を警戒しなさい」という言葉で閉じています。ペテロは、義の道を知りながら背くよりは、知らなかった方が良かったのだ述べています。それらの警告を心に留めて、私たちは時々自分を吟味しなければなりません。

まとめ)
1)イスラエルの民は特別に神に選ばれた
  私たちもイエスの証人となるように、神に選ばれた民です。神の聖徒となるように選ばれました。私たちの人生は、イエス・キリストへの信仰によって、神に受け入れられる生きた供え物です。神は私たちに執り成しの祈りを委ねられ、聖なる祭司、王である祭司とされました。(1ペテロ2章5節、9節)キリストにあって、何と素晴らしい特権をいただいていることでしょうか。この自覚を持っていくのです。

2)イスラエルの民は彼らの咎の故に罰せられた
  私たちの内に残っている肉の性質のために、信仰によらず行動をしてしまうことが有ります。そのような行動や状態が罪となります。私たちは、それに気づいた時に、それをほったらかしにしてはなりません。繰り返し悔い改めていくのです。もし、私たちが意識的に神の命令に全く従わないようになれば、その報いを受けなければなりません。罪は、最後には、私たちを満足させるのではなく、私たちを破滅に導くものです。(ローマ6章23節をお読みください)

3)神ははっきりと警告を発した
  罰は警告無しに来ることはないのだという神の言葉がアモスによって7節に示されています。また、罰は理由も無しに与えられるものではありません。3節の警告を心に留め、神を離れず、むしろ神と共に歩まなければなりません。イエスは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われました。くびきを負えば、共に歩くことになります。(マタイ11章29節)そうするために、聖書に示された神の警告と戒めを注意を払い、自分自身を吟味しましょう。聖書を続けて読みましょう。
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