本日の礼拝ビデオ
視聴用コード:MLZm6#2E
導入)
今回の聖書箇所では、イエスの母と兄弟への言及が見られます。聖書にはイエスの公生涯においては、四人の兄弟がいたことが記録されており、その名前は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダとなっています。(13章55節参照)また、姉妹たちがいたことも記されています。この箇所での、イエスの母と兄弟への対応を見ると、彼らを無視しているような印象を持つかもしれません。実際にイエスが伝えようとしたことは何であったのかを考えてみましょう。
本論)
イエスにはよく有ることでしたが、群衆に取り囲まれていて、彼らと話しをしていました。直前のパリサイ人たちとの対話についての説明を加えていたのかもしれません。13章1節から、彼らはガリラヤ湖の近くにいたことがわかります。つまり、イエスの故郷のほど近い所にいたと考えられます。ですから、イエスの母や兄弟がイエスの所に来ることができたのです。彼らは外でイエスに話そうとして待っていましたが、群衆のために近づくことができませんでした。
彼らはどうしてイエスが人々を教えている最中にやって来たのでしょうか。マルコの並行記事は、人々がイエスのことを「気が狂ったのだ。」と評していたことを理由に挙げています。それで、心配して、あるいは恥ずかしく思って、家に連れて帰ろうと考えたに違いありません。彼らは、イエスがメシアであると信じていなかったことがヨハネ7章5節には記されています。
彼らがいることに気づいた地元の人たちは、イエスにそのことを伝えます。しかし、48節のイエスの応答は、彼らが予想しなかったものだったと思われます。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」と質問したのです。まるで、そんな人たちは知らないと言うかのように聞こえますが、その意図は、続く49節、50節で説明されています。確かに、私たちは家族を大切にしなければなりませんが、私たちの信仰の歩みにおいては、もっと優先順位が高いものが有るのです。それは、天の父なる神のみこころを行うことでした。この時、イエスは神の国の福音を宣教していました。イエスを家に連れて帰ろうとする家族によって、神のみこころである宣教を行っていたのですから、それが妨げられてはいけなかったのです。その意味において、神の国の宣教のためにイエスを支援し共に働いていた弟子たちと女性たちが、イエスの中ではもっと大きな部分を占めていたと言えそうです。母親と呼ばれるような人たちは誰だったのだろうと思われるかもしれません。ルカ8章には、イエスの宣教グループには、イエスと弟子たちにつかえる女性たちがいたことが記されています。そういう人たちのことにも心を留めて、イエスは、共に神のみこころを行う仲間である弟子たちと女性たちを、自分の母、また兄弟たちだと呼ばれたのです。
まとめ)
あなたは神の家族かという問いに、あなたはどう答えるでしょうか。はい、と答える私たちは、次のような資質を持っていることになります。
1)イエス・キリストを救い主として信じる
イエスは、神が遣わした者を信じることが神のわざだと教えています。(ヨハネ6章29節)すなわち、イエスを救い主と信じることが神のわざです。しかし、パリサイ人たちはイエスを拒絶しました。そして、イエスをメシアと告白する者は会堂から追放すると宣言していました。このような状況では、イエスに従って行くことは容易なことではありませんでした。しかし、イエスの弟子たちはそうしたのです。イエスは、それらの人々を自分の兄弟、姉妹、母なのだと言われたのです。私たちも、イエスを信じる信仰によって、神の家族として認められているのです。
2)福音の拡大を支援して神に仕える
イエスの弟子たちと仕える女性たちは、神の福音の拡大のためにイエスを支援していました。私たちも、イエスの体である教会を通して、様々な方法で福音を伝える働きに積極的に参加するべき存在です。
視聴用コード:MLZm6#2E
導入)
今回の聖書箇所では、イエスの母と兄弟への言及が見られます。聖書にはイエスの公生涯においては、四人の兄弟がいたことが記録されており、その名前は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダとなっています。(13章55節参照)また、姉妹たちがいたことも記されています。この箇所での、イエスの母と兄弟への対応を見ると、彼らを無視しているような印象を持つかもしれません。実際にイエスが伝えようとしたことは何であったのかを考えてみましょう。
本論)
イエスにはよく有ることでしたが、群衆に取り囲まれていて、彼らと話しをしていました。直前のパリサイ人たちとの対話についての説明を加えていたのかもしれません。13章1節から、彼らはガリラヤ湖の近くにいたことがわかります。つまり、イエスの故郷のほど近い所にいたと考えられます。ですから、イエスの母や兄弟がイエスの所に来ることができたのです。彼らは外でイエスに話そうとして待っていましたが、群衆のために近づくことができませんでした。
彼らはどうしてイエスが人々を教えている最中にやって来たのでしょうか。マルコの並行記事は、人々がイエスのことを「気が狂ったのだ。」と評していたことを理由に挙げています。それで、心配して、あるいは恥ずかしく思って、家に連れて帰ろうと考えたに違いありません。彼らは、イエスがメシアであると信じていなかったことがヨハネ7章5節には記されています。
彼らがいることに気づいた地元の人たちは、イエスにそのことを伝えます。しかし、48節のイエスの応答は、彼らが予想しなかったものだったと思われます。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」と質問したのです。まるで、そんな人たちは知らないと言うかのように聞こえますが、その意図は、続く49節、50節で説明されています。確かに、私たちは家族を大切にしなければなりませんが、私たちの信仰の歩みにおいては、もっと優先順位が高いものが有るのです。それは、天の父なる神のみこころを行うことでした。この時、イエスは神の国の福音を宣教していました。イエスを家に連れて帰ろうとする家族によって、神のみこころである宣教を行っていたのですから、それが妨げられてはいけなかったのです。その意味において、神の国の宣教のためにイエスを支援し共に働いていた弟子たちと女性たちが、イエスの中ではもっと大きな部分を占めていたと言えそうです。母親と呼ばれるような人たちは誰だったのだろうと思われるかもしれません。ルカ8章には、イエスの宣教グループには、イエスと弟子たちにつかえる女性たちがいたことが記されています。そういう人たちのことにも心を留めて、イエスは、共に神のみこころを行う仲間である弟子たちと女性たちを、自分の母、また兄弟たちだと呼ばれたのです。
まとめ)
あなたは神の家族かという問いに、あなたはどう答えるでしょうか。はい、と答える私たちは、次のような資質を持っていることになります。
1)イエス・キリストを救い主として信じる
イエスは、神が遣わした者を信じることが神のわざだと教えています。(ヨハネ6章29節)すなわち、イエスを救い主と信じることが神のわざです。しかし、パリサイ人たちはイエスを拒絶しました。そして、イエスをメシアと告白する者は会堂から追放すると宣言していました。このような状況では、イエスに従って行くことは容易なことではありませんでした。しかし、イエスの弟子たちはそうしたのです。イエスは、それらの人々を自分の兄弟、姉妹、母なのだと言われたのです。私たちも、イエスを信じる信仰によって、神の家族として認められているのです。
2)福音の拡大を支援して神に仕える
イエスの弟子たちと仕える女性たちは、神の福音の拡大のためにイエスを支援していました。私たちも、イエスの体である教会を通して、様々な方法で福音を伝える働きに積極的に参加するべき存在です。