パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2020年4月26日

2020-04-26 23:46:43 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:1ペテロ 5章1節~5節
説教題:私たちの裁きへの備え

導入)
これまでペテロは迫害に苦しむクリスチャンを励ましてきました。ここで、彼は突然長老たちに語りかけ始めます。どうしてそういう展開になるのでしょうか。1節は、「そこで」という接続詞で始まっています。それまで述べられてきた内容を前提にして、次の奨励が展開されているということです。その前提は、裁きが神の家から始まるということだと考えることができます。キリストの体なる教会と言えど、裁きに備えることが必要なのです。その備えのためになすべきことをペテロは語っていると考えられます。

本論)
1)神のみ前に謙遜になること
  この原則をはっきり示しているのは、5節に出てくる箴言3章34節の引用です。そして、この原則は、この箇所全体に反映されていると考えることができそうです。引用中に「敵対し」と訳された語は、抵抗する、公に敵意を示す、戦いを挑む等の意味が有り、かなり強い感じの言葉です。神が高ぶる者にこのようにされる理由を、ある注解書は次のように説明しています。「他の罪は神を避けて逃げるような性質であるが、高ぶりだけは、神に反対して争う性質を持っているために、神も高ぶる者に対して対抗するのである。」私たちは、高ぶるという罪を真剣に考え向き合わなければなりません。

ペテロは1節自分が誰であるかを述べる時に、注意深く謙遜に三つの立場を示しました。最初にペテロは彼が他の長老たちと同様の長老であり、仲間であることを示しました。しかし、彼に高ぶる心が有ったならば、二番名の方から述べてそれを強調することもできたはずです。彼はキリストの苦難の証人です。その目的は、彼のキリストについての証が真実であることを示すことですが、同時に彼が使徒であることにも関わりが有りました。使徒行伝1章21節‐2節に使徒の資格が述べられています。バプテスマのヨハネによる洗礼から昇天に至るまでのキリストの生涯の目撃者であることが要件でした。ペテロはそれを満たしているばかりか、使徒の長のように見なされた人でした。しかし、彼はそれをひけらかすようなことは避けたと考えられます。そして、三つ目にやがて来る栄光にあずかる者という表現をしています。あずかる者という部分は、仲間という意味が有る語です。繰り返し、他の長老と同様の者だということを述べています。人間的に言えば、彼には他にも自慢できる目撃談が有りました。山の上でモーセとエリヤと共に栄光に輝くイエスを見ました。また、復活のイエスに会いました。しかし、彼は他の長老と同じだと述べています。彼が引用した旧約聖書の原則が、彼の信仰と態度に反映されていたと言えます。

2)神のみ心に従って行動すること
  直接的にこのことを表現しているのは、2節の「神に従って」と訳された部分です。2節の「神の羊の群れを、牧しなさい」という指示を書き記した時、ペテロはヨハネ21章に出てくるエピソードを思い起こしていたことでしょう。そこでは、3回にわたって、キリストが「私の羊を飼いなさい」ということをペテロに語られています。ペテロは神の羊の群れと言いました。それはクリスチャンがイエス・キリストの贖いの業と、聖霊の導きを通して生まれたからです。であるならば、その群れは神のみ心に従って世話をされなければならないのです。ペテロはこの後、長老として心得るべき三組のしてはならないこととするべきことをを列挙します。

一つ目がこの中では中心となる要素です。それが、「神のみこころに従ってする」ということです。イエスがぺテロに教会の群れを託し、ペテロも長老たちに同じ務めを引き継いでいきます。そして、その務めは、イエス・キリストの教えに基づいてなされなければなりません。福音書に記されている神の国の福音の教えです。

二つ目に挙げれらているのは、「心をこめてしなさい」ということですが、その前に、卑しい利得を求める心からではなくという断り書きが有ります。そこにもイエスの教えが反映されています。旧約の時代には偽預言者が、新約の時代には偽教師が利得のために働いていました。しかし、イエスは、マタイ6章24節で、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言っています。ここから、教会が裁きに備えることには、そのような偽教師を排除することも含まれていると考えられます。

三つ目に挙げられているのは、「支配するのではなく、群れの模範になりなさい」ということです。この原則もイエスの教えにつながります。(マルコ10章42節―45節参照)たとえ私たちが指導的な立場になくても、同様の心構えでいる必要があります。そのためには、イエス・キリストの教えを良く知っていなければなりません。そうしないと、神のみ心に従って行動することはできません。

3)将来与えられる天国の栄光に心を向けること
  4節に出てくるこの原則は、前の章の13節にも示されています。ペテロはこの希望を仲間のクリスチャンたちと分かち合って、彼らを励ましています。ついに最後の審判の日が来るときには、教会は義と認められるのです。特に長老たちに語られていますが、大きな原則は同じです。ここに出てくる大牧者はイエス・キリストのことです。長老たちが忠実に神に従っていくならば、しぼむことのない栄光の冠をいただくということです。その原則はクリスチャン全体にも適用されることです。冠というのは、競技の優勝者に与えられるオリーブの枝や何種類かの植物を組み合わせて作った冠です。植物ですから、数日すれば枯れていくのです。しかし、キリストの現れの時にいただく冠はしぼむことはないのです。私たちは皆主からいただく天国の報酬を目指して生きている部分が有ります。競技者たちがメダルを目指して努力するのと同様です。

まとめ)
ペテロは長老たち、若い人たち、みな、と三種類の人々に語り掛けています。学者たちの中には、若い人たちは長老と同様年齢に関係無い表現で、執事のことであると考えます。そして、みなというのは、その教会員全般を指すと考えます。もちろんこの理解には反対の立場も有るのですが、有り得ない話ではないように思います。また、どの立場の人間であろうと、謙遜に教会を建て上げていかなければいけないことはこの箇所の共通原則です。ですからヤコブも4章6節でペテロと同じ旧約聖書を引用して戒めています。そして、私たちが教会においてどのような役割を担っていようといまいと、私たちは皆、神の家、教会から始まる神の裁きに備えていなければならないのです。裁きの備えとしてしなければならないことは、以下の通りです。

1)神のみ前に謙遜になること
2)神のみ心に従って行動すること
3)将来与えられる天国の栄光に心を向けること

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日曜礼拝 2020年4月19日

2020-04-20 00:14:40 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:1ペテロ4章12節~19節
説教題:困難の中で喜び続ける理由

導入)
ペテロは迫害に遭っている小アジアのクリスチャンに向けて手紙を書いています。当時のローマ皇帝はネロで、クリスチャンを激しく迫害していました。原文では、最初の文の主節は「喜んでいなさい」という部分になります。「キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」という目標と考え併せて、「喜び続けなさい」と訳している聖書も有ります。このような困難の中で喜び続ける理由は何なのかを確認したいと思います。

原文ではこの箇所は四つの文で構成されています。多くの原則や要点が混ざり合っているような箇所ですので、主節の表現を追って説明をし、三つの異なった視点から全部で九つの原則をお分かちしたいと思います。

本論)
12-13節 ペテロは読者に「愛する者たち」と呼び掛けています。ペテロに愛されているのでしょうけれども、それよりももっと、神に愛されていることが大事な要素です。この箇所でペテロが最初に知って欲しいと思ったことは、火の試練はいたって当たり前なことなのだということです。試練と訳された語は、物事の本質を確かめるための試験という意味が有ります。金属の精錬に関係有る語です。金を精錬するのが仕事の人は、当たり前にいつも火で金の質を確認したり精錬しているのと同様に、迫害はクリスチャンが純粋に神への信仰を持っていることを確かめるための当たり前な過程であるというのです。その信仰が純粋であることが確かめられれば、それは天国に受け入れられ、勝利の喜びにつながる結果となるのです。そういう説明を伴って、この部分の主節は「喜びなさい」と言っています。

14節 ここでは、人々がキリストへの信仰の故に迫害される時は、聖霊が共にいてくださるのだと述べられています。それが、人々の受ける祝福、幸いなのです。その原則は、今日でも変わりません。この箇所の主節は「あなたがたは幸いです」ということです。その幸いの源は、聖霊の臨在です。

15-16節 ここで、クリスチャンが非難される二つの要因をペテロは述べています。最初の三つは、一般社会でも犯罪です。誰であれ、それは避けるべき行いです。四つ目はクリスチャンに該当するものです。それは、クリスチャンでない人を聖書的基準や規律で裁くということが含まれていると考えられます。ペテロは、これを先の犯罪と同様に避けるべきものだと考えたようです。クリスチャンが教会の外の人々を裁くべきでないことは、パウロも述べています。(1コリント5章12~13節参照)もしクリスチャンが非難されることが有れば、それは、純粋にキリストへの信仰によるものでなければならず、それは神に栄光を帰することになるので、恥じてはいけないのです。この箇所の主節は、「キリスト者として非難を受けるのは、神に栄光を帰することである」ということです。

17節-19節 最初の文はエゼキエル9章6節の内容を反映しています。神の怒りが臨む時は、神の宮から主の裁きが下る描写が有るのです。ペテロが伝えようとしていることは、キリストの名によって呼ばれるクリスチャンでさえ神の裁きに合うのであれば、不敬虔な者たちが裁きを受けるのはなおさらだということです。18節はギリシャ語の旧約聖書の表現を反映しています。それは、創世記に出てくる、天使に助けられてソドムとゴモラを脱出したロトのへの言及と考えられます。これを引用することによって、ペテロは、一度福音を聞いたにも関わらず受け入れなかった人たちに焦点を向けているようです。神は福音を知らせてくださった方であり、同時に裁き主でもあるのです。ですから、福音を受け入れることが裁きを免れる唯一の道なのです。クリスチャンはその福音に従った者たちです。福音に従って迫害を受けるならば、神のみ心に従って苦しむのであり、神にたましいを任せているのです。任せると訳された語は、金融用語で、安全な場所・金庫に預けるという意味が有ります。(同じ意味合いでの用例は2テモテ1章12節参照)任せるという行為は、ここでは命令されているのです。ペテロはクリスチャンにたましいを神に任せなさい、預けなさいと命じているのです。神の手に守られるたましいは、この世と共に滅びることがないことを知っているので、なおさらそうする理由が有るのです。神という銀行にたましいを任せる時、必ずその霊的投資から永遠の配当をいただくのです。この箇所の主節は、「真実な神にたましいを任せなさい」ということです。

まとめ)
私たちが困難の中で喜び続ける理由を、三つの異なったテーマでまとめてみます。導きに従って一番心にひびくものを心に留めていただければと思います。

1)もしキリストのゆえに苦しむなら、聖霊が伴ってくださるから
2)もしキリストのゆえに苦しむなら、神に栄光を帰することになるから
3)もしキリストのゆえに苦しむなら、神にたましいを任せることになるから

1)わたしたちはキリストと苦しみを分かち合うから
  キリストの苦しみにあずかるという表現は、交わりという意味の語が用いられています。
2)わたしたちは聖霊の臨在を分かち合うから
  洗礼の時にキリストの上に下ったのと同じ聖霊が私たちと共におられるのです。
3)わたしたちはキリストと共にたましいを神に任せるのだから
  キリストが十字架の上で霊を父なる神に任せたように、ステパノが殉教する時に霊を神に委ねたように、私たちも共に全能の神にたましいを委ね、任せるのです。

1)わたしたちはキリストのゆえに苦しむ時、幸いだから
2)わたしたちはキリストのゆえに苦しむ時、神に栄光を帰するから
3)わたしたちはキリストのゆえに苦しむ時、神にたましいを任せているから
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日曜礼拝 2020年4月12日 (イースター礼拝)

2020-04-12 22:18:19 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

説教音声のみのダウンロード



聖書箇所:詩編90編13節~17節
説教題:復活への渇望

導入)
詩編90編は、私たちに人間の死すべき運命を思い起させます。「土に帰る」というのは、死ぬということです。10節の内容も、私たちの命が短くはかないものであることを示しています。興味深いことに、この詩編は120歳まで生きたモーセによって書かれているということです。この詩編に漂う雰囲気は、ややもすると惨めで絶望的に感じられます。しかし、一つ確かなことは、モーセが神に信頼しているということです。モーセが示す死の理解と彼の嘆願を通して、イースターの今日、復活の希望のもたらすものを確かめたいと思います。

本論)
パウロは1コリント15章26節で、死が敵であることを示しています。人類の歴史の最初から、死は私たちの敵でした。私たちは死ぬべき運命にあり、誰も死を避けることはできません。モーセは死について、どのように述べているでしょうか。11節で、モーセは死は神の怒りであり罰であるという理解を示していると考えられます。それは、創世記2章、3章の記事に合っています。だから、私たちは死を免れることはできないのです。そして、私たちは死を恐れるのです。自然な人間の有様を見ると、死は祝福ではなく、呪いと考えられます。ですから死は私たち皆の敵であるわけです。

11節は更にもう一つのことを考えさせます。修辞疑問文で、「だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。」と述べられています。言わんとするところは、「誰も神の怒りの激しさを知り得ない」ということになります。私たちは死を恐れはしますが、限りの有る人間として、その元となっている神の怒りを総体的に理解することはできません。しかし、一人だけそれが大変よく分かる人がいます。それは、神であるイエス・キリストです。その故に、天使の力添えが有った程、イエスはゲッセマネの園でもだえ苦しんで祈らなければならなかったと考えられます。(マルコ14章33、34節、ルカ22章43節参照)

12節の祈りの意味は、いつか我々に訪れる死に、どのように備えて生きるべきかを尋ね求めるということです。それが、モーセが求めている知恵の心ということにります。死ぬまでに何年何日残っているかの知識は、死への備えにほとんど役に立ちませんから。

この聖書箇所は、キリストの公生涯と復活の予表にように読める部分が有ると思います。13節では「帰って来てください」と嘆願しています。神がエデンを歩かれたように、神はイスラエルの陣営の中を歩かれると言われました。しかし、モーセは更に強い神の臨在を求めていたのかもしれません。ローマ帝国の支配下に有ったユダヤ人たちは、メシアの到来を熱心に待ち望んでいました。そして、そこに、イエス・キリストが人の形をとって来られたのです。それは、私たちの想像できない力強い臨在であったと思われます。イエスは私たちの罪の代価を払うために十字架にかかって死ぬために来られました。モーセは神の憐みを求めましたが、それは驚くべき方法でかなえられたのです。

14節の嘆願は、イエスの死を嘆き悲しんだ女性たちの嘆願のようにも思えます。復活の信仰が無かったのでしょうか、彼女たちはイエスの死体に香料を塗りに行こうとするのです。しかし、その祈りはイースターの朝にかなえられたのです。キリストの復活の喜びは、今日まで続いているのです。私たちは日曜日にイエスの復活と救いのご計画の完成を祝って礼拝をします。

15節に示される楽しみとは、どのようにして与えられるのでしょうか。もし神がモーセや人々を悩まされたとしたら、それは彼らの罪の故であったでしょう。それが、どうすると楽しみに変わるのでしょうか。救い主、イエス・キリストに心を向け、信じてい行く他は有りません。

16節の嘆願は、神のみわざと威光を見せてくださいというものです。神のみわざの内で、私たちが最も求めるべきものは何でしょうか。それは、神の約束に従ってイエスが十字架の上で死なれたこと、そこで人類の罪の贖いが完成したこと、神の救いを確かなものにする復活に違いありません。それは、実際に弟子たちに現わされました。弟子たちはイエスの福音を宣べ伝えました。ですから、神の威光は「(神のしもべらの)子に見せられた」のです。子らというのは、イエスの福音を信じた人たちです。パウロはピレモンへの手紙で、オネシモという人物を「わが子」と呼んでいます。オネシモがパウロの伝道によって信仰を持ったからです。

17節の嘆願もかなえられました。神の慈愛はイエス・キリストと聖霊を通して私たちの上に、また私たちの内に留まっているのです。しかし、私たちは続けて私たちの手のわざを確かなものにしてくださるように祈らなければなりません。私たちの重要な手のわざとは何でしょうか。イエス・キリストを救い主として信じること、イエス・キリストの教えと戒めを守ること、イエス・キリストの証人として生き、福音を伝えることです。そのために、神の助けを祈り求める必要が有るのです。

まとめ)
3節の言葉は、創世記3章19節の、アダムに対する呪いの宣告を思い起させます。しかし、これを新約聖書の光に照らして考える時、3節の言葉は呪いの言葉ではなくなります。神は単純に私たちに死ぬようにと告げているのではないのです。神は私たちはどのような存在かをよくご存じです。神は愛であり、私たちに救いの道を備えてくださいました。帰れと訳された語には、回復するという意味も有ります。神は私たちに、「回復されよ、復帰せよ」と呼び掛けてくださるのです。私たちがイエス・キリストとその復活を信じた時、私たちは救われました。私たちは完全に回復させられ、天国に迎え入れられるのです。私たちはは創造主なる神のみ手の中に帰って行けるのです。

私たちには復活への渇望が有ります。この渇望をもって、私たちはどのようにこの地上の生涯を生きるべきなのでしょうか。イエス・キリストが復活を通して私たちにその恵みと喜びをくださいました。その信仰の確信と喜びを心に持ち続けましょう。そして、17節に記されたモーセの祈りを適用して祈り続けて行きましょう。その祈り方は次の通りです。

1)イエス・キリストを通して私たちに与えられた慈愛を感謝して祈る
  私たちはこのイースターに、特にそのことを心に留めて喜ぶのです。神の恵みがイエスの復活を通して私たちに与えられたからです。感謝を知らないことは罪に数えられています。日々にこの感謝の祈りをささげて行くことも、知恵の心の一部と言えるでしょう。

2)私たちのてのわざを確かなものにしてくださるように神の助けを求めて祈る
  私たちの手のわざは次のとおりです。
  イエス・キリストを救い主として信じる信仰を告白し続けること。
  イエス・キリストの教えと戒めを守り続けること。
  イエス・キリストの証人として、能力に応じて証をし、福音を伝えること。
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Good Friday 合同礼拝 2020年4月10日

2020-04-10 17:14:25 | 特別礼拝
礼拝ビデオ リストから選んでご視聴ください。説教は二つ目のビデオから始まります。

聖書箇所:ローマ5章1節~11節
説教題:キリストの受難は良いことである (何故 Good Friday なのか)

要約

キリストの受難は凄惨なものであったと言えます。では、何故 Good Friday と呼べるのでしょうか。その理由をローマ5章から見てみます。
理由を述べる前に、その前提条件を確認します。
1) キリストの受難は神の人類に対する恵の業である。 (1、5、9節参照) 
2) 人間は信仰をもって応答しなければならない。 (1, 2, 5節参照)

キリストの受難は良いことである
1)それは我々に救いをもたらすから
  救いの内容は文脈によって様々ですが、この箇所では、神との平和が有ることと、神に義と認められたことが述べられています。
2)それは、神の愛を我々に示すから
  神の愛に関わる記述が、5節、8節に出てきています。人類の救済の計画は創世記3章で既に述べられています。
3)それは我々に大いなる喜びをもたらすから
  2節にも、我々の喜びが述べられています。喜びの源は神からくる栄光の望みです。11節の締めくくりにも神を大いに喜ぶことが示されています。
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日曜礼拝 2020年4月5日

2020-04-05 18:01:14 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:出エジプト14章21節~31節
説教題:一つの道、二つの結果

導入)
紅海を渡る話は、出エジプトの中に有るよく知られたものの内の一つです。これは、エジプトを脱出してから5、6日目のことであると考えられています。神の導きに従って、イスラエルの民はピハロテの近くの海辺に宿営していました。民が目を上げると、エジプトの軍勢が追跡して来ているのが見えました。地形的には彼らには逃げ場が有りませんでした。そこで、彼らは神に向かって叫び声を上げました。神の言葉を受けて、モーセは民に、神が戦ってくださることを告げました。神の指示に従ってモーセと民は紅海を渡りました。その夜、神の偉大さが現わされたのでした。

本論)
21節 モーセは神の権威とそれを委任する印の杖をもって、手を海に差し伸べました。どのような原理によるのかはわかりませんが、風が水を押し分けて、民が滑ったりしないように、海の底を乾かし、彼らがの通り道を作られたのです。

22節 彼らを守り導くように、水は壁のようにそそり立ちました。15章8節の表現から、水が凍って氷山のようになったと考える研究者もいます。モーセに導かれて、民は紅海の底へ降りていきました。

23節 エジプトの軍勢は勇敢にと言いますか、無鉄砲に彼らを追って降りて行きました。彼らには神の奇跡的な業への恐れが無かったようです。

24節 19節に述べられているように、神のみ使いと雲の柱は、普段は先立って進むのですが、民を守るために、しんがりの位置に移動していました。それから日が暮れました。朝の見張りのころというのは、夜の3時から朝6時にかけての時間帯のことです。夜には雲の柱は火の柱に変わります。主はどのように敵をかき乱されたのでしょうか。研究者たちは、雷と稲妻、さらには雹までが用いられたのではないかということです。

25節 戦車の車輪が外れたのは、そこに落雷が有ったとか、雹が当たったということではないかと想像されます。車輪が無ければ戦車を引いていた馬にも負担になり、なかなか進めなかっただろうことは容易に想像できます。それに、近くに落雷やら雹やらが有れば、馬も怖がって右往左往しただろうと思われます。このころになれば、エジプト人たちも神が戦っておられることに気づきました。もしかすると、イスラエル人が戻ってきて攻撃するかもしれないとまで感じたかもしれません。彼らは引き返したいと思いました。

26節―28節 それから神は、水が元に戻るようにモーセにもう一度手を海に向けて差し伸べるように命じました。15章10節の表現を見ると、水を元に戻すために、神はまた別の風を送られたようです。このころまでには、イスラエルの民は向こう岸に渡りきっていました。一方エジプト人たちは水に覆われてしまうことになりました。

30節 朝になって、イスラエル人たちはエジプト人たちの死体が岸に打ち上げられているのを見ました。その時に彼らが身に着けていた武器などをはぎ取ったと思われます。それが、荒野を行き巡る間に敵と戦う時に使われたと考えられます。

31節 17節に示されているように、この出来事は神の栄光のために起こりました。神の偉大な力を目撃して、イスラエルの民はさらに神を恐れ、神に信頼するようになりました。

まとめ)
この物語には、二種類の人々が出てきます。イスラエル人とエジプト人です。どちらも神の奇跡の業を目撃し、海の底にできた道を通りました。イスラエル人は救われましたが、エジプト人は滅ぼされました。何が違っていたのでしょうか。イスラエル人が救われた要素を確認してみましょう。

1)神の命令が彼らを救いに導いた
  モーセは神の命令を聞き、それをイスラエルの民に伝えました。民はモーセを通して神の命令に聞き従いました。彼らはそのようにして乾いた海の底を歩いて救われました。モーセはイエス・キリストの予表と言われます。イエスは父なる神の言葉を弟子たちに伝えました。イエスの言葉を聞いて受け入れた人々は、父なる神の命令に聞き従って救われました。一方、エジプト人たちは、パロの命令で出動し、イスラエル人を奴隷に連れ戻そうとする欲望に従って行動をしました。パリサイ人がイエスの奇跡を顧みなかったように、エジプト人たちもモーセを通して行われた神の業を心に留めず、神を恐れませんでした。こうして彼らは滅ぼされました。何事も信仰によらないならば罪なのです。(ローマ14章23節参照)救いは信仰の従順の結果なのです。

2)神が備えた道が彼らを救いに導いた
  水と夜は危険や死の象徴です。しかし、神はイスラエル人に特別な逃れの道を備えられたのです。イエスは、ご自身が道であり、真理であり、命であり、イエスを通してでなければ誰も父なる神のもとに行くことはできないと言われました。(ヨハネ14章6節参照) モーセが最初に紅海に降りて行ったように、イエスは私たちに模範を示すためにバプテスマを受けられました。そして、私たちを救うために十字架にかかられたのです。神は暗闇と水さえも、イスラエル人たちを救うために用いられました。イエスが十字架で死なれた時に、暗闇が空をおおいました。イエス・キリストは死を通られて、私たちが救われるための道を備えられました。パウロは、十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力だと言っています。(1コリント1章18節)私たちクリスチャンは、神が私たちのために備えてくださった道をたどっているのです。この受難節の最後の週を、主の供えられた道、イエス・キリストを思って過ごしていただきたいと思います。

3)神の契約・約束が彼らを救いに導いた
  イスラエルの民はアブラハムの契約に基づいて、カナンを目指してエジプトを出ました。神はアブラハムに対して、その子孫にこの地を与えるという約束をされました。神は私たちを守り、永遠の遺産を与えてくださると約束しておられます。イエスは、山上の垂訓で、もし私たちが神の国と神の義を求め、神を信頼するならば、私たちの生活で必要なものは供えられると言われました。その約束は今でも有効なのです。だからこそ、難しい状況においても、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。(ローマ8章28節参照)ですから、私たちはダビデのように、死の影の谷を歩く時も災いを恐れないと告白することができるのです。私たちが死ななければならない状況でも、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」という言葉が私たちを支えるのです。私たちの永遠の命はすでに始まっているのですから。(ヨハネ5章24節参照)
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