本日の礼拝ビデオ
聖書箇所:1ペテロ 5章1節~5節
説教題:私たちの裁きへの備え
導入)
これまでペテロは迫害に苦しむクリスチャンを励ましてきました。ここで、彼は突然長老たちに語りかけ始めます。どうしてそういう展開になるのでしょうか。1節は、「そこで」という接続詞で始まっています。それまで述べられてきた内容を前提にして、次の奨励が展開されているということです。その前提は、裁きが神の家から始まるということだと考えることができます。キリストの体なる教会と言えど、裁きに備えることが必要なのです。その備えのためになすべきことをペテロは語っていると考えられます。
本論)
1)神のみ前に謙遜になること
この原則をはっきり示しているのは、5節に出てくる箴言3章34節の引用です。そして、この原則は、この箇所全体に反映されていると考えることができそうです。引用中に「敵対し」と訳された語は、抵抗する、公に敵意を示す、戦いを挑む等の意味が有り、かなり強い感じの言葉です。神が高ぶる者にこのようにされる理由を、ある注解書は次のように説明しています。「他の罪は神を避けて逃げるような性質であるが、高ぶりだけは、神に反対して争う性質を持っているために、神も高ぶる者に対して対抗するのである。」私たちは、高ぶるという罪を真剣に考え向き合わなければなりません。
ペテロは1節自分が誰であるかを述べる時に、注意深く謙遜に三つの立場を示しました。最初にペテロは彼が他の長老たちと同様の長老であり、仲間であることを示しました。しかし、彼に高ぶる心が有ったならば、二番名の方から述べてそれを強調することもできたはずです。彼はキリストの苦難の証人です。その目的は、彼のキリストについての証が真実であることを示すことですが、同時に彼が使徒であることにも関わりが有りました。使徒行伝1章21節‐2節に使徒の資格が述べられています。バプテスマのヨハネによる洗礼から昇天に至るまでのキリストの生涯の目撃者であることが要件でした。ペテロはそれを満たしているばかりか、使徒の長のように見なされた人でした。しかし、彼はそれをひけらかすようなことは避けたと考えられます。そして、三つ目にやがて来る栄光にあずかる者という表現をしています。あずかる者という部分は、仲間という意味が有る語です。繰り返し、他の長老と同様の者だということを述べています。人間的に言えば、彼には他にも自慢できる目撃談が有りました。山の上でモーセとエリヤと共に栄光に輝くイエスを見ました。また、復活のイエスに会いました。しかし、彼は他の長老と同じだと述べています。彼が引用した旧約聖書の原則が、彼の信仰と態度に反映されていたと言えます。
2)神のみ心に従って行動すること
直接的にこのことを表現しているのは、2節の「神に従って」と訳された部分です。2節の「神の羊の群れを、牧しなさい」という指示を書き記した時、ペテロはヨハネ21章に出てくるエピソードを思い起こしていたことでしょう。そこでは、3回にわたって、キリストが「私の羊を飼いなさい」ということをペテロに語られています。ペテロは神の羊の群れと言いました。それはクリスチャンがイエス・キリストの贖いの業と、聖霊の導きを通して生まれたからです。であるならば、その群れは神のみ心に従って世話をされなければならないのです。ペテロはこの後、長老として心得るべき三組のしてはならないこととするべきことをを列挙します。
一つ目がこの中では中心となる要素です。それが、「神のみこころに従ってする」ということです。イエスがぺテロに教会の群れを託し、ペテロも長老たちに同じ務めを引き継いでいきます。そして、その務めは、イエス・キリストの教えに基づいてなされなければなりません。福音書に記されている神の国の福音の教えです。
二つ目に挙げれらているのは、「心をこめてしなさい」ということですが、その前に、卑しい利得を求める心からではなくという断り書きが有ります。そこにもイエスの教えが反映されています。旧約の時代には偽預言者が、新約の時代には偽教師が利得のために働いていました。しかし、イエスは、マタイ6章24節で、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言っています。ここから、教会が裁きに備えることには、そのような偽教師を排除することも含まれていると考えられます。
三つ目に挙げられているのは、「支配するのではなく、群れの模範になりなさい」ということです。この原則もイエスの教えにつながります。(マルコ10章42節―45節参照)たとえ私たちが指導的な立場になくても、同様の心構えでいる必要があります。そのためには、イエス・キリストの教えを良く知っていなければなりません。そうしないと、神のみ心に従って行動することはできません。
3)将来与えられる天国の栄光に心を向けること
4節に出てくるこの原則は、前の章の13節にも示されています。ペテロはこの希望を仲間のクリスチャンたちと分かち合って、彼らを励ましています。ついに最後の審判の日が来るときには、教会は義と認められるのです。特に長老たちに語られていますが、大きな原則は同じです。ここに出てくる大牧者はイエス・キリストのことです。長老たちが忠実に神に従っていくならば、しぼむことのない栄光の冠をいただくということです。その原則はクリスチャン全体にも適用されることです。冠というのは、競技の優勝者に与えられるオリーブの枝や何種類かの植物を組み合わせて作った冠です。植物ですから、数日すれば枯れていくのです。しかし、キリストの現れの時にいただく冠はしぼむことはないのです。私たちは皆主からいただく天国の報酬を目指して生きている部分が有ります。競技者たちがメダルを目指して努力するのと同様です。
まとめ)
ペテロは長老たち、若い人たち、みな、と三種類の人々に語り掛けています。学者たちの中には、若い人たちは長老と同様年齢に関係無い表現で、執事のことであると考えます。そして、みなというのは、その教会員全般を指すと考えます。もちろんこの理解には反対の立場も有るのですが、有り得ない話ではないように思います。また、どの立場の人間であろうと、謙遜に教会を建て上げていかなければいけないことはこの箇所の共通原則です。ですからヤコブも4章6節でペテロと同じ旧約聖書を引用して戒めています。そして、私たちが教会においてどのような役割を担っていようといまいと、私たちは皆、神の家、教会から始まる神の裁きに備えていなければならないのです。裁きの備えとしてしなければならないことは、以下の通りです。
1)神のみ前に謙遜になること
2)神のみ心に従って行動すること
3)将来与えられる天国の栄光に心を向けること
聖書箇所:1ペテロ 5章1節~5節
説教題:私たちの裁きへの備え
導入)
これまでペテロは迫害に苦しむクリスチャンを励ましてきました。ここで、彼は突然長老たちに語りかけ始めます。どうしてそういう展開になるのでしょうか。1節は、「そこで」という接続詞で始まっています。それまで述べられてきた内容を前提にして、次の奨励が展開されているということです。その前提は、裁きが神の家から始まるということだと考えることができます。キリストの体なる教会と言えど、裁きに備えることが必要なのです。その備えのためになすべきことをペテロは語っていると考えられます。
本論)
1)神のみ前に謙遜になること
この原則をはっきり示しているのは、5節に出てくる箴言3章34節の引用です。そして、この原則は、この箇所全体に反映されていると考えることができそうです。引用中に「敵対し」と訳された語は、抵抗する、公に敵意を示す、戦いを挑む等の意味が有り、かなり強い感じの言葉です。神が高ぶる者にこのようにされる理由を、ある注解書は次のように説明しています。「他の罪は神を避けて逃げるような性質であるが、高ぶりだけは、神に反対して争う性質を持っているために、神も高ぶる者に対して対抗するのである。」私たちは、高ぶるという罪を真剣に考え向き合わなければなりません。
ペテロは1節自分が誰であるかを述べる時に、注意深く謙遜に三つの立場を示しました。最初にペテロは彼が他の長老たちと同様の長老であり、仲間であることを示しました。しかし、彼に高ぶる心が有ったならば、二番名の方から述べてそれを強調することもできたはずです。彼はキリストの苦難の証人です。その目的は、彼のキリストについての証が真実であることを示すことですが、同時に彼が使徒であることにも関わりが有りました。使徒行伝1章21節‐2節に使徒の資格が述べられています。バプテスマのヨハネによる洗礼から昇天に至るまでのキリストの生涯の目撃者であることが要件でした。ペテロはそれを満たしているばかりか、使徒の長のように見なされた人でした。しかし、彼はそれをひけらかすようなことは避けたと考えられます。そして、三つ目にやがて来る栄光にあずかる者という表現をしています。あずかる者という部分は、仲間という意味が有る語です。繰り返し、他の長老と同様の者だということを述べています。人間的に言えば、彼には他にも自慢できる目撃談が有りました。山の上でモーセとエリヤと共に栄光に輝くイエスを見ました。また、復活のイエスに会いました。しかし、彼は他の長老と同じだと述べています。彼が引用した旧約聖書の原則が、彼の信仰と態度に反映されていたと言えます。
2)神のみ心に従って行動すること
直接的にこのことを表現しているのは、2節の「神に従って」と訳された部分です。2節の「神の羊の群れを、牧しなさい」という指示を書き記した時、ペテロはヨハネ21章に出てくるエピソードを思い起こしていたことでしょう。そこでは、3回にわたって、キリストが「私の羊を飼いなさい」ということをペテロに語られています。ペテロは神の羊の群れと言いました。それはクリスチャンがイエス・キリストの贖いの業と、聖霊の導きを通して生まれたからです。であるならば、その群れは神のみ心に従って世話をされなければならないのです。ペテロはこの後、長老として心得るべき三組のしてはならないこととするべきことをを列挙します。
一つ目がこの中では中心となる要素です。それが、「神のみこころに従ってする」ということです。イエスがぺテロに教会の群れを託し、ペテロも長老たちに同じ務めを引き継いでいきます。そして、その務めは、イエス・キリストの教えに基づいてなされなければなりません。福音書に記されている神の国の福音の教えです。
二つ目に挙げれらているのは、「心をこめてしなさい」ということですが、その前に、卑しい利得を求める心からではなくという断り書きが有ります。そこにもイエスの教えが反映されています。旧約の時代には偽預言者が、新約の時代には偽教師が利得のために働いていました。しかし、イエスは、マタイ6章24節で、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言っています。ここから、教会が裁きに備えることには、そのような偽教師を排除することも含まれていると考えられます。
三つ目に挙げられているのは、「支配するのではなく、群れの模範になりなさい」ということです。この原則もイエスの教えにつながります。(マルコ10章42節―45節参照)たとえ私たちが指導的な立場になくても、同様の心構えでいる必要があります。そのためには、イエス・キリストの教えを良く知っていなければなりません。そうしないと、神のみ心に従って行動することはできません。
3)将来与えられる天国の栄光に心を向けること
4節に出てくるこの原則は、前の章の13節にも示されています。ペテロはこの希望を仲間のクリスチャンたちと分かち合って、彼らを励ましています。ついに最後の審判の日が来るときには、教会は義と認められるのです。特に長老たちに語られていますが、大きな原則は同じです。ここに出てくる大牧者はイエス・キリストのことです。長老たちが忠実に神に従っていくならば、しぼむことのない栄光の冠をいただくということです。その原則はクリスチャン全体にも適用されることです。冠というのは、競技の優勝者に与えられるオリーブの枝や何種類かの植物を組み合わせて作った冠です。植物ですから、数日すれば枯れていくのです。しかし、キリストの現れの時にいただく冠はしぼむことはないのです。私たちは皆主からいただく天国の報酬を目指して生きている部分が有ります。競技者たちがメダルを目指して努力するのと同様です。
まとめ)
ペテロは長老たち、若い人たち、みな、と三種類の人々に語り掛けています。学者たちの中には、若い人たちは長老と同様年齢に関係無い表現で、執事のことであると考えます。そして、みなというのは、その教会員全般を指すと考えます。もちろんこの理解には反対の立場も有るのですが、有り得ない話ではないように思います。また、どの立場の人間であろうと、謙遜に教会を建て上げていかなければいけないことはこの箇所の共通原則です。ですからヤコブも4章6節でペテロと同じ旧約聖書を引用して戒めています。そして、私たちが教会においてどのような役割を担っていようといまいと、私たちは皆、神の家、教会から始まる神の裁きに備えていなければならないのです。裁きの備えとしてしなければならないことは、以下の通りです。
1)神のみ前に謙遜になること
2)神のみ心に従って行動すること
3)将来与えられる天国の栄光に心を向けること