聖書箇所:2サムエル24章
説教題:主はあわれみ深い
(導入)
この時点ではダビデは年を取って弱くなってしまいました。21章では、ダビデが戦場に
出ないように部下が要請しています。このエピソードはダビデがソロモンを任命する前の
最後のエピソードです。ここには基本的で重要な原則が示されています。
(解説)
1節では、イスラエルの民が神に対して罪を犯し、神を怒らせたことが示されています。
また、神がダビデを動かして人口調査をさせたという記述が有ります。10節ではダビデが
神に罪を犯したと告白をしています。しかし、神は人に罪を犯すようにそそのかす方では
ありません。これは神の主権と摂理を示す表現と考えます。1歴代誌21章では、サタンが
ダビデを動かしたと書かれています。サタンは人間の堕落の後、最後の審判まで堕落の結
果としてこの世で働くことがゆるされています。
ダビデは悔い改めの祈りをしました。しかし、イスラエルの民は神と申命記28章に記録
されている契約をしており、神に従順しなかったときの罰の条件も示されていますから、
どのような罰にするかをダビデが選ぶように神は預言者ガドを通して指示しました。ダビ
デは主のあわれみは深いという理由で、疫病を選びました。戦争であれば相手は当然人間
ですし、飢饉であれば、食料の有る他国の人に交易を頼まなければなりませんから、無慈
悲な扱いを受けることが有り得ました。
疫病はペストであろうと考えられます。定められた時までというのは、発症から死に至
るまで2日から7日程かかるというその期間のことと思われます。イスラエルの民は自分の
罪の故に契約に従って罰が臨んだわけですが、17節ではダビデが民に代わってとりなしの
祈りをしています。ダビデはここでもイエス・キリストの予表として記録されています。
ダンからベエル・シェバというのは、国の北端から南端までという意味で、イスラエル
全土を指す表現です。全国で7万の民が死んだのですが、これは1665年のロンドンでのペ
ストの死者と同じだということです。
16節では主が思い直したという表現がされています。該当するヘブル語は、「あわれみ
の心を持った、満足した」等の意味が有ります。契約の通りに罰が臨んだのですが、その
多くの民の死に対してあわれみをお持ちになったということです。また、約束が履行され
て、民が罰を受けたわけですから、満足されるということにもなるわけです。
ダビデにはもう一つするべきことが有りました。それは全焼のいけにえと和解のいけに
えをささげることでした。全焼のいけにえは、罪の贖いと赦しのため、若いのいけにえは
感謝を表すためでした。
(まとめ)
7万人が罰を受けるような神に対する不従順は何だったのでしょうか。定かではありま
せんが、アブサロムの反乱が一つの可能性として指摘されています。記者は7章もかけて
この出来事を記録しています。15章には、多くの人々がアブサロムを支持した様子が書か
れています。彼らのしたことは、主が直接選んだ王を拒絶して、自分の好きな人物を王に
立てようとすることでした。これは神を拒絶する不従順の罪でした。
ダビデも無罪というわけにはいきませんでした。彼は人口調査言い換えると兵力の調査
をさせました。家畜や人の数を数えるという行為は、その所有者にのみ与えられた権限で
した。ですから、神の命令によらず、自分の判断でそんことを命じたダビデは、民の所有
権が有るように振る舞い、神の座に就くような不敬の罪を犯したことになりました。ダビ
デも神に対して忠実ではなかったことになります。私たちの内にもそのような態度が隠れ
てはいないでしょうか。
1)私たちは何が罪であり、その結果どんなものかを理解する必要が有ります
神を拒絶することになる行為、自分が自分の人生の所有者であるような生き方をす
ること、この世に属する力に頼ること、それらは罪になります。神の国と神の義を先
ず求めるという、基本に忠実な歩みを心掛けましょう。
2)私たちは自分の罪に気付いた時に、悔い改める必要が有ります
10節のダビデの祈りに、悔い改めの祈りの要素が示されています。それは神に向か
って祈る中でなされます。何をしたのかということを告白します。そして、神からの
罪の赦しを求めています。
私たちも1)で示された罪の原則に当てはまることをしたことに気付いた時、この
祈りの要素に従って祈ることをしていかなければなりません。
3)私たちは自身を神のあわれみに委ねて行く必要が有ります
ダビデはあわれみ深い主に身を委ね、民を委ねました。究極の主のあわれみ深さは
イエス・キリストの内に示されました。
ダビデはいけにえをささげた場所は、アブラハムがイサクをささげようとした場所
でもありました。神様はイサクの代わりになる羊を用意してくださいました。その羊
と同じように、イエス・キリストは私たちの罪のために、この場所に近い丘の上で十
字架にかかられました。神様は、歴史を通しても、この場所を救いのご計画を表す場
所としてお選びになったのです。
主のあわれみは深いのです。イエス・キリストを救い主と信じ、神の深いあわれみ
を受け入れて生きようではありませんか。
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説教題:主はあわれみ深い
(導入)
この時点ではダビデは年を取って弱くなってしまいました。21章では、ダビデが戦場に
出ないように部下が要請しています。このエピソードはダビデがソロモンを任命する前の
最後のエピソードです。ここには基本的で重要な原則が示されています。
(解説)
1節では、イスラエルの民が神に対して罪を犯し、神を怒らせたことが示されています。
また、神がダビデを動かして人口調査をさせたという記述が有ります。10節ではダビデが
神に罪を犯したと告白をしています。しかし、神は人に罪を犯すようにそそのかす方では
ありません。これは神の主権と摂理を示す表現と考えます。1歴代誌21章では、サタンが
ダビデを動かしたと書かれています。サタンは人間の堕落の後、最後の審判まで堕落の結
果としてこの世で働くことがゆるされています。
ダビデは悔い改めの祈りをしました。しかし、イスラエルの民は神と申命記28章に記録
されている契約をしており、神に従順しなかったときの罰の条件も示されていますから、
どのような罰にするかをダビデが選ぶように神は預言者ガドを通して指示しました。ダビ
デは主のあわれみは深いという理由で、疫病を選びました。戦争であれば相手は当然人間
ですし、飢饉であれば、食料の有る他国の人に交易を頼まなければなりませんから、無慈
悲な扱いを受けることが有り得ました。
疫病はペストであろうと考えられます。定められた時までというのは、発症から死に至
るまで2日から7日程かかるというその期間のことと思われます。イスラエルの民は自分の
罪の故に契約に従って罰が臨んだわけですが、17節ではダビデが民に代わってとりなしの
祈りをしています。ダビデはここでもイエス・キリストの予表として記録されています。
ダンからベエル・シェバというのは、国の北端から南端までという意味で、イスラエル
全土を指す表現です。全国で7万の民が死んだのですが、これは1665年のロンドンでのペ
ストの死者と同じだということです。
16節では主が思い直したという表現がされています。該当するヘブル語は、「あわれみ
の心を持った、満足した」等の意味が有ります。契約の通りに罰が臨んだのですが、その
多くの民の死に対してあわれみをお持ちになったということです。また、約束が履行され
て、民が罰を受けたわけですから、満足されるということにもなるわけです。
ダビデにはもう一つするべきことが有りました。それは全焼のいけにえと和解のいけに
えをささげることでした。全焼のいけにえは、罪の贖いと赦しのため、若いのいけにえは
感謝を表すためでした。
(まとめ)
7万人が罰を受けるような神に対する不従順は何だったのでしょうか。定かではありま
せんが、アブサロムの反乱が一つの可能性として指摘されています。記者は7章もかけて
この出来事を記録しています。15章には、多くの人々がアブサロムを支持した様子が書か
れています。彼らのしたことは、主が直接選んだ王を拒絶して、自分の好きな人物を王に
立てようとすることでした。これは神を拒絶する不従順の罪でした。
ダビデも無罪というわけにはいきませんでした。彼は人口調査言い換えると兵力の調査
をさせました。家畜や人の数を数えるという行為は、その所有者にのみ与えられた権限で
した。ですから、神の命令によらず、自分の判断でそんことを命じたダビデは、民の所有
権が有るように振る舞い、神の座に就くような不敬の罪を犯したことになりました。ダビ
デも神に対して忠実ではなかったことになります。私たちの内にもそのような態度が隠れ
てはいないでしょうか。
1)私たちは何が罪であり、その結果どんなものかを理解する必要が有ります
神を拒絶することになる行為、自分が自分の人生の所有者であるような生き方をす
ること、この世に属する力に頼ること、それらは罪になります。神の国と神の義を先
ず求めるという、基本に忠実な歩みを心掛けましょう。
2)私たちは自分の罪に気付いた時に、悔い改める必要が有ります
10節のダビデの祈りに、悔い改めの祈りの要素が示されています。それは神に向か
って祈る中でなされます。何をしたのかということを告白します。そして、神からの
罪の赦しを求めています。
私たちも1)で示された罪の原則に当てはまることをしたことに気付いた時、この
祈りの要素に従って祈ることをしていかなければなりません。
3)私たちは自身を神のあわれみに委ねて行く必要が有ります
ダビデはあわれみ深い主に身を委ね、民を委ねました。究極の主のあわれみ深さは
イエス・キリストの内に示されました。
ダビデはいけにえをささげた場所は、アブラハムがイサクをささげようとした場所
でもありました。神様はイサクの代わりになる羊を用意してくださいました。その羊
と同じように、イエス・キリストは私たちの罪のために、この場所に近い丘の上で十
字架にかかられました。神様は、歴史を通しても、この場所を救いのご計画を表す場
所としてお選びになったのです。
主のあわれみは深いのです。イエス・キリストを救い主と信じ、神の深いあわれみ
を受け入れて生きようではありませんか。
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