本日の礼拝ビデオ
聖書箇所:マタイ10章40節~42節
説教題:大いなる報い
導入)
10章はこれまで確認してきたように、イエス・キリストが弟子たちを宣教に送り出す前の指示と警告が記録されています。16節からは、弟子たちが迫害に遭ったり殉教することを前提に警告と励まし与えてきました。ここでは、しめくくりとして、焦点を彼らの宣教によって信仰を持つようになる人に向けて、どんなに彼らの働きの報いが大きいかを示して彼らを励ましています。
本論)
40節から、彼らの宣教の働きが、神の国の福音を受け入れた人々にとって、いかに大事であるかを述べています。人々が好意的に彼らの言葉を聞くならば、弟子たちを受け入れたことになります。しかし、それよりも大事なことは、それが弟子たちに留まらず、イエスと天の父おも受け入れたことになっているということです。彼らはそういう認識がなかったかもしれませんが、大変大事な使命を与えられていたのです。
例えば、新型コロナウイルスのワクチンが開発されて、その有効性が確認されて、世界的に手に入る段階になったという知らせが入ったら、それは素晴らしいニュースではないでしょうか。もし、あなたがこのニュースを世界で一番最初に発信する人に選ばれたら、それは特権であり誇らしいことであるかもしれません。しかし、そんな知らせも感染拡大が沈静化したり、この世代の人々が皆死んでしまった頃には、ニュースバリューは無くなっています。それとは反対に、神の国の福音は、信じる人々に永遠の命を与え、人々をイエス・キリストと天の父なる神に結び合わせ、永遠の価値が有るのです。イエスは弟子たちの使命がいかに誉の有るものであるかということを示して励ましているようです。
「受け入れる」と訳された語は、更に色々な意味合いが有ります。もてなす、人の言葉を聞いて理解する、好意的、友好的に受け止める、歓迎する、結婚相手として受け入れる、などの意味をも含んでいます。このようなニュアンスを前提として、イエスは更に言葉を続けます。
41節から、イエスは弟子たちを神の使者、伝令として受け入れた人たちが受けることになる報いについて話します。最初の預言者を受け入れる者はという部分で、弟子たちは容易にエリヤとツァレファテの寡婦の話を思い出したことでしょう。(1列王記17章8節~16節参照)この寡婦は、エリヤが神の預言者として受け入れただけで、彼女はエリヤと同じ報いを得ました。この話においては、食糧難の中で、カメの粉(小麦粉)とツボの油が奇跡的に無くならなかったことを示しています。このようにして、エリヤが食物を得、同時に寡婦とその家族も養われるということが起きました。
イエスはまた、同じ原則を、「義人」という表現を用いて話します。その語は、神の戒めを守っている、神に認められている、罪の責めが無い、という意味を持ちます。ここでは、第一義的には預言者も義人もこれから遣わされる弟子たちのことです。イエスは、弟子たちは宣教に伴って報いが有るということを約束されたことになります。また、彼らが福音を受け入れる人々に、彼らが受けるの同じ報いをもたらす器になるということも示し増した。
42節でイエスは更に説明を付け加えます。中近東は乾燥した場所です。水をあげることは、初歩的な旅人へのもてなしでした。ですから、創世記24章では、リベカがアブラハムの家令が水を求めた時に、すぐ水をあげたのです。旧約聖書に出てくる旅人へのもてなしの例を見ると、食事と宿の世話までするものが数例有りますから、水だけ与えるのは小さなことと考えられました。そのような小さな行いでも、弟子たちをもてなしたならば、かならずその報いが返ってくるというのです。それは、弟子たちがイエスの弟子だからです。そのことは、「わたしの弟子」「この小さい者たち」という言葉に表されています。イエスの弟子ですからイエスの言葉を伝えます。彼らが小さい者たちと呼ばれたのは、彼らを遣わした師であるイエス・キリストが「大きい者」であり、偉大な神の御子だからです。
まとめ)
イエスの弟子となることには大いなる報いが伴います。同様に、クリスチャンになることには大きな報いが有ります。
1)それは人々を神と結びつける働きをするからです
人々がクリスチャンの証を聞いて受け入れ、その結果イエス・キリストと天の父なる神を受け入れることがあります。そうすると、その人々は、キリストの体なる教会に属して、霊的にはキリストと一体になります。私たちも弟子たちと同様な大事な使命をいただいていると言うことができます。イエス・キリストがそういう使命を与えた以上は、必ず私たちクリスチャンの証を受け入れる人がいるということです。私たちを結び合わせる主要素は、神の言葉です。(ヨハネ14章23、24節参照)
2)それは人々に報いをもたらすからです
エリヤは神の言葉に聞きしたがって、ツァレファテの寡婦を通して報いを受けました。そのツァレファテの寡婦は、エリヤを預言者と認めてその指示に従ったので、エリヤと同じ報いを受けて、飢饉の中で生きながらえました。この例における報いは食物であり、地上のものでした。しかし、そればかりではなく、神に従う者たいは、霊的な報いも得て、天国に受け継ぐべき財産が有ります。イエス・キリストが従う者たちのために天国に場所を備えてくださいます。
3)それは教会に報いをもたらすからです
弟子たちは人々に神の言葉とそのご意思を知らせたので、預言者として扱われました。彼らはキリストの言葉を守り、神に認められたので、義人とも呼ばれました。その定義からすると、私たちクリスチャンも弟子たちと同様に義人です。キリストの体である教会では、キリストのゆえに互いが好意的に友好的に受け入れ合います。そこに、天国を先取りして味わう生活が有ります。このようにして、私たちも教会の中で地上と天国の両方で報いを受けるのです。
聖書箇所:マタイ10章40節~42節
説教題:大いなる報い
導入)
10章はこれまで確認してきたように、イエス・キリストが弟子たちを宣教に送り出す前の指示と警告が記録されています。16節からは、弟子たちが迫害に遭ったり殉教することを前提に警告と励まし与えてきました。ここでは、しめくくりとして、焦点を彼らの宣教によって信仰を持つようになる人に向けて、どんなに彼らの働きの報いが大きいかを示して彼らを励ましています。
本論)
40節から、彼らの宣教の働きが、神の国の福音を受け入れた人々にとって、いかに大事であるかを述べています。人々が好意的に彼らの言葉を聞くならば、弟子たちを受け入れたことになります。しかし、それよりも大事なことは、それが弟子たちに留まらず、イエスと天の父おも受け入れたことになっているということです。彼らはそういう認識がなかったかもしれませんが、大変大事な使命を与えられていたのです。
例えば、新型コロナウイルスのワクチンが開発されて、その有効性が確認されて、世界的に手に入る段階になったという知らせが入ったら、それは素晴らしいニュースではないでしょうか。もし、あなたがこのニュースを世界で一番最初に発信する人に選ばれたら、それは特権であり誇らしいことであるかもしれません。しかし、そんな知らせも感染拡大が沈静化したり、この世代の人々が皆死んでしまった頃には、ニュースバリューは無くなっています。それとは反対に、神の国の福音は、信じる人々に永遠の命を与え、人々をイエス・キリストと天の父なる神に結び合わせ、永遠の価値が有るのです。イエスは弟子たちの使命がいかに誉の有るものであるかということを示して励ましているようです。
「受け入れる」と訳された語は、更に色々な意味合いが有ります。もてなす、人の言葉を聞いて理解する、好意的、友好的に受け止める、歓迎する、結婚相手として受け入れる、などの意味をも含んでいます。このようなニュアンスを前提として、イエスは更に言葉を続けます。
41節から、イエスは弟子たちを神の使者、伝令として受け入れた人たちが受けることになる報いについて話します。最初の預言者を受け入れる者はという部分で、弟子たちは容易にエリヤとツァレファテの寡婦の話を思い出したことでしょう。(1列王記17章8節~16節参照)この寡婦は、エリヤが神の預言者として受け入れただけで、彼女はエリヤと同じ報いを得ました。この話においては、食糧難の中で、カメの粉(小麦粉)とツボの油が奇跡的に無くならなかったことを示しています。このようにして、エリヤが食物を得、同時に寡婦とその家族も養われるということが起きました。
イエスはまた、同じ原則を、「義人」という表現を用いて話します。その語は、神の戒めを守っている、神に認められている、罪の責めが無い、という意味を持ちます。ここでは、第一義的には預言者も義人もこれから遣わされる弟子たちのことです。イエスは、弟子たちは宣教に伴って報いが有るということを約束されたことになります。また、彼らが福音を受け入れる人々に、彼らが受けるの同じ報いをもたらす器になるということも示し増した。
42節でイエスは更に説明を付け加えます。中近東は乾燥した場所です。水をあげることは、初歩的な旅人へのもてなしでした。ですから、創世記24章では、リベカがアブラハムの家令が水を求めた時に、すぐ水をあげたのです。旧約聖書に出てくる旅人へのもてなしの例を見ると、食事と宿の世話までするものが数例有りますから、水だけ与えるのは小さなことと考えられました。そのような小さな行いでも、弟子たちをもてなしたならば、かならずその報いが返ってくるというのです。それは、弟子たちがイエスの弟子だからです。そのことは、「わたしの弟子」「この小さい者たち」という言葉に表されています。イエスの弟子ですからイエスの言葉を伝えます。彼らが小さい者たちと呼ばれたのは、彼らを遣わした師であるイエス・キリストが「大きい者」であり、偉大な神の御子だからです。
まとめ)
イエスの弟子となることには大いなる報いが伴います。同様に、クリスチャンになることには大きな報いが有ります。
1)それは人々を神と結びつける働きをするからです
人々がクリスチャンの証を聞いて受け入れ、その結果イエス・キリストと天の父なる神を受け入れることがあります。そうすると、その人々は、キリストの体なる教会に属して、霊的にはキリストと一体になります。私たちも弟子たちと同様な大事な使命をいただいていると言うことができます。イエス・キリストがそういう使命を与えた以上は、必ず私たちクリスチャンの証を受け入れる人がいるということです。私たちを結び合わせる主要素は、神の言葉です。(ヨハネ14章23、24節参照)
2)それは人々に報いをもたらすからです
エリヤは神の言葉に聞きしたがって、ツァレファテの寡婦を通して報いを受けました。そのツァレファテの寡婦は、エリヤを預言者と認めてその指示に従ったので、エリヤと同じ報いを受けて、飢饉の中で生きながらえました。この例における報いは食物であり、地上のものでした。しかし、そればかりではなく、神に従う者たいは、霊的な報いも得て、天国に受け継ぐべき財産が有ります。イエス・キリストが従う者たちのために天国に場所を備えてくださいます。
3)それは教会に報いをもたらすからです
弟子たちは人々に神の言葉とそのご意思を知らせたので、預言者として扱われました。彼らはキリストの言葉を守り、神に認められたので、義人とも呼ばれました。その定義からすると、私たちクリスチャンも弟子たちと同様に義人です。キリストの体である教会では、キリストのゆえに互いが好意的に友好的に受け入れ合います。そこに、天国を先取りして味わう生活が有ります。このようにして、私たちも教会の中で地上と天国の両方で報いを受けるのです。