パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2020年2月2日

2020-03-29 20:45:27 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ10章40節~42節
説教題:大いなる報い

導入)
10章はこれまで確認してきたように、イエス・キリストが弟子たちを宣教に送り出す前の指示と警告が記録されています。16節からは、弟子たちが迫害に遭ったり殉教することを前提に警告と励まし与えてきました。ここでは、しめくくりとして、焦点を彼らの宣教によって信仰を持つようになる人に向けて、どんなに彼らの働きの報いが大きいかを示して彼らを励ましています。

本論)
40節から、彼らの宣教の働きが、神の国の福音を受け入れた人々にとって、いかに大事であるかを述べています。人々が好意的に彼らの言葉を聞くならば、弟子たちを受け入れたことになります。しかし、それよりも大事なことは、それが弟子たちに留まらず、イエスと天の父おも受け入れたことになっているということです。彼らはそういう認識がなかったかもしれませんが、大変大事な使命を与えられていたのです。

例えば、新型コロナウイルスのワクチンが開発されて、その有効性が確認されて、世界的に手に入る段階になったという知らせが入ったら、それは素晴らしいニュースではないでしょうか。もし、あなたがこのニュースを世界で一番最初に発信する人に選ばれたら、それは特権であり誇らしいことであるかもしれません。しかし、そんな知らせも感染拡大が沈静化したり、この世代の人々が皆死んでしまった頃には、ニュースバリューは無くなっています。それとは反対に、神の国の福音は、信じる人々に永遠の命を与え、人々をイエス・キリストと天の父なる神に結び合わせ、永遠の価値が有るのです。イエスは弟子たちの使命がいかに誉の有るものであるかということを示して励ましているようです。

「受け入れる」と訳された語は、更に色々な意味合いが有ります。もてなす、人の言葉を聞いて理解する、好意的、友好的に受け止める、歓迎する、結婚相手として受け入れる、などの意味をも含んでいます。このようなニュアンスを前提として、イエスは更に言葉を続けます。

41節から、イエスは弟子たちを神の使者、伝令として受け入れた人たちが受けることになる報いについて話します。最初の預言者を受け入れる者はという部分で、弟子たちは容易にエリヤとツァレファテの寡婦の話を思い出したことでしょう。(1列王記17章8節~16節参照)この寡婦は、エリヤが神の預言者として受け入れただけで、彼女はエリヤと同じ報いを得ました。この話においては、食糧難の中で、カメの粉(小麦粉)とツボの油が奇跡的に無くならなかったことを示しています。このようにして、エリヤが食物を得、同時に寡婦とその家族も養われるということが起きました。

イエスはまた、同じ原則を、「義人」という表現を用いて話します。その語は、神の戒めを守っている、神に認められている、罪の責めが無い、という意味を持ちます。ここでは、第一義的には預言者も義人もこれから遣わされる弟子たちのことです。イエスは、弟子たちは宣教に伴って報いが有るということを約束されたことになります。また、彼らが福音を受け入れる人々に、彼らが受けるの同じ報いをもたらす器になるということも示し増した。

42節でイエスは更に説明を付け加えます。中近東は乾燥した場所です。水をあげることは、初歩的な旅人へのもてなしでした。ですから、創世記24章では、リベカがアブラハムの家令が水を求めた時に、すぐ水をあげたのです。旧約聖書に出てくる旅人へのもてなしの例を見ると、食事と宿の世話までするものが数例有りますから、水だけ与えるのは小さなことと考えられました。そのような小さな行いでも、弟子たちをもてなしたならば、かならずその報いが返ってくるというのです。それは、弟子たちがイエスの弟子だからです。そのことは、「わたしの弟子」「この小さい者たち」という言葉に表されています。イエスの弟子ですからイエスの言葉を伝えます。彼らが小さい者たちと呼ばれたのは、彼らを遣わした師であるイエス・キリストが「大きい者」であり、偉大な神の御子だからです。

まとめ)
イエスの弟子となることには大いなる報いが伴います。同様に、クリスチャンになることには大きな報いが有ります。

1)それは人々を神と結びつける働きをするからです
 人々がクリスチャンの証を聞いて受け入れ、その結果イエス・キリストと天の父なる神を受け入れることがあります。そうすると、その人々は、キリストの体なる教会に属して、霊的にはキリストと一体になります。私たちも弟子たちと同様な大事な使命をいただいていると言うことができます。イエス・キリストがそういう使命を与えた以上は、必ず私たちクリスチャンの証を受け入れる人がいるということです。私たちを結び合わせる主要素は、神の言葉です。(ヨハネ14章23、24節参照)

2)それは人々に報いをもたらすからです
  エリヤは神の言葉に聞きしたがって、ツァレファテの寡婦を通して報いを受けました。そのツァレファテの寡婦は、エリヤを預言者と認めてその指示に従ったので、エリヤと同じ報いを受けて、飢饉の中で生きながらえました。この例における報いは食物であり、地上のものでした。しかし、そればかりではなく、神に従う者たいは、霊的な報いも得て、天国に受け継ぐべき財産が有ります。イエス・キリストが従う者たちのために天国に場所を備えてくださいます。

3)それは教会に報いをもたらすからです
  弟子たちは人々に神の言葉とそのご意思を知らせたので、預言者として扱われました。彼らはキリストの言葉を守り、神に認められたので、義人とも呼ばれました。その定義からすると、私たちクリスチャンも弟子たちと同様に義人です。キリストの体である教会では、キリストのゆえに互いが好意的に友好的に受け入れ合います。そこに、天国を先取りして味わう生活が有ります。このようにして、私たちも教会の中で地上と天国の両方で報いを受けるのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2020年3月22日

2020-03-22 23:13:51 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ前半 

本日の礼拝ビデオ後半

聖書箇所:マタイ10章34節~39説
説教題:あなたはイエスにふさわしいか 

導入)
これまでマタイ10章がイエス・キリストが弟子を宣教に送り出す前に与えた指示と警告の記録であることを確認してきました。16節からは、福音宣教をすることで、弟子たちが命の危険に遭うことがあり得るという警告が始まります。そのつながりで39節にも命を失う、得るという警告が示されています。それは、28、32、33節のまとめにもなっていると思われます。もし、彼らがこの世の命を大事にして神の国を大事にしなかった場合、殉教を避けることはできるかもしれませんが、永遠の命を失うということです。それでは、弟子たちはどのように神の国と神の義を追い求めるべきなのでしょうか。

本論)
34節 この箇所のイエスの言葉は戸惑うものになっています。イエスは平和の君と呼ばれると旧約聖書には書いてあるのに、イエスは平和をもたらすために来たのではないというのです。ここで言う平和は、ユダヤ人たちの考えていたメシア像に関係しています。彼らはメシアが来ると敵に勝利してイスラエルに平和をもたらすと考えていました。しかし、それはこの世の政治的な平和のことであって、神の国と神の義による平和のことではありませんでした。ですから、イエスはここで、私はユダヤ人の期待しているような意味での平和をもたらすために来たのではないと言っているのです。

続く言葉にも戸惑うのではないでしょうか。イエスは剣をもたらすために来たというのです。聖書全体からイエスがもたらした剣は何であるかを確認してみると、それは、神の言葉、イエスの語られた福音、聖書の言葉と理解できます。(エペソ6:17、へブル4:12参照)剣は同時に対立と戦いの象徴でもあります。イエスは福音を語りました。それを受け入れた人々は、宗教指導者に拒絶され、憎まれました。それが、ここでの剣、対立と戦いと言う面も有ります。

35-36節 その対立と戦いは家族の中に入って来ることがあるのです。私たちは家族愛を大事にします。それは当時のユダヤ人の間でも同じでした。しかし、イエスを信じることは、家族に対する愛よりも高い優先順位があるのです。イエスに対する信仰を告白すると、家族がその人を宗教指導者に引き渡すようなことも有りました。ユダヤ教徒の家庭からイエスを信じる者が出ると、その人のお葬式を出すということが有ったそうです。もういないも同然だということで、拒絶されたということです。家族はあなたを愛していることでしょう。けれども、イエスはあなたのことを他の誰よりも愛していてくださるのです。いずれにしても、このように、神の言葉、イエスの福音が剣のように家族を分かつことがあり得るのです。

37-38節 この二つの節には、「わたしにふさわしくありません」という表現が三回出てきます。聖書では三は完全数ですから、本当にふさわしくないのだと、強調していることになると思われます。最初の二つは家族に関わっています。弟子たちは、家族との関係を優先して、宣教に行かないとか信仰を離れるというようなことがあってはならないのです。そんなことをすれば、家族への愛を神への愛よりも優先したことになります。三つ目が示されている38節は、弟子たちを彼らの宣教の使命の現実に引き戻しました。というのは、イエスが十字架について語られたからです。第一義的には、十字架は死の象徴です。その頃までには、二千人以上のユダヤ人がすでに十字架にかけられていたと思われます。ですから、弟子たちは十字架を負うことがどのようなものであるかよく分っていました。宣教中に死ぬことがあるかもしれないということが、彼らにもう一度語られたことになります。実際に弟子たちが負うことになる十字架というのは、イエス・キリストの証人となり、神の国の福音を宣教することでした。言い換えると、辱めや苦しみを受けることになるにも関わらず、イエスへの信仰を告白し、イエスに従って宣教をするということです。弟子たちが死を恐れて宣教の業に従事しないならば、それは、神と神の国を優先していないということになります。

「ふさわしい」という表現についての興味深い研究をご紹介したいと思います。この語には「重きを置いている、価値が有る、合っている」という意味合いが有ります。旧約聖書で同様の意味のヘブル語を探すと、「合っている、適合している似合っている、ふさわしい、適当な」という意味のものが見つかります。ふさわしいという用例は、詩篇147:1、箴言26:1をご覧ください。さて、この語が雅歌で用いられると、それは、「愛らしい、美しい」という意味になるのです。この理解を38節に当てはめると、イエスは、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにとって愛らしい、美しい存在ではありません。」と言ったことになります。雅歌は、王と愛する妻の関係を歌っていると理解することができます。イエスは花婿で教会は花嫁だと聖書では形容されています。弟子たちも教会もイエスにとって愛すべき存在であり、イエスにふさわしい存在でなければなりません。彼らはたとえ迫害にあって殉教するようなことがあっても、神とその戒めを優先する者でなければならないのです。伝承によりますと、12弟子はヨハネを除いて皆殉教したと言われています。しかし、彼らは39節に述べられている命を得る者となったのです。

まとめ)
「私たちはキリストにふさわしいか、私たちはキリストの美しい花嫁か」という質問に向き合ってみましょう。
キリストにふさわしい者であるためには
1)私たちは神の言葉をしっかり信じていなければなりません
  イエスは剣をもたらすために来られました。それは、神の言葉であり、福音の言葉です。そのみ言葉が私たちをこの世から取り分け、聖別してくださったのです。今日のような難しい世の中にあっても、私たちは命のみ言葉に寄り頼み、神の戒めをまもらなければなりません。私たちは主に信頼しなければなりません。

2)私たちは神の教えと戒めを最優先にしなければなりません
  私たちの家族愛が、神の戒めよりも優先順位が高いものであってはなりません。たとえ日曜日に家族や知人に何等かの行事に誘われても、私たちは礼拝を優先します。この世の価値観や肉の思いに妥協するべきではありません。マタイ22:36-40に出て来る第一の戒めもそのことを示しています。

3)私たちは進んでイエス・キリストを証しなければなりません
  私たちはクリスチャンです。この語は、キリストに属する者という意味が有ります。私たちの行動、発言や態度は、自然に神の国と神の義の価値感を反映したものでなければなりません。それで、イエスは弟子たちを「世の光、地の塩」と表現しました。光は自然と周囲を照らし、人に知られます。塩は口に入れば自然に塩味がして存在がわかります。クリスチャンは互いに愛し合います。他の人たちに、自分はクリスチャンであることを示します。もし、信仰について質問を受ければ答え、また証をします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火曜聖書研究会 2020年3月17日

2020-03-18 01:40:21 | 火曜聖書研究会
聖書箇所:ヨハネ12章20節~26節

20節 祭りというのは、1節に示されている通り、過ぎ越しの祭りです。そこに礼拝のために来たギリシャ人がいたということですから、彼らはユダヤ教に改宗して割礼を受けたギリシャ人ということになります。

21節 彼らがピリポのところに来た理由は、彼の名前がギリシャ語の名前であったっことと関係が有ると思われます。ピリポには何等かのギリシャ人との関わりが有ったのでしょう。もしかすると、以前から知り合いであったのかもしれません。また、そのことから、ギリシャ人たちは、デカポリス地方か、もしくは、ツロ、シドンなどのフェニキア地方に住んでいたと推測する注解も有ります。そうであれば、隣接するガリラヤ地方の出身であるピリポと知り合いになる機会は有りそうです。彼らがイエスに会うためにピリポに仲介を頼んだのは、礼儀を重んじたか、尊敬の気持ちが有ったかということと思われます。

22節 ピリポはどうしてアンデレに相談したのでしょうか。アンデレもギリシャ系の名前であるため、親近感が有ったのではないかという注解が有ります。また、ヨハネによる福音書1章によれば、アンデレは12弟子の中で最初にイエスについて行った人物ですから、日常の事柄においてはリーダー的な部分が有ったのかもしれません。

23節 イエスが栄光を受ける時が来た。異邦人にも救い主と崇められることによって。

24節 イエスが初穂で、クリスチャンがそれに続く

25節 この世の命と永遠の命を対比して述べています。「憎む」というのは「より少なく愛する」ということで、優先順位を低くするということです。

26節 ギリシャ人についてのお答えと思われます。彼らは受け入れられたということになります。継続的動作を表す時制が用いられています。その時は、実際にイエスについて行くこと、現在では、教会、ひいては天国に招き入れられることまでを指していると考えられます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2020年3月15日

2020-03-15 22:08:52 | 日曜礼拝
聖書箇所:マタイ10章24節~33節
説教題:恐れずに福音を語りなさい
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
イエス・キリストは弟子たちを宣教に送り出す前に指示を与えていました。直前の部分では、弟子たちに迫害や殉教の可能性が有ることを示して、神との深い関係と純粋の信仰と信頼の生きるようにと訓示しました。(16節の理解です。)17節から23節には、弟子たちが経験することになる迫害の例が列記されていますから、弟子たちの中には気持ちが沈んでしまう者もいたかもしれません。そこで、イエス・キリストは、「恐れるな」というメッセージを三度繰り返して彼らに伝えます。福音を伝える時に、彼らに恐れて欲しくなかったのです。

本論)
最初の恐れるなというメッセージは、26節にあります。先に24-25節にその理由が示され、26-27節に補足説明が加えられています。先ず、イエスと弟子の関係を、三通りの関係に例えています。師と弟子、主人としもべ、家長と家の者たちという近しい関係だとしています。ユダヤ人の指導者たちは、イエスをベルゼブル、すなわち悪魔と呼ぶのだから、近しい関係の弟子たちのことも悪く言うのは当然だということを指摘しています。そういうことは、起こるべくして起きるだけのことだというのです。だから恐れる必要は無いとうことです。恐れないとどうなるのでしょうか。イエスのご命令通り福音宣教をすることになるのです。それが26-27節の補足の意味するところです。26節の繰り返し表現は、福音は必ず知られるようになるのだということを表しています。ひいては、福音は霊的に盲目の人々には隠されているが、その正しかったことは、最後の審判の日には明らかになるということも示していると思われます。(これから弟子たちが伝えようとしている神の国の福音に関する表現で、一般的原則の表現ではありません。)明らかになるのが福音であることは、27節の表現でわかります。これは、当時の師が弟子たちを教える様子を表しています。個人的に建物の中で教える時が有り、時には近しく耳元に語り掛けるように教えることが有ったということです。それを公に語って言い広めなさいというのです。イエスが弟子たちに教えたことは、神の国の福音です。それを宣べ伝えなさいといるのです。良い知らせは伝えずにはいられないものであり、公になってしまうのが自明の理です。そういうことを語るのだから、恐れるなということになります。これから伝道旅行に使わすために注意をしていることを再確認させているようです。

二つ目の恐れるなというメッセージは、28節にあります。迫害や殉教とうことを聞けば、心が沈んだりするのは人間として自然なことです。だからこそ、このような説明と励ましが必要なのでしょう。イエスはここで、弟子たちが地上の命にばかり目を留めないようにと警告しているのです。へブル9章27節にあるように、私たちは皆死ぬことが決まっており、また、神の裁きに合うことが決まっているのです。肉体の死が終わりではありません。魂は永遠に生きるのです。弟子たちを迫害したり殺したりする人たちは、彼らの肉体を傷つけたり破壊したりすることはできても、魂まで滅ぼす能力は持ち合わせていません。弟子たちはむしろ永遠の命と、魂を滅ぼす権限と力を持っておられる全能の神に目を止める必要があるのです。ヨハネ5章24節は、イエスの言葉とイエスを遣わした神を信じる者は永遠の命を持ち、裁きにあうことがなく、死から命に移っていると述べています。我々の肉体の死は神が保証される天国への入り口に過ぎないのです。だから恐れる必要は無いのです。

三つ目の恐れるなというメッセージは、31節にあります。その理由は先行する29-30節にあります。ここでは、雀と髪の毛は価値の低いもの、人が注意を払わないものを示しています。アサリオンというのは、当時の貨幣で一番価値が小さい銅貨でした。そんな程度の銅貨でも雀は二羽買えたというのです。それだけ雀の市場価値は低かったということです。雀は貧しい人の食物でした。髪の毛は、抜けてもあまり気にされず、さっとはいて捨てられてしまうようなものです。しかし、どちらも神のみ手の中にあり、雀も神の許しがなければ地に落ちることはないし、髪の毛もみな数えられているというのです。それならば、ましてや弟子たちのことを神様は確実に気にかけてくださっているということです。私たちを救うために、神はみ子イエス・キリストを十字架に掛けられたのです。神の目には私たちは価値が有るのです。だから恐れる必要は無いのです。翻って、私たちはイエス・キリストを尊んでいるでしょうか。イエス・キリストを敬っているでしょうか。弟子たちはイエスの証人として召し出され、これから宣教に派遣されるのですから、人々の前でイエスを救い主であると認める人物でなければいけませんでした。同様に、私たちも、機会が有る度に、イエスを救い主と認めていることを表していく必要が有ります。逆に、公にイエスを知らない、自分の救い主であると認めないと表明する者は、裁きの日に、イエスに拒絶されるのです。

まとめ)
弟子たちが宣教に出ていくにあたって、恐れてはならない理由を確認してみましょう。

1)救い主イエスでさえ不当な扱いを受けたのだから、恐れるな
  この世は神に反抗するものです。もし私たちが神の家族であるならば、私たちはこの世に憎まれるのです。それは驚き怪しむべきことではありません。(1ペテロ4:12-14参照)

2)全能の神が私たちの魂を救われるのだから、恐れるな
  迫害者は私たちの体は殺せても、魂を殺すことはできません。神だけが、私たちの魂を滅ぼすことができる存在です。しかし、その神が私たちの神であり、イエス・キリストの贖いの業を通して、私たちの魂を救い、生かしてくださる方なのです。(ヨハネ3:16)

3)神が私たちを心にかけてくださるのだから、恐れるな
  雀を心にかけてくださる神は、私たちにもっと価値を見出してくださっています。(イザヤ43:4-5参照)一人子イエス・キリストを、私たちの罪の代価として差し出してくださる程に私たちに価値を見出してくださいました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝 2020年3月8日

2020-03-09 00:54:31 | 日曜礼拝
聖書箇所:マタイ10章16節~23節
説教題:蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであれ
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
イエス・キリストが弟子たちを宣教に送り出す前の指示の続きです。この前の部分では、弟子としてどう行動するべきかが述べられていましたが、今回はこれから経験するであろう迫害に関する警告になっています。

いいですか、と訳された語は、見よ、とも訳されるもので、これから述べられることが大事であることを示し、聞く人の注意を引く語になっています。

続いてキリストが言ったのは、彼らを遣わすのは羊たちを狼の群れの中に送り出すようなものだということでした。想像すれば、何が起こるかは明白です。狼たちはきっと羊たちを殺し、食べてしまうことでしょう。つまり、弟子たちは、命を落とすことが有り得るという警告を受けたことになります。成程、注意して聞くべき指示だと思えます。

命を落とす危険が有る弟子たちにキリストが与えた指示、命令は、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」というものでした。それが弟子たちが気を付けなければならない大事なことなのですが、その内容は理解が難しいのではないでしょうか。命の危険が伴う宣教で賢くふるまわなければならないのはわかりますが、すなおであることがどんな助けになるのでしょうか。弟子たちは何の質問もしていません。しかし、現代に生きるクリスチャンである私たちにはよく解らない言葉です。

17節から23節の内容は、使徒行伝でペテロ、パウロ等の弟子たちが経験した迫害と重なります。また、家族の中でクリスチャンが出ると、その人が迫害される様子も述べられています。そのような中でクリスチャンの力となる、蛇のようにさとく鳩のようにすなおであるという心がけは、具体的にはどういうことでしょうか。聖書の疑問は聖書で解くというのが私たちの基本的姿勢です。鍵となる四つの言葉から確認を進めてみたいと思います。

本論)
「さとく」と訳された語は、知性が有る、賢い、という意味が有ります。この語は新約聖書中、主にマタイによる福音書でキリストの例え話の中で6回用いられていいます。岩の上に家を建てる賢い人、主人の帰りを待っている賢いしもべ、花婿を出迎えるランプの油を十分に良いしていた賢い娘たちを指すために用いられています。すると、語の示す「さとい」という聖書的内容は、神、イエス・キリストとの親密な関係を選び、困難や再臨への準備ができている賢さを表すものと理解できます。

「蛇」というシンボルを総合的に聖書から理解するとどういうものになるでしょうか。すぐに思い出されるのは、創世記3章で、エバを騙した蛇でしょう。神はその蛇に対して、この女の末がお前の頭を踏み砕くという裁きの宣言をしました。もう一つの重要な蛇の関係するエピソードは、民数記21章に出てくる燃える蛇でしょう。荒野でイスラエルの民がマナをつまらないもののように言って、神に反抗的な態度をもって不平を言った時、神の裁きとして燃える蛇、毒蛇が送られました。ここでも蛇は裁きと関連しています。しかし、この箇所では更のそのシンボルは発展します。民の赦しと助けを乞う声に応えて、神はモーセに青銅で蛇の像を作らせました。それを見上げる者たちは、神の力で命が救われたのです。蛇は神の裁きと救いを意味することになります。宣教において遭遇する厳しい迫害の中で使命を果たすためには、確かに神の裁きと救いの観念がはっきり無ければいけなかったでしょう。

「すなお」と訳された語は、純粋である、混じりけが無い、悪が混ざっていないという意味が有ります。パウロはピリピ2章14節から16節で、クリスチャンの霊性に混じりけが有ってはならないことを同じ語を用いながら述べています。「いのちのことばをしっかり握って」という表現が、その内容を補足しています。神の国の宣教をする弟子たちに必要な資質でした。それが、鳩とどうつながっていくのでしょうか。

「鳩」という語は新約聖書では8回用いられています。その半分はイエス・キリストの洗礼の時に聖霊が下られた様子の描写に用いられています。この時からキリストは神の国を宣べ伝え始めました。同義のヘブル語は、31回旧約聖書に出てきます。そのうち10回は罪の贖いの捧げもの規定の記述です。この二つのことを考え合わせると、鳩は神の国と罪の贖いに関係すると言えます。これが、バプテスマのヨハネがイエスについてした、「見よ、世の罪を贖う神の小羊」と宣言したことにつながって行くのです。言い換えれば、純粋にイエス・キリストによる罪の贖いと義を求める姿勢が必要だということになります。

これらをまとめると、命の危険の有る宣教に出かける弟子たちが持っているべき資質がはっきりしていきます。一つ目に、彼らはイエス・キリストとの親密な関係が必要です。それは、キリストが誰であるか、その教えは何かをはっきり理解しており、それを守ることが含まれているでしょう。次に、神の裁きと救いを理解し、それを信じ受け入れている必要が有ります。キリストの再臨を信じる信仰も含まれるでしょう。更に、彼らは救い主であるイエス・キリストに対する純粋な信仰と信頼を持っていなければなりません。

考えてみれば、これらの資質が無ければ、神の国の福音を宣べ伝えるために出かけていくことは不可能です。このような資質が無ければ、福音宣教のために困難に耐え、殉教する理由が有りません。しかし、このようにして証人となる時、聖霊も弟子たちを助けてくださったのです。聖霊は「あなたがたの」父の御霊と表現されています。父なる神は彼らの神であり、聖霊は彼らの聖霊という、近い存在であることが最大の力であり恵でしょう。それは、今日の私たちにも通じることです。

23節では、迫害される時には他の町に逃れるようにという指示がされています。それは単純に危害を避けるということではなく、少しでも多くの人にキリストの福音を伝えようということです。「人の子が来る時」とはいつでしょうか。宣教の広がりの度合いを考えると、再臨のことではないでしょう。それは、「裁きの時」とも理解される表現です。すると、それは紀元70年のエルサレム崩壊のことだと考えられます。

まとめ)
イエス・キリストは弟子たちを宣教に送り出す時に、殉教の可能性に触れました。そういう状況で彼らが持つべき心構えは何だったのでしょうか。箴言9章10節が示す、神を知ることが知識のはじめということにつながるイエス・キリストの理解と関係。ピリピ2章15節に示されたような、み言葉に付け足しをせず、しっかり信じること。彼らにはそのような資質が必要でした。それは、現代に生きるクリスチャンにも適用されるべき原則です。私たちに焦点を当ててまとめてみたいと思います。

1)私たちはイエス・キリストとの親密な関係を持たなければなりません
  交流を持つこと無しには人々との親しさが深まらないのと同様に、キリストとの交流が無ければ、キリストとの親密さが深まることはありません。聖書を読んでキリストの教えに親しむことが必要です。父なる神に祈る時、それはキリストのみ名によって祈りますから、それもキリストとの交流に加えられるでしょう。他にも、賛美の歌を歌ったり、聞いたりすることによって、キリストに心を向けることも良いでしょう。キリストへの日記や手紙を書く人もいます。国連総長であったダグ・ハマーショルドの日記は、正にそのような内容で、彼が飛行機事故で亡くなった後、出版されています。

2)私たちは神の裁きと救いの計画を理解していなければなりません
  私たちは、キリストの再臨が有り、裁きが有ることを認識していなければなりません。私たちは自身の罪とその結果を理解していなければなりません。同時に、その裁きからイエス・キリストへの信仰を通して救われていることを知り、受け入れ、確信していなければなりません。私たちには、天国の栄光を受け継ぐ希望が有るのです。

3)私たちは救い主イエスに対する純粋な信仰と信頼を持たなければなりません
  イエス・キリストご自身が説明されたように、何故キリストの死と復活が必要だったのかを理解していなければなりません。また、どうしてイエス・キリストを救い主と信じることが私たちを救いと永遠の命に導くのかを理解していなければなりません。また、聖書の理解や自分の救いについて、自分の判断力や能力に頼ることなく、聖書にかえり、聖書の述べるように信じる信仰を持たなければなりません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする