パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年4月28日

2019-04-28 20:27:07 | 日曜礼拝
聖書箇所:ピリピ1章12節~26節
説教題:良き証人の喜び

導入)
 ピリピ人への手紙は、パウロからピリピの教会へのお礼状という要素が有ります。それは、パウ
ロの境遇を心配する彼らの心配を和らげようとする部分も有ります。それで、パウロは彼らの注意
を良き証人の喜びに向けさせようとしています。

本論)
 本文を通して繰り返し示される原則の中には、次の二つが有ると思われます。
1)良き証人の喜びは、あらゆる宣教の機会の内に見いだされる
2)良き証人の喜びは、主にある仲間を支援することの内に見いだされる

12節から14節
 ピリピ人の心配していたことは、パウロの投獄が彼の伝道を妨げ、同時にクリスチャンたちの伝
道活動を妨げていないかということでした。それに対して、パウロは、むしろ彼の投獄が伝道を前
進させていると述べています。「前進させる」という語は、開拓者が密林を切り開く時の著しい進
度を示すことのできるものだということです。パウロは、投獄によってローマ軍や皇帝の関係者の
ような地位の高い人たちに福音を届けることができたことを、開拓者に例えたのです。親衛隊が出
てきますが彼らはパウロの護衛と監視をしていました。囚人と親衛隊の兵士は鎖でつながれていま
したので、パウロが法廷で弁明してキリスト教を弁証するのを聞かないわけにはいかなかったので
す。それで、福音が親衛隊の中にも伝わっていきました。このような報告は、ピリピの教会の人た
ちを二つの点で励ますことになりました。一つには、彼らがパウロのために捧げる祈りと、パウロ
に届けた献金が伝道のために役立っているということです。更に、投獄されていてもパウロの伝道
が進むことが、周囲の人々に勇気を与えて、彼らも伝道しているということです。先に示した二つ
の原則が表れています。

15節から21節
 ここで、パウロは二種類の人たちに言及しています。パウロを支援し、純粋な気持ちで伝道する

たちと、パウロに対抗心を燃やし、パウロに惨めな思いをさせたくて伝道する人たちです。彼らは、
自分たちの伝道がうまく行っていることでパウロが取り残されたような思いになるようにと思って
いたのかもしれません。しかし、パウロはそのようなことで心が乱される人物ではありません。彼
らの動機が不純であるにしても、宣べ伝えられたのは正しい教義でした。だから、パウロはそのこ
とを喜ぶと言っているのです。
 パウロが喜ぶ理由は二つ示されているようです。一つはキリストが宣べ伝えられていることです。
もう一つはそれがパウロの救いにもなるということです。彼のここでの救いが何であるかは20節に
示されています。一つは彼がどんなことにも恥じることはないということ。そして、生きるにして
も死ぬにしても、キリストの素晴らしさを現すことです。これらの理由でパウロは喜ぶというので
す。
 パウロはまた、19節で、自分の喜びの源にも言及しています。一つはピリピの教会の人たちの祈
りです。パウロはこのことを書き添えることによって、ピリピのクリスチャンにお礼を言っている
ことになります。そして、それよりも更に力強い源は、イエス・キリストの御霊です。祈りの御霊
の助けが源なのですが、この助けという語は、元来は合唱団や舞踏団の費用を払ってくれる金持ち
の出資者を表す語だということです。言い換えると、潤沢で溢れる程の資源ということになるでし
ょう。彼らの祈りと御霊が、パウロが恥じることなくイエスの素晴らしさを現すことができる力の
源だったのです。このパウロの感謝の表明においても、先に示した二つの原則が表れていると言え
るでしょう。

22節から26節
 パウロは、生きるにしても死ぬにしてもという表現をしたことが、ピリピのクリスチャンを不安
にするかもしれないと思ったのかもしれません。それで、更なる説明を重ねています。先ず、パウ
ロにとって死は否定的なものではないということです。生にも死にも両方に肯定的な要素が有るこ
とを示しています。生きるということはもっと多くの人をキリストと救いに獲得することになりま
す。死ぬということは、自分を愛し、ご自身を現してくださり、使徒にまで取り立ててくださった
イエスと共に居ることになります。人間的には彼は死んでイエスと共に居ることの方が良かったの
です。はるかに勝っているとさえ言っています。しかし、彼の優先順位は、イエス・キリストを宣
べ伝え、教会を力づけて建て上げることに有りました。そのことは24節、25節に表されています。
パウロは、ピリピの人々がまだ彼を必要としていることを感じていたのでしょう。そして、彼がピ
リピに戻ることが、彼らが祈りと献金によってパウロの宣教を支えることによって神に栄光を帰し
てきたことの故に、溢れる喜びになることを確信していたと思われます。この箇所にも、宣教と支
援し合う関係から来る喜びという原則が表れていると言えるでしょう。

まとめ)
1)良き証人の喜びは、あらゆる宣教の機会の内に見いだされる
 何が彼の身に降りかかろうと、パウロは宣教する機会になることを喜びました。また、ピリピの
クリスチャンたちが共に宣教を喜ぶことを望みました。その宣教とは、ヨハネ3章16節、6章39、
40節やルカ15章7節に記されている神の恵み、救いと喜びのメッセージです。私たちもイエス・キ
リストの証人です。私たちも宣教による天の喜びに参与しなければなりません。知人を教会の催し
に誘う、トラクトの配布、機会が有れば証をしたり、聖書や信仰についての質問に答えていくこと
で、この喜びに参与していきましょう。

2)良き証人の喜びは、主にある仲間を支援することの内に見いだされる
 パウロは自分の投獄が周囲に人々に証をし宣教する勇気を与えていることを知って喜びました。
また、ピリピのクリスチャンの祈りと献金がパウロの宣教を支援し力付けました。ピリピの人々は、
彼らの祈りと献金の結果としてパウロの宣教が進み、また彼らの所に帰ってくる見込みがあること
を喜びました。私たちもまた、仲間のクリスチャンたちを力付けるために、自分の才能や賜物を用
い、また献金をもってミニストリーや教会を支えていくことを心掛けるのです。

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日曜礼拝 2019年4月21日

2019-04-21 22:17:45 | 日曜礼拝
聖書箇所:1コリント15:1-11
説教題:最も大切な福音

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日曜礼拝 2019年4月14日

2019-04-14 22:22:43 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ4章31節~44節
説教題:イエスの権威

導入)
イエスは故郷のナザレでは拒絶されましたが、引き続きガリラヤで宣教を続け、神のみ子としての力を証明し続けました。

本論)
31節)イエスは人々に受け入れられるガリラヤに戻ってきました。それで、継続的に安息日に会堂で教えていました。会堂で教えるということは、会堂管理者が受け入れないとできないことでした。イエスを受け入れるならば、継続的に福音に触れることができるのです。32節)イエスは神の言葉とも呼ばれます。イエスには神の言葉を語る権威が有りました。ユダヤ人の宗教指導者たちは、著名なラビの解釈を引用して教えることが多かったのですが、イエスはそういうことをせず、直接的に聖書の言葉を解き明かしていたのです。33節)会堂にさえ悪霊の影響を受けた人がいたということになります。ルカは異邦人に向けて書いていますので、ただの霊と受け止められないように、「汚れた」という言葉を添えています。34節)汚れた霊はの言葉は、イエスと関わりたくないということを示したものでした。「私たち」と言っていますから、二つ以上の霊が入っていたことになります。悪霊たちはイエスに彼らを追い出す権威があることを知っていました。悪霊はイエスを「神の聖者」と呼んでいます。それは、神の使者・預言者や大祭司を表す肩書です。イエスはそれに相応しい存在でした。35節)しかし、イエスがメシアであることは、バプテスマのヨハネの証言や、バプテスマの時の天からの父なる神の声等で証明済みですから、悪霊の証言などは必要有りませんでした。イエスは彼らを黙らせます。「黙れ」という語は、くつわを掛けるという語で、完全に制御される印象になっています。イエスの権威により、彼らは出ていく時にその人を投げ倒しましたが、害を加えることはありませんでした。36節)イエスの単純な命令によって悪霊が出て行ったので、人々は驚きました。ユダヤ人の霊的指導者も悪霊の追い出しをしたりしたのですが、自分の権威ではなく、過去の偉大な預言者の名前をあげたり、何らかの儀式を用いて追い出そうとしていました。時には、暗いの高い悪魔の名を用いたりしたそうです。しかし、イエスにはそういうものは何も必要がありませんでした。イエスのみ名の権威は、今日でも力を持っています。もし悪霊の働きや影響が有るのではないかと思えるようなことを感じる時には、ためらわずにイエスのみ名の権威によって去るように命じてよいのです。37節)こうしてイエスのうわさは広まっていきました。「うわさ」という語は咆哮という意味の有る言葉だということです。動物によっては、その咆哮は3、4キロ先まで聞こえるそうです。そのようにイエスのうわさは力強いものでした。「広まった」という語は継続的動作を表す形が用いられているということです。38節)イエスはシモンの家に戻りました。弟子のペテロの家ということです。ペテロのしゅうとめが高熱を出して苦しんでいたので、人々はイエスに癒してくださるようにお願いしました。それなりに高齢でしたでしょうから、高熱は場合によっては命取りであったかもしれません。39節)イエスは熱病に対して権威を行使されました。癒しは即座で完全でした。彼女はイエスと弟子たちをもてなしたことからもそれははっきりしています。40節)日が暮れてから人々が来るというのはどういうことでしょうか。昼間はイエスが会堂で教えられたのですから、安息日であったことがわかります。安息日には仕事をしてはいけなかったので、イエスに癒しを求めることは医者の仕事をさせることだと人たちは考えました。ユダヤ人は日が暮れると次の日になると考えていましたから、安息日でなくなった時間を見計らって来たということになります。イエスは一人一人の必要に合わせて手を置いて癒されました。41節)会堂の時もそうですが、悪霊はイエスに対して反抗的な態度を取りました。「あなたこそ神の子です」という言葉も敬意の言葉ではありませんでした。ですから、イエスはそれ以上の発言をお許しになりませんでした。私たちの心の中にもイエスや神に対する反抗的な思いが沸くことがあると思います。それを放置しておくことは好ましくありません、イエスのみ名の権威によりそれを退け、正しい聖書の教えを宣言することが必要です。42節)翌朝早く、イエスは寂しい所に出て行かれました。当時は皆が早起きでしたから、それよりも早く起きたのでしょう。また、家は密集して建てられていたということですから、朝の忙しさや騒がしさに気が散らないように寂しい所が必要だったと思われます。ルカはここではその理由を書きませんでしたが、イエスが父なる神との交流を求め、祈っていたことは確かです。さて、人々はイエスを見つけるまで諦めずに探し続ける熱意が有りました。そして、一緒にとどまってくれるように願いました。43節)しかし、イエスの優先順位は、神の御心を行うことに有りました。「そのために遣わされた」という表現にそれが表れています。イエスは自分を遣わした父なる神の御計画を理解していました。44節)そして、実際に伝道旅行を続けていかれたのです。ユダヤと書いてありますが、実際にはもっと広い範囲で移動した様子ですので、この表現は異邦人向けのものと思われます。

まとめ)
1)イエスは神の言葉としての権威を持っている
  ヨハネが記したように、イエスは神の言葉です。彼には神の言葉を語る権威が有りました。その権威が有るからこそ、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5章24節)というような驚くべき内容のことを言うことができたのです。そして、聖書の言葉は今日でも私たち信じる者を力強く導くことができるのです。(2テモテ3章16節参照)
2)イエスは病と悪霊を制する権威を持っている
  旧約聖書においても、神は「癒す神」と表現されている箇所が有ります。私たちの癒しの願いを神に申し上げるのです。どのように癒されるか、もしくは癒されないかは神のお決めになることですが、私たちは信頼と信仰の表現として、癒しを求めるのです。また、悪霊の影響と思えるようなことが有る時に、あるいは神の御心に反する思いが沸く時に、私たちはイエスの名によってその思いを諫め、神の言葉である聖書の言葉に置き換えていくのです。
3)イエスの権威は神との交わりと従順によってもたらされる
  イエスは当然神のみ子としての権威をお持ちでしたが、地上で過ごされる時には、祈りのうちに父なる神のみ心を求めながら歩まれた部分が有りました。神のみ子イエスでさえもそのような祈りが必要だったわけですから、ましてや人間である私たちは尚更その必要が有るのです。イエスの権威の元に生きるクリスチャンとして、私たちも日々聖書を読み、祈って生活するのです。




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日曜礼拝 2019年4月7日

2019-04-07 22:18:46 | 日曜礼拝
聖書箇所:1サムエル25章
説教題:どのようにイエスに接するか

導入)
 3月2日に同じ聖書箇所から説教をしました。それは講解説教で、聖書箇所の内容からだけ
要点を確認するものです。今回は、ダビデがイエスの型となる部分等に注目して、他の聖書的
理解と重ね合わせたテーマ説教となります。

本論)
1)イエスにいつも感謝しなければならない
 旧約聖書においては、神と王は羊飼いに例えられています。どちらも自分の民を守り導くか
らです。ダビデはそれをよく理解していて、詩篇23編を書いています。まだ即位はしていませ
んでしたが、ダビデは既に王になる者として任命の油注ぎを受けていました。そして、ナバル
の羊の群れを守りました。それで、その実績に基づいて、7節にあるように、ナバルに羊の毛
を刈る祝いの分け前を求めました。ナバルのしもべも15節、16節でその事実を証言しています。
しかし、ナバルはダビデに対する感謝の念を示さず、返ってダビデを侮辱しました。ダビデの
怒りに満ちた反応が21節、22節に示されています。ナバルの一族郎党を打ち滅ぼそうとしてい
ます。
 ここで、私たちと神、そしてイエスとの関係を考えてみましょう。神は私たちを養い守って
くださいます。イエスは私たちを救うために命を捨ててくださった方です。けれども多くの人
間はナバルのような反応をしています。神にもイエスにも感謝をせず、返って神の存在を否定
したり侮辱したりすることもあります。ダビデは怒りました。聖書は神は怒るに遅いと書いて
あります。しかし、神は人間が持つ怒りよりもはるかに大きいオリジナルの怒りをお持ちの存
在です。神を拒絶することの最終的な結末は滅びです。2テモテ3章2節には、恩知らずであ
ることが避けるべき罪として示されています。私たちは神とイエスに対する感謝をいつも表す
ことが大事です。

2)取り成し手であるイエスを求めなければならない
 ナバルのしもべの一人やアビガイルが取った行動から、取り成しの必要性が理解できます。
まずしもべがアビガイルに取り成してくれるように求めました。アビガイルは直ぐにダビデと
その従者に贈る食物を用意しました。そして、ダビデに会うと地に平伏して、ナバルとしもべ
たちのためにゆるしを請いました。24節、25節を見ると、アビガイルは何もしていないのに、
彼女はその責めを自分が負うと言っています。
 私たちはアビガイルがダビデにゆるしを請うたように、神にゆるしを請うべき存在です。で
すから、礼拝次第の中でも私たちは毎週感謝と悔い改めの祈りをささげるのです。また、私た
ちはナバルのしもべがしたように、取り成し手を求めなければなりません。この部分について
は、アビガイルが私たちのために父なる神に取り成しをしてくださるイエスの型になっている
と考えることができます。アビガイルはナバルの罪を負いました。イエスは人類の罪を負って
十字架で死んだくださいました。そして、今も私たちの大祭司として父なる神の御前で取り成
しをしていてくださいます。(へブル4章14~16節、7勝24、25節参照)私たちは日々イエス
の取り成しを求めて生きるのです。

3)イエスとの交流を深めなければならない
 ナバルはまるで王であるかのような宴会を開いていました。しかし、彼は、自分の羊を守っ
てそのような宴会を可能にしてくれたダビデとは何も分かち合おうとはしませんでした。私た
ちも信仰を持つ前は、私たちを養い守り、私たちを救うためにイエスを遣わしてくださった神
と交流を持つということは考えもしませんでした。私たちもかつてはナバルのような有様でし
た。
 食事を一緒にしたり、食べ物を分け合ったりすることは、関係を深める方法の気一つです。ナ
バルと違い、アビガイルはダビデとその従者のために十分な食物を用意しました。このエピソ
ードの結末は、象徴的です。神がナバルを打たれたために、未亡人となったアビガイルを、ダ
ビデは妻として迎え入れるのです。彼らは共に食事をし、共に生活をしたのです。彼らの交流
と関係は深まりました。聖書においては、イエスは教会の頭です。そして、イエスは教会の花
婿でもあるのです。イエスの花嫁である教会の一部として、私たちもイエスとの交流と関係を
深めていかなければなりません。まるでイエスが自分の家にいるかのように日々祈るのです。
また、まるでイエスの言葉を聞くかのように、聖書の言葉に耳を傾けるのです。私たちが本当
にイエスとの関係を深め、準備が整った時、イエスとの天国の宴会が始まるのです。(黙示録
19章7節、9節参照)

まとめ)
1)イエスにいつも感謝しなければならない
 ダビデは詩篇103編で、神の良くしてくださったことを何一つ忘れるなと言っています。
また、パウロもすべてのことを感謝するように指示しています。神に感謝することは私たちの
日常生活における礼拝です。ナバルの恩知らずな行動にダビデがどう応答しようとしていたか
思い出してみましょう。神は、またイエスは私たちに感謝されて当然なお方です。


2)取り成し手であるイエスを求めなければならない
 サムエルが子供の時の大祭司エリは「もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁される
であろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができよ
うか。」と言っています。しかし、私たちにはイエスという私たちの罪のゆるしを請うことの
できる永遠の大祭司がいてくださるのです。最後の晩餐において、弟子たちの足を洗ってくだ
さったように、イエスは私たちの日々の歩みにおける罪の穢れを洗ってくださる方です。常に
イエスを求め、悔い改めて歩んでいくのです。

3)イエスとの交流を深めなければならない
 イエスは最後の晩餐において、「わたしの愛の中にとどまりなさい。」と言われました。そ
れはイエスの戒めを守ることでもありました。(ヨハネ15章9、10節参照)イエスの戒めを守
るためにはその戒めと教えをよく知っていることが必要です。聖書をよく読むのです。また、
パウロが指示しているように、絶えず祈ることが必要です。
 私たちクリスチャンは、イエスの婚約者のような状態です。婚約した二人は結婚に向けて更
に関係を深めていきます。同様に、私たちもイエスの花嫁として天の宴会に臨む日まで、イエ
スとの交流と関係を日々深めていかなければなりません。


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日曜礼拝 2019年3月31日

2019-04-01 20:31:12 | 日曜礼拝
聖書箇所:ピリピ1章1節~11節
説教題:パウロの挨拶に見るクリスチャンの特質


導入)
 パウロがこの手紙をピリピの教会に宛てて書きました。彼は第二宣教旅行の時に、テモテと
共にこの都市に行き、教会を開拓しました。教会はパウロを霊的にも物質的にも支援できる程
に成長した模様です。彼らは集めた献金をエパフロデトに託してパウロに送ることもしました。
ピリピ人への手紙は、パウロのお礼状と言える分部が有ります。この手紙の挨拶からも、聖書
的原則見出すことができます。

本論)
1)クリスチャンはキリストに在る共同体である(1節-2節)
  パウロはテモテと連名で挨拶を書いています。この二人の肩書は「キリスト・イエスのし
 もべ」となっています。しもべという語は、奴隷として自由の身ではないけれども喜んで主
 人に仕える者を表す語だということです。彼らは喜んでイエス・キリストに仕えているとい
 うのです。手紙の受取人は「ピリピにいるイエス・キリストにあるすべての聖徒たち」です。
 聖徒とは、神のために取り分けられた人という意。味です。すべてのという点も強調したか
 っ たのでしょう。続けて、監督(長老)と執事を加えています。また、そのすべてが聖徒
 であるということです。挨拶の定型の「恵と平安」を祈る言葉に、「父なる神と主イエス・
 キリストから」ということばが添えられています。そうしますと、手紙の送りても受け取り
 手もイエス・キリストに在る存在で、かつその祈りと願いである恵と平安もイエス・キリス
 トにあるものだということです。彼らの関係は、彼らを一つにする唯一最高の理由であるイ
 エス・キリストにのみ有るということになります。それは現代のクリスチャンである私たち
 においても同様です。この事実を、自分に言い聞かせ、もっと意識していくことが必要では
 ないでしょうか。

2)クリスチャンは共同体としての実践を通して神への感謝と喜びを持つ(3節ー8節)
  3節から6節までが、原文では一つの文として書かれています。主節は「私は私の神に感
 謝する。」という部分になります。先ず、パウロはどいう時に神に感謝するかを述べます。
 祈りのうちにピリピのすべての人々を思う時に喜びをもって神に感謝するというのです。
  5節はなぜパウロが神に喜びをもって感謝するかを述べています。それはピリピ人が最初
 の日以来、福音を広めることにあずかって来たからだということです。「あずかって来た」
 という語は、ベンチャービジネスを共同運営するという意味のある商業用語が用いられてい
 ます。彼らの良い関係と親密さがうかがわれます。
  6節は神に感謝する更に別の理由を述べています。ピリピ人のうちに始められた良いわざ
 が、キリスト・イエスの日までに完成される確信があるからだということです。良いわざと
 いうのは、神が彼らのうちに始められた救いのみ業を指しています。そして、それがイエス
 ・キリストの日、最後の審判の日に完成するということです。しかし、ここではパウロの焦
 点はピリ ピ人との福音を広めることにあずかって来た関係に有ります。それが7節、8節
 に述べられいます。
  ピリピ人はパウロが福音のために拘束され、法廷に立つ時にも共感し、祈り、献金をもっ
 て応援し続けました。それをパウロは「心に覚えている」と言うのです。パウロは、そのよ
 うな環境にあっても、まるでピリピ人たちが一緒にいるように感じていたのではないかと思
 われます。
  私たちもそのような心で福音のために、互いに思い合い、祈り合い、具体的な助け合いを
 していくことが必要です。そうすることが、パウロの時と同様に、私たちに神への感謝と喜
 びをもたらすことでしょう。言い換えれば、そいう共同体としての実践が無ければ、神への
 感謝も喜びも味わうことはないということになるのではないでしょうか。

3)クリスチャンは他のクリスチャンの霊的成長のために祈る(9節ー11節)
  パウロの祈りの内容が述べられています。「あなたがたの愛」についての祈りになってい
 ます。その愛は彼らの神と教会に対する愛と考えることができるでしょう。第一に、クリス
 チャンの神と教会に対する愛は成長し、豊かにならなければなりません。第二に、クリスチ
 ャンの愛は、感情的なものではなく、真の知識と識別力に基づいた知性的なものです。イエ
 ス・キリストが十字架に掛かられた時の人類への愛はそのような愛だったのではないでしょ
 うか。第三に、クリスチャンの愛が成長しなければならない理由は、キリストの前に立つ時
 に、純真で非難するところの無い者となるためです。それが、クリスチャンを救いに導かれ
 た神の栄光になるからです。

まとめ)
 私たちはイエス・キリストに在るクリスチャンとして、どのような実践ができるでしょうか。
互いに、特に宣教のために支え合うことを考え、互いの霊的な成長のために祈ってみましょう。
9節以降のパウロの祈りの「あなたがた」を、具体的な名前に置き換えて祈ることもできるで
しょう。そこに、神への感謝と喜びが更に増し加えられることでしょう。

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