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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月22日・リヒャルト・ワーグナーの借金

2024-05-22 | 音楽
5月22日は、国際生物多様性の日。この日は推理作家のアーサー・コナン・ドイルが生まれた日(1859年)だが、作曲家、リヒャルト・ワーグナーの誕生日(1813年)でもある。

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーは、1813年、ドイツ(当時はザクセン王国)のライプツィヒで生まれた。父親は警察勤務の官吏だった。音楽好きの一家のなかで、早くから音楽に親しんだヴィルヘルムは、ベートーヴェンを聴いて音楽家を志した。
18歳でライプツィヒ大学に入学し、音楽を学んだが、やがて中退。合唱や劇団や劇場の指揮者を務めながら、ヴュルツブルク、マグデブルク、ドレスデン、リガ(現在のラトビア)などを転々とした。長く続く貧困生活から逃げだし、26歳のとき、仏国パリへ出た。
パリでは小説を書き、歌劇「さまよえるオランダ人」を書いたが、認められなかった。
29歳でザクセン王国のドレスデンへもどったが、それからも借金取りから逃げまわるような放浪生活が続いた。32歳のとき「タンホイザー」、35歳で「ローエングリン」を作曲したが、なかなか評価と収入は上がらなかった。
36歳のとき、ドレスデンのドイツ三月革命に加担したのが裏目に出て、ワーグナーは指名手配され、スイスへ脱出した。この亡命中に、ワイマールでは「ローエングリン」が演奏され、評価が高まったが、作曲者本人がそれを聴けないのは皮肉だった。
46歳で「トリスタンとイゾルデ」を書き、冒頭の「トリスタン和音」で和声学の革命を起こしたワーグナーは、50歳のとき、コンサート出演料を得て、ようやく当面の借金を清算した。すると、まだ手元にかなりの大金があった。ワーグナーはウィーンに大邸宅を借り、室内装飾に贅を尽くし、使用人を雇い入れた。足りない費用は高利貸しから借りた。なかには年利200パーセントを超える借入金もあったという。
ふたたび巨大な負債を背負ったワーグナーは、51歳のとき、あてにしていたロシア公演旅行がキャンセルになると、絶望し、恋人への手紙にこう書いた。
「ぼくは苦悩の最後の段階に足を踏み入れた。もうじき終わるだろう。最後にあと一つ残った悲しい骨折りがすめば、この世の苦しみから解放される」(ゲルハルト・ペラウゼ著、畔上司、赤根陽子訳『天才たちの私生活』文春文庫)
しかし彼は自殺せず、逃げた。ウィーンを出、ミュンヘン、シュトゥットガルトへと移った。そしていよいよ奇跡でも起きなければもう破滅だ、と覚悟を決めかけたまさにそのとき、バイエルン国王ルートヴィヒ二世の秘書が訪ねてきた。
19歳のルートヴィヒ二世は、52歳のワーグナーをバイエルンに高給で迎え、作曲料や年金を上乗せし、楽劇「ニーベルンゲンの指輪」を完成させるよううながした。かねてからワーグナーの音楽に心酔していた国王は、国庫を傾けてでもワーグナー芸術を実現させようとしたのだった。
序夜「ラインの黄金」、
第1夜「ワルキューレ」、
第2夜「ジークフリート」、
第3夜「神々の黄昏」と、
全部上演するのに4日かかるという巨大な楽劇「指輪」のために、バイロイト祝祭劇場が建設され、ワーグナーが63歳のときに「指輪」が上演された。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルジファル」を書いたワーグナーは、1883年2月、イタリアのヴェネツィアを旅行中、心臓発作のため、没した。69歳だった。

ワーグナーで最も有名なのは歌劇「ローエングリン」中の「結婚行進曲」かもしれない。メンデルスゾーンのそれと並んで結婚行進曲の双璧である。

ワーグナーが音楽史上に残した足跡は巨大だけれど、その経済生活も豪快だった。
一寸先は光。
(2024年5月22日)



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