1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月4日・リルケの詩情

2017-12-04 | 文学
12月4日は、画家ワシリー・カンディンスキーの誕生日(1866年)だが、オーストリアの詩人リルケの誕生日でもある。

ルネ・マリア・リルケは1875年、オーストリア=ハンガリー帝国領だったプラハで生まれた。父親は元軍人で、鉄道会社の社員だった。
ルネは、生まれてくる子どもが娘であることを望んでいた母親によって、小さいころは女の子として育てられていた。
彼が9歳のとき、母親が出ていき、以後、彼は元軍人である父親の管理下で育った。
父親の希望により、10歳で陸軍幼年学校に入ったルネは、進学した士官学校を中途退学し、つぎに入った商業学校も退学した。
病弱で、惚れっぽい、詩を書く文学青年だった彼は、15歳のころから雑誌に詩を投稿しだし、プラハ大学、ミュンヘン大学で文学、美術、哲学などを学んだ。
21歳のころ、既婚の女流作家ルー・アンドレアス・ザロメと知り合い、この、ニーチェに言い寄られ、フロイトの弟子になった女性に、彼は圧倒的に影響を受けるようになった。ライナー・マリア・リルケと改名した彼は、彼女を慕って、彼女ら夫妻が引っ越すと、追いかけて近くに引っ越していき、いっしょにロシアへ旅行にでかけた。
24歳で詩集『わがための祝い』を発表。
25歳で女性彫刻家と結婚。
26歳のとき、リルケは評論『ロダン論』を書くために、仏パリに渡り、彫刻の巨匠オーギュスト・ロダンに会い、その孤独な製作ぶりに強く影響を受けた。
31歳のとき詩集『新詩集』。
妻子を独ベルリンに残し、ひとりパリで生活していたリルケは、34歳のとき、小説『マルテの手記』を書き上げた。これは、パリで孤独な生活を送るデンマーク出身の青年詩人が、日々の思いや考えをとりとめなく吐露していく内容で、主人公に自分を託し、リルケが自分のすべてを注ぎ込んだ作品だった。
1914年、第一次世界大戦がはじまったとき、リルケはたまたまドイツにいて、パリへ帰れなくなった。ドイツがフランスと敵国になったために、パリにあったリルケの原稿は敵国人の財産として競売にかけられ、多くが行方知れずとなった。
一方、リルケは召集され、1年半ほどのあいだ従軍した。
第一次世界大戦は、リルケはスイスを本拠地にして詩作に励んだが、47歳のころから体調をくずし、サナトリウムに入っていたところ、バラのとげで刺した傷が悪化し、1926年12月、急性白血病により没した。51歳だった。

リルケに「詩情(ポエジー)」というものを教わった。詩は、なにかを説明するのでもなければ、なにかの疑問に答えるものでもない。詩に答えはいらない。そういうことを。
もちろん「詩情」には、いろいろなものがあるし、同じリルケ作の詩にしても、詩によって、それぞれ、ねらっている人の心の場所が異なっているので、もちろんすべてがこの調子というわけではないにせよ。とにかく、リルケにとても感謝している。
(2017年12月4日)



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