じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

昭和五年十月一日

2007-06-09 | 随想(essay)
 酒のうまさを知ることは、幸福でもあり不幸でもある。いはば不幸な幸福であらうか、「不幸にして酒の趣味を解し・・・」といふやうな文章は読んだことがないか知ら、酒飲みと酒好きとは別ものだが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合一は合の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然と人生に同化するのが幸福だ(ここでまた若山牧水・葛西善蔵・そして放哉坊を思ひださずにはゐられない)酔うてにこにこするのがほんたうだ、酔うて乱れるのは無理な酒を飲むからである。

 泊めてくれない村のしぐれを歩く
 こころ疲れて山が海が美しすぎる
 波音の稲がよう熟れてゐる
 蕎麦の花にも少年の日がなつかしい
 疲れて足を雨にうたせる         (「行乞記」)

 汽車にも乗らず自動車にも乗らず、草鞋をはいて歩くという、なんと時代遅れの不経済な骨折りよ、とは山頭火。これでこれ、山頭火のやせ我慢、あるいは不器用を地で行く姿だったか。「その馬鹿らしさを敢て行うところに利巧でない私の存在理由があるのだ」