山頭火が一笠一鉢に生を托する旅人になりきってから、もう何年経つであらう。彼は味取の観音堂に暫く足を停めていたが、其処をも遂に捨て、今又、歩きつゞけてゐる。彼の歩むのは、或る処へ行く事を目的として歩いてゐるのではない、歩く事その事の為に歩いてゐるのだ。彼にあっては生きるといふ事と歩くといふ事が同一語になってゐる。雲がただに歩み動き、水がただに歩み流れるが如く、彼も亦、歩まずにゐられずして歩いてゐるのだ。雲水といふ言葉の語源的の意味に於て、彼は雲水になりきってゐるのだ。
へうへうとして水を味ふ 山頭火
彼はかつて此句を寄せて来た。これが彼の全体的の姿である。
しぐるるや死なないでゐる 山頭火
彼はこう詠う。則ち生かされている事に合掌する心である。彼はその淋しさをしんそこまで味はつてゐながら、猶その底をぬいて味はずにはゐられないやうな、その処に彼の酒といふものがある。彼は酒によって自分を忘れようとするよりも、酒によって一層はっきりと自分を掴まうとしてゐるやうである。
ほろほろ酔うて木の葉散る 山頭火
ほろほろ酔うたのは木の葉か、ほろほろと散るのは山頭火か―。(荻原井泉水「同人山頭火」昭和五年)
山頭火のもっとも深い理解者であった師、それが井泉水でした。
へうへうとして水を味ふ 山頭火
彼はかつて此句を寄せて来た。これが彼の全体的の姿である。
しぐるるや死なないでゐる 山頭火
彼はこう詠う。則ち生かされている事に合掌する心である。彼はその淋しさをしんそこまで味はつてゐながら、猶その底をぬいて味はずにはゐられないやうな、その処に彼の酒といふものがある。彼は酒によって自分を忘れようとするよりも、酒によって一層はっきりと自分を掴まうとしてゐるやうである。
ほろほろ酔うて木の葉散る 山頭火
ほろほろ酔うたのは木の葉か、ほろほろと散るのは山頭火か―。(荻原井泉水「同人山頭火」昭和五年)
山頭火のもっとも深い理解者であった師、それが井泉水でした。