八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

第4回『西京~山口~(山口県山口市)』

2011年01月20日 16時20分32秒 | インポート

今日も空気が冷たいですね。

こんにちわ。霜焼けどころか喉も痛くなってきたI権禰宜です。

さて先日も「遠くへ」行ってきましたのでご紹介。

今回私が行ったのは山口県山口市

山口市の人口は約20万人。全国的に見ても、最も小さな県庁所在地の一つですが、歴史的建造物も多く、文化の薫り溢れる街です。

山口の街が開府したのは今から700年ほど前の室町時代初期。

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防長両国の守護・大内弘世(1325~1380)が本拠としたのを始まりとします。

以来200年の間、日本最強の守護大名・大内氏の首府として栄え、その繁栄ぶりは「西京(にしのきょう)」と呼ばれるほどでした。かの聖ザビエル(1506~1522)も、荒廃した都での布教を断念し、繁栄著しい山口において布教を始めたと言われます。

そんな西京・山口市には現在でも多くの名所・旧跡が点在します。

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まずはお馴染み瑠璃光寺国宝・五重塔

元々は香積寺の五重塔でしたが、江戸初期に香積寺が萩へ移転。代わりにこの地に移転してきた瑠璃光寺の五重塔として現在に至ります。

余談ですが・・・

香積寺を建立したのは先の弘世の子・義弘(1356~1400)でしたが、応永の乱を引き起こし幕府軍の追討をうけ堺で敗死してしまいます。

その弟・盛見(1377~1431)は無念の死を遂げた兄を弔うために香積寺に五重塔の建設を開始しますが、完成を待たずに筑前深江で大友・少弐軍に敗れ討ち死

その跡を継いだ持世(1394~1441)の治世にようやく五重塔は完成したようですが、丁度完成した前後に、嘉吉の乱に遭難した持世は落命してしまっています。

・・・なにか因縁めいたものを感じますね。

さてこちらは同じく市内に鎮座の旧県社・山口大神宮(http://www.yamaguchi-daijingu.or.jp/)。

大神宮の名からわかる様に伊勢神宮を勧請して創建した神社で、

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外宮

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内宮を備えています。

戦国時代初期の創建で、時の大内家当主・義興(1477~1529)が伊勢神宮に参詣の際に、その幽玄なるに感じ入り、山口にも神宮を勧請したいと思ったのが始まりとされ、江戸時代は「西の神宮」として多くの参拝者が訪れました。

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旧県社・八坂神社。山口市が京都をモデルとしているため、京都の八坂神社から勧請を受けこの地に鎮座しました。社殿は国の重要文化財です。

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またこちらは旧県社・今八幡宮(http://ima8man.com/)。

こちらも重要文化財の社殿を有する山口でも指折りの古社です。

そのすぐそばに鎮座するのは、大内時代後に防長を支配した毛利氏由来の神社、

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旧別格官幣社・豊栄神社(祭神:毛利元就公)と、

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同じく旧別格官幣社・野田神社(祭神:毛利敬親公)です。

官社らしい荘厳な社殿と鬱蒼と生い茂る木々が時間が経つのを忘れさせてくれます。

その他にも大内氏の居館跡に建つ龍福寺や、日本最初のキリスト教会跡である聖サビエル(ザビエル)記念公園など見どころは多いです。

さて、このように繁栄をみた山口は、義興の子・義隆の代に絶頂を迎えます。

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大内義隆卿(1507~1551)

義隆は不倶戴天の敵・少弐氏を討ち払って北部九州を平定すると、東は安芸を支配下に置き、山陰の雄・尼子氏の侵攻を防いで勢力を広げ大内氏の版図は歴代最大に至りました。

また明王朝との勘合貿易を独占し莫大な利益を獲得。位階においても当時の室町将軍を超えた『従二位』を得るなど、大内氏は全国最大最強の戦国大名でした。

しかしこのような絶頂期は突如終焉を迎えます。

山陰の雄・尼子晴久(1514~1561)と雌雄を決すべく敢行した出雲遠征は、出雲勢の強烈な反撃に遭って大惨敗に終わり、この戦いで義隆は愛息・晴持(1524~1543)を失うなど、命からがら山口へ帰還する事になりました。

以降の義隆はかつての覇気は消え失せ、文化的傾向を強めるなど厭世的な人物となっていきます。

これに危機感を持った守護代・陶晴賢(1521~1555)は主を諌めますが、義隆が聞き入れる事は無く、益々文化人的傾向を強めていきました。此処に至って義隆体制下でのお家立て直しを断念した晴賢は主家に対して謀叛。山口を強襲し義隆を自害に追い込んだのでした。

その後の大内氏は没落の一途を辿る事になります。義隆を討った晴賢は、大友義鎮(1530~1587)の弟・義長(1532~1557)を大内家当主として迎えますが、まもなく毛利元就によって晴賢は逆臣として討たれ、義長も偽当主として滅ぼされてしまいます。その間に広大な大内氏の領土は毛利氏と大友氏によって蚕食され、ついに強大を誇った大名・大内氏は滅亡、山口の街も衰退してしまいます。

以後、山口は毛利氏の領する地となりますが、安土桃山時代は広島が、江戸時代は萩がそれぞれ毛利氏の本拠として機能したため、山口が中心都市として再び歴史の表舞台に出るのは幕末期、藩主が萩から政庁を移転したときです。既に大内氏滅亡から300年以上の時が経過していました。

現在、山口の街に直接大内時代を感じることは難しいかもしれません。しかし市内の至る所に点在する名所旧跡が、かつての誇り高い大内文化を今に伝えています

皆様もどうぞ『西国文化の極』を感じてみられてはいかがでしょうか。

I権禰宜