平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

心に灯る父・子・聖霊の温かい光(2016.12.25 クリスマス礼拝)

2016-12-27 08:29:25 | 礼拝メッセージ
2016年12月25日クリスマス礼拝メッセージ
『心に灯る父・子・聖霊の温かい光』
【ヨハネ1:1~18】

はじめに
 今年のカレンダーでは、12月25日のクリスマスの日と日曜日とが重なって、クリスマス礼拝に最もふさわしい日程になりましたから、感謝です。
 クリスマスを待ち望む12月のアドベントの期間、今年は「光」に注目して、メッセージの御用をさせていただきました。きょうのクリスマスのメッセージは、その総決算とも言えると考えています。

心を温かくし、希望を抱かせる光
 11月の終わり頃からクリスマスに掛けては、日本中、多くの場所でイルミネーションの光を見ることができます。昔は一般家庭のイルミネーションと言えば、せいぜいクリスマスツリーを電球で飾る程度で、建物の外のイルミネーションに関しては、街の繁華街で見るぐらいのものでした。しかし今では一般家庭でも、多くの家で建物の外にもイルミネーションの配線を張り巡らしていて、外を歩く人の目を楽しませてくれています。暗い闇の中で光を見ると、私たちはとても温かい気持ちになります。そしてその明るい光は、明るい希望をも抱かせてくれます。
 映画やテレビドラマなどでも、光を非常に効果的に使った表現が多く見られます。例えば、週報(プログラム)の3ページ目に載せたNHKの朝のドラマの『あまちゃん』のラストシーンも秀逸だったと思います。

 

 このトンネルの向こう側に向かって走っている二人の女性は、東北の岩手県の小さな町の高校の同級生でした。二人は東京でアイドルになるために、この小さな町を出ることにしましたが、一人は家庭の事情で東北に残ることになってしまいました。そうして二人の間に溝ができてしまいました。しかし二人の間の溝も埋まり、家庭の問題も解決して、東北に残ったほうの女性がもう一度上京しようとした時に今度は東日本大震災が起きて、上京どころではなくなってしまいました。地震による津波の被害は深刻で、二人の地元の町も震災の直後は暗い雰囲気に包まれました。しかし上京してアイドルになっていた主人公が地元に戻り、復興のために懸命に頑張りました。そうして町が再び明るさを取り戻して、このラストシーンとなりました。
 このトンネルは、二人が暗い闇の中を通って来たことを表しているのだと私は感じました。震災の直後は、本当に暗い中にありました。しかし、二人は闇の期間を通り抜けて明るい未来に向かって再び走り出すことができました。このドラマのラストシーンでは、若い二人が明るい未来に向かって走って行く様子を、トンネルの向こう側で明るく輝く光を使って見事に表現していると思いました。

道の光である聖書のことば
 さて、聖書のことばもまた、明るく輝く光です。旧約聖書の詩篇119篇の詩人は、週報(プログラム)3ページ目に載せたように、

 詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

と詩っています。「あなた」というのは神様のことです。聖書の神様のことばは私たちの足のともしびであり、道の光です。暗闇の中を進む時、光が無ければ私たちはどちらに向かって歩いたら良いのかわかりません。無理して歩こうとするなら、道に迷ったり、躓いたり、溝に落ちたりと、様々な危険があります。しかし、道の光である神様のことばは私たちを正しい方向へと導いてくれます。それは明るい希望の方向でもあり、暗いトンネルの先にある光でもあります。
 そしてヨハネの福音書は、イエス・キリスト自身が「ことば」なのだと書いています。ヨハネの福音書1章1節(新約聖書p.172)を観ましょう。

 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

この「ことば」とは、イエス・キリストのことです。下の脚注の星印の所を見ると、

「『ことば』はキリストのこと。したがって、『初めに』はキリストの永遠的存在を意味する。」

と書いてありますね。これは一体どういうことでしょうか。ここには、とても深い意味が隠されているように感じます。きょうは、このイエス・キリストが「ことば」であり、また「光」であるということの意味、そしてクリスマスの日にこの「ことば」であり「光」であるイエス・キリストが人として生まれたことの意味を、ご一緒に考えてみたいと思います。

闇に打ち勝つ「光」
 きょう、主(おも)に見る聖書の箇所は、ヨハネの福音書1章の1節から18節までです。このうち13節までは礼拝の始めの聖書交読で交代で読み、14節から18節までは先ほど司会者に読んでいただきました。
 さて1節から13節までは、主にイエス・キリストが人として生まれる前と十字架で死んだ後の光としてのイエスさまのことが書かれていると言ってよいでしょう。もう一度、1節から見て行きます。1節と2節、

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

 イエスさまは神の御子でした。神である御子には肉体がありませんでしたから聖霊が注がれた預言者たちの中に入り、御父のことばを預言者たちに伝えました。預言者たちはそのことばを神のことばとして、人々に伝えました。神のことばは、御子が内にいる預言者たちだけしか語ることができませんでした。ですから御子ご自身がことばなのだと言うことができます。御子が御父である神のことばを預言者の内で伝えることができたのは、御子が肉体を持たない存在で御父と共にいたからです。御子は宇宙が造られる前の初めから御父と共にいました。
 続いて3節、

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 御子は御父と共に、この宇宙の天体のすべて、そして地球上の生き物のすべてをお造りになりました。この方によらずにできたものは一つもありません。そして4節と5節、

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 御子はすべてを造った方ですから、すべてを支配しています。それゆえ闇の中で輝いており、闇はこれに打ち勝つことができません。御子は神ですから、何ぴとも御子に勝つことはできません。

弱かった人間のイエス
 しかし、そのようには見えなかった時がありました。暗い闇のほうが光に勝ったかのように見えた時がありました。それは、イエスさまが十字架に付けられて死んだ時ですね。これは、イエスさまが人として生まれて地上生涯を過ごした時のことです。14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあるように、御子イエスは人として、この世に生まれました。それを祝うのがクリスマスです。しかし、世の人々は御子イエスを受け入れませんでした。9節から11節をお読みします。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 11節にある、「民は受け入れなかった」とは、人々がイエスを十字架に付けて殺してしまったことを指します。
 御子イエスは、神ですから、易々と逮捕されて十字架に付けられて殺されるような存在ではない筈です。それなのに、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
 この「なぜ」の問題は、一人一人が考えてみるべき問題だろうと思います。そして、神は正にこの問題を人に突きつけるために、神である御子をこの世に人として遣わしたということもできるかもしれません。
 なぜイエスは神なのに易々と逮捕されて十字架に付けられて死んだのか、この問題に対する考え方は人それぞれでしょう。
 まず、そもそも神の存在を信じない人であれば、イエスはただの人間なのだから易々と逮捕されて十字架で死んだことは別に不思議ではないでしょう。これは一番わかりやすい考え方だと思います。そして、こういう考え方の人は世の中には少なくないのだと思います。
 次に、神の存在は信じるけれども、イエスはただの人間であり、神の御子などではなかったと考える人もまた大勢いることでしょう。イエスを十字架に付けたユダヤ人たちは、このようの考え方でした。ユダヤ人たちは、そんな風に易々と逮捕されて殺されるような者が神であるはずがないと思っていました。これは、一見、その通りであるというような気もします。しかしキリスト教は、このような考え方はしません。
 易々と逮捕されて十字架で死ぬような者は神ではないという考え方には、神はスーパーマンであるという考え方が潜んでいるように思います。これが行き過ぎると、強さばかりを追い求めることになるように思います。これはとても危険なことだと思います。トランプ氏を次の大統領に選んだアメリカには、このような危険な臭いがします。トランプ氏は、アメリカを再び強くて偉大な国にするのだと言います。強いことはとても素晴らしいことだと考えているようです。確かに強いことは素晴らしいことかもしれません。しかし、これはキリスト教的な考え方ではありません。アメリカはクリスチャンが多い国ですが、キリスト教の根幹の一番大切なツボをわかっていない人が多いような気がしてなりません。

「弱いイエス」はキリスト教の根幹
 キリスト教は、主イエスご自身が易々と逮捕されるような弱い存在として生まれ、そして弱い人々に寄り添い、弱い人々と共に過ごした事実を大切にしています。このことを私たちは心に留めたいと思います。
 肉の体を持たない時の御子は、確かにスーパーマンのような存在と言えるかもしれません。しかし、御子は神であるにも関わらず、弱い肉の体を持つ人間となりました。それも先ずは赤ちゃんという最も弱い存在となって貧しいヨセフとマリヤの子として生まれました。しかも生まれたのは、家畜小屋であり、寝かされたのは飼い葉おけでした。ヨセフは大工でしたからイエスさまもまた大工の子として育ちました。都会の裕福な家庭の子供としてではなく、ナザレという田舎町の貧しい大工の子供として育ちました。
 人として生まれた御子イエス・キリストは、このような弱い者として育ちました。一方、肉の体を持たない光としての御子イエスは、闇に打ち勝つ強い存在です。このように人の弱さも知り尽くした上で御子が光として私たちの内に入ってくださり、内から励ましてくれるのですから、これほど心強いことはありません。
 ただし、私たちの心の中へ御子に入っていただくためには、御子は神の子であったにも関わらず十字架で死んだ弱い存在であったことを信じなければなりません。そして神がこの死んだ御子をよみがえらせ復活させる力を持つことを信じなければなりません。それらを信じるなら、その者には聖霊が注がれて光であるイエスが心の内に入って下さいます。それが12節と13節です。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 神の御子が心の内に入った者は、その者もまた神の子どもとされる特権が与えられます。このようにしてイエスが神の子キリストであると信じて新しく生まれた者は、神がどのようなお方であるかも、次第にわかるようになります。なぜなら、18節にこのように書いてあるからです。

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 父のふところにおられる一人子の神である御子が神を説き明かすから、私たちは神がどのようなお方かがわかるようになります。

私たちを愛している神
 神は私たちを愛しておられます。神は私たちを愛しておられるから、御子を遣わしたのだということがわかるようになります。週報(プログラム)の3ページ目に有名なヨハネ3:16の聖句を載せておきましたから、ご一緒に読みましょう。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 天の父は神である御子を、弱い体を持つ人間としてこの世に送りました。このことを信じる者には心の内に聖霊の光が灯りますから、心が神の愛で満たされて、温められます。この聖霊の光は父・子・聖霊の光と言っても良いでしょう。聖霊の光が心の内に入った者には、父のことばが御子を通して伝えられます。これは旧約の時代の預言者たちと同じですね。旧約の時代には、預言者という限られた者たちだけにしか聖霊が注がれませんでしたから、心の内で御子が神のことばを伝えてくれる恵みを味わうことができた者は少ししかいませんでした。しかし、新約の時代になってからは、イエスが神の子キリストと信じる者には誰でも、心の内で神のことばが御子から伝えられる恵みを味わうことができるようになりました。これは聖書の活字を目で追って頭で理解するのとは全く違う恵みです。
 アメリカはクリスチャンが多い国ですが、戦争ばかりしています。それは形ばかりのクリスチャンが多いからでしょう。イエスが神の子キリストであるとは本気で信じておらず、ただ単に聖書の活字を目で追って頭で理解しているだけのクリスチャンが多いのだと思います。私にはそのような友人がいますから、そのことがわかります。
 今年もまた、世界では悲惨なテロ事件が多く起きました。シリアやスーダンの内戦も続いています。今の平和のない悲惨な世界が平和になるためには、多くの人々の心の内に父・子・聖霊の光が灯される必要があります。この温かい光が多くの人々の心の内に灯されるなら、世界は平和な方向に向かって行くであろうと私は確信しています。

おわりに
 神は強いだけの超越した存在ではなく、弱い私たちに寄り添い、共にいて下さるお方です。この恵みを多くの方々と分かち合うことができる、出発点となる今年のクリスマスでありたいと願います。そのために、ご一緒にお祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
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