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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

南へ旅立ったツバメたち

2025-08-24 08:40:26 | 折々のつぶやき
引越し先のブログ「一粒のタイル3」に投稿しました。
https://chissonosuke.hatenablog.com/
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とりあえず引越し先のブログを公開します

2025-08-18 09:02:43 | 折々のつぶやき
まだ設定中ですが、引越し先のブログを公開して、様子を見ることにします。
無料版ですので、広告が表示されます。
有料版にするかどうかは、もう少し考えます。
下記が引越し先のURLです。
https://chissonosuke.hatenablog.com/
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引越し作業中

2025-08-17 08:09:12 | 折々のつぶやき
 グズグズしていましたが、ようやく重い腰を上げてブログの引越し作業に取り掛かりました。
 引越し先は、はてなブログ。ブログ名は「一粒のタイル3」を考えています。
 引越しが完了したら、またこちらで報告します。
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『くつ屋のマルチン』と『ヨハネの福音書』

2025-08-16 10:12:08 | 折々のつぶやき
2025年8月15日静岡朝朝祷会メッセージ

終戦の日のメッセージ
~『くつ屋のマルチン』と『ヨハネの福音書』~

 きょうは終戦の日です。この日にメッセージを担当させていただけることを感謝に思います。
 私が神学校に入学する時に与えられた聖句はイザヤ書52章7節です。

イザヤ52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

 私は平和を告げ知らせるために、神様から呼ばれましたから、8月15日には格別の思いがあります。
 平和を巡る状況は悪くなる一方ですが、私に与えられた使命を淡々と行っていこうと決意を新たにしているところです。
 私は神学生の4年生の時の2011年に新約聖書の『ヨハネの福音書』の従来とは全く異なる読み方を知りました。それゆえ私に与えられた使命は『ヨハネの福音書』の新しい読み方がもたらす深い平安を多くの方々に伝えることです。心に深い平安があれば争い事も少なくなるでしょう。しかし、『ヨハネの福音書』の新しい読み方を知ってから14年になりますが、なかなか上手く伝えられていません。そんな中、最近少し反省していることがあります。これまでの私は『ヨハネの福音書』の従来の読み方を改めなければならないという思いが強すぎたように思います。
 しかし、スポーツや芸術や学問の楽しみ方がいろいろでなのと同じで、聖書の楽しみ方もいろいろです。それなのに私は『ヨハネの福音書』の新しい読み方にこだわり過ぎていました。それゆえ、これからは『ヨハネの福音書』には、今までの読み方に加えて、こういう別の読み方もある、という伝え方をして行こうと思います。
 そして今考えているのは、『くつ屋のマルチン』のイエス・キリストを、『ヨハネの福音書』の読み方に応用することです。
 『くつ屋のマルチン』は、教会ではクリスマスの頃に子ども向けの劇などで演じられることが多く、私も何度か劇に出た経験があります。
 イエス・キリストはどのような形で人の前に現れるのか、『くつ屋のマルチン』は分かりやすく伝えています。ご存知の方も多いと思いますが、簡単にあらすじを紹介します。

 ある晩、靴職人のマルチンは聖書を開いたまま寝てしまいました。その時、「マルチン、明日あなたの所に行きます」というイエスの声をマルチンは聞きました。翌日、マルチンはイエスに会えることを楽しみに、窓の外を気に掛けながら仕事をしました。冬の寒い日で、外では雪かきをしている年老いた男性が凍えていました。それでマルチンは男性を暖かい部屋に招き入れて熱いお茶をごちそうしました。他にも外で困っていた人々を招き入れて助けました。
 そうして一日が終わり、マルチンはイエスが現れなかったことに落胆していました。その時、昼間に助けた男性が現れて「マルチン、分からなかったのですか。わたしですよ。」と言って消えました。他にもマルチンが助けた人々が現れては「わたしですよ。」と言って消えました。実はイエスはマルチンが助けた人々の姿を借りて、マルチンの前に現れていたのでした。

 私自身も『くつ屋のマルチン』を通してイエスと出会った経験があります。2009年の3月、神学生の1年生の時、4年生が卒業公演で『くつ屋のマルチン』の劇を行いました。神学生が少なかったので1年生の私もマルチンの友人役で出演しました。そうして劇を見て下さった教会の方々の多くが私の演技を褒めて下さいました。私自身は、そんなに上手く演じられた気はしなかったので、お世辞だと思いましたが、いろいろな方々から「良かったよ」と言っていただけたので、とても元気づけられました。神学校での寮生活は規則が厳しくて、入学前まで自由奔放に暮らしていた私は苦しい思いをしていました。特に1年生の時は苦しかったです。そんな私を励ますためにイエスは教会の方々の姿を借りて、私の前に次々と現れたのだと思います。

 マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書もイエスと出会った人々を描いていますが、マタイ・マルコ・ルカが紀元30年頃の地上生涯のイエスと出会った人々を描いているのに対して、ヨハネはそれ以外の時代――「旧約の時代」と「使徒の時代」――にイエスと出会った人々を描いている、という読み方ができます。『ヨハネの福音書』には「旧約の時代」と「使徒の時代」が重ねられているからです[詳しくは拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書 2017)を参照願います]。

 例えばヨハネ1章45~51節は、創世記のヤコブがイエスと出会った時代を描いています。ヤコブは兄のエサウとの再会を目前にしてペヌエルで神様と格闘しました。そして名前を神様に聞かれた時に偽らずに「ヤコブです」と答えました。その20年前、ヤコブは父のイサクに対して自分を偽り、「エサウです」と答えていました。しかし、この時は偽らずに「ヤコブです」と答えました。それで、ヤコブは神様からイスラエルの名前を与えられました。

創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」

 これを記したのがヨハネ1章47節です。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 つまり、神様と格闘していた創世記のヤコブは、実はイエスと格闘していたのだと『ヨハネの福音書』は伝えています。

 列王記第一のアハブ王の時代のツァレファテのやもめは、エリヤの姿を借りたイエスに出会っていました。このことを伝えているのがヨハネ4章7節です。

列王記第一17:10 彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 もう一つ、旧約聖書の時代のイエスの例を示します。ヨハネ10章1節のイエスのことばは、エレミヤの叫びです。

ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 このヨハネ10章1節に対応する旧約聖書の箇所は、列王記第二の24章1節です。

列王記第二24:2 そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

 このことをエレミヤは次のことばで預言しています。

エレミヤ25:36 牧者たちの叫ぶ声がする。群れの飼い主たちの泣き声が。主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。

 主は不信仰を改めようとしないエルサレムに、外国人の略奪隊を遣わしました。略奪隊は城壁を乗り越えてエルサレムに侵入して財宝を略奪しました。そうしてエルサレムは滅亡しました。このことを預言したのはエレミヤは、実はエレミヤの姿を借りたイエスであったことを、『ヨハネの福音書』は示しています。

 他にもまだ、たくさん例がありますが、時間の関係でここまでとします。そして、イエスは『ヨハネの福音書』の読者の私たちにも現れています。『ヨハネの福音書』には「イエスが愛された弟子」、すなわち「愛弟子」が登場しますが、実はこの「愛弟子」はこの福音書の読者である私たちです。イエスは私たちを愛して下さっていますから、私たちは「愛弟子」です。『ヨハネの福音書』を何度も読み込む間に、いつの間にか私たちは聖霊の働きで書の中に入り込み、登場人物の「愛弟子」になります。最後の場面を、少し長いですが引用します。

ヨハネ21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。
24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 聖書は世代を超えて受け継がれて行きますから、「愛弟子」も世代を超えて受け継がれ、イエスが再び来られる時まで決して死にません。そうして「愛弟子」の私たちはイエスがして下さったことを証しします。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないでしょう。
 このようにして、イエスは聖書の読者である私たちにも現れて下さっています。くつ屋のマルチンに現れたように、私たちにも現れます。そうして、私たちに深い平安を与えて下さいます。この深い平安を知るなら、争い事は減って行くことでしょう。
 このような『ヨハネの福音書』の読み方を、他の人にもしてもらいたいと以前の私は思っていました。でも、スポーツや芸術や学問に楽しみ方があるように、聖書の楽しみ方もいろいろです。ですから、これからは、こういう別の読み方もある、という伝え方にしたいと思います。
 神様があと何年私を生かして下さるのか分かりませんが、与えられている日数の限り、『ヨハネの福音書』を読むことで与えられる深い平安、――イエスと出会うことで得られる深い平安――を伝えて行きたいと願っています。今回、朝祷会のメッセージの機会をいただけたことで、この思いを新たにすることができましたから、心より感謝致します。
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終戦の日のメッセージ(予稿)

2025-08-12 11:14:50 | 折々のつぶやき
2025年8月15日静岡朝朝祷会奨励(予稿)

 きょうは終戦の日です。この日に朝祷会の奨励を務めさせて欲しいと、私の方からお願いしました。
 私が神様から牧師になるよう召し出された時の召命の聖句はイザヤ52:7です。

イザヤ52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

 私は平和を告げ知らせるために、召し出されましたから、8月15日には格別の思いがあります。
 しかし、平和を巡る状況は悪くなる一方です。それゆえ気力が失せそうになることもありますが、私に与えられた使命を淡々と行っていこうと決意を新たにしているところです。今現在、牧師の仕事には就いていませんが「平和を告げ知らせる」ことはネットを通じてもできますから、続けて行くつもりです。
 私に与えられた使命は、ヨハネの福音書を通じて神様が与えて下さる平安を多くの方々に実感していただくことです。ヨハネの福音書がどういう書であるのか、神様が私に示して下さってから、もう14年になりますが、なかなか上手く伝えることができていません。そんな中、最近少し反省していることがあります。これまでの私は、ヨハネの福音書はこういう書だから、こう読まなければならないという思い込みが激し過ぎたように思います。
 しかし、たとえば野球であれば、アメリカのメジャーリーグでプレーする選手もいれば、それを観戦して楽しむ人もいます。日本のプロ野球でプレーする選手もいて、それを観戦して楽しむ人もいます。高校球児もたくさんいて、高校野球を観戦して楽しむ人もたくさんいます。小中学校で野球をする選手もたくさんいて、それを観戦して楽しむ人もたくさんいます。野球一つでも、楽しみ方はいろいろです。
 聖書の楽しみ方もいろいろです。それなのに私は神様が自分に示して下さったヨハネの福音書の読み方にこだわり過ぎていたように思います。それゆえ、これからはヨハネの福音書には、こういう読み方もありますよ、という伝え方をして行けたら良いなと思っています。
 そうして最近示されているのは、『くつやのマルチン』のイエス様を、ヨハネの福音書の読み方に応用することです。
 『くつやのマルチン』は、教会ではクリスマスの頃に子ども向けの劇などで演じられることが多く、私も何度か劇に出た経験があります。
 どのような形でイエス・キリストは人の前に現れるのか、『くつやのマルチン』は分かりやすく伝えています。ご存知のことと思いますが、簡単にあらすじを紹介します。

 ある晩、靴職人のマルチンは聖書を開いたまま寝てしまいました。その時、「マルチン、明日あなたの所に行きます」というイエス様の声をマルチンは聞きました。翌日、マルチンはイエス様に会えることを楽しみに、窓の外を気に掛けながら仕事をしました。冬の寒い日で、外では雪かきをしている年老いた男性が凍えていました。それでマルチンは男性を暖かい部屋に招き入れて熱いお茶をごちそうしました。他にも外で困っていた人々を招き入れて助けました。
 そうして一日が終わり、マルチンはイエス様が現れなかったことに落胆していました。その時、昼間にマルチンが助けた男性が現れて「マルチン、分からなかったのですか。わたしですよ。」と言って消えました。他にもマルチンが助けた人々が現れては「わたしですよ。」と言って消えました。実はイエス様はマルチンが助けた人々の姿を借りて、マルチンの前に現れていたのでした。

 私自身も『くつやのマルチン』を通してイエス様と出会った経験があります。2009年の3月、神学生の1年生の時、4年生が卒業公演で『くつやのマルチン』の劇を行いました。神学生が少なかったので1年生の私もマルチンの友人役で出演しました。そうして劇を見て下さった教会の方々の多くが私の演技を褒めて下さいました。私自身は、そんなに上手く演じられた気はしなかったので、お世辞だと思いましたが、いろいろな方々から「良かったよ」と言っていただけたので、とても元気づけられました。神学校での寮生活は規則が厳しくて、入学前まで自由奔放に暮らしていた私は苦しい思いをしていました。特に1年生の時は苦しいことの連続でした。そんな私をイエス様は教会の方々の姿を借りて励まして下さったのだと思います。
 『ヨハネの福音書』も、イエス様と出会った人々を描いています。『ヨハネの福音書』のイエス様は一見するとマタイ・マルコ・ルカが描いたのと同じ地上生涯のイエス様ですが、実は地上に降誕する前の『旧約聖書』の時代のイエス様や復活後の『使徒の働き(使徒言行録)』の時代のイエス様であるという読み方ができます。
 例えばヨハネ1章45~51節は、創世記のヤコブがイエス様と出会った時代を描いています。ヤコブは兄のエサウとの再会の前にペヌエルで神様と格闘しました。そして名前を神様に聞かれた時に偽らずに「ヤコブです」と答えました。その20年前、ヤコブは父のイサクに対して自分を偽り、「エサウです」と答えていました。しかし、この時は偽らずに「ヤコブです」と答えました。それで、ヤコブは神様からイスラエルの名前を与えられました。

創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」

これを記したのがヨハネ1章47節です。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 つまり、神様と格闘していた創世記のヤコブは、実はイエス様と格闘していたのだとヨハネの福音書は伝えています。
 列王記第一のアハブ王の時代のツァレファテのやもめは、エリヤの姿を借りたイエス様に出会っていました。このことを伝えているのがヨハネ4章7節です。

列王記第一17:10 彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 もう一つ旧約聖書の時代のイエス様の例を示します。ヨハネ10章1節のイエス様のことばは、エレミヤの叫びです。

ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 このヨハネ10章1節に対応する旧約聖書の箇所は、列王記第二の24章1節です。

列王記第二24:2 そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

エレミヤ25:36 牧者たちの叫ぶ声がする。群れの飼い主たちの泣き声が。主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。

 主は不信仰を改めようとしないエルサレムに、外国人の略奪隊を遣わしました。略奪隊は城壁を乗り越えてエルサレムに侵入して財宝を略奪しました。そうしてエルサレムは滅亡しました。このことを預言したのはエレミヤですが、それは実はエレミヤの姿を借りたイエス様であったことを、ヨハネの福音書は示しています。
 他にもまだ、たくさん例がありますが、時間の関係でここまでとします(詳しくは、拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」』をご覧下さい)。そして、イエス様はヨハネの福音書の読者の私たちにも現れて下さっています。ヨハネの福音書には「イエスが愛された弟子」、すなわち「愛弟子」が登場しますが、実はこの愛弟子はヨハネの福音書の読者である私たちです。イエス様は私たちを愛して下さっていますから、私たちは「愛弟子」です。ヨハネの福音書の最後の場面を、少し長いですが引用します。

ヨハネ21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。
24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 聖書は世代を超えて受け継がれて行きますから、愛弟子の私たちも世代を超えて受け継がれて、イエス様が再び来られる時まで決して死にません。そうして、私たちはイエス様がして下さったことを証しします。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないでしょう。
 このようにして、イエス様は聖書の読者である私たちに現れて下さっています。くつ屋のマルチンに現れて下さったように、私たちにも現れて下さっています。そうして、私たちに平安を与えて下さっています。
 始めにも言いましたが、このようなヨハネの福音書の読み方を、他の人にも皆、してもらいたいと私は思っていました。でも、野球にいろいろな楽しみ方があるように、聖書の楽しみ方もいろいろです。ですから、これからは、こういう読み方もありますよ、とう伝え方にして行くことにしたいと思います。
 神様があと何年私を生かして下さるのか分かりませんが、与えられている日数の限り、ヨハネの福音書を読むことで与えられる平安を伝えて行くことで、平和を告げ知らせて行きたいと願っています。今回、朝祷会の奨励の機会をいただけたことで、この決意を新たにすることができましたから、神様と朝祷会のメンバーの皆様に心より感謝申し上げます。
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ヨハネはめぐる(1)

2025-07-22 11:00:34 | 折々のつぶやき
ヨハネはめぐる(1)
~百億人を超える証人たち~

 新約聖書のヨハネの福音書は、次の奇妙な言葉で締めくくられています。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 この箇所を初めて読んだ時、随分と大げさだなと、私は思いました。イエスがどんなに多くのことをしたとしても、世界が収められないほどになるとは思えませんでした。誇張が過ぎると思いました。しかし、ヨハネの福音書を繰り返し読むうちに、その真意が段々と分かって来ました。そして、この2つの節に難解と言われるヨハネの福音書を読み解く鍵があると気付きました。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書によれば、イエスはおよそ30歳の時にガリラヤで宣教を始めて、しばらく北方の地で人々に教えを説いた後に南下してエルサレムを目指します。そしてエルサレムに入京してわずか5日後に捕らえられて十字架の死刑で亡くなりました。このわずかな宣教期間にイエスがどれだけ多くのことをしたとしても、その証言の書が世界に収めきれないほどになるでしょうか。

 しかし、十字架の死後に復活したイエスに出会った人なら無数にいます。たとえば使徒パウロはキリスト教徒を迫害していましたが、復活したイエスに出会ったことで劇的に変えられてキリストの教えを説くようになり、多くの手紙を残しました。私も復活したイエスに出会って牧師になり、本を出版しました。一体どれくらいの人が復活したイエスに出会ったのか、正確な数は分かりませんが、21世紀の現代までに百億人を超えるのではないでしょうか。仮に超えていなかったとしても、やがて超えることは確かです。

 このように、ヨハネの福音書とは十字架の死後に復活したイエスとの出会いを証言した書です。十字架のイエスもそれぞれの時代を生きる読者が心の中で出会ったイエスです。ブログでは繰り返し書いて来たことですが、ヨハネが描いたイエスはマタイ・マルコ・ルカと同じ地上生涯のイエスである、という聖書読者の思い込みがあまりにも強烈であるため、簡単にはくつがえりません。しかし、思い込みがどんなに強烈であったとしても、約500年前にコペルニクスから始まった天動説から地動説への移行が約150年掛けてニュートンによって成し遂げられように、いつかは思い込みから解き放たれる時が来ます。見かけ上の太陽は動いていますから、動いているのは地球だとは、なかなか信じられません。同様に、ヨハネの福音書のイエスは見かけ上は地上にいます。それゆえヨハネが描いたイエスはマタイ・マルコ・ルカのイエスと同時代に【いない】ことが信じられないのは当然です。でも、いつかは信じられるようになるでしょう。

 ヨハネの福音書のイエスがマタイ・マルコ・ルカのイエスと同時代に【いない】ことはヨハネ4章1~2節を読めば明らかです。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 マタイ・マルコ・ルカの福音書はイエスや弟子たちがバプテスマを授けていたとは書いていません。したがってヨハネ4章のイエスはマタイ・マルコ・ルカのイエスとは異なる時代にいます。具体的に言えば、ここにいるのは五旬節に多くの人がイエスを信じてバプテスマを受けた頃のイエスです。バプテスマを授けたのは弟子たちでしたが、聖霊を受けた弟子たちの内にはイエスが居ましたから、イエスがバプテスマを授けたのと同じことです。ヨハネ4章1~2節は、その状況を描いています。

 終戦80年の今年、多くの人の心の内にイエスの平安が与えられるように願っています。
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【神の存在証明】

2025-07-07 05:08:27 | 折々のつぶやき
 ヨハネの福音書の存在が神の存在証明になる、最近そんなことを考えています。
 理屈は単純です。
 ヨハネの福音書は写本が実在するので、原本を書いた記者も必ず存在します。記者が誰かは諸説ありますが、誰であれ、この記者が神であれば神は存在することになります。そして、実はヨハネの福音書の記者は神です。そのカラクリはヨハネの福音書の本文で説明できます。
 ヨハネ4章1-2節は次のように書いています。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 ヨハネの福音書の記述は多くの点でマタイ・マルコ・ルカの福音書と異なりますが、このヨハネ4:1-2もマタイ・マルコ・ルカと大きく異なります。マタイ・マルコ・ルカの福音書でバプテスマを授けていたのは洗礼者ヨハネだけです。イエスと弟子たちはバプテスマを授けていません。しかし、ヨハネ4:1は「イエスが…バプテスマを授けている」と記しています。
 この食い違いは、ヨハネの福音書のイエスはマタイ・マルコ・ルカのイエスとは異なる時代にいると考えることで説明できます。マタイ・マルコ・ルカが描いたイエスは十字架に掛かる前のイエスです。一方、ヨハネが描いたイエスは復活して天に昇った後、天から聖霊を遣わしているイエスです。
 五旬節の日に天のイエスが地上の弟子たちに聖霊を遣わして以降、弟子たちはエルサレムの人々にバプテスマを授けるようになりました。この状況を説明しているのがヨハネ4:2「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」です。聖霊を受けた弟子たちの中には天のイエスが居たので、弟子たちがバプテスマを授けた行為はイエスがバプテスマを授けたのと同じことでした。
 これと同じことがヨハネの福音書の執筆についえも言えます。ヨハネ21:24によれば、この福音書の記者はイエスの弟子です。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 この弟子が誰であれ、記者が聖霊を受けていたことは間違いありません。聖霊について詳しく書いたヨハネの福音書を、聖霊を受けていない者が書くことは不可能だからです。するとヨハネ4:1-2から、ヨハネの福音書はイエスが執筆したことになります。聖霊を受けた記者の中には天のイエスが居たからです。天のイエスは神ですから、ヨハネの福音書の記者は神です。従って、神は存在します。
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【平和の実現のために】

2025-06-28 06:35:58 | 折々のつぶやき
 連載中の『福音の新発見』の登場人物たちが発見したように、ヨハネの福音書のイエスはマタイ・マルコ・ルカの福音書のイエスと同時代には居ません。旧約の時代や使徒の時代に居ます。ヨハネの福音書のイエスの正体は、預言者たちや使徒たちの内に居る聖霊です。ヨハネ4章を読めば、そのことは明らかです。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 イエスと弟子たちがバプテスマを授けたことをマタイ・マルコ・ルカは記していません。従って、ヨハネ4章のイエスと弟子たちはマタイ・マルコ・ルカの福音書と同時代には居ません。彼らはイエスの復活後の時代にいます。五旬節の日に聖霊が降って弟子たちの内に入りましたから、このヨハネ4:1-2のイエスとは、ペテロやヨハネたちの内に居る聖霊のことです。弟子たちはエルサレムで多くの人々にバプテスマを授けていました。
 では、次の3節と4節はどうでしょうか。

ヨハネ4:3 (イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 急成長した教会をパリサイ人たちは迫害しましたから、3節のイエスはエルサレムから散らされた弟子たちの内に居る聖霊であり、4節でサマリアへ行ったイエスはサマリア人へ伝道したピリポの内に居る聖霊です。

 ではヨハネは何故、このような福音書を書いたのでしょうか?それはイエスの死後の時代を生きる私たちが、復活したイエスと出会えるようにするためでしょう。4章でサマリア人たちは言いました。

ヨハネ4:42 「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 イエスと出会う前は、本や牧師の言葉を通してしかイエスを知ることができません。しかし、イエスを信じて聖霊のバプテスマを授かるとイエスが内から語り掛けるようになります。そうして「自分で聞いて」分かるようになります。これがイエスとの出会いです。
 ヨハネ4章のイエスの正体が聖霊なのですから、1章のイエスもまた聖霊でしょう。

ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

 それゆえ29節のヨハネはバプテスマのヨハネではなく、この福音書の記者ヨハネです。私たちは記者ヨハネによって、聖霊によるイエスとの出会いに招かれています。

 世界では今なお戦争が絶えず、それらの多くにキリスト教徒が絡んでいます。ヨハネ20章でイエスは3度言いました(聖書協会共同訳)。

「あなたがたに平和があるように。」(19節)
「あなたがたに平和があるように。」(21節)
「あなたがたに平和があるように。」(26節)

 世界の人々の3割はキリスト教徒だと言われています。ですからキリスト教徒がイエスの「あなたがたに平和があるように」という内からの語り掛けに真摯に耳を傾けるなら、世界は必ず平和に向かうと私は信じています。
 平和の実現のために、まずはヨハネの福音書のイエスがマタイ・マルコの福音書のイエスと同時代ではなく旧約の時代と使徒の時代に居るイエスであり、さらには私たちの時代にも居るイエスであることを知る必要があると思います。
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連載42 ヨハネ4章のもう一つの読み方・その3(続編28)

2025-06-16 06:20:27 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(28)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

ヨハネ4章のもう一つの読み方・その3
 ジュンが言った。
「新約の時代の弟子たちが町へ買い物に出掛けて(ヨハネ4:8)舞台から退場したことで時代は【新約→→旧約】の場面転換をしたんだね。だとしたら、弟子たちが町から戻って来た時(ヨハネ4:27)に、時代は逆向きの【旧約→→新約】の場面転換をして元に戻ったのかな?」

ヨハネ4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。

 エリが言った。
「そういうことになるよね。舞台はサマリアのままだから、戻った後の時代もピリポがサマリア伝道をした使徒8章の時代のままなのかな?」
 ノンが言った。
「そうなんだろうね。この弟子たちが町から戻って来てからのヨハネ4章のイエス様のことばも、ものすごく興味深いよ。」

ヨハネ4:35 「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れるということばはまことです。
38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 ノンは続けた。
刈り入れるという言葉が何度も使われているでしょ?たくさん出て来るから、妙に気になるんだよね。これも使徒8章のピリポのサマリア伝道と関係があるのかな?」
「あっ、そうか!」
 使徒8章を読んでいたジュンが言った。また新たな発見をしたようだ。
「この刈り入れるって、聖霊を受けることと関係があるんじゃないかな?」
 ノンとエリが前のめりになった。
「エッ?」
「どうして?」
 ジュンが続けた。
「使徒8章には、ペテロとヨハネもサマリアに向かったことが書かれているよ。イエス様は、このことを弟子たちに言っているんじゃないかな?」

ヨハネ8:12 人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。
13 シモン自身も信じてバプテスマを受けると、いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた。
14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた

 ノンが言った。
「なるほど、聖霊を受けて初めて刈り入れたことになるんだね。」
 エリも言った。
「ヨハネ4:37の『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』は、ピリポが種を蒔きペテロとヨハネが刈り入れるということなんだろうね。」
 ジュンも続けた。
「ヨハネ4:42の『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。』も、サマリア人たちが聖霊を受けたことを裏づけているね。聖霊を受けるとイエス様が内に入って一人一人に語り掛けて下さるから自分で聞いて、イエス様のことが分かるようになるんだね。」

ヨハネ4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。

 ノンは感動していた。
「なるほど~。これは実際は使徒の時代のことだから、ヨハネ4章でサマリア人たちが会ったイエス様は地上生涯のイエス様ではなく、一人一人の内に入って聖霊を通して語り掛けているイエス様なんだね。」
 エリも感動に浸っていた。
「ここに登場しているイエス様は、十字架に掛かる前の地上生涯のイエス様だと思いがちだけど、実は復活後に天に帰ったイエス様だったんだね。天のイエス様が聖霊を通して一人一人の内に語り掛けて下さっているんだね。ヨハネの福音書って、本当にすごいな~。」

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連載41 ヨハネ4章のもう一つの読み方・その2(続編27)

2025-06-02 06:43:04 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(27)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

ヨハネ4章のもう一つの読み方・その2
 ジュンはうっとりしていた。
「もう何度も言っているけど、ヨハネの福音書って、本当に面白いね。でも、ちょっと気になるんだけど、7節は列王記のエリヤの時代ってことだったよね?」

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

「ヨハネ1章1~6節は新約の時代で、7節で急に舞台は旧約の時代に入れ替わるのかな?」
 ここで、エリが面白いことを言った。
「もしかしたら、次の8節が場面転換の役割を担っているのではないかな?」

ヨハネ4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

「以前からワタシは、この8節には何となく違和感を覚えていたんだ。なぜ、ここで弟子たちが町へ買い物に行ったことが書かれているのか、ちょっと引っ掛かっていたんだよね。でも、分かった気がするよ。」
「何が分かったの?」
「分かった?」
 ジュンとノンも興味津々だ。エリは続けた。
「イエス様は神様だから、旧約の時代へも使徒の時代へも自由に行き来できるんだよ。でも、弟子たちは神様じゃないでしょ。弟子たちは一つの時代にしか居られないんだ。今の場合、ヨハネ4章1~6節で弟子たちは使徒の時代にいるから、イエス様が列王記のエリヤの時代に居る間は弟子たちは舞台から退場して町へ買い物に行ってもらった。そういうことじゃないかな。」
 ジュンのテンションが再び上がった。
「すごい!ホントにそうだね!よく気付いたね、エリ。」
 ノンもエリをほめたたえた。
「僕も感動しているよ。すごいよ、エリ。8節の『弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた』には、そんな意味が込められていたなんて。本当にヨハネの福音書は面白すぎるね。」
 エリもうれしそうだ。
「ありがとう。」

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連載40 ヨハネ4章のもう一つの読み方・その1(続編26)

2025-06-01 13:23:02 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(26)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

ヨハネ4章のもう一つの読み方・その1
「きょうのワタシたちのこれまでの話では、ヨハネ4章は旧約聖書の列王記の預言者エリヤの時代と重ねられている、ということになっていたよね。」
 エリが言うと、ジュンがすぐに反応した。
「うん。イエス様がサマリアの女に水を所望した場面は、エリヤがツァレファテのやもめに水を所望した場面と重ねられているということだったね。」

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

列王記第一17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 エリはうなずき、そしてノンに尋ねた。
「うん。そうだとするとノン、このヨハネ4章には、さらに使徒たちの時代も重なっているということ?」
 ノンは答えた。
「その筈だよ。皆で一緒に読み解いてみようよ。まず4章1節。」

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、

「この記述は、変だよね。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエス様がバプテスマを授けていたことなど一言も書いてないよ。」
 ノンが言うとジュンは2節も変だと指摘した。

ヨハネ4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

「この2節も、おかしいよね。弟子たちがバプテスマを授けていたこともマタイ・マルコ・ルカは書いていないよ。」
 エリがうなずきながら言った。
「うん、うん。確かに変だね。すると、やっぱりここには使徒の時代のことが書かれているということになるんだね。使徒の時代には、弟子たちは確かにバプテスマを授けていたからね。イエス様は聖霊という形で弟子たちの中にいたから、ヨハネは2節で『バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく』という表現を用いたんだろうね。」
 ジュンが興奮しながら言った。
「そうか!そうか!イエス様は聖霊の形で弟子たちの中にいたから、ヨハネはまず1節で『イエスが・・・バプテスマを授けている』と書いたんだね。面白いね~!」
 ノンが続けた。
「うん。だから、3~5節もやはり使徒の時代のこと、ということなんだろうね。」

ヨハネ4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアおられた。時はおよそ第六の時であった。

「イエス様はサマリアに来られたんだけど、使徒の働きでサマリアの場面が出て来るのは使徒8章だよ。」

使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
3 サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
4 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 ジュンの興奮がさらに増し加わった。
「そうか!そうか!そうか!そうなんだね!ヨハネ4:1の『イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている』というのは、ペンテコステの日以降に多くの人々がバプテスマを受けて教会が急成長したことを指すんだね!それがユダヤ人たちの反発を招いてステパノが殺されて、弟子たちが散らされてサマリアなどの地方へ出て行くことにつながったんだね。」
 いつもは冷静なエリも興奮気味に言った。
「そうか!エルサレムから散らされてサマリアで伝道したピリポは聖霊を受けていたから、ピリポの中にはイエス様がいたんだね!だからヨハネは4章でイエス様がサマリアに行ったと書いたんだね!」
 ノンも熱くなった。
「そうか~!ヨハネ4:6に『イエスは旅の疲れから』とあるのは、背後にステパノ殉教と教会への迫害があったからかもしれないね。やむなくエルサレムを離れなければならなかったのだから、元気というわけにはいかない、そういうことじゃないかな。」

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連載39 イエスを信じる=聖霊を受ける(続編25)

2025-05-25 06:22:54 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(25)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

イエスを信じる=聖霊を受ける
 さて、ノンはまた新たな発見をしたようだ。
「ヨハネ2章の11節に『弟子たちはイエスを信じた』とあるでしょ。それから、23節にも『多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた』と記しているでしょ。」

ヨハネ2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた

ヨハネ2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた

「ヨハネ2章がペンテコステの日の出来事と重なっているとしたら、『イエスを信じる=聖霊を受ける』ということになるんじゃないかな?」
 ジュンが聞いた。
「どうして?」
「使徒の働きには聖霊が注がれた順番が記されているでしょ。聖霊は先ずガリラヤ人に注がれて、次にユダヤに、それからサマリア人に、そして最後に異邦人に注がれたんだよね。」

【ガリラヤ人】
使徒2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

【ユダヤ人】
使徒2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます
39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

【サマリア人】
使徒8:14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた

【異邦人】
使徒10:24 そして次の日、ペテロはカイサリアに着いた。コルネリウスは、親族や親しい友人たちを呼び集めて、彼らを待っていた。
44 ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った
45 割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。

 ノンは続けた。
「さっき言ったように、ヨハネ2:11にはガリラヤ人の弟子たちがイエスを信じたことが、ヨハネ2:23にはユダヤ人たちがイエスを信じたことが書かれているでしょ。そして、ヨハネ4章にはサマリア人たちと異邦人たちがイエスを信じたことが書かれているよ。」

ヨハネ4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた
40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた

ヨハネ4:49 王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」
50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。
51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。
52 子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。
53 父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた

 ジュンが驚きながら言った。
「ホントだ~!ヨハネの福音書の『イエスを信じた』も、【ガリラヤ人→ユダヤ人→サマリア人→異邦人】になってるね!だから『イエスを信じた=聖霊を受けた』なんだね!」
 エリもうなずいた。
「確かに、そうだね。ヨハネ4章の王室の役人は異邦人で使徒10章のコルネリウスと重ねられているということなんだね。」
 ジュンは大喜びだ。
「これも、すごい新発見だね。すごいよ、ノン!」
「ありがとう、ジュン。」

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連載38 三位立体の書(続編24)

2025-05-07 12:05:39 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(24)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

三位立体の書
 すると、ジュンが唐突に言った。
「三位りったい・・・」
 ノンが聞き返した。
「三位一体?」
「じゃなくて、三位立体だよ。ヨハネの福音書って、父・子・聖霊を立体的に感じることができる書だなって、ふと思ったんだよね。この立体感によって神様の愛の分厚さが感じられるようになっているんじゃないかな?」
「なるほど、三位立体か・・・」
「聖霊は、父と子が天から遣わして、弟子たちの内に住むとヨハネ14章と15章でイエス様が言っているでしょ。」

ヨハネ14:16 「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」

ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ヨハネ15:26 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」

 ジュンは続けた。
「だから、モーセやエリヤやエレミヤなど旧約の時代の預言者たちの内にいる聖霊も天の父と子が遣わしたということになるよね。」
「確かに。」
「さっき、ヨハネ2章にはモーセの時代の出エジプトが重ねられているとノンが話したでしょ。」
「うん。」
「このモーセの中には父と子が天から遣わした聖霊がいるんだよね。イエス様と聖霊が内にいるモーセが重なっていることが見えると、ヨハネの福音書が立体的に見えるようになると気付いたんだよ。」
「だから、三位りったいか。」
「そう、三位立体。」
 ジュンとノンの会話を聞いていたエリが、ここで口を挟んだ。
「ちょっと待って。じゃ、ヨハネ2章はモーセの時代よりも、むしろ使徒の時代のペンテコステの日に重ねられているんじゃない?」
「えっ?」
「どういうこと?」
「まず、カナの婚礼の祝祭の場というのが、聖霊が使徒たちに注がれたペンテコステの祝祭にふさわしいでしょ?」
「なるほど。」
「うん。」
「それから、きよめの水をぶどう酒に変えて、そのぶどう酒が前のよりも良いぶどう酒というのは、律法よりも聖霊の方が優れていることを表しているんじゃないかな?」
「確かに。そうかもしれないね。」
 ジュンが同意すると、ノンが言った。
「すると、良いぶどう酒は聖霊ということの他に、イエス様が十字架で流した血とも言えるかもしれないね。」
 うなずきながら、エリが言った。
「じゃあ、ヨハネ2章はモーセの時代よりも使徒の時代だというになるかな?」
 ノンは即座に否定した。
「いや、両方ということで良いんじゃないかな。モーセの時代と使徒の時代の両方だよ。」
 ジュンが何度もうなずいた。
「うん、うん。うん、うん。そうだよね。両方っていうことだよね。三位りったいが、もっと立体的になるよね。」
 エリも納得した。
「そうか~。両方か~。ヨハネの福音書って、本当にすごい書だね。」

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連載37 神様は豊かなお方(続編23)

2025-04-27 10:09:27 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(23)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

第3章 福音の奥義
神様は豊かなお方

 エリは感動していた。
「きょうの語り合いのことをとても期待していたけど、期待していた以上に素晴らしい会になったね。」
 ノンも満足そうだ。
「僕もヨハネの福音書に関する新しい発見をエリとジュンと共有できて、本当にうれしいよ。」
 ジュンもうなずきながら言った。
「本当に、そうだね。私も感動しているよ。でも、あまりにたくさんの新しいことがあったから、もう一度復習したいな。」
 エリが言った。
「うん。それも良いけど、このフードコートにはもうだいぶ長い時間いるから、そろそろ場所を変えない?」
 ノンとジュンも場所を変えることに賛成したので、三人はフードコートを出た。そして歩きながら、なおヨハネの福音書について語り合った。
 ジュンは、うっとりとした表情で言った。
「ヨハネの福音書って、『神様は豊かなお方』だってことが本当に良く分かる書だね~」
「どういう所が?」
 エリが聞くと、ジュンはこう答えた。
「だって、ヨハネの福音書って、表面を読んだだけではマタイ・マルコ・ルカと同じようにイエス様の地上生涯を描いた書だって、誰でも思うよね。でも実は、創世記から列王記まで、さらにはエズラ署やマラキ書の時代までが重ねられていて、それらの時代にもイエス様がいたことが示されているんだよ。イエス様は創世記のヤコブと格闘し、またモーセやエリヤなどの預言者たちの内にいて、それぞれの時代の人々に語り掛けていたんだよ。すごいよね~。」
 ノンも応じた。
「何て言うか、すごく厚みを感じる書だよね。イエス様の地上生涯だけだと、そういう厚みを感じないんだけど、旧約聖書の時代が重なっていると思うと、神様の分厚い愛をマタイ・マルコ・ルカの福音書の何十倍も感じる気がするんだよね。」
 エリも納得したようだ。
「あ~、それで『神様は豊かなお方』だということが良く分かる書というわけだね。それなら、ワタシも同意するよ。ヨハネの福音書には豊かな膨らみのようなものを感じるからね。」
 そして、ジュンは霊性について語り始めた。
「こういうのを『霊的』って言うんじゃないかな?霊性は時間を超えたものの中に感じることが多いと思うんだよね。たとえば古いお寺の境内にいると時間を超えた『何か』を感じるでしょ?この『何か』が霊性だと思うんだよね。」
 ノンもうなずきながら言った。
「『霊性』って、どう表現したら良いのか、なかなか適切な言い表し方が見つからない難しさがあることばだよね。『時間を超えた何か』というのは、まさにその通りだと思うな。忙しくて頭を使っている時はまったく感じず、ボーっとしている時に感じやすいものだよね。」
「私もそう思うよ。神様の分厚い愛に包まれてフワフワと無重力の中で浮いているというか、脱力している時にしか感じないものだよね。エリには、この感覚が分かるかな?」
「アメリカはまだ歴史が浅くて日本のような古いお寺がないから、ちょっと分かりにくいね。でも、今朝、蓮永寺を散歩した時は、そんな風な心持ちになったな。そういうのを『霊性』というのは、何となく分かる気がするよ。」

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なんと!(唖然)

2025-04-20 07:47:52 | 折々のつぶやき
 休日の今朝、gooブログの編集ページを開けたら、


という通知が入っていて、唖然としました。今年の11月18日でサービスを終了するそうです。

 ゴールデンウイーク中に小説の執筆を進めようと思っていましたが、ブログ引っ越しの準備作業を優先することになるかもしれません。

 このブログは、沼津の教会の着任時(2013年4月)から始めました、開始以来の日々の訪問者数のトータルが今日までで492,913名で、50万人達成まであと7000名ほどです。1日あたりの訪問者数が100名として70日ですので、サービス終了までに50万人は達成できそうで、それは感謝なことです。50万人に達したら引っ越し先を公表して本格的に移行しようかと思います。

 まだしばらくは、このgooブログでの発信を続けますので、引き続きよろしくお願い致します。
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