インマヌエル沼津キリスト教会

人生を豊かにする聖書を伝える教会
沼津市今沢34番地 Tel.055-966-2612

「へいわ深海聖書館」j準備室を立ち上げました

2018-05-21 15:49:46 | 牧師のつぶやき
 このたび、「へいわ深海聖書館」準備室を立ち上げて、ブログも開設しました。
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日本宣教へのヒント(2017.6.25 礼拝)

2017-06-26 09:41:54 | 礼拝メッセージ
2017年6月25日礼拝メッセージ
『日本宣教へのヒント』
【使徒14:8~18】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。13章の終わりでパウロとバルナバはイコニオムへ入りました。14章の始めには、このイコニオムでの出来事が記されています。そして二人はルカオニヤの町であるルステラとデルベに移動しました。これらイコニオム、ルステラ、そしてデルベの町はガラテヤ地方にあります。それで先週の学びでは、パウロのガラテヤ人への手紙も開いて、この手紙に何が書かれているかを、ざっと概観しました。
(きょうも地図を見て、地理を確認しておきたいと思います。)
 このガラテヤ地方では、大勢の人々が信仰に入りました。しかし、パウロとバルナバがガラテヤから離れた後、比較的短い期間にいわゆる割礼派と呼ばれる人々にガラテヤ人たちは惑わされて、信仰が歪められました。ガラテヤ人への手紙は、そのことに怒ったパウロが最初の信仰に立ち戻るようにと書いた手紙です。そして御霊によって歩むべきことをパウロはガラテヤ人たちに勧めました。これらのことを先週のメッセージでは話しました。
 さて、きょうは8節から18節までの出来事を見ます。これはパウロとバルナバがガラテヤ地方のルステラで宣教中に起きた出来事で、二人がガラテヤ地方を離れる前のことです。

ルステラの人々と似た神観を持つ日本人
 では、14章の8節から見て行きましょう。

14:8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。
14:9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

 使徒の働きの始めのほうに、ペテロが足のなえた人を癒した記事がありましたが、パウロにもまた、このように人を癒す力が与えられていました。続いて11節から13節、

14:11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
14:13 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。

 パウロが足のなえた人を癒したのを見て、ルステラの人々がこのような反応を示したことは、私には理解できます。なぜなら、これは日本人の神観と似ていると思うからです。私は40歳になるまでは聖書の神様を知りませんでしたから、日本人もこのルステラの人々と同じような感覚を持っていると感じます。ですから、きょうの箇所から、日本で宣教する際のヒントが得られるような気がしています。それで、きょうのメッセージのタイトルは『日本宣教へのヒント』としました。
 ルステラの人々は(日本の多くの人々もそうですが)、唯一の神ではなくて、複数の神々を信仰していました。日本の場合はよく言われる八百万の神です。私からすれば、分業制の八百万の神々よりも全知全能の唯一の神様のほうが遥かに合理的であると考えますが、八百万の神々を信仰する人々は分業制のほうが合理的であると考えるようです。それはなぜでしょうか。
 分業制の神々と言うと、「野球の神様」や「サッカーの神様」などがいます。人々はどうして、このような分業制の神々がいると信じているのでしょうか。一つ考えられることとして、単に聖書を読んだことがないから、という理由が挙げられるかもしれません。広大な宇宙を創った全知全能の神様の壮大さに思いを馳せたことがないから、小さな領域を分担している分業制の神々を信じるのかもしれません。

壮大なスケールの『荘子』
 私自身の学生時代を振り返ってみると、私は聖書は読んでいませんでしたが、『荘子』という書物を熱心に愛読していました。だから後に高津教会に導かれた時に、全知全能であり、唯一である聖書の神様を比較的すぐに信じることができたのかもしれません。
 皆さんはこの『荘子』という書物をご存知でしょうか。『荘子』は紀元前4世紀の荘子という中国の思想家とその弟子たちが書いた書物です。『荘子』はお隣の国の中国の書物ということで、一般の日本人にとってはもしかしたら聖書よりも親しみを感じるかもしれませんから、これからしばらくの間、『荘子』の話をすることにします。
 『荘子』の冒頭は、「北冥ニ魚有リ」で始まります。中公文庫の『荘子』の森三樹三郎氏による訳文を、そのまま引用します。

 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。
 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。「鵬が南のはての海に移ろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。」

 『荘子』は、このように、とてつもなくスケールの大きなことを書いた書物です。学生時代の私はこの圧倒的な大きさを持つ大鵬が天を飛翔する姿を想像しては、うっとりとしていました。

大鵬の心境を理解できない蜩と小鳩
 そして『荘子』にはこの大鵬の飛翔の話の後で、蜩(ひぐらし)と鳩の話が出て来ます。体が小さな蜩と鳩は九万里の上空を飛翔する大鵬の境地など全く理解できませんでした。『荘子』には次のように書いてあります(同じく森三樹三郎 訳)。

 蜩と小鳩とは、この大鵬のありさまを見て、あざわらっていう。
「われわれは勢いよく飛びたち、楡や枋(まゆみ)の木をめがけて突進しても、ときにはとどかず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空にのぼり、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか」
 だが、近郊の野に出かけるものは、三度の食事をするだけで帰ってきても、腹のすくことはないであろうが、百里の地に出かけるものは、前夜から米をついて準備しなければならず、千里の地に出かけるものは、三か月も前から食糧を集めておかなければなるまい。とするならば、蜩や小鳩などに、大鵬の心を知ることがどうしてできるであろうか。

 この蜩や小鳩と大鵬との関係は、分業制の八百万の神々と聖書の神様との関係に似ているように思います。私たちは日本の方々に聖書の神様のスケールの大きさをお伝えできるようになりたいと思います。準備中の「へいわ深海聖書館」も、いろいろ工夫して聖書の神様のスケールの大きさがお伝えできるものでありたいと思います。

スケールの大きな神を伝えたパウロ
 パウロたちも神様が天と地を創造したスケールの大きな神であることを伝えようとしています。14節と15節をお読みします。

14:14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。

 パウロの手紙を読むと、パウロは手紙においてもスケールの大きな神様のことを書いています。たとえばコロサイ人への手紙1章でパウロは次のように書いています。15節から17節までをお読みします(新約聖書p.390)。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 或いはまた、エペソ人への手紙3章では次のように書いています。この箇所はご一緒に読みたいと思います。よく引用する箇所です。エペソ3章16節から19節までを交代で読みましょう(新約聖書p.376)。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 こういうスケールの大きな神様を、私たちも地域の方々、そして日本の方々にお伝えして行きたいと思います。

おわりに
 こういうスケールの大きな神様をお伝えするという方向性は間違っていないだろうと思います。このスケールの大きな神様の愛の中にどっぷりと浸かる時、私たちは心の平安を得ることができます。この素晴らしい恵みを多くの方々と分かち合うために、さらに具体的にどうしたら良いかを、神様の導きを仰ぎながら考え、進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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6月25日の礼拝プログラムについて

2017-06-25 12:10:54 | 礼拝プログラム
6月25日の礼拝プログラムは下方↓にあります
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AI(人工知能)に支配されないための3つのステップ(2017.6.21 祈り会)

2017-06-22 11:12:31 | 祈り会メッセージ
2017年6月21日祈り会メッセージ
『AI(人工知能)に支配されないための3つのステップ』

【詩篇8篇3~4節】
3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

はじめに
 きょうは夏至の日です。そこで、ヨハネの福音書の学びはお休みにして、夏至に因んだ話をします。
 いま「きょうは夏至の日です」と言いましたが、より正確に言うと、きょうの午後1時24分に夏至の地点を地球が通過するそうです。ですから、この祈り会が始まる少し前に地球が夏至の地点を通過しました。この夏至の地点において昼の長さが最も長くなりますから、これからは半年後の冬の冬至に向けて昼の長さが段々と短くなって行きます。
 そういうわけで私は夏至の日には、これから日が短くなる寂しさを感じます。特に神学校の寮にいた神学生の時代に、この寂しさを強く感じました。私は48歳の時に神学校の寮に入りました。それまでは勝手気ままな自由な暮らしをしていましたから、神学校の寮での自由が制限された暮らしの中では、自然と気持ちが暗くなりがちでした。それでも外が明るい間は何とかなりましたが、外が暗くなると気持ちは沈みがちでした。しかもテレビが無い生活ですから、テレビで気を紛らすこともできません。一緒に暮らしていた寮生との仲は良かったですが、それでも歳がかなり離れていましたから、親友という感じにはなりません。そういう面での孤独感もありました。そのような暗い気分を、明るい日の光は癒してくれました。それで私は寮生活をする間に日の長さに敏感になり、その名残は寮を出た後の今でも少し残っています。
 さて、この夏至と冬至のサイクルを繰り返す一年間の長さは皆さんがよくご存知の通り、地球が太陽の周りを回る公転の周期によって決まります。また、一日の長さは地球の自転の周期によって決まります。私たちが日常生活で使っている時間は、地球という天体の動きがベースになっています。この地球の動きは重力を及ぼしあっている太陽や月も関係しています。私たちが普段使っている時間は、天体が関係しているのだということを夏至の日の今日、改めて確認しておきたいと思います。

「AI支配の危機」と「平和の危機」の二枚看板
 きょう私がなぜ、こんな天体の話を持ち出したかというと、それは最近私が出した本「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」に書いた「永遠」への覚醒について、本とはまた別のアプローチで迫ってみたいからです。今回の本では私は「永遠」への覚醒を、「平和の実現」のためにどうしても必要なこととして書きました。しかし実は1年前の私は別のアプローチで「永遠」への覚醒の必要性を訴えた原稿を書きました。ただし、このアプローチでは人に伝わりづらいとのことでボツにしました。そして漫画の『夕凪の街 桜の国』と絡めて、「今のままでは平和は永久に実現できない」という危機感に訴える戦略を取ることにしました。
 実はその一つ前のボツ原稿もまた危機感に訴えるものでした。それは、「今のままでは人類はAIに支配されてしまう」というものでした。今まさにこのことが心配されていますから、この時流に乗って「永遠」への覚醒の大切さを訴えようという戦略でした。ただ私の文章力が拙いこともあって、上手く伝わらないようでしたので、原稿はボツにしたのでした。しかし今回、本を一冊出せたことで、もう一度改めて「AIに支配される危機」を訴える企画を復活させても良いのではないかと思い始めています。この「AI支配の危機」と「平和の危機」の二枚看板で「永遠」への覚醒の重要性を訴えれば、より強くアピールできるのではないか、いまそんなことを考え始めています。

AIに支配されないための3つのステップ
 それでは、ここからは「AI(人工知能)に支配されないための3つのステップ」というテーマで、話を進めていきます。このことのために、次の三つのステップを提案したいと思います。

 ①時計に支配されていることへの気付き
 ②【過去→現在→未来】の時間観に支配されていることへの気付き
 ③「永遠」への覚醒

 三つ目の③「永遠」への覚醒は、今回出版した本に書いた「永遠」への覚醒とまったく同じです。ここが目的地になります。平和を実現するためにも、またAIに支配されないためにも、「永遠」への覚醒が必要です。
 その前の段階の②の「【過去→現在→未来】の時間観に支配されていることへの気付き」も、平和の実現の本に書いたことと概ね同じです。ただし①の流れを受けてのものですから、少し異なります。この①の「時計に支配されていることへの気付き」については、今回の本にはまったく書かなかったことです。
 では、まず①の「時計に支配されていることへの気付き」から説明していきます。これが「永遠」に覚醒してAIの支配から免れるための第一歩です。私たちがいかに時計に支配されているか、私たちはなかなか気付けないでいます。

時計に支配されている私たち
 いま私が住んでいるのは静岡県です。そんな私が旅行で山口県や九州に行って夕暮れ時に時計を見たなら、山口県や九州は随分と遅い時間に日が暮れるなと思うでしょう。実際、そう思ったことが何度もありましたし、私だけではなく、多くの方々は、そのように思うでしょう。逆に山口県や九州の人が静岡や東京に来て夕暮れ時に時計を見たなら、静岡や東京は随分と早い時間に日が暮れるのだなと思うことでしょう。しかし、このように「九州や山口は遅い時間に日が暮れる」とか「静岡や東京は早い時間に日が暮れる」などと思うとしたら、それは時計に支配されていることになります。
 私たちの時計は、明石市を通る子午線の時刻の日本標準時に合わせています。ですから九州に行って夕暮れ時に時計を見たなら、「そうか、九州では時計の針を進めているのだな」と私は思うべきでしょう。しかし、そうではなくて「九州は遅い時間に日が暮れるのだな」と思ってしまいますから、私は時計に支配されていることになります。時計の針を進めてあるから日が暮れる時刻が遅いのに、このことを忘れてしまっています。
 昔、日本標準時など無かった時代には、時刻は地域ごとに太陽の位置で決められていました。太陽が南に来ると正午になります。しかし、今の私たちの時計は日本標準時に合わせていますから、沼津では太陽が真南に来ても時計は12時にはなりません。沼津では太陽が真南を過ぎてから約15分後に昼の12時になります。ですから日が暮れる時間は明石市よりも15分早くなります。
 今の私たちの暮らしは、太陽の位置で時刻を知るのではなく時計によって時刻を知ります。それゆえ私たちは時計に支配されやすくなってしまっています。このことの何が危険かというと、太陽は神様が造ったものですが、時計は人が造ったものだからです。聖書信仰を持つ福音派のクリスチャンの私たちは、詩篇8篇の、

3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

に共感し、感動します。この詩を読むたびに天地を創造した神様の御業に思いを馳せ、神様がすべてを支配していることを感じて心の平安を得ます。そんな私たちでさえも、ついつい人が造った時計に支配されがちになってしまっています。
 であるとすれば神様を信じない人々は、もっと時計に支配されやすいと言えるでしょう。このように私たちのほとんどは、人が造った時計に支配されています。そういうわけでAIの技術が今より進歩すれば、やがて私たちはAIに支配されてしまうでしょう。ですから私たちがAIに支配されないようにするには、まず第一に私たちが時計に支配されやすい者であることを、よく自覚する必要があると思います。そして人が造った時計ではなく、神様の支配の下で私たちが生きていることを感じながら日々を過ごしたいと思います。

【過去→現在→未来】の時間観に支配されている私たち
 さてしかし、神様が造った太陽を意識して、私たちが神様の支配の下にあることを感じているならAIの支配を免れることができるでしょうか?私はまだまだ危ないと感じます。それは私たちの多くが【過去→現在→未来】の時間観に支配されてしまっているからです。
 次に②の「【過去→現在→未来】の時間観に支配されていることへの気付き」に進みます。たとえ神様が造った太陽を意識していたとしても、夏と冬の繰り返し、昼と夜の繰り返しの中で歳月を過ごしていると、どうしても、「昨年 → 今年 → 来年」や「昨日 → 今日 → 明日」というような一本の線で表される時間の流れを意識するようになります。また、私たちの身の周りには、時間変化のグラフがあふれています。たとえば横軸が日付で縦軸が気温のグラフです。このグラフから日々の移り変わりの中で気温が変化していく様子を知ります。その他にも横軸が時間で縦軸が交通事故の数、自殺者の数、内閣支持率、株価、円相場などのグラフを毎日たくさん目にします。そうして時間が横軸に沿って【過去→現在→未来】と流れていく単純な時間観を知らず知らずのうちに身に着けます。
 このような時間観は、目に見えるものによって与えられる時間観です。太陽の動きという目に見える動き、季節の移り変わりという目に見える動き、或いはまた年ごとに成長して行く子供や老いていく老人など、目に見える変化によって意識付けられる時間観です。私たちがいかに強烈にこのような時間観に支配されているか、このことを私はヨハネの福音書に重層構造があることを知って以来、痛感しています。

ヨハネの福音書の重層構造
 下図は、ヨハネの福音書のイエスの東西南北の動きと旧約聖書の舞台の移動とが同期していることを示した図です。



 私はこの図を5年前に描いてFacebookやブログに載せました。ヨハネの福音書がこのような構造を持つことが過去に気付かれた形跡はありませんでしたから、この発見を多くの方々と分かち合って、なぜヨハネがこのような構造の福音書を書いたのかを議論できたら良いなと思いました。しかし当時は残念ながら無視されました。5年前の私は牧師になってまだ2ヶ月が経ったばかりのほんの駆け出しでしたから、そんな者が何を言ってるんだか、というところでしょうか。でも、それだけではなさそうです。
 それで私は、こんなに面白いヨハネの福音書の構造のことを、なぜ多くの人々と分かち合うことができないのかの考察を始めました。そうしてたどり着いた結論が、皆が【過去→現在→未来】という一本の線で表せる時間観に支配されているからではないか、ということです。それで上図のような重層的な時間を見せられてもスルーしかできないのではないかと考えました。そうして私はさらに考察を進めて、今回の本の出版に至りました。今回出版した「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」の中で私は、このようなヨハネの福音書の重層構造を理解することで「霊的な恵み」が豊かに得られることを書いています。

「永遠」に目覚めて霊的な恵みを得る
 この「霊的な恵み」を得ることは「AIの支配」を免れる上で極めて大切でしょう。なぜなら「霊的な恵み」とは神様と霊的に交わる恵みだからです。神様と霊的に交わる恵みは【過去→現在→未来】の時間観に支配されている間は、あまり得ることができません。ましてAIに支配されてしまったら、まったく得ることができないでしょう。AIは神様の霊と交わることはできませんから、もし人類がAIに支配されてしまったら人類が神様から完全に離れてしまうという計り知れないダメージを被ることになります。
 ですから私たちは神様と霊的な交わりを、もっと豊かに持つことができるようにならなければなりません。それが③の「永遠」に覚醒するということです。そうすれば、私たちはAIの支配を免れることができるでしょう。この③の「永遠」への覚醒については、今回出版した本に書きましたから、ぜひ本を読んでいただけたらと思います。

おわりに
 私たちは「永遠」に目覚めなければなりません。このことは、平和を実現するためにも、AIに支配されないためにも、どうしても必要なことです。このことを多くの方々に、お伝えしていきたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

【詩篇8篇】
3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
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6月25日礼拝プログラム

2017-06-22 11:01:31 | 礼拝プログラム
人生を豊かにする聖書を伝える教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月25日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第4聖日 礼拝順序

 司  会               中原兄
 奏  楽               荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  イエスはわがすべて      36
 交  読  詩篇139篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主を待ち望む者は(2回)   210
 讃 美 ③  主と主のことばに      391
 聖  書  使徒14:8~18
 説  教  『日本宣教へのヒント』   小島牧師
 讃 美 ④  私を祝して         463
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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ガラテヤでの宣教(2017.6.18 礼拝)

2017-06-19 15:33:46 | 礼拝メッセージ
2017年6月18日礼拝メッセージ
『ガラテヤでの宣教』
【使徒14:1~7】

はじめに
 『使徒の働き』の学びを続けます。きょうから14章に入ります。前回と前々回に学んだ13章の後半では、パウロたちはピシデヤのアンテオケにいました。ところが、そのアンテオケでパウロとバルナバは迫害に遭いました。13章50節には次のように書いてあります。

13:50 ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。

 それで二人はイコニオムへ行ったと51節にあります。そして52節に、

13:52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

とあります。この弟子たちというのはピシデヤのアンテオケで新たに加えられた弟子たちのことですね。弟子たちは聖霊に満たされていました。このようにパウロとバルナバの第一次伝道旅行は迫害などの苦難もありましたが、大変に祝されたものでもありました。

ガラテヤでの宣教
 そして14章に入ります。14章1節、

14:1 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。

 イコニオムでも、二人はユダヤ人の会堂に入りました。新しい町に入ると二人はまずユダヤ人の会堂に入りました。これが彼らの伝道のスタイルでした。そして、ユダヤ人もギリシヤ人も大勢の人々が信仰に入りました。しかし2節、

14:2 しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。

 パウロたちは、このイコニオムにおいてもユダヤ人たちの妨害に遭いました。それでも、3節、

14:3 それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。

 このイコニオムの町には長らく滞在したとあります。この長らくがどれくらいの期間かははっきりしませんが、パウロの活動の年表を見ると、せいぜい数ヶ月か長くても1年程度のようです。2年も3年もいたわけではありません。
 さて、この間に町の人々は4節にあるように二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者はパウロたちの側につきました。そして5節から7節、

14:5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、
14:6 ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
14:7 そこで福音の宣教を続けた。

 こうしてパウロのバルナバの二人はイコニオムを出て、ルステラとデルベへ行きました。ここで、後ろの地図を確認したいと思います。
 きょうの14章に出てきた地名のイコニオム、ルステラとデルベはいずれもガラテヤ地方にあることが地図で確認できます。
 そしてパウロの有名なガラテヤ人への手紙は、このガラテヤ地方の信徒たちに当てた手紙です。パウロとバルナバのこの第一次伝道旅行では、多くのガラテヤ人たちが信仰に入りました。しかし、パウロたちがこのガラテヤ地方を離れてから、短期間のうちにガラテヤ人たちの信仰が歪められていったことがパウロの耳に入りました。そのことにパウロが大変な危機感をもって書いた手紙がガラテヤ人への手紙です。

ガラテヤ人への手紙
 きょうの残りの時間は、このガラテヤ人への手紙をご一緒に見ることにしたいと思います。パウロの伝道旅行は、『使徒の働き』だけを読んでもそれなりに分かりますが、パウロの手紙も併せて読むことで、より一層深く理解できます。『使徒の働き』はルカが書き、パウロの手紙はパウロが書きました。ルカの記述は客観的でパウロの記述は主観的であると言えるでしょう。この両方の記事を併せて読むことで、私たちは当時の様子をかなり良く知ることができます。
 では、ガラテヤ人への手紙の1章(新約聖書p.363)を見ましょう。1節から5節までは穏やかな挨拶文ですが、6節に入って急に激しい調子に変わります。この変化の激しさを味わうために、1節から読むことにします。1節から6節までを交代で読みましょう。

1:1 使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──
1:2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。
1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。

 このように、5節までの穏やかな調子が6節では一転して激しい調子になります。先ほど使徒の働きの14章で見たように、ガラテヤ地方でも多くの人々が信仰に入りました。しかし、パウロとバルナバがガラテヤ地方を離れてから間もなく、ガラテヤ人たちはほかの福音に移っていってしまいました。続いて7節をお読みします。

1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

 ここでパウロが書いた「あなたがたをかき乱す者たち」というのは、いわゆる「割礼派」と呼ばれるユダヤ人たちです。この割礼派のユダヤ人たちもまたイエス・キリストを信じるクリスチャンですが、イエス・キリストを信じるだけでは救われず、律法を守って割礼を受けなければ救われないと主張していました。ユダヤ人は生まれてから八日目に割礼すべきことが律法(レビ記12:3)に書いてありますから男子なら皆、割礼を受けていますが、異邦人は律法を守る習慣がありませんから割礼を受けていません。そこで異邦人がイエス・キリストを信じた場合には割礼も受けなければならないと割礼派のユダヤ人たちは主張しました。
 しかしパウロは、それは福音に反することだ、イエス・キリストを信じる信仰のみで人は救われるのだと確信していました。それで8節、

1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

 そのような福音に反することを宣べ伝える割礼派の者は「のろわれるべき」だとパウロは強い調子で批判しました。そして9節で、もう一度同じことを繰り返して書きます。9節、

1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

 「その者はのろわれるべきです」を二度も繰り返すところに、パウロの激しい怒りがよく表れていると思います。

天動説と地動説ほどの大きな違い
 ただし、割礼派のユダヤ人たちの立場になって考えてみると、彼らにとってはこれが当たり前のことだと言えるでしょう。ユダヤ人たちは、モーセの律法を守るのが当たり前という環境で生まれ育ちました。神との正しい関係を築くには、何はさておきモーセの律法を守るべきという考え方が骨の髄まで沁み込んでいました。ですから、割礼派の人々にとっては、モーセの律法を守らなくても人が救われるなどというパウロの主張は天動説と地動説ぐらいに大きな違いで受け入れられないのは当然であっただろうと思います。
 割礼派の人々は天動説の支持者のような者です。生まれて物心が付いた時から太陽が動いている様子を毎日見て育っていますから、天のほうが動いているのが当たり前です。大地のほうが動いて太陽の周りを回っているなどまったく荒唐無稽な話で信じられるわけがありません。
 パウロはその地動説のようなことを主張していました。それゆえユダヤ人たちから迫害されていました。ガリレオ・ガリレイなど地動説を主張した者たちは教会から迫害を受けましたから、とてもよく似ていると思います。
 パウロが、異邦人は割礼を受けなくてもイエス・キリストを信じる信仰だけで救われると確信していたのは、ペテロが見たのと同じように、イエスを信じた異邦人たちに聖霊が降る様子を見たからでしょう。パウロは聖霊に満たされていましたから、聖霊の働きがよくわかりました。割礼を受けても聖霊が注がれることはありませんが、イエス・キリストを信じれば聖霊が注がれます。ですから、この二つには明確な違いがあります。

御霊に頻繁に言及するパウロ
 パウロは聖霊の働きがいかに重要かがよくわかっていましたから、ほとんどの手紙で聖霊(御霊)に言及しています。ガラテヤ人への手紙にも御霊についての記述がたくさんあります。いくつかピックアップします。

4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 そして最後に、御霊ということばは使われていませんが、6章15節をお読みします。

6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

 これまでの慣習に囚われて縛られていると大事なことがわからなくなります。大事なのは新しい創造です。御霊はそのことを気付かせて下さいます。

霊的なイエスをも描く『ヨハネの福音書』
 今月出版した本の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」の帯に私は、「戦災の廃墟の前で涙を流すイエス」という文を用いました。ヨハネの福音書11章のラザロの死を悲しむ場面ではエルサレムの滅亡を悲しむイエスさまの姿が霊的に見えて来ます。これも従来のヨハネの福音書の読み方からしたら天動説と地動説ほどの違いがあると言えるかもしれません。これまで誰もがヨハネの福音書に描かれているのは人間としてのイエスさまだけだと思っていました。しかし実は預言者たちはクリスチャンの内に住む霊的なイエスさまの姿もヨハネの福音書では描かれています。
 天動説に慣れ親しんだ人たちには、このヨハネの福音書の地動説は簡単には受け入れられないようです。ですから、急に状況が変わることはないかもしれません。それでも、少しずつでも変わっていってほしいと願っています。そうすれば、いずれは世の中が大きく変わって行き、平和な世界へと近づいていくことでしょう。その過程においてキリスト教を取り巻く厳しい状況も自ずと改善されていきます。
 パウロは困難な目に遭いながらも、力強く宣教の働きを進めて行きました。ですから私たちも困難にめげずに力強く進んで行きたいと思います。この働きは皆さんのご協力がなければ、とうてい為し得ませんから、ご一緒に進んで行きたいと思います。

おわりに
 再確認しておきますが、私たちが取り組んでいることは、天動説から地動説への変わり目に匹敵する大きな働きです。今は悪い時代の中にありますが、この働きが進むことでよい時代へと大きく変わって行きます。この大きな働きは私たちが御霊によって一つになることで初めて成し遂げることができることです。
 ですから、私たちは御霊の一致を保って進んで行きましょう。
 お祈りいたしましょう。
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6月18日礼拝プログラム

2017-06-15 11:30:44 | 礼拝プログラム
人生を豊かにする聖書を伝える教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月18日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第3聖日 礼拝順序

 司  会               小島牧師
 奏  楽               荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  丘に立てる荒削りの     118
 交  読  詩篇138篇
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  いのちのみことば      180
 讃 美 ③  恵みにあふれる祈りのひと時 373
 聖  書  使徒14:1~7
 説  教  『ガラテヤでの宣教』 小島牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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律法の恵みと聖霊の恵みの重なりを表すニコデモ(2017.6.14 祈り会)

2017-06-15 09:34:45 | 祈り会メッセージ
2017年6月14日祈り会メッセージ
『律法の恵みと聖霊の恵みの重なりを表すニコデモ』
【ヨハネ1:16~17、3:1~10、7:37~52、19:31~42】
 
はじめに
 先週と先々週は、ヨハネの福音書の1章と2章を開いて、「旧約の時代」の恵みと「新約の時代」の恵みとがイエス・キリストにあって重なっていることを、ご一緒に見ました。この「旧約の時代」の恵みとは出エジプトによる救いと律法の授与の恵みであり、「新約時代」の恵みとは十字架による救いと聖霊の授与の恵みです。このように「旧約の時代」の恵みと「新約の時代」の恵みとが重なっていることを、ヨハネは恵みの上にさらに恵みを受けたという言い方をしています。ヨハネ1章の16節と17節です。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 イエス・キリストは「旧約の時代」の初めからおられて、まずモーセを通して律法の恵みを人々に与え、そしてその律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みをお与えになりました。律法の恵みに代わって聖霊の恵みを与えたというのでなく、律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みが増し加わりました。このことは、先週と先々週みたようにヨハネの福音書では「旧約の時代」と「使徒の時代」とが重ねられていることからわかります。

律法の恵みと聖霊の恵みの重なりを表すニコデモ

 そして、きょうはニコデモの箇所をご一緒に開くことにします。このことによって、さらに聖霊の恵みが律法の恵みに取って代わったのではなく、二つの恵みは重なっているのだということを感じていただけるものと思います。
 きょうは私の解説は短めにして、ヨハネの福音書の記述をじっくりと味わうことにしたいので、やや長めに引用します。
 まず、ヨハネの福音書3章の1節から10節までを交代で読みましょう。

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

 先週と先々週のヨハネ1章と2章の学びの延長としてこの3章を見るなら、この律法の専門家のニコデモの登場は、「旧約の時代」においてはシナイ山での律法の授与の出来事に当たります。ヨハネ1章は創世記の出来事、ヨハネ2章では出エジプトの出来事が重ねられていましたから、このニコデモの箇所は律法の授与の出来事です。少し後の3章14節では民数記に記されているモーセが荒野で蛇を上げてことが記されていますから、そのことからも、このニコデモの箇所では律法の授与の出来事が重ねられていると確認できます。そして「使徒の時代」においてはヨハネ1章は弟子たちが復活したイエス・キリストと出会ったこと、ヨハネ2章ではペンテコステの日の出来事と重ねられていることを学びましたから、このヨハネ3章は聖霊の授与によって弟子たちが加えられて教会が成長していったことと重ねられていると見ることができます。
 ここでイエスさまはニコデモに聖霊の恵みについて説明します。そして、よく理解できていないニコデモに対して、10節のように言いました。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」

これはつまり、律法の恵みをしっかりとわかっている者であれば聖霊の恵みもわかるべきことだということです。律法には神様の愛がたっぷりと詰まっています。そして聖霊は神様の愛そのものだとも言えます。律法の恵みと聖霊の恵みは共に神様の愛の現れであって決して対立するものではありません。

律法に基いてイエスを擁護したニコデモ
 ニコデモはこの3章の時点では聖霊の恵みをほとんどわかっていませんでしたが、7章においては、少しだけ理解できるようになっていました。今度は7章をご一緒に見ましょう。少し長いですが、37節から52節までを交代で読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」と言い、
7:41 またある者は、「この方はキリストだ」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
7:44 その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」

7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

 このようにニコデモは律法を重んじた上で、聖霊について語ったイエスさまを擁護しています。このようにニコデモは3章の時に比べれば聖霊の恵みについて少しだけ理解できるようになったようです。そして、このニコデモについての記述からもヨハネの福音書が律法の恵みと聖霊の恵みとを重ねていることが見て取れます。

旧約聖書が土台になっている十字架の場面
 そうしてニコデモが三度目に登場するのはイエスさまが十字架で死なれた後の場面です。ここも少し長いですが、19章の31節から42節までを交代で読みましょう。

19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。
19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
19:41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。

 36節に

19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。

とありますし、今はご一緒に読みませんでしたが、同じ19章の24節と28節でも「聖書が成就するため」とありますから、十字架の場面は旧約聖書が土台となって重なっていることがわかります。
 そしてアリマタヤのヨセフとニコデモはユダヤ人の習慣に従ってイエスさまを埋葬しました。ですからヨハネの福音書は「旧約の時代」の恵みを少しも否定することなく、「新約の時代」の恵みを重ねていることがわかります。

恵みの上にさらに重ねられる恵み
 もし時間を川の流れのようにイメージして、聖書の時代が「旧約聖書の時代」から「新約聖書の時代」に移り変わって行ったというように捉えるなら、「旧約の時代」の律法のことを悪く捉えてしまうかもしれません。しかし、そのような捉え方では神様の愛をたっぷりと感じることは難しいでしょう。一方、神様の愛は「旧約の時代」の恵みの上にさらに「新約の恵み」が重ねられる方向に分厚く存在するとイメージするなら、神様の豊かな愛を感じることができます。そうして、この神様の豊かな愛の中に心を委ねるなら、素晴らしい心の平安を得ることができます。
 この神様の豊かな愛を、私たちは存分に味わい、そして地域の方々にお伝えして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
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異邦人のほうへ向かったパウロ(2017.6.11 礼拝)

2017-06-15 03:50:29 | 礼拝メッセージ
2017年6月11日礼拝メッセージ
『異邦人のほうへ向かったパウロ』
【使徒13:44~52】

はじめに
 先週はペンテコステ礼拝がありましたから、パウロの伝道旅行の学びをお休みにしましたが、きょうからまた戻ることにします。
 きょうの聖書朗読の箇所は、44節からとしましたが、ここは前回の箇所から間を少しスキップしています。それで、まず44節より前を見ておくことにしましょう。

旧約聖書を土台にしたパウロの説教
 13章の1節の時点では、パウロとバルナバはまだアンテオケの教会にいました。この時は、パウロの名前もまだサウロでした。2節にあるように、彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われたので、アンテオケ教会の人々は二人を送り出しました。ここからパウロの第一次伝道旅行が始まりました。
 後ろの地図で確認しておくと、彼らはセルキヤから船でキプロス島に渡り、島全体を巡回して神のことばを宣べ伝えた後で、パポスから船出してベルガに渡りました。そして、ピシデヤのアンテオケに行って、安息日に会堂に入って席に着きました。14節と15節をお読みします。

13:14 しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。
13:15 律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」

 このように会堂の管理者たちから話し掛けられて奨励のことばを語ることを勧められたパウロとバルナバは、きっと、普通の旅人とは違う、神様に用いられている器の独特のオーラを放っていたのだろうなと思います。彼らは聖霊に満たされていましたから、気力も充実していて、会堂の管理者たちがこのように言わずにはいられないほどの霊的な雰囲気を持っていたのだろうなと思います。
 続いて16節と17節、

13:16 そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。

 こうしてパウロは、旧約聖書に書かれている事柄を語り始めました。前回のメッセージで私は、使徒たちの説教は、皆、旧約聖書を土台にした説教であったことを話しました。ペテロもステパノも、旧約聖書を引用しながら人々に語りました。
 それはキリストがこの世に来ることが旧約聖書で約束されていたからです。ですから、このピシデヤのアンテオケの会堂においてもパウロはそのように語りました。少し飛ばして23節、

13:23 神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。

 そうしてパウロはイエス・キリストについて語り始めました。

大成功だったパウロの説教
 この説教の詳しいことについては難しい部分もありますから、省略しますが、この説教は大成功でした。42節と43節、

13:42 ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。
13:43 会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。

 42節に「人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ」とありますから、このパウロの説教は本当に人々の心に響いたのですね。そして人々は、このパウロの説教を聞き逃した人にも次の安息日に聞いてもらいたいと思って、周囲の人々に話して会堂に誘ったのでしょう。44節、

13:44 次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。

 このピシデヤのアンテオケの町の人口がどれぐらいかはわかりませんが、「ほとんど町中の人が」とありますから、かなり多くの人々が会堂に集まって来たようです。しかし、45節と46節、

13:45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。
13:46 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。

異邦人のほうへ向かったパウロ
 ここでパウロは、自分たちが異邦人のほうへ向かうと明確に宣言しました。それは、旧約聖書の預言に基づくものでした。47節、

13:47 なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

 下の脚注の47節の所を見ると、このみことばはイザヤ書49章6節の引用であることがわかります。このイザヤ書49章は、ご一緒に確認したいと思います(旧約聖書p.1207)。

49:6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

 主はイザヤを通して、救いがユダヤ人だけでなく地の果てにいる人々にまで救いをもたらすと仰せられました。アジアの一番東の端っこに住んでいる日本人の私たちなどは、まさに地の果てに住んでいる者たちです。皆さんは世界標準の世界地図をご覧になったことがあるでしょうか(週報p.3)。世界地図というと私たち日本人は日本を中心にした世界地図に慣れ親しんでいますが、欧米では週報にあるようなヨーロッパが中心にある世界地図が使われています。この地図では日本はヨーロッパから見ると遥か東の彼方にあります。ですから、日本がある地域は極東と呼ばれ、英語ではFar East(遠い東)と呼ばれています。神様はこのような極東の地域に住む私たちをも救って下さるとイザヤ書49章で言っておられます。

すべての者を救いたい神
 そして、このことが預言されているのは49章においてだけではありません。他にもイザヤ書のいくつもの箇所で、預言されています。たとえば52章です。52章の7節から10節までを、交代で読みましょう。

52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。
52:8 聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、【主】がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。
52:9 エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。
52:10 【主】はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。

 10節に、「【主】はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」とあります。このように、地の果て果てに住む者もみな、救いの恵みに与ることができます。

 前にも話したことがあるかもしれませんが、イザヤ書52章7節は、私の召命のみことば(神様から召し出された時にいただいたみことば)です。

52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。

 このみことばの中でも特に、「平和を告げ知らせ」という部分が、私に与えられた使命です。12年前から10年前に掛けての3年間(2005年から2007年までの3年間)、私は何度も広島の平和公園に行きました。そして平和公園に行くと必ず、「私を平和のために用いてください」と祈りました。そうしたところ、色々なことがあって2008年に私は前の職場を退職してBTCで聖書の学びを始めることになりました。
 そうして2007年から10年が経った今年、平和の働きのための本を出版することができました。昨日からようやく書店の店頭でも販売されるようになりましたが、10日ほど前に私の所に印刷所からこの本がたくさん送られて来た時、私はこれまでお世話になった方々などにこの本を郵便で送りました。半分ぐらいはクリスチャンではない方々です。そうして、先週、本を受け取ったという便りがいくつか届きました。そして、クリスチャン以外の方々も本を読んで下さっていることがわかって、とてもうれしく思いました。平和の問題に関しては誰でも関心がありますから、読んで下さっているのだと思います。
 次の本も出せるようにしたいと思いますが、まずは今回の本が多くの方々に読まれることを願っていますから、皆さんもお知り合いで読んでいただきたい方がいらしたら、どうぞおっしゃって下さい。

おわりに
 主は地のユダヤ人も異邦人も、地の果てに住む者たちまでも、すべての人々を救いたいと願っておられますから、私たちもそのために働きたいと思います。使徒の働き13章に戻ります。48節と49節を交代で読みましょう。

13:48 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。
13:49 こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。

 こうしてパウロの第一次伝道旅行で多くの異邦人たちが信仰に入りました。
 私たちも、この沼津の地域の人々がみな信仰に入ることができるよう、イエスさまの福音を宣べ伝えて行きたいと思います。一人でも多くの方が、私たちの教会を訪れて、そして仲間に加わっていきますように願い、お祈りいたしましょう。
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旧約と新約の重なりから感じる神の豊かな愛(2017.6.7 祈り会)

2017-06-09 11:05:20 | 祈り会メッセージ
2017年6月7日祈り会メッセージ
『旧約と新約の重なりから感じる神の豊かな愛』

【ヨハネ1:19、29、35、43】
はじめに
 先週の祈り会では、ペンテコステ礼拝の直前の学びとして、ヨハネ1章と2章に重ねられている「使徒の時代」について、ご一緒に学びました。
 今週は、先週の学びの記憶が鮮明に残っている間に、同じヨハネ1章と2章に重ねられている「旧約の時代」について、ご一緒に学びたいと思います。
 同じ箇所に「使徒の時代」だけでなく「旧約の時代」まで重ねられているヨハネの福音書が書かれたことは、このこと自体が神の奇跡の現れであると言えると思います。人間業では、このような書を書くことは絶対に無理なことです。まさにヨハネが神の霊感を受けて、書いた福音書であると言えるでしょう。そして私たちは、このヨハネの福音書の「イエスさまの時代」と「使徒の時代」と「旧約の時代」の重なりの中に入れていただくことで御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただき、神様の豊かな愛に包まれることで魂の平安を得ることができます。この平安は、世が与えるのとは違う、イエスさまが与えて下さる平安です。
 きょうは、この神様の豊かな愛を感じながらヨハネ1章と2章の学びができれば感謝に思います。

アブラムに近づいた神
 ではヨハネ1章から見て行きましょう。先週見たように、ヨハネ1章には「その翌日」という言葉が3回使われています(29、35、43節)。そして「使徒の時代」の場合は、「その翌日」が10日間の区切りであって、イエス・キリストの復活からペンテコステの日までの50日間を表していることを説明しました。
 一方、「旧約の時代」においてはヨハネ1章は創世記の時代と重ねられていて、三つの「その翌日」によってアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代へと切り替わって進んで行きます。
 まず19節に「ヨハネの証言は、こうである」とあります。このヨハネは、「旧約の時代」にあってはアブラハムです。より正確にはアブラハムとなる前のアブラムです。このアブラムがどこにいたかと言うと、28節に「ヨルダンの向こう岸」と書いてありますから、ヨルダン川の東側の地域であり、すなわちアブラムが父のテラと共にいたユーフラテス川の流域のウルの地であり、そしてウルを出て途中で宿営したハランの地です。この時はまだアブラムの時代にはなっておらず、父テラの時代であったと言えます。
 そして29節の「その翌日」で、父テラの時代からアブラムの時代に移ります。29節では、イエスさまがヨハネのほうに近づいて行きました。これはつまり、神がアブラムに近づいたことを示します。そして、神はアブラムに、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)と仰せられました。創世記12章ですね。この神の言葉を受けてアブラムはハランの地を出発してカナンの地に入りました。

神に近づいたヤコブ
 そして、ヨハネ1章35節の「その翌日」でアブラムの時代からイサクの時代に切り替わり、43節の「その翌日」でイサクの時代からヤコブの時代に切り替わります。この43節以降ではナタナエルが登場しますが、このナタナエルはヤコブです。ナタナエルは47節でイエスさまのほうに近づいて行きました。これはヤコブが神の祝福を求めて、神のほうに近づいて行ったことを示します。
 創世記のこの箇所は、ご一緒に確認しておきたく思います。創世記32章の24節から28節までを交代で読みましょう。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

 27節で「あなたの名は何というのか」と尋ねられたヤコブは、「ヤコブです」と偽らずに答えました。かつてヤコブは父イサクに対して自分を偽り、「エサウです」と言いました。しかし、神と格闘した時のヤコブは自分を偽らずに「ヤコブです」と答えました。すると神はヤコブに「イスラエル」という新しい名前を与えました。
 ヨハネ1章に戻りましょう。47節をお読みします。

1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

 ここには今説明した創世記32章の、ヤコブが神の祝福を求めて神に近づき、そして自分を偽らずに「ヤコブです」と答えたらイスラエルという新しい名前が与えられたことが重ねられていることを感じることができると思います。
 このように神であるイエスさまは、「旧約の時代」にも「使徒の時代」にも同時にいます。この神の「永遠」の時間を感じて、御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただきたいと思います。

(賛美歌を挟む)

【ヨハネ2:1~11、23】
出エジプト記の神の十の災い
 続いて、ヨハネ2章を見て行きましょう。
 1章の終わりはヤコブの時代でした。そして2章1節の「それから三日目に」で、2つの時代がスキップされます。それはヤコブの息子のヨセフの時代、そしてヨセフが死んで以降の時代です。このヨセフが死んで以降の時代にイスラエル人たちがおびただしく増えました。これら二つの時代をスキップして、ヨハネ2章の深層部にある「旧約の時代」は、出エジプト記のモーセの時代へと入ります。
 4節でイエスさまは母に「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言いました。これは、モーセがエジプトの王女の息子として育てられたことと重ねられていると考えて良いと思います。
 そして、イエスさまが水をぶどう酒に変えた奇跡は、神がエジプトに与えた十の災いの最初の災いである、ナイル川の水を血に変えた災いです。カナの婚礼の奇跡が災いと重なっていると解釈することに違和感を覚える方もおられると思います。私も若干の違和感を覚えます。しかし、これが最初の災いと重ねられていることは間違いないと思います。と言うのは、13節には過越の祭りのことが書かれていますから、これは十番目の災いの初子の死と重ねられていますし、12節に「長い日数ではなかった」とあるのは、2番目から9番目までの災いが長い日数ではない期間のうちに行われたことが重ねられていると読み取ることができるからです。そして、ページをめくっていただいて、23節を見ると、

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

とあります。このヨハネ2章23節の「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた」に相当する出エジプト記の箇所をご一緒に読みたいと思います。出エジプト記14章の31節です(旧約聖書p.121)。

14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。

 そうして出エジプト記では、この後、主はモーセを通じてイスラエルの民に律法を授けました。このことをヨハネの福音書は3章で律法の専門家のニコデモを登場させて表しています。イエスさまはこのニコデモに対して聖霊によって新しく生まれることの恵みを説きます。

旧約と新約の重なりから感じる神の豊かな愛
 この3章については、来週以降にまた改めて話したいと思いますが、大切なことは、「旧約の時代」の恵みである律法の恵みと、「新約の時代」の恵みである聖霊の恵みとが重ねられていることです。この重なりから、私たちは神の分厚くて豊かな愛を感じることができます。このヨハネ3章の手前のヨハネ2章では、きょうご一緒に学んだように、出エジプトの恵みとペンテコステの日の恵みとが重ねられています。ここからも神様の豊かな愛が感じられます。そしてヨハネ1章では神がアブラムに近づいてカナンの地に向かうように言いました。ここからイスラエルの救いの歴史が始まりました。このヨハネ1章はまた、「新約の時代」を生きる私たちがイエスさまと出会い、信仰生活を歩み始めることとも重ねられています。
 今も生きていて私たちと共にいて下さるイエスさまは、アブラハムの時代やモーセの時代にもいて、アブラハムとモーセとも共にいます。アブラハムの時代やモーセの時代は人間の時間感覚では過ぎ去った昔の時代ですが、永遠の中におられるイエスさまにとっては昔のことではありません。ですから私たちも御父および御子イエス・キリストとの交わりに入れていただくなら、この「永遠」の恵みに与ることができます。これが永遠のいのちを得るとういことでしょう。このことを理解すると私たちは心の深い平安を得ることができます。

おわりに
 この素晴らしい恵みが与えられていることに感謝して、この恵みを地域の方々にも是非ともお伝えして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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6月11日礼拝プログラム

2017-06-08 11:08:31 | 礼拝プログラム
人生を豊かにする聖書を伝える教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月11日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第2聖日 礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                関 姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉(2回)   253
 交  読  詩篇136篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  私をゆるすために      314
 讃 美 ③  たとえば私が        395
 聖  書  使徒13:44~52
 説  教  『異邦人のほうへ向かったパウロ』 小島牧師
 讃 美 ④  とうとき主こそ私の     392
 献  金
 感謝祈祷                由紀姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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イエスが去り、助け主が来た恵み(2017.6.4 ペンテコステ礼拝)

2017-06-05 22:56:53 | 礼拝メッセージ
2017年6月4日ペンテコステ礼拝メッセージ
『イエスが去り、助け主が来た恵み』
【ヨハネ14:25~28、16:7】

はじめに
 きょうはペンテコステ礼拝ですから、『使徒の働き』のパウロの伝道旅行の学びは一旦お休みにします。とは言え、皆さんもご承知の通り、ペンテコステの日の出来事は『使徒の働き』2章に書かれている事柄ですから、『使徒の働き』からまったく離れるわけにはいきません。やはりペンテコステの日には使徒2章をご一緒に読んで、この日に何があったかを再確認しておきたいと思います。

誰にでも注がれるようになった聖霊
 そういうわけで、まず使徒2章を開いて下さい(新約聖書p.228)。1節から6節までを交代で読みましょう。

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

 これが「新約の時代」における記念すべきペンテコステの日の聖霊の注ぎの出来事です。「旧約の時代」においては、預言者のような、ごく限られた者たちだけにしか聖霊が注がれませんでした。しかし、「新約の時代」になってからは、イエス・キリストを信じる者には誰にでも聖霊が注がれるようになりました。この、誰にでも聖霊が注がれるようになることは、ヨエルが預言したことでした。
 きょうの聖書交読で開いたヨエル2章の一部を、もう一度見ておきましょう(旧約聖書p.1495)。27節から29節までを交代で読みます。

2:27 あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、【主】であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。
2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

 預言者のヨエルを通して主は、28節で「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。と仰せられました。29節には「しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とありますから、男女も問いません。これは現代にも残っていることですが、暗黙のうちに女性が除外されていることはよくあることです。すべての人が対象と言っても、それは男性だけが対象ということは昔はよくあったことですし、今でもまだそういう雰囲気は残っています。しかし、主は紀元前の旧約の時代に「しもべにも、はしためにも」と仰せられて、本当にすべての人に聖霊を注ぐと仰せられました。これは素晴らしい預言ですね。
 ただし、聖霊が注がれる資格のある人々は、27節の「イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、【主】であり、ほかにはないことを知る」人々です。イエス・キリストを信じることと、このこととは同じことと言えますから、イエス・キリストを信じる者には誰にでも聖霊が注がれます。しかし、信じない者には注がれません。

ユダヤ人たちも受けた聖霊
 そうして、この日、ガリラヤ人たちの弟子たちだけでなくユダヤ人たちにも聖霊が注がれました。このことの経緯も簡単に見ておきましょう。使徒2章に戻ります。
 使徒2章の5節と6節に、

2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

とあります。ガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれた現場に、大勢の人々が集まって来ました。そして、口々に色々なことを言っていたので、ペテロがそれらの人々に向かって語り始めました。14節です。

2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

 そして、ペテロはヨエル書2章の預言を引用しました。16節から18節まで、

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 そして、この説教の最後でペテロは言いました。

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 すると37節、

2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

そこでペテロは言いました。38節です。

2:38 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 そして41節、

2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

 こうしてガリラヤ人の弟子たちに加えてエルサレムのユダヤ人たちも聖霊を受けて弟子に加えられました。
 『使徒の働き』の学びの中でいつも言っていることですが、これらのことを他人事として読むのでなく、私たちもまたイエス・キリストを信じれば聖霊が注がれるということを意識して読みたいと思います。21世紀の現代の私たちもイエス・キリストを信じれば聖霊を受けます。洗礼を受ければ聖霊を受けるのではなくて、イエス・キリストを信じれば聖霊を受けます。

21世紀の日本人にも注がれる聖霊
 さてそろそろ、ここできょうの聖書箇所のヨハネの福音書に移ろうと思います。まず後のほうの、ヨハネ16章7節をご一緒に読みましょう。この7節にある「助け主」というのは聖霊のことです。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 聖霊の恵みで何が一番大きな恵みかということを考える時、もしかしたら、このことが一番の恵みと言えるかもしれません。人間としてのイエスさまと直接会うことができたのは、本当に限られた人たちだけでした。2000年前のガリラヤ地方やユダヤ地方にいた人たちしか会うことができませんでした。また、せっかくその頃その辺りに住んでいたのに人間のイエスさまに会えなかった人もたくさんいました。その代表がパウロと言えるでしょう。パウロはイエスさまが十字架に掛かった頃には既に青年になっていました。そして、ガマリエルの門下で学んでいましたから、十字架の頃には故郷のタルソではなくてエルサレムにいたと思われます。ですから、人間のイエスさまに非常に近い所にいました。それにも関わらず、結局パウロはイエスさまと直接会って話をしたことはありませんでした。
 このように、パウロのようにイエスさまと同じ時代に同じ場所に住んでいた者たちでさえ、イエスさまに会うことができなかった人がたくさんいました。一方、聖霊は新約の時代のどの時代のどこに住んでいる人でも受けることができます。21世紀の日本に住む私たちも聖霊を受けることができます。これは本当に素晴らしい恵みです。しかし、この素晴らしい恵みはイエスさまが去ったことで初めて受けることができるようになった恵みです。この恵みをかみ締めながら、もう一度、16章7節をご一緒に読みましょう。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

すべてのことを教える聖霊
 そして、この聖霊を受けると私たちはすべてのことを教えていただくことができます。そして平安が得られます。14章の26節と27節を交代で読みましょう。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 この26節に書いてある、聖霊がすべてのことを教えるとはどういうことかは、ヨハネの福音書だけしか読まないなら、わかりにくいと思いますが、私たちは使徒の働きを学んでいますから、よくわかると思います。いま学んでいる使徒13章では、パウロたちは聖霊に任務を与えられて、第一次伝道旅行に出発しました。そして、間違った方向に進もうとした時には聖霊がそれを禁じました。そうしてパウロたちは聖霊に導かれて第二次伝道旅行ではヨーロッパの伝道へと向かいました。
 聖霊は、私たちの一人一人を導いて下さり、そしてまた教会も導いて下さっています。私たちはこの聖霊の導きによって隣の土地を購入するところまで来ました。そして礼拝堂を建てる一歩手前まで来ましたが、今は立ち止まっています。それは聖霊が禁じたからなのか、私たちは違う方向に進むべきなのか、いま見極めようとしています。
 しかし、どんな建物になるにせよ、隣の土地に何も建物が建たないで終わることはないでしょう。そして、どんな建物になるにせよ、中の礼拝堂に入って心を整えるなら、主の平安に満たされるような建物にしたいと思います。聖霊の恵みの中でイエスさまに心を合わせるなら私たちは27節にあるような心の平安を得ることができます。イエスさまが与えて下さる平安は、世が与えるのとは違います。

おわりに
 最後に27節をもう一度ご一緒に読んで、礼拝を終わりたいと思います。

14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 お祈りいたしましょう。
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ヨハネの意図を深く知る恵み(2017.5.31 祈り会)

2017-06-03 14:58:58 | 祈り会メッセージ
2017年5月31日祈り会メッセージ
『ヨハネの意図を深く知る恵み』

【ヨハネ1:19、29、35、43】
はじめに
 きょうは前半から、ヨハネの福音書の学びをします。きょうもヨハネの福音書の深層部についての話をします。次の聖日はペンテコステ礼拝ですから、ペンテコステに因んだ箇所を学ぶことにします。

御父および御子との交わりに入れていただく喜び
 きょうの前半のヨハネ1章の学びは、ややマニアックに感じるかもしれません。かなり細かいことですので、今回の著書には書きませんでしたが、1章にヨハネが隠した事柄がわかると、ヨハネの福音書をいっそう面白く感じることと思います。ヨハネの意図を感じることができるようになると、使徒ヨハネのことをいっそう身近に感じることができるようになります。それはつまり、ヨハネのたちの交わりに入れてもらうことができるということです。(お開きにならなくて結構ですが、)ヨハネは第一の手紙の1章3節で書きました。

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 このようにヨハネたちとの交わりを持つなら、御父および御子イエス・キリストとの交わりに入れていただくことができます。ヨハネが福音書の深層部に隠した事柄が見えるようになるとヨハネをいっそう身近に感じますから、それはつまり御父と御子との交わりに加えていただいたということであり、これは本当に大きな喜びです。
 このようにヨハネが深層部に隠した事柄を知ることの喜びを是非多くの皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。

ペンテコステ前の49日間が深層部にあるヨハネ1章
 では先ずヨハネ1章の深層部をマニアックに探求したいと思います。きょうは「旧約の時代」のことには一切触れません。これから話すことはすべて「使徒の時代」のことであることを、予めお断りしておきます。
 最初のヨハネ1章1節から18節まではプロローグですから、この部分は飛ばして、19節から見ます。このヨハネ1章19節から51節までは、イエス・キリストが復活してからの49日間のことが書かれています。そして2章の1節から11節までには、五十日目の五旬節の日、すなわちペンテコステの日のことが書かれています。
 49日間の最初の日はイエス・キリストが復活したイースターの日で、それはヨハネ1:29の「その翌日」と書かれた段落からです。この29節から次の「その翌日」がある35節の手前の34節までがイエスさまが復活してからの最初の10日間です。29節より前の19節から28節までの段落にはイエスさまは登場していませんから、この区間はイエスさまが復活する前の期間です。そして、29節でイエスさまが登場しますから、ここでイエスさまが復活しました。
 そうして先ほど述べたように29節から34節までが最初の10日間で、35節から42節までが次の10日間、そして43節の「その翌日」から51節までが次の10日間です。ここまでで30日が経過しました。そして、2章1節の「それから三日目に」の「それから」で次の10日間に入ります。すなわち30日目から39日目までです。そして、「三日目に」とありますから、もう10日間が間に挟まります。このようにして、29節から通算するとヨハネ2章1節は、イエスさまが復活してから50日目のペンテコステの日の出来事であるということになります。

深層部の「ヨハネ」は「使徒ヨハネ」
 このように1章19節から51節までに書かれていることは、「使徒の時代」にあってはイエスさまが十字架で死んでから復活して天に昇るまでの期間のことであって、十字架の前のイエスさまが宣教を始めた頃のことではありません。そういうわけですから、この区間に登場している「ヨハネ」とは「使徒のヨハネ」のことであって、「バプテスマのヨハネ」ではありません。
 それゆえ1章35節の「ヨハネ」も「使徒ヨハネ」であり、ヨハネがふたりの弟子を連れています。そして、そのうちの一人はアンデレであったと40節に書いてありますが、もう一人の弟子の名前は書いてありません。この名前の無いもう一人の弟子とは、この福音書の読者の私たちであると考えるべきでしょう。
 この福音書を読み始めた私たち読者は35節以降で使徒ヨハネによって復活したイエスさまとの出会いに導かれます。36節で使徒ヨハネは「見よ、神の小羊」と言って、私たちをイエスさまと引き合わせてくれます。そうしてイエスさまは私たちに38節で「あなたがたは何を求めているのですか」と問い掛けます。自分が何を求めているのか、そんなことを考えたことがない私たちはどう答えて良いかわからずに戸惑って、「先生、今どこにお泊りですか」などという頓珍漢な受け答えをしてしまいます。そんな私たちに向かってイエスさまは、「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃって下さり、聖書の奥深い世界へと私たちを招いて下さいます。
 ここにいる「ヨハネ」は「バプテスマのヨハネ」だけだと思い込んでいる間は、イエスさまが読者の私たちをも招いて下さっていることに、なかなか気づくことができないでしょう。
 ペンテコステの日を前にして私たちは、復活したイエスさまとの交わりをもっと深めることができるようになりたいと思います。(ここで賛美歌を挟む)

【ヨハネ2:1~11】
母との関係を解消していたイエス
 この2章1節から11節までには、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちが聖霊を受けた時のことが書かれています。それは、先ほど話したように、この2章1節からは1章からの流れを受けてイエスさまの復活から50日目であることからもわかりますし、このカナの婚礼にいた弟子たちがガリラヤ人であったことからもわかります。
 2章1節には、ここにイエスさまの母がいたことが書かれています。それは使徒1章14節を受けてのことでしょう。使徒1:14には、

1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

とありますから、ペテロやヨハネたちと共にイエスさまの母のマリヤも一緒になって祈っていました。そうして、ペンテコステの日には、母も含めた皆が一つ所に集まっていたと使徒2章の1節は書いています。
 ヨハネ2章に戻ると、ここでイエスさまは母に「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」とおっしゃいました。これが十字架に掛かる前のイエスさまの言葉だとしたら、随分と母に対して冷たい言葉だと感じます。しかし、このイエスさまの言葉が「使徒の時代」の言葉だとしたら、納得できます。なぜなら、母は最早イエスさまの母ではなくなっていたからです。ここは「使徒の時代」ですから、イエスさまが十字架に掛かった後のことです。イエスさまは十字架に掛かった時、母と愛する弟子に言いました。19章の26節と27節です。

19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 このように、イエスさまは母との親子の関係を解消していました。それゆえ、ヨハネ2章4節で、イエスさまが「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」とおっしゃったのは正しいことだったのですね。

ガリラヤ人たちに聖霊が注がれたペンテコステの日
 さて、このガリラヤのカナの婚礼で、イエスさまはきよめの水をぶどう酒に変えました。ぶどう酒はイエスさまの血と考えて良いでしょう。このぶどう酒を飲んだ宴会の世話役は、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と言いました。
 旧約の時代においては、いけにえの動物の血によって罪が贖われましたが、新約の時代においては、イエスさまの血によって罪が贖われました。旧約の時代の贖罪の日の儀式は毎年行われますが、イエスさまの十字架の贖いはただ一度だけの出来事です。ですからイエスさまの血は動物の血とは比べ物にならないぐらいに良いものです。そうしてイエスさまを信じたガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれました。11節でヨハネは、この出来事を「最初のしるし」と呼んでいます。イエス・キリストを信じれば誰にでも聖霊が注がれるようになったことは画期的なことでしたから、ヨハネはこれを「最初のしるし」と呼んで、特別な出来事として記しています。
 このようにヨハネの意図をよく理解できるようになると、御父と御子との交わりを深く感じることができるようになります。この恵みは本当に素晴らしい恵みですから、多くの方々と分かち合えるようになりたいと思います。
 ペンテコステを前にして、私たちが御父と御子との交わりにいっそう深く入れていただけますよう、お祈りしたいと思います。
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6月4日ペンテコステ礼拝プログラム

2017-06-02 08:47:45 | 礼拝プログラム
人生を豊かにする聖書を伝える教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

6月4日 ペンテコステ礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

6月 第1聖日 ペンテコステ礼拝順序

 司  会               小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  御霊は天より        173
 交  読  ヨエル2:21~32
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  御前につどい        251
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  ヨハネ14:25~28、16:7
 説  教  『イエスが去り、助け主が来た恵み』 小島牧師
 讃 美 ④  聖霊よ 主のそばに     171
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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新刊案内

2017-05-28 17:57:22 | 牧師のつぶやき
  『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』
  ~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~

  小島 聡・著、ヨベル新書 1,080円(税込み)



【目次】
はじめに  8

序章 「永遠」への招き 14
 魂を揺さぶる広島の平和公園
 『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』の時間
 深い平安を得ていないクリスチャン
 気付かれていない「イエスの涙」の深層部

第1章 『夕凪の街 桜の国』と
    『ヨハネの福音書』の紹介 31
 『夕凪の街』の紹介
 『桜の国(一)』の紹介
 『桜の国(二)』の紹介
 『ヨハネの福音書』の紹介

第2章 罪悪感と向き合った者たち 44
 「愛する者の死の現場」への回帰
 平野皆実の場合
 石川旭の場合
 石川七波の場合
 ペテロとヨハネと愛弟子の場合

第3章 過去を過去に閉じ込める罪 55
 原爆を落とした側の重大な罪
 これほどの悪を為し得るのはなぜか?
 私たちに語り掛ける過去と未来
 アルファでありオメガである方
 克服すべき【過去→現在→未来】の固定観念
 溶け合って一つになった「旧約の時代」と
  「新約の時代」―私の体験
  
第4章 『ヨハネの福音書』の「永遠」 77
 「永遠」への入口
 《人間イエス》と《霊的イエス》
 旧約の預言者の内にいる《霊的イエス》
 新約のクリスチャンの内にいる《霊的イエス》
 神の下では一つの『旧約聖書』と『新約聖書』
 
第5章 分裂を繰り返す者たち 97
 『旧約聖書』に見られる分裂
 『新約聖書』に見られる分裂
 分裂した者たちを一つにする十字架
 表層部と深層部との関係(旧約編)
 表層部と深層部との関係(新約編)

第6章 疲れ、憤り、涙するイエス 120
 ひどいなあ
 疲れているイエス
 離れて行った者たちを悲しむイエス
 戦争の惨禍に涙を流すイエス

第7章 暗闇の時代に必要な「永遠」への覚醒 131
 分裂がない「永遠」
 「永遠」の中にある十字架
 イエスの「愛弟子」は読者の私たち自身
 「世の光」が見える「永遠」

終章 平和の実現に必要な「永遠」への覚醒 139
 「永遠」は平和実現の最強の切り札

あとがき  145
参考図書  150
付表 『ヨハネの福音書』の重層構造 155

【カバー折り返し部の紹介文】
 聖書はなぜ平和の役に立っていないのか。大統領の就任式で聖書を用いるアメリカが広島と長崎に原爆を投下し、戦争を繰り返しているのはなぜか。
 「永遠」に目覚めて、聖書の『ヨハネの福音書』の深層部への理解を深めるなら、これらの疑問が解けるであろう。
 本書は広島の被爆者とその家族を描いた漫画の名作『夕凪の街 桜の国』(こうの史代・作)を導き役に読者を「永遠」へと招き、『ヨハネの福音書』の隠された深層部を明らかにしていく。
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