平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

不正の富で友を作る(2014.9.3 祈り会)

2014-09-04 10:17:22 | 祈り会メッセージ
2014年9月3日祈り会メッセージ
『不正の富で友を作る』
【ルカ15:25~32/16:1~11】

はじめに
 きのうの夜7時半からのNHKの『クローズアップ現代』では、とても興味深いテーマを取り上げていました。それは多くの企業で、これから管理職になって会社を引っ張って行ってもらわなければならない30代の社員が管理職になれるほどの器に育っていないということでした。その原因として番組の中で語られていたのは、バブル崩壊以降、企業はリストラを行い、経営の効率を上げることを最優先させたために余裕を失い、若い人を育てることを後回しにしてしまった。そのツケが、景気が回復する兆候が見えている今になって顕在化して来ているとのことでした。
 番組の解説者の大学の先生が言っていましたが、若い人を育てるには会社にある程度の余裕が必要だとのことでした。経験が少ない人に仕事を任せるのは効率が良くない。失敗をするリスクも高い。しかし、そこを大目に見て、ある程度大きな仕事を任せないと人は育たない。バブル崩壊後の企業は失敗を大目に見るような余裕は無かったので効率優先で、できる人にしか仕事を任せて来なかった。できない人でも育てればできるようになる人もたくさんいるのに、それをして来なかったので、管理職になれる人材が乏しいのだということでした。言われたことはきちんとこなすけれども、グループを引っ張って行けるようなリーダーが若い世代に不足しているということでした。

父の愛に気付いていない放蕩息子の兄、そして私たちは?
 この『クローズアップ現代』を見て、私は先日の礼拝説教でご一緒に開いたルカ15章の放蕩息子のお兄さんの記事を思い出しました。それで、きょうの祈祷会のこの時間にも再び開くことにしました。今話した『クローズアップ現代』が取り上げた若い世代の、言われたことはきちんとするけれどもリーダーになる器には育っていないというのは、この放蕩息子のお兄さんも、まさにその通りであると思うわけです。ルカ15章の29節で兄息子は父にこう言っていますね。

「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」

 これは、言われたことはしっかりやるというのと同じですね。これはこれで立派ですが、兄息子もやがては父の後を継いで家長にならなければなりません。しかし、兄息子はそのような器には、全く育っていませんでした。
 昨日の『クローズアップ現代』では、管理職になれる若い人材が育たなかったのは企業がそのように育てなかったからだということでした。では、兄息子が家長の器に育っていないのは父親の育て方が悪かったからでしょうか。
 私は、信仰の場合には、企業の管理職の場合とは、いささか異なるのではないかと思います。信仰の場合には、自分で父の愛に気付く必要があります。放蕩息子である弟息子は我に返って父の愛にぼんやりと気付くことができるようになりました。しかし、兄息子のほうは、この段階では父の愛に全く気付いていません。
 そして私は、私たちクリスチャンもまた、父の愛への気付きがまだまだ不十分であると感じています。私は常々そのことをヨハネの福音書を通して感じています。ヨハネの福音書の「イエスの時代」に、「旧約の時代」と「使徒の時代」が重ねられていることに人々が気付いていないのは、旧約の律法に込められている父の大きな愛を人々が十分に感じていないからだと考えています。
 そんなことを思いながらルカ15章を見ていたところ、15章の続きの16章の「不正な管理人」の箇所もまた、父の愛をたっぷりと感じ取るべき箇所であることがわかって来ましたので、きょうの後半は、この16章の不正な管理人の箇所をご一緒に見ることにしたいと思います。

(以上、前半。これより後半)

「不正の富」とは何か
 このルカ16章の1節から13節までの箇所は、難解な箇所と言われており、私も良く分からないでいたので、これまで私はこの箇所の解釈を保留していました。どこが難解かというと、先ずは8節の後半にある「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」というところですね。不正な管理人が不正をしたことを、どうして主人がほめるのか、よくわからないでいました。或いはまた、9節の「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」。これもまた、わかりにくいですね。友を作るのにどうして不正の富を使うことができるのでしょうか。これまで私にとっては意味不明でした。しかし、今回、父の愛のことを思いながら、この箇所を読み直してみたところ、この箇所に隠された意味が俄然わかって来た気がします。
 いくつかの注解書を調べてみると、ここにある「不正の富」を、この世の世的なお金や財産、つまり「世的な富」と考えるのが大方の考えのようです。しかし今回私は、この「不正の富」を「人同士の赦し合い」と考えたいと思います。そうすることで、ルカ15章とのつながりも良くなり、全体がすっきりと解釈できるようになると思います。
 まず1節、

16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。

 ここより前の15章の話は、イエスはパリサイ人・律法学者たちに対しての話でした。ですから放蕩息子の兄の兄息子とはパリサイ人たちのことです。一方、この16章ではイエスは弟子たちに話していますから、この「不正な管理人」とは弟子たちのことです。1節には「管理人が主人の財産を乱費している」とあります。これは弟子たちもまた罪人であることを示しています。それは、当然そうですね。この世で罪人でない者はいないのですから、弟子たちもまた罪人です。しかし、神様は、すべての罪人を赦したいと思っておられます。
 私たちの神に対する反逆の罪は、本来なら赦されるような罪ではない重罪です。神様はそんな私たちでも赦して下さいます。放蕩息子である弟息子の父親の財産を湯水のように使ってしまった罪も、本来は赦されるような罪ではありません。それでも父親は赦しました。そして兄息子も父が弟を赦したことを、とやかく言うべきではありませんでした。それは、父はこの兄息子の反逆の罪をも赦しているからです。なだめる父に反抗する兄息子もまた罪人です。そんな兄息子を父は赦しました。ですから、兄息子もまた弟息子を赦して祝宴に加わるべきでした。兄息子は弟息子がいなくなったことで仕事が増えてしまったことでしょう。弟息子は兄息子に大きな迷惑を掛けました。これは兄に対する弟の罪です。兄は、この弟の罪を赦す必要がありました。それは自分もまた赦されているからです。
 自分が神に赦されているのだから、自分も人を赦さなければならないというのは、マタイ18章の七度を七十倍するまで赦さなければならない、という箇所で既に私たちは学んでいますね。皆さん良くご存知の箇所だと思いますが、確認しておきたいと思います。マタイ18章21節からの箇所です(新約聖書p.37)。21節と22節、

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 こうしてイエスは、王がしもべの1万タラントの借金を免除してやった例え話を始めました。1万タラントは6000万デナリですから、1デナリを1万円とすると6000億円という大金です。それほどの借金を王は免除しました。つまり私たちはそれほど大きな罪を犯しているのに神様から赦されているということです。しかし、このしもべは仲間のわずか百デナリの借金を赦してあげませんでした。放蕩した末に帰郷した弟息子を赦さなかった兄息子は、このわずか百デナリを赦さなかったしもべと同じです。

「互いに赦し合うこと」が「不正の富」
 さてルカ16章に戻ります。不正な管理人は、債務者に債務の額を書き換えるように言い、債務者はそのようにしました。5節から7節までをお読みします。

16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。

 この債務者の債務も、マタイ18章と同様に罪と考えたいと思います。そして、ここで不正な管理人は自分で証文を書き換えたのではなくて、債務者自身に書き換えることを迫っていますから、こうすることで、「お互いの罪を減らしましょう」と言っていることになります。これは明らかに不正ですね。なぜなら罪を赦す権限は神にしか無いからです。しかし、主人はこの不正な管理人の抜けめ無さを褒めました。8節です。

16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

 つまり、人同士で互いに赦し合うなら神様はそれを褒めて下さるということです。人は皆、罪人ですから、罪人同士が赦し合うのは神様から見れば不正です。それでも赦し合わないよりは遥かに良いこととして、神様は褒めて下さいます。そうして罪を赦し合えば罪の全部を無くすことはできませんが、いくらかは減らすことができます。そして9節、

16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

 この「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」とは、互いに赦し合うことで、友を作りなさいということでしょう。そうしておけば、神に赦されて罪がなくなったとき、私たちが赦した相手は私たちを、永遠の住まいに迎えてくれます。ヨハネの福音書にも書いてありますね。ヨハネ20章23節を見ましょう(新約聖書p.224、あとでルカに戻ります)。

20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。

 ですから私たちは互いに赦し合わなければ永遠の住まいに入ることはできないと言えるでしょう。10節と11節、

16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

 私たちは忠実に、他人の罪を赦すことができる者でありたいと思います。そうして互いに赦し合える者たちでありたいと思います。そうすれば神様はまことの富である神の愛を宣べ伝えることを私たちに任せて下さるでしょう。
 このように神の愛を私たちがたっぷりと感じているなら、このルカ16章の前半の「不正な管理人」の記事もそれほど難解ではなくなるのだと思います。

おわりに
 きょうは『クローズアップ現代』から話を始めました。会社で管理職になれる人材が育たなかったのは会社の育て方が悪かったからのようです。しかし、信仰の場合は私たち自身が神の愛をもっと感じることができるようになるよう、私たち自身で育って行かなければならないのだと思います。私たちの罪は神の大きな愛によって赦されています。ですから私たちも互いに赦し合い、神の愛をもっと感じることができるようになりたいと思います。そして、地域の方々とこの素晴らしい恵みを分かち合いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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