電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

岳真也『幕末外交官~岩瀬忠震と開国の志士たち』を読む(1)

2014年10月03日 06時05分48秒 | 読書
幕末における開国のいきさつについては、ペリーの来航とその対応について描かれることが多く、吉村昭『海の祭礼』では、通詞の森山栄之助の英語力が、単身で日本に渡航したアメリカ人ラナルド・マクドナルドとの友情に負うものであることや、同『黒船』では、英会話の力では森山栄之助に一歩譲ったけれど、英学者として英和辞書の編纂に尽力した堀達之助の生涯など、多くの著作が発表されています。それに対して、幕府内にあって外国奉行としてハリスと日米交渉にあたった当事者の物語を読んでみたいと思っておりました。念願かなって見つけたのが本書で、岳真也著『幕末外交官~岩瀬忠震と開国の志士たち』(作品社、2012年11月刊)です。

この物語の構成は、次のようになっています。

序章  いざポーハタン号へ
第1章 海防掛を命ぜられた日
第2章 それぞれの胎動
第3章 外交の初舞台
第4章 アメリカ国使ハリス
第5章 日本を「東洋のイギリス」に
第6章 日米修好通商条約
第7章 安政の大獄
終章  士たちの最期

簡単におさらいしてみると、次のようになりましょう。

序章では、ペリーとの間に日米和親条約は結んだものの、貿易の取り決めはしていないとして、アメリカの国使タウンゼント・ハリスが来航し、条約への調印を迫ります。なんとか引き延ばしを図ろうとする幕閣に対し、外交の責任者である全権の井上清直と直接の担当者である岩瀬忠震(ただなり)は、自らの責任で条約に調印します。ペリーとの和親条約が鎖国の終わりの象徴とすれば、開国の実質的な始まりです。

第1章:「海防掛を命ぜられた日」。岩瀬忠震が老中・阿部伊勢守正弘に抜擢され、海防掛目付に任ぜられる場面から始まります。岩瀬と従兄弟どうしである堀利煕(としひろ)、そして同僚の永井尚志とともに、それぞれの立場・任地から、欧米列強の外圧からいかに国(幕府)を守るかを語り合います。

第2章:「それぞれの胎動」。ペリーの二度目の来航で、嘉永七年に日米和親条約が締結されます。見習い中の岩瀬忠震は、それらの文書に目を通すことができましたが、通商条約締結を拒む幕府の姿勢に疑問を持ちます。従兄弟の堀利煕は蝦夷地巡検使として出発、水野忠徳や永井尚志は長崎の海軍伝習所設立に奔走します。江戸に残る岩瀬忠震は、持論を鮮明に掲げ、川路聖謨らの先輩たちと議論を交わし、岩瀬の存在がしだいに大きくなってきます。

第3章:「外交の初舞台」。とはいうものの、理念だけでは現実は変わりません。蝦夷地で堀利煕が目にしたのは、アイヌの民が酷使される姿でした。プチャーチンが乗り組むロシア船ディアナ号が、安政の大地震による津波で大破し、条約交渉とともに洋式艦船の建造が始まります。岩瀬は、条約交渉もさることながら、小型の帆船建造に熱心です。

第4章:「アメリカ国使ハリス」。タウンゼント・ハリスは、生粋の外交官ではなく、ニューヨークの教育局長などの経歴もありますが、もともとは貿易商です。アジア貿易によって知識と経験を積み、日本に着目して日本総領事を志願したのでした。したがって、ペリーと違い、恫喝よりは交渉、世界の情勢をサムライたちに教えながら、根気強く語り合います。ハリスと岩瀬や井上信濃守清直たちの信頼関係は、貴重なものでした。租法を楯に決断できない上司、攘夷を唱える大名たちが、困難を倍加させます。

第5章:は、日本を「東洋のイギリス」に、というタイトルです。岩瀬は、幕府外交のキーマンの一人として、縦横に活躍しますが、それも上司である老中・阿部正弘が病没してしまい、後任の堀田正睦のもとでは勘定方と目付方との対立が顕在化します。結果的には、堀田は目付方の意見すなわち岩瀬案の採用を決断して、日米修好通商条約の交渉が始まります。



幕府側の外交交渉は下手で、外国の言いなりになって不平等条約に押し付けられた、と日本史では習ったはずでしたが、どうしてどうして、そんな単純なものではありません。物語としても、なかなかおもしろい。本日は前半まで。


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