2013.01.31(木)、朝夕は厳しい寒さの大寒真っただ中、しかし今日は雲ひとつないよい天気に恵まれ、友と二人で京都に来て、上京区西北部を歩いて寺社をめぐっている。「妙蓮寺」「櫟谷七野神社」「建勲神社」「引接寺」などを廻って次の訪問予定の寺にやってきた。
「浄光寺」 (じょうこうじ) 別名:大雅寺
浄土真宗 本願寺派
寺之内通千本東入 新猪熊町
この寺は,文人画家,池大雅(いけのたいが)(1723~76)の墓があることで知られている。
墓地の西北角の覆屋の中に墓碑が立っており、表に「故東山画隠大雅池君墓」,側面には相国寺の住職淡海笠常(たんかいじくじょう)の撰文,韓天寿の筆になる銘文が刻まれており,歿した翌安永6年に建立された。
4歳で父と死別した池大雅は文人画家の柳沢淇園(やなぎさわきえん)や祇園南海(ぎおんなんかい)に絵を学び,中国風の文人画を超えた独自の洒脱な画風を作り上げた。奇行も多かった人であるが,妻の女流画家の玉瀾(ぎょくらん)とともに貧乏暮らしを謳歌して,江戸時代の文人の面目躍如たるものがある。
見たいものも無いので、早々と失礼し次の予定地に向った。
「称念寺」 (しょうねんじ) 別名:猫寺
浄土宗 本空山無量寿院
京都市上京区寺之内通浄福寺西入上る西熊町275
開基嶽誉上人が常陸国土浦城主松平信吉公の帰依をえて慶長11年(1606年)に建立されたもの。
嶽誉上人は浄土宗捨世派の祖、称念上人に私淑景仰し、同上人を開山としてその名を冠し寺号を称念寺と定めた。
信吉公は元和6年8月1日(1620年)に没し、当寺に葬られている。信吉公の母君は、徳川家康公の御妹で信吉公と家康公は義兄弟に当り、当寺の寺紋は三ッ葵が許された。
三代目住職の猫の恩返しでお寺が栄えた話しは有名。
ここは門前に「無断拝観、写真撮影禁止」の札があった、それを押して入る程の魅力も感じなかったので境内にも入らないで、来た証拠にと山門から一枚撮って次の予定地に向った。
ここは予定にはなかったが、立派な山門に引かれて、見させて戴いたのである。
「本瑞寺」 (ほんずいじ)
日蓮宗
京都府京都市上京区姥ケ寺之前町
この後は、石像寺に参ったのであるが、編集の都合上下記のお寺を掲載させて戴く。
「雨宝院」 (うほういん) 西陣聖天宮(にしじんしょうてんぐう) しょうてんさん
高野山真言宗 北向山
京都市上京区智恵光院上立売西入る聖天町9-3
「
西門から入ると頭上は時雨の松に覆われ薄暗い。隠れた桜の名所として京都人に知られている。
境内は本堂の他、たくさんの堂が屋根をくっつけるように建ち並んでいて、西陣の界隈の人からは西陣聖天さんと呼ばれている。説明によれば、平安時代の弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を弘法大師空海が祈願し、六臂の歓喜天(聖天)を安置した大聖歓喜寺が始まりとされ、当初、境内は広大で千本通五辻まであったが、応仁の乱(1467~77)により堂宇は焼失、荒廃。天正年間(1573~92)に雨宝院のみが現在地に再建されたと伝える。
観音堂には平安時代中期の作とされる木造千手観音菩薩像が安置されていて、重要文化財に指定されている。この他、境内には不動堂、稲荷堂、庚申堂など建ち並ぶ。また、境内南東にある「染殿井」は涸れることなく湧いている。染色に使うちよく染まるとされ、以前は西陣の染物関係者が水を汲みに来ていた井戸。現在は清めの手水に使われている。この「染殿井(そめどのい)」は西陣五名水の一つで、他は「千代井(ちよのい)」、「桜井(さくらい)」、「安居井(あぐい)」、「鹿子井(かのこい)」。なお、「安居井」、「鹿子井」は個人宅の井戸。
また、本堂前の八重桜は「歓喜桜」で、御室の桜と同じ品種という。その横で枝を張る松は、久邇宮朝彦親王が当院へ参拝された折、突然の雨にこの松の下で雨宿りされたことから、いつしか「時雨の松」と呼ばれるようになったという。
以上、境内に入ることを止めた寺もあり、写真の数が少なく書く記事も浮かばないので、四山をまとめて掲載した。
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