木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

868冬の京都寺社巡り(8) 首途八幡宮

2013-02-17 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、真冬の京都市上京区にある、寺院、神社を見てあるいているが、その11番目となるのは・・・

 

「首途八幡宮」  (かどではちまんぐう)  

       京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102-1  

        境内自由

この地は奥州平泉まで牛若丸(源義経)に付き添った金売吉次の屋敷跡と伝えられているところで、その鎮守社が首途八幡宮。もとの名を「内野八幡宮」といい、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられる。大内裏(御所)の北東(鬼門)に位置したことから王城鎮護の社とされた。この地は清和天皇の第六皇子であった貞純親王の邸宅・桃園宮の旧跡。邸宅は広く、庭園は池と築山を中心に周辺に桃の木が植えられ、春になると一斉に桃の花咲き、桃花祭が執り行われた桃園だったことから、貞純親王は桃園親王とも呼ばれていた。その後、応仁の乱の兵火や天明の大火により社殿、宝物・社伝類の殆どを消失している。現在の社殿は、昭和40年代(1963~74)に地元の人々によって再興されたもの。
 社伝によると、承安4年(1174)3月の夜明け、鞍馬寺に預けられていた牛若丸(源義経)は平氏からの難を避けるため、鞍馬寺を出て奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼ることになった。この首途(かどで)の手配をしたのが奥州の商人・金売吉次(橘次とも)。鞍馬寺を出た牛若丸は、吉次に伴われ吉次の京屋敷近くにあった「内野八幡宮」に立ち寄り、奥州平泉への旅の安全を祈願したという。「首途( かどで )」とは「出発」の意味で、この由来により「首途八幡宮」と呼ばれるようになったという。

住み慣れた鞍馬を出て、奥州に向う義経の心境や如何に?。

しかし、平氏討伐後に兄にあらぬ疑いを掛けられて再び旅立つ時に較べれば希望はあったと推測する。

 

今朝からすでに15000歩を越えて歩いたので、足の疲労はピークに来ているが、まだ15時を過ぎたばかり、カフェで休憩の後、あと2ヶ所を見ることにしたが、それは次回に公開したい。

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