『鮭』だけでは勿体ない!!

2012-05-24 01:09:27 | Weblog
青空が広がり、気持ち良い一日でした。
最高気温が前日より10度近く高くなるとの予報でしたが、どうだったのかしら。
JRの車内は冷房で寒いくらいでした。
もしかしたら暑さに身体が慣れつつあるのかもしれません。


さて…。
昼下がり、東京藝術大学大学美術館(正式名称は矢鱈長い!!)の『近代洋画の開拓者 高橋由一』に足を運びました。
高橋由一と言えばやはり『鮭』。
初めて実物を見たのは、35年前の東博(藝大創立90周年記念の展覧会)でした。
あの時、何を思ったか…不意に蘇りましたよ(苦笑)。
お店で売られている切身はこのように作られていたのか、と、当時15歳だった私は思ったのでした(^^;;
それほどにリアルに感じられた、と言うことにしておきましょう( ̄▽ ̄;)

それはともかく…。
日本洋画の本流は黒田清輝の系譜とみなされてきましたが、ここにきて変わってきているようです。
高橋由一の再発見、と申しては大袈裟過ぎましょうか。

高橋由一
1828(文政11)年 下野国佐野藩士の嫡子として江戸藩邸で生まれる(ちなみに、狩野芳崖と同年)
10代はじめの頃、狩野派に師事するが、勤めが忙しく時間がとれず独学となる
1848(嘉永元)年頃 病弱のため家業の弓・剣師範の継承を諦め画業の途へ(藩の画学局という部署に所属したようです)、当初は独学、のち吉沢雪菴に北画を学ぶ
この頃、洋製石版画を見て西洋画学習の念を起こす
1862(文久2)年 洋書調所画学局(幕府の組織)に入局、川上冬崖の指導を受ける
1866(慶應2)年 横浜にワーグマンを訪ね入門
翌年には藩令で上海への貿易使節団に加えられたり、パリ万博に出品するなどの動きがあり、
1868(慶應4・明治元)年、41歳で明治維新を迎えます
暫くは大学南校で画学掛教官を勤めていましたが、
1872(明治5)年 依願免官
1873(明治6)年 日本橋浜町に画学場天絵楼を創設
以後は自身の創作活動・後進の育成・展覧会開催の他、国産絵具や画材の開発・絵画修復などにも尽力しました
しかしその一方で、岡倉天心を中心とする日本画奨励の機運が高まり
1884(明治17)年 天絵学舎廃校
初代山形県令三島通庸を頼み、東北各地の風景画や栃木・福島・山形三県にまたがる『三島県令道路改修記念画帖』・『山形・福島・栃木 道路写生帖』を制作
1894(明治27)年 67歳で逝去
時代の転換期に巡りあわせてしまったことと、画家としての出発が遅かったことなどもあったでしょうが、日本に洋画を普及させようという強い使命感のもとに生きた人だったようです。

三枚の『鮭』や『花魁』(衣装は雑なのに容貌がリアルで、その差異が妙に印象的です)といった代表作の他、肖像画(幕末を生きた人々の顔は一味違うような気がします)・風景画(名所図風油彩画)・静物画(『鴨図』で藤田嗣治を連想しました…笑)・東北風景画という区分で作品を網羅し、又、各種参考作品を併せて展示することにより、高橋由一の全貌と生きた時代とを捉えようとする、意欲的な企画と思いましたね。

『三島県令道路改修記念画帖』や『山形・福島・栃木 道路写生帖』は、縁のある方々には堪えられない作品のようで、興奮を押さえられずに今にも触れなんとして見入る姿もありました。
明治中頃の当地の様子を知る上でも、一級の資料と申せましょう。


図録2300円はちと微妙かな。
原寸『鮭』ポスター(非売品)が付いていますが…いやまぁ、個人的には『猫図』(水彩)のほうが嬉しかったかも(笑)。
油絵を学ぶ以前の作品のようですが、三匹の猫が丸まってくっついて…思わずウルウルしそうでしたよ(苦笑)。

『近代洋画の開拓者 高橋由一』展
会期は6月24日(日)迄です

最新の画像もっと見る

コメントを投稿