平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



比企局(出家後は比企尼、生没年・出自不詳)は、武蔵国比企郡の郡司であった
比企掃部允(かもんじょう)遠宗(とおむね)の妻です。
比企氏は藤原秀郷の末裔と称し、相模国(現、神奈川県秦野市)に居住していましたが、
康和年間(1099~1104)に一族の波多野遠光が郡司として比企郡に移り住み、
比企氏を名のったとしていますが、正確な系図が残ってなく、
遠宗の父祖については明らかではありません。

源義朝が鎌倉にあって関東の勢力拡張に努め、次第に権勢を高めていった頃、
遠宗はその家人となり、義朝が関東を長子、悪源太義平に任せ
都で活躍しはじめると、義朝に従って都に上ります。
早い時期から遠宗が都に住み、そこで掃部允に任じられていることから、
比企局の実家が京都の下級官人であったとも考えられます。

ちなみに頼山陽『日本外史』の現代語訳(巻之二 頼朝、死を免る)には、
「中宮属(さかん)三善康信は、その故人なり」とあり、その
下の注釈欄には、
中宮属は皇后づきの役所の属、康信は比企の禅尼の妹の子と書かれています。
三善康信は月に三度は京都の情勢を頼朝の配所に文を書き送っていた
朝廷に仕える下級官人です。

久安3年(1147)に頼朝が生まれると、
比企局は選ばれて乳母の一人となります。
平治の乱で義朝は清盛に惨敗し、頼朝は敗走のさなか青墓で捕われ、
14歳で伊豆へ配流の身となりました。この時、比企局は夫と共に京を離れ
本拠地に戻り、頼朝が平家打倒の兵を挙げるまで物心両面でこれを援助しました。
平家を憚り顧みる者が少なかった時期、ましてや
頼朝が世に出ることなど考えられもしなかった平家全盛時代、
比企局は不遇時代の頼朝を支えた最大の功労者でした。
北条政子の父時政でさえ娘と頼朝の結婚を事後承諾するまでは、
頼朝とは距離を置いていました。

これについて『吾妻鏡』には、「頼朝が伊豆に流された時、
武蔵国比企郡を請所として、夫掃部允に連れ添って下向し、治承四年の
秋に至るまで二十年の間、何かと頼朝のお世話を申し上げた。」と
記されています。(寿永元年(1182)10月17日条)

この記事から平家は敵方であり、しかも頼朝の乳父(めのと)であった
遠宗に対して、比企郡を請所として与えたことになります。
「比企郡を請所として」の意味ですが、中世において請所というのは、荘園・公領の
現地支配を任されるかわりに一定額の年貢の納入を請け負うことをいいます。
その間に夫の掃部允が病死し、比企局は髪をおろし比企尼とよばれ、
おいの比企能員(よしかず)を猶子(養子にほぼ同じ)とし、
比企氏の家督を継がせています。

このような縁で、寿永元年(1182)8月に北条政子が頼家を生むと、
能員はその乳父(めのと)
に任じられ、比企尼の二女(河越重頼の妻)は
乳母となり、その産所は鎌倉比企ヶ谷(ひきがやつ)の尼の邸でした。
その後、頼家が成長すると平賀義信とその妻(比企尼の三女)を
乳母夫婦としてその側におきます。

比企尼に推挙され有力御家人の列に加わった能員は、
合戦で多くの功績を挙げ、幕府創立期の中心的存在となります。
娘の若狭局が頼家(二代将軍)の側室となって一幡(いちまん)と
竹御所を生むと、自らは外戚として権勢を振るい、北条氏を凌ぐようになります。
その繁栄の原点は、養母比企尼の引き立てにあったのです。しかし、頼朝の死後、
しだいに北条氏との対立が激化し、北条氏の謀略で比企一族は滅亡しましたが、
同族の比企朝宗(ともむね)の娘姫の前が北条義時の妻となっていたため、
その尽力などで一族に生き残った者がいたのです。

比企尼は男子には恵まれませんでしたが、娘が三人おり長女は丹後内侍と称し、
二条天皇に女房として仕え、優れた歌人であったという。
惟宗広言(これむねのひろこと)に嫁ぎ島津氏の祖・島津忠久を生み、
その後、離縁し関東へ下って安達盛長に再嫁したとしています。
盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、妻の縁で頼朝に仕えたと見られ、
娘の一人が頼朝の異母弟・源範頼に嫁いでいます。

『吾妻鏡』によると、文治2年(1186)6月10日、丹後内侍が
甘縄の家(現、鎌倉市長谷付近)で病気になったので、頼朝は供の小山朝光・
千葉(東)胤頼2人だけを伴い、盛長の屋敷を密かに訪れて見舞っています。
頼朝は彼女のために願掛けをし、同月14日には丹後内侍の病気が
治ったというので、少し安心したという。
頼朝が密かに病気見舞いに訪れたり、願掛けをしたりと、両者の親密な関係が
うかがわれますが、大恩ある尼の娘であれば当然のことだったのでしょう。

この長女は流人時代の頼朝に仕えるなど、頼朝に近い女性であったことから、
島津家に伝わる史料では、祖の島津忠久を彼女と頼朝の子であるとする
頼朝落胤説がありますが、『吾妻鏡』をはじめとする
当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を生んだとする記録はなく、
島津家が有力大名になるとともに関係づけられた伝説のようです。

二女は武蔵国の豪族河越重頼の妻となり、その娘は頼朝の計らいで
源義経の室に迎えられています。三女は伊豆国の豪族
伊東祐清に嫁ぎましたが、祐清が戦死したため、のち平賀義信と再婚します。
祐清(すけきよ)は妻の母が頼朝の乳母であった関係から
頼朝との縁が深く、親しい間柄であったようです。

父伊東祐親(すけちか)は、娘の八重姫が頼朝の子を生んだことに腹を立て、
頼朝殺害を図った時、祐清はいち早くこれを知らせ、頼朝の窮地を救っています。
頼朝は挙兵後、祐清を家人にしようとしましたが、
祐清は頼朝に敵対した父の立場をはばかり、平家方に参じる
道を選ぶことになりました。
その後、寿永2年(1183)5月、
平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にしたと伝えられています。
平賀義信は源氏の一族で平治の乱に源義朝に従って出陣し、
敗戦後、義朝の東国敗走に尾張国野間まで付き従った人物です。

ところで、比企掃部允と比企尼が平治の乱後に戻った館はどこにあったのでしょうか。

①   比企遠宗のご子孫斎藤喜久江氏は、三門(みかど)館は埼玉県比企郡滑川町
和泉三門にあります。比企遠宗は源義朝の命で比企郡和泉の三門に館を建てました。
その館を三門館と呼ぶようになったのは、三門という小字にあるからです。
この地から比企の尼は伊豆の頼朝の元へ米を送り続けましたと述べられ、
『比企年鑑』(比企文化社発行 昭和27年編纂)の記事から抜粋し、
「比企遠宗館址(和泉)字三門にあり、平坦低窪の地で前後は梢々高く、
馬場、陣屋跡及び門柱石、池の痕跡等がある。廓外の柳町、八反町、
六反町等の地名も当時の名残である。」
この描写はご自身の生家周辺の景色と一致するとされています。

その後、比企氏は徳川幕府の政策で家取り潰しにあい、改名を余儀なくされ、
氏を斎藤と変え、また菩提寺の天台宗の寺だった泉福寺は
江戸時代に一度、廃寺にされました。

家に伝わっていた系図と古文書類は昭和6年の火災で焼失し、
菩提寺にあった過去帳も寺の火災で焼失してしまい、家の伝承以外、
残っている記録は殆んどないが、斎藤家では、先祖は比企遠宗であると
代々言い伝えられ、先祖が残してくれた土地や家を守り、
その後八百年もの間住み続けてきたと仰っています。(『比企遠宗の館跡』)

②   『吾妻鏡』には、毛呂季綱は伊豆の流人であった頃の頼朝を助け、
その賞として建久4年(1193)2月10日に武蔵国泉・勝田を賜った。と
書かれていることから、鎌倉時代初期には、現在の比企郡滑川町和泉付近・
比企郡嵐山町勝田付近は毛呂季綱の所領であったと考えられます。

毎月一度、頼朝のもとに比企遠宗から食料が送られてきましたが、
米の到着が遅れた時、その調達を方々で断られる中で、
武蔵国毛呂郷(現、埼玉県毛呂山町)の領主毛呂季綱だけは、
米を分け与えました。頼朝はこの時の恩を忘れなかったのです。

『埼玉県の地名』には、比企郡滑川町和泉字三門には、
三門(みかど)館があるが詳細は不明としています。

斎藤家の菩提寺泉福寺は後に真言宗から派遣された
僧によって再建されました。(『比企遠宗の館跡』)
町の北西端、滑川東岸沿いの田園地帯を前にした高台にある
八幡山泉福寺は、真言宗の寺で、開基の年代や沿革は明らかではないが、
収蔵庫に安置する本尊木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)は、
平安時代末期の作といわれ、定朝様の特色をよく伝えている。(『郷土資料事典』)

 ③   安田元久氏は、鎌倉時代前期までの比企郡はかなり狭い地域で、
現在の比企郡川島町と東松山市の区域だったとし、比企掃部允や比企尼が帰住したと
伝えられる中山郷については、現在も川島町西部の越辺川の左岸地区に中山の
地名が残るので、その地域であったと推定されると述べておられます。(『武蔵の武士団』)


成迫政則氏は、「比企氏系図」「慈光寺実録」によると、比企尼は頼朝が伊豆に流された時、
遠宗とともに関東へ下向し、比企郡(比企郡川島町中山)に住みながら、
娘婿安達藤九郎盛長、河越重頼、伊東祐清を遣わし、二十有余年頼朝に
兵糧を送るなどの援助をしたと記され、(『武蔵武士(下)』)
比企夫妻の館は、同じく川島町中山という見解を述べておられます。

慈光寺は建久4年(1193)、範頼が頼朝に謀反の疑いをかけられ殺害された時、
比企尼は範頼の遺児2人(尼の曾孫)の命乞いをし、2人を出家させ入れた寺です。
なお、川島町大字中山にある金剛寺は、比企能員(よしかず)から
十数代を経て、当地一帯に館を構えた比企一族の菩提寺です。

以上、比企宗遠館跡について書かれた資料から列記しました。
 今後の研究のさらなる進展が待たれます。
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡・比企能員一族の墓  
金剛寺(比企氏一族の菩提寺)  宗悟寺(比企尼・若狭局伝承地)  
比企尼の娘、丹後局が生んだという島津忠久誕生石が住吉大社にあります。
住吉大社(万葉歌碑 島津忠久誕生石)  
『アクセス』
「三門館跡」東武東上線「森林公園」下車 徒歩約1時間
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年

斎藤喜久江・斎藤和江「比企遠宗の館跡」まつやま書房、2010年
 田端泰子「歴史文化ライブラリー 乳母の力」吉川弘文館、2005年
 福島正義「武蔵武士」さきたま出版会、平成15年
頼成一・頼惟勤訳「日本外史(上)」岩波書店、1990年
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年
「埼玉県の地名」平凡社、1993年
 「埼玉県大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 
「郷土資料事典11 埼玉県」ゼンリン、1997年
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )


« 平家の地にた... 比企ヶ谷妙本... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。