ルーマニア・ランニングライフ★Romania Running Life★

ダーリンはルーマニア人、マラソンシューズ゛と共に過ごす首都ブカレストでの日々。東欧の神秘ルーマニアを探索中+ラン遠征。

ルーマニア革命20年、見聞記クライマックス

2009-12-21 | ルーマニア・ブカレストの日常


21日の朝刊で見つけた記事、「革命の犠牲者を偲ぶパレード、夕方5時から」、居ても立ってもいられなくなり、出発地点の大学広場に出かけてみることに。

「多くの人が20年前の革命の犠牲を忘れ去ったかのように暮らしている、いまの若い人の多くは革命のことを知ろうともしない、残念なことだ」と、大学広場にやって来ているルーマニア人は語ってくれました。



その言葉通り、やってきたパレード隊は意外なほどの少人数。大学広場地下に設置された犠牲者を偲ぶクリスマス・ツリーにキャンドルをともします。そこに集まっていた人も合流し、いざ出発。この時刻、外はすでに真っ暗、外気温はマイナス10℃近く。



「あなたがたの犠牲を忘れない。」「犠牲になったあなたがたよ、どうして僕たちと一緒に来ないんだ?」、シュプレヒコールを繰り返しながらブカレストの目抜き通りを北上。



デモ隊は車道を進んでいきます。私は雪の積もった歩道を歩きながら遠巻きにして付いていきます。



この寒さのなか、手袋もせずに、犠牲者の名前を書いたプラカードを掲げている人もいます。



ところどころにある犠牲者への献花場所で止まりつつ、警官や機動隊も出て、デモ隊は守られながら、ロマーナ広場へ。



大きなロマーナ広場中央にも犠牲者を偲ぶ慰霊碑があり、デモ隊は立ち止まります。回りは車が周回する交通の要所、うろうろしていたら警官にデモ隊の中に入るよう促されました。



ロマーナ広場を左折し、デモ隊はまた車道を歩いていきます。歩道もすぐ脇にあるので、私はいったんデモ隊を離れ、歩道から見守ることに。少人数で出発したデモ隊、途中でどんどん人々が加わったらしく、後方を見ると隊列が長くなっています。



私も一緒に歩いてみたくなり、自分の意思でデモ隊の中に入りました~「あ、中国人が加わったぞ!」、間違いなく私のこと。

「君、ルーマニア語が判るの?」~「ほんの少し。」、「君、僕たちがなんと言っているかわかっているの?」、革命の犠牲者を忘れないためのパレード。



「イリエスクを法廷へ。」、そんなシュプレヒコールも混じります。「イリエスクをどうしろと言っているの?」、こんどは私が尋ねる番です。市民に銃を向けたイリエスク、その罪は隠されたままで解明されていない、22年経つと時効が成立してしまうから、それまでに真相が解明され、法廷にて裁かれるべきだ、というのです。

私が別のルーマニア人から聞いたことと同じことを言っています。市民に銃を向けろと命令を下した人物が、今でも政治の中央にいることは許しがたいことだと。先の大統領選挙でPSDのジョアーナ氏が敗れたのは、PSDの長老ともいえるイリエスクに反感を持つ人が多いからだとも言います。

途中デモ隊は国立博物館の前を通りかかりました。おりしも「革命20周年記念写真展」開催中。外塀にも何枚ものパネル写真がずらり展示。デモ隊列の中ほどにいた私のすぐ後ろの若者が、一枚の写真に雪だまを投げつけました。

それに刺激されたのか、後方の人たちが次々、雪だまを同じ写真に投げつけています。後方の隊列を守っていた警官たち、一瞬気色ばみましたが、デモ隊に発声することなく、デモ隊もまたすぐにもとの隊列に戻し、ゴール地点に進んでいきます。



昼間でもマイナス5℃をさしていた近くの寒暖計、午後7時ともなれば氷点下10℃は間違いありません、目指すは革命広場、旧共産党本部前。もうそこにチャウシエスクは居ません、が、もっとつかみどころのないものが、さらに増徴して渦巻いているのが判ります。

ここまで一緒に歩いてきて、私は何を見たというの?しばらく立ち止まるふうの隊列を離れ、先の国立博物館前まで取って返しました。雪だまを投げられた写真を良く見ていなかったのです。



いくつもの雪だまが当たり、パネルには穴が空いていました。写真の中央向かって左にいる人物は、制帽をかぶった59歳のイリエスク。・・・顔の部分が残っていて良かったです、その部分に穴が空いていると標的が誰だか判らなくなってしまうから。

誰かが雪だまを投げつけ穴があき始めると、また別の誰かも投げつけるかもしれない、雪だまとはいえ氷の塊のようなもの、威力あります。1月10日の開催期間終了まで、無事でいられるのかしら、この写真。



この日私が見たり聞いたりしたものは、ごく一部のものに過ぎないし、ごく一部の人たちの行動。けれども、先のルーマニア人が言うように「政治家の外国向けの顔」「政治家の表と裏」、今日この日、ブカレストに居て、写真展やデモ隊を見に行って始めて知りえたことなのです。

昔から日本のことわざで「火のないところには煙は立たない」、反イリエスクの抗議行動は、何かあるからなのか??今のイリエスクも20年前のチャウシエスク以上に高齢、残された時間は短く、早いうちに解明しないと永遠の謎に葬り去られてしまう恐れあり。



今日のこれがすべてではないけれども、こういったことも見聞したかったのです。一般的な資料や記者会見では現れてこない、ルーマニアの現地の人々の行動。大きくはないだろうけれども、こんな動きもあるのです。

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ルーマニア革命20年、見聞記その3・写真展

2009-12-21 | ルーマニア・ブカレストの日常

 
20年を経たルーマニア革命。人々は何をどのようにとらえているの?毎日のように流れてくるテレビ番組、新聞紙上でも取り上げられています。手早く当時を偲ぶなら、写真展がわかりやすいかも。現在、ブカレスト2箇所で「革命20周年記念写真展」開催中。



大学広場下の地下通路広場で開催中の写真展。私が訪ねた21日夕刻のこの時間、通り行く人が写真や映像に足を止め、記帳用のノートに何かを書き記していく人も多かったです。
 
写真を撮ったりしていると「あなたは日本人ですか?何故ここにいるのですか?」と声をかけてもらい、少し話を聞くことも出来ました。

多くの人が20年前の革命の犠牲を忘れ去ったかのように暮らしている、いまの若い人の多くは革命のことを知ろうともしない、残念なことだ、と。革命写真展に足を止める人は、革命になにかの思い入れがある人に違いないのです。
 
また、私がイリエスクの記者会見のことに触れてみると、「日本にも流れましたか。」と残念そうに。政治家は外国用の別の顔を持っている、表と裏を使い分けているんだ、とも。そんな人が多いのが今のルーマニア政界、とも。
 
革命のときに市民に銃を向けた、または銃を向けろと命令を下した人物がまだ、ルーマニアの政治を担っているのは、どう考えてもおかしなこと、とも。
 


ルーマニア革命とは、あとでつけた名称。当時は革命とは思っていなかった、ただ夢中になり広場に駆けつけていたけれど、あとで考えれば自分も命を失っていたかもしれない、(広場に行ったことは)馬鹿げたことだった、という人も。
 


同じように、その時ぼくは指を撃たれ失った、もっと命を大切にするべきだった、と言っている人もいます。子供を失い自身も怪我をした人は、思慮不足だった、と。
 


また、処刑されたチャウシエスク夫妻が71歳&70歳と高齢であったことから、何もチャウシエスクを射殺しなくてもよかったんだ、天命尽きるまでそれほどの期間も残っていなかっただろうに。どうしてもこの世から葬りたいのなら、毒殺など、別の方法もあったはず、とも。

ルーマニア革命はソ連の陰謀によって起こされたのだ、というルーマニア人も。これは、革命を指導したイリエスクが、ソ連に学びゴルバチョフと親交があったといわれているからかもしれません。革命の半年前にはゴルバチョフから援助を受けていたといわれるイリエスク。独裁者チャウシエスク自身は、ソ連の影響を拒む独自の社会主義路線を歩んでいたのです。
 
日本では、NHKのドキュメンタリー番組で「ルーマニア革命は仕組まれたのか ~チャウシェスク打倒の裏で~」(2003年ドイツ制作)が流されたようですが、これは西側諸国によってルーマニア革命が引き起こされたのだという番組制作者の仮説によるもの。

いったい何が本当で、何が隠されているの?ルーマニア人ですら、掴みきれていないこの20年。忘れ去ろうとしている人、忘れようにも忘れられない亡くなった人への思い。
 


写真展の中央に設けられているクリスマスツリー。犠牲者の名前を書いた白いリボンで飾られています。



20歳で亡くなった人、38歳で亡くなった人、51歳で亡くなった人・・・それぞれ年代は違えども、なぜ命を落とすほどのことがあったのか。
 


足元には当時の新聞。そしてキャンドル。そっと近寄り、ろうそくをともす人が何人も。
 


赤い火をともし、手を合わせ、涙ぐんでいるご婦人もいます。写真展には目をやらず、夕刻の地下鉄の雑踏の中に消えていきました。ご主人か子供か、近い人が犠牲になったに違いありません。



写真展の展示の中には、床にじかに並べられた多くの犠牲者、ずらり並んだ木棺。わずか20年前のこの国の出来事なのです。
 
ブカレストで開催中の「革命20周年記念写真展」:
一箇所は、地下鉄大学広場駅地下通路にて。25日まで。
もうひとつは、国立博物館にて、1月10まで。
この時期、ブカレストを訪ねているのなら必見。出かけて、見て、ルーマニア人と接し、自分自身で感じるために。

サイトより転載:
ルーマニア革命は仕組まれたのか ~チャウシェスク打倒の裏で~ 
1965年に政権についたチャウシェスクはソ連の影響を受けない独自路線を歩み、68年にはソ連のチェコ侵攻に対して東側で唯一、ソ連を批判して西側諸国からの財政援助を獲得した。しかし、ゴルバチョフのペレストロイカ路線には同調しなかったため、東西両陣営から孤立し、この機会をとらえた西側諸国は、チャウシェスク体制の終わりを画策しようとするようになる…。

番組制作者の仮説によれば、まずは西側の諜報員が送り込まれ、ルーマニア国内の反体制派の知識階級を支援した。歴史的対立が続く隣国ハンガリーの反ルーマニア勢力を巻き込んだ国際的なプキャンペーンが実行され、ラジオなどを通じ、ルーマニアの人びとに反体制派の存在を広めていくプロセスが証言によってつづられる。

12月の革命のきっかけはハンガリーに近い町での宗教デモだった。いつの間にか反チャウシェスクのデモに様変わりし、ついに銃撃戦にまで発展する。扇動したのはドイツやハンガリーなどでCIAによる訓練を受けた人びとだったという。さらにチャウシェスク逃亡後、彼に忠誠を誓うテロ勢力との闘いで数多くの市民が犠牲になったとされるが、実際にはテロ勢力は存在しなかった。これも西側による演出だった可能性を番組は指摘する。

何故これほどの犠牲が必要だったのか。遺族の哀しみは消えない。アメリカの関係者は言う。「ほかの方法があったのではないか、と後から言うのは簡単だ。だが当時は、ゴルバチョフの意図は不明確だったし、さまざまな要素が絡み合っていた。」


原題: CheckMate Strategy of a Revolution
制作: Looks Film & TV(ドイツ) 2003年

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ルーマニア革命20年、見聞記その2・犠牲者数

2009-12-21 | ルーマニア・ブカレストの日常

 
新聞やテレビでずいぶん前から、革命後20年を意識した情報が流れています。上の写真は今月11日の「ring」新聞より。
 


数字「4,456」はブカレストで銃撃戦などで犠牲になった人(死傷者)。亡くなった人は1,104人。このうち12月22日(チャウシエスク逃亡の日)までに亡くなった人、162人。そのあとの死者は942人。

怪我をした人3,352人のうち、22日までに怪我をした人1,107人、その後の怪我人2,245人。なんという多くの人々。チャウシエスク逃亡後、さらに騒ぎが大きくなっていったのがわかります。当時はまだ、「革命」という呼び名は付いていなかったのです。
 


革命の発端となったティミショアラでは、犠牲者466人。16日から21日に亡くなった人73人、怪我をした人296人。22日以降に亡くなった人20人、怪我をした人77人。



この新聞を見ていたので、毎日新聞に対する最近の記者会見の内容は、そんなものなのかな、と納得させられてしまうところでした。
サイトはこちらから、「ルーマニア革命20年:大統領処刑「間違ってない」」

革命時、「救国戦線」を指導(救国戦線評議会議長)したイリエスクの現在の記者会見。イリエスクは革命後、1991年に民主救国戦線を結成し党首に就任、これは現在の社会民主党(PSD)。
 
しかし同時にもうひとつの情報は、イリエスクの何かすっきりしないものを感じさせるところ。これも同じ毎日新聞より、サイトはこちらから、「From:ルーマニア 消えぬ独裁下の記憶」。

イリエスクはPSDの長老とも言うべき存在。現在の党首ミルチャ・ジョアーナ氏が先の大統領選挙で惜しくも敗れ去ったばかり。党のシンボルカラー赤が示すように、コミュニズムの色を残す政策を掲げています。
 
だからどうだというんだ?、私はもっと生の声を聞きたい!~21日夕方に行われる、革命で亡くなった犠牲者を偲ぶパレードを見に行ってみることにしました。

注:
念のため、上の新聞記事は「ring」より。この数字、どこから拾い上げているものか出処は不明。

以下、リンクしたサイトより転載:

ルーマニア革命20年:大統領処刑「間違ってない」
【ブカレスト中尾卓司】ルーマニアの独裁者チャウシェスク元大統領が処刑された89年の「ルーマニア革命」から20周年の節目を前に、革命後に「救国戦線評議会」議長を務めたイリエスク元大統領(79)がブカレストで毎日新聞と会見し、「(政権転覆後も続いた)市民の犠牲を止めるため処刑を決断した」と証言した。他の東欧諸国は無血で体制転換を遂げたが、ルーマニアは多数の市民が犠牲となった唯一の国だった。
 
89年12月22日、チャウシェスク元大統領(当時71歳)とエレナ夫人(同70歳)は、ブカレスト中心部の共産党本部ビルからヘリコプターで脱出。独裁政権が崩壊した。元共産党書記の経験を買われたイリエスク氏は、文化人や軍当局者らと「救国戦線評議会」を結成したが、「(評議会のメンバーは)寄せ集めで事前準備もなかったが、鎖国状態だったルーマニアを開かれた国にすることを決めた」という。
 
市民に銃を向けていた軍は政権崩壊と同時に救国戦線評議会に加わったが、その後も市民への銃撃は続いた。一連の騒動によりブカレストで死亡したとされる約1200人の半数以上は、政権崩壊以降に犠牲になったという。秘密警察の仕業とみられていたが、イリエスク氏は「チャウシェスク氏直属の特殊部隊の可能性はあるが、いまだに組織の正体は不明だ」と語った。
 
混乱の早期収拾を図るため、イリエスク氏や軍高官ら6人が24日夜、国防省にひそかに集まり、チャウシェスク夫妻に対する軍事裁判の開廷を決めた。同氏は「その瞬間も続いていた市民の犠牲を止めるには、夫妻の処刑しかないと決断した」と緊迫した場面を振り返る。「混乱に乗じてパニックを起こそうとする勢力もいた。公開裁判が望ましいことは分かっていたが、市民の生命を優先するため、一刻も早い決着が必要だった。その判断は間違っていない」ときっぱり言い切った。
 
チャウシェスク夫妻は翌25日、ブカレストから北へ約90キロ離れたテルゴビシテの軍施設で軍事裁判を受け、直後に銃殺された。処刑の映像は世界中に流れ、独裁者夫妻の死によって、体制転換後の混乱は収束に向かったという。
 
チャウシェスク元大統領は71年6月に北朝鮮を訪問。同国の統制ぶりをまねたことが、独裁に突き進むきっかけとなった。当時、元大統領に重用されていたイリエスク氏は、北朝鮮訪問にも同行した。だが、同氏は、平壌で元大統領夫妻に「こんな社会はダメだ」と直言したという。
 
その結果、イリエスク氏はチャウシェスク元大統領に疎まれ、帰国後、「インテリはいらない、と地方に飛ばされた」という。
 
◇ルーマニア革命
89年12月16日、西部ティミショアラでハンガリー人牧師の国外追放処分に市民が怒り、軍と衝突、軍の発砲で犠牲者が出た。混乱は全土に広がり、チャウシェスク夫妻が処刑された25日までに国内で約2200人が犠牲になった。武力による流血を伴う体制転換となり「革命」と呼ばれる。ベルリンの壁崩壊など東欧民主化の波は最後にルーマニアに波及した。
 
◇イオン・イリエスク
1930年にブカレストの労働者の家庭に生まれた。中学卒業後、モスクワに留学し、帰国後、共産党に入党。71年には宣伝・教育担当の党書記に就いた。チャウシェスク元大統領に疎まれ、地方へ左遷された後、水利事務所長などを転々とし、89年の革命当時は技術出版社に勤務していた。救国戦線評議会議長を経て、2度にわたり大統領を務めた。

From:ルーマニア 消えぬ独裁下の記憶
何年かに一度の大雪に覆われたブカレストでひときわ目立つ建物があった。ルーマニア国会議事堂だ。かつての独裁者、故チェウシェスク元大統領が建設を始め完成間際だった大宮殿は、改修されて国会となり「議会御殿」と呼ばれる。独裁に対する国民の怨念(おんねん)の象徴を国会として使う。それがルーマニアの現状だ。
 
ここで今月17日、1989年12月の政変から20周年を記念する討論会があった。
「歴史的な爆発だった」。救国戦線評議会議長として革命を率いたイリエスク元大統領が成果を誇ると、「あなたは間違っている」と参加者の一人が遮った。「なぜ(市民と軍が衝突した)西部ティミショアラの惨事に触れないのか。市民の犠牲を忘れたのか」
 
イリエスク氏に異を唱える発言に空気は一変し、「恐怖政治からの決別」を祝福し合うはずの場は険悪なムードに転じた。激しいやりとりに「まだ革命は終わっていない」と知人のルーマニア人記者がささやいた。
 
この記者とはプラハで今年10月、やはり20年前のチェコスロバキア(当時)のビロード革命の立役者だったハベル前チェコ大統領の記者会見で隣り合わせて知り合った。彼は「ルーマニア人が感情的になるのは、多くの人命が奪われたからだ」と打ち明けた。
 
流血を伴った政変は現地で「ルーマニア革命」と呼ばれる。約2200人とされる市民の犠牲の多くは、誰に殺害されたか真相も不明のままだ。イリエスク氏は私とのインタビューで、チャウシェスク夫妻が処刑された理由を「市民の犠牲を増やさないためだった」とはっきり証言した。しかし、前後の状況などの質問にはあいまいな説明も多く、20年たっても総括できていないと感じた。
 
平和裏に体制転換を遂げたチェコでも、ある下院議員は「大国ロシアの影響と過去の統制の時代の記憶は残り、共産主義の重荷は消えない」と話していた。チェコ、ルーマニアなど東欧諸国の多くは欧州連合(EU)加盟も果たし、かつての西側の有名ブランド店が並ぶ。しかし、自由競争と相いれない国家依存の発想など、共産主義時代に染み付いた思考様式は簡単に変わらないようだ。
 
記念討論会に参加した元ルーマニア首相、ペトレ・ロマン氏は「大学生に20年前を語ると学生は『自分らが知らない革命を誇りに思う』と言った。しがらみのない若者こそ社会を変える」と、インターネットを駆使し自由に国内外を行き来する次世代に願いを託す。
 
「この国はまだ共産主義時代の影を引きずっている。でも自由を知る私たちは過去に縛られない」。プラハで11月に会ったチェコ人大学生の言葉を思い出した。89年から20年の歩みは遅かったが今後の変化はもっと加速するだろう。過去を知らない若い世代に期待したい。【中尾卓司】


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ルーマニア革命20年、見聞記その1・革命広場へ

2009-12-21 | ルーマニア・ブカレストの日常

 
流血の惨事となったルーマニア革命から20年、いろいろな切り口で語られるけれども、ルーマニア人たちと接するうち、何かが違う、と感じている私。ネット情報や過去の文献、政治家の記者会見など、すべての情報が空々しい~これは何故?
 


20年前の舞台となった革命広場(Piaţa Revoluţiei)、犠牲者への慰霊塔が建っているところ。



21日の午前中に出かけてみた私、その時ここを訪れている人は3人の、おそらく外国人。英語で話しながら写真撮影をしているだけ。特に大きな記念のものはなし。
 


慰霊碑のあたりはきれいに除雪してあって、いつものように花輪が手向けられています。



革命時に犠牲になった人々の名が刻まれている慰霊碑、その間から見えるのは旧共産党本部(Fostul Comitet Central al Particului Comunist)。
 


20年前のこの日、チャウシエスクを称えるために行われたはずの官製集会で、ここの玄関口うえにあるバルコニーでチャウシエスクが演説を行い、それは独裁政権に対する抗議にさえぎられ、治安部隊が民衆に向けて発砲。いったん集会は解散させられたけれども、さらに抗議集会へと発展していったのです。



翌22日、さらに抗議勢力は大きくなり、余りもの騒ぎにここの屋上からヘリコプターで逃走した大統領夫妻。ひとまず、スナゴフの別荘へ、そしてトルゴビシュテの宮殿へ。が、途中で捕獲されてしまうのです。
 


さてその日、この広場を埋め尽くしていた人々、その中にマイダーリンもいました。チャウシエスク夫妻がヘリで飛び立つのを、その目で見ていたといいます。その時ダーリン、19歳になったばかり。耳のすぐ横を弾丸が通り過ぎていったといいます、今の私が思うに、ダーリン、生きていてくれてよかったです。幸いにして友人にも犠牲になった人はいません。
 


ダーリンの弟さんは4つ違いの当時15歳、高校の冬休みで田舎に帰っていたところ、ブカレストでこの事件発生。電話も通じず、その後の様子をテレビで見ていたといいます。大統領夫妻射殺の様子もテレビ放送されたルーマニア革命。年が明けて1月4日にブカレスト復帰。そのときはもう特に何も無く、危険な状態ではなかったそうです。
 
実際にヘリコプターまで使って、大統領夫妻脱出の様子の再現映像が、今月初めのテレビ番組で流されています。でもこれもあくまでもメディアによる演出。実際にそんなふうであったかどうかは不明なのです。

もう少し知りたい、革命のことやその後のこと。文献やネット情報に頼るのではなく、生の声を聞きたいのです。

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