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季節外れの春の雪 文政12年2月下旬・色川三中「家事志」

2024年03月04日 | 色川三中
季節外れの春の雪 文政12年2月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年2月21日(1829年)晴
・寒気がして、終日引き籠もる。名主の入江から用有りとの連絡があったが、体調が悪いため行かず。
・奉行の小幡様が風烈廻りをされた。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉2名。半紙五状、金一朱。
(コメント)
・町役人に任命されてから、様々な儀式や用事をこなしていたからか、三中先生体調不良となり、本日は家でご静養です。
・風烈廻りとは、風が強い日の火災予防等の取締りのこと。江戸ではこれのみで独立の役職ですが、土浦では町奉行と兼任のようです。
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文政12年2月22日(1829年)
昨夕、与市が江戸から土浦に戻ってきた。原料高騰のため、銚子組は江戸の正油問屋と対峙して値上げをはかったが、銚子組以外が値上げに同調しなかった為、値上げできなかったとのこと。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉2名。カナガシラ五つ、青銅20疋。
(コメント)
原料高騰のため、醤油製造業者は大ピンチ。値上げして価格転嫁をはかるも、醤油製造業者の足並みが乱れ、江戸の問屋の力に屈してしまいました。色川家のメインは薬種商ですが、醤油製造業もサブで行っており、このニュース他人事ではないありません。

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文政12年2月23日(1829年)
雪降る めずらし
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉なし
(コメント)
・今日は天気の記事のみ。おそらくまだ体調回復せず、自宅療養中なのでしょう。旧暦2月下旬ですから、太陽暦3月下旬〜4月上旬頃。さすがに雪はあまり降らない季節です。
・三中が町役人に就任したことから〈祝儀覚〉をツイートしてきましたが、以降少なくなることから、本日で祝儀覚は終了します。
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文政12年2月24日(1829年)
佐兵衛が本日をもって退職。餞別に酒を出し、金二朱と菓子百文分を贈った。佐兵衛は、明日船で下総に帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の佐兵衛(元徳兵衛)が退職。下総出身だったようです。土浦は下総からは結構離れている印象ですが、舟運があれば意外と便利という感覚なのかもそれません。「船で下総に帰る」とあることから、土浦と下総との水運の結びつきがわかります。
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文政12年2月25日(1829年)晴
日向亮元医師が在所に引越し、妹のえい殿は江戸に奉公に出る。餞別として、日向医師に扇子一対を添えて粘入半切百枚、妹御には小半紙十状を贈る。日向、本日泊る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日向亮元は三中が応援している医師。昨年2月にはまだ江戸で修業をしており、その後土浦で医業をしていました。この度、土浦を引き払って、兄の医師は在所暮らし、妹は江戸で奉公をすることになったようです。

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文政12年2月26日(1829年)曇或は雨
ゆみ(娘)の初めての節句だが、今年は穀物を初め諸色高騰、また御役(町役人)に就任して諸方へ心遣いせねばならず、倹約第一とする。ゆみの祝いは白酒作りのみ。雛人形はやめる。御祝も全て返す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
娘が初節句を迎えます(昨年8月誕生)。娘には甘い親ばか三中ですが、物価高騰&町役人就任で倹約第一方針とします。白酒作りのみ行い、雛人形はやめ、御祝も全て返す方針です。
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文政12年2月27日(1829年)晴
日向医師の在所への引越しは昨日の予定だったが、雨の為に馬来ず。今日が愈々別れの時となる。味醂酒(百文)を振舞う。日向からは饅頭。昼過ぎに馬三疋が来た。
別離の情は海の如し。別れに臨みて言うところを知らず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日向医師は土浦から在所に引越します(2月25日条)。昨日が予定日でしたが、雨の為に馬が動かずで、引越しが延期。日向医師とも今日でお別れです。味醂酒と饅頭でのお別れ会。別れに臨みて言うところを知らず。
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文政12年2月28日(1829年)晴
春なのに寒く、氷甚だし。
とりや伝右衛門殿の長男が結婚した。半紙を持参して挨拶に来られたので、あんぽん三つを贈った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦2月も終わりですし、彼岸の中日(この年は2月17日)もとっくに過ぎていますから、太陽暦でいえば4月になっているでしょうが、「春なのに寒く、氷甚だし」の状態。飢饉をもたらした天保の天候不順を予感させるような文政末期の気候です。
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文政12年2月29日(1829年)
与市殿を府中(現石岡市)に遣わす。
与市は、府中からの帰りに府中幸町の彦左衛門の次男寅二郎(年14)を連れて帰ってきた。掛け合いついでに召し連れ帰りました、とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
数えで14歳、今でいえば中学校一年生位の少年を働かせるために、ひょっと連れて来てしまうというこの感覚には驚きです。府中(石岡)〜土浦は15キロはありますから、徒歩で4時間位。ちょっとそこまでという距離ではありません。
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文政12年2月30日(1829年)晴
堰とめ切りの書付ができた、と中城の橋本権七から連絡あり。書付に印形を押しに行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
堰とめ切り自体は10日ほど前に行われたもの(2月20日条)。書付が完成したため、三中は町役人として押印しています。文書を証拠として残すこと(文書主義)が行き渡っていたのです。
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