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江戸時代の五月の節句行事 文政12年5月上旬・色川三中「家事志」

2024年05月13日 | 色川三中

江戸時代の五月の節句行事 文政12年5月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年5月朔(1日)(1829年)甲午 晴
昨日、町年寄の奥井吉右衛門殿から月番御用控帳を受け取った。今月の月番は
町御奉行様:藤井央様
町組小頭:野口四五右衛門殿
町年寄:中城分 色川桂助、東崎分 太田甚五兵衛
月番の町組小頭へ、当月の行司を書き上げて提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今月は三中が町年寄の月番にあたっており、四月の月番であった町年寄の奥井吉右衛門から「月番御用控帳」を受取っています。月番がこの控帳を記録して、次の月番に廻すのでしょう。役職が月番で交替するのは、幕府と同じです。わ
(補足)
本日の日記はかなり長く以下の記載もあります。
「羽織袴を着て両御奉行所と両小頭に御礼に出向き、会所附留役所にも御礼を申しあげた。銭相場は変わりないことを確認して届出。銭月番小頭は小津屋小右衛門であることを伝えた。
月番年寄心得
出火があった場合は、すぐに身支度を整え、現場に駆けつけ、火元を注視して、状況を把握することが重要である。
御馳走屋敷御宗門につき、御用人、御番頭、御目附衆が出席し、東崎と中城の町役人一同も出席したし。 脇指をさし、定められた通りに肴一種と酒二升を差し上げた。
相馬長門守様御宿泊
相馬長門守様が今月3日から御宿泊されるため、御見分あり。町年寄は奥井吉右衛門が一人参加。」
←相馬長門守は、中村藩(現福島県相馬市等)の大名相馬益胤。文化10年(1813年)第11代藩主に就任。同年、従五位下長門守に叙任。天保6年(1835年)に隠居するまで藩主でした。

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文政12年5月2日(1829年)
・昼過ぎから大雷雨に雹まで降る。雹は梅ほどの大きさ。夕方には止む。この雹で、谷原の菜種は半分以上打ち落とされたという。
・その後晴れる。相馬長門守様ご宿泊の為、両御奉行の御見分あり。町年寄は和泉屋金之丞殿が見分に参加。名主と町年寄は立付羽織で桜橋まで出迎え。
・相馬長門守様は明日から御宿泊される。役は次のとおり。
御本陣出役 栗山八兵衛
問屋出役 和泉屋金之丞
御先払い 色川桂助(三中)
#色川三中 #家事志
(コメント)
・かなり大きな雹のため土浦周辺で被害が出ています。高持百姓でもある三中は、農作物の損害には敏感です。菜種に損害が出ていることが記録されています。
・「相馬長門守」は、中村藩(現福島県相馬市等)の大名相馬益胤(そうま ますたね)のこと。土浦での宿泊は参勤交代の途中と思われます。土浦藩の方でも準備万端整える必要があるのですね。

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文政12年5月3日(1829年)晴
・新宅のぬい殿がご懐妊したので本町から新宅へと移っていたが、先日、女子を無事に出産した。今日、干物7枚を贈った
・相馬長門守様が土浦をお通りになるので、町役人は羽織立付を着て、銭亀橋までお迎え。昼過ぎに相馬長門守様は本陣にご到着。
・先般の大町の隠女の件につき本日処分が言い渡された。⇒末尾付1へ
#色川三中 #家事志
(コメント)
・新宅のぬい殿が伊勢屋さんと結婚したのは、昨年6月のこと(文政11年6月26日条)。結婚してから一年近く経ち、ご出産と相成りました。
・相馬藩の殿様(相馬長門守)が土浦に到着。町役人一同は銭亀橋までお出迎えです。銭亀橋は桜川にかかる橋です。土浦城よりも江戸方向にあるので、相馬藩の殿様は江戸から中村藩(現相馬市)に戻る途中に立ち寄ったようです。

銭亀橋 · 〒300-0038 茨城県土浦市4

★★★★★ · 橋

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文政12年5月4日(1829年)快晴
娘の節句の祝いとして、谷田部の飯塚家から内々の祝儀として金1分2朱が贈られてきた。
祝儀は断る旨話していたのであるが、どうしてもと言われ、とりあえず預かることとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
娘の節句には倹約方針を取り、祝儀は受け取らず、全て返すという方針を取っていた三中ですが(2月26日条)、谷田部の飯塚家(妻の実家)からの祝儀は断り切れなかったようです。「とりあえず預かる」というのが、歯切れの悪さを表しています。
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文政12年5月5日(1829年)曇
・中城と東崎の町役人および両町の名主一同が一緒に、節句の日の御礼に参上した。
両小頭 、両奉行、吟味衆:佐久間伝右衛門様・中里平馬様、大久保一郎兵衛様、神田弥右衛門様、組頭:石嶋様、矢嶋様、岡田様、御代官:神龍寺
・夕方に持病の喘息が再発し、家で療養。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・名主&町役人が土浦藩の奉行等に御礼に参上。節句の日の恒例の行事なのでしょう。現代では五月の節句といえば、子どもの為の祭りですが、現代とはかなり「節句」の意味合いが異なるようです。
・三中の体調がまた悪くなってしまいました。2月にも寒気がして、終日引き籠もったことがありました(2月21日条)。町役人の仕事は忙しそうであるので、心配です。


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文政12年5月6日(1829年)
三中先生は本日ご休筆です。
昨日の日記で「夕方に持病の喘息が再発し、家で療養」と書いていましたので、今日は療養に専念したのかと思われます。
#色川三中 #家事志

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文政12年5月7日(1829年)
山口後ろの田植えを行った。今年初めての田植え。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦五月、梅雨の季節であり、江戸時代の土浦ではこの時期に田植え。昨年も5月に田植えがあちこちで行われてきました。三中は高持百姓であり、実際の田植え作業は小作が行っているのでしょうが、藩に年貢を納める義務は高持百姓にあるので、農産物の出来は生活に直結します。


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文政12年5月8日(1829年)曇
和田屋貞右衛門が江戸から帰ってきた。先般の江戸の火事の様子を聞いたが、江戸ではまだ何も分からず、焼けた土が往来に積み重なっている由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸の文政大火(文政12年3月21日発生)の続報。三中の日記では翌3月22日条でこの大火のことが初めて記録されています。火災の発生から1ヶ月半が経ち、江戸に行った者から情報を聞き出そうとしますが、まだ混乱しており、何も分からず、焼けた土が往来に積み重なっている状態です。

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文政12年5月9日(1829年)
曇、昼より大雨。
大町の色川金平方から奥印のお礼に酒1升をもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
奥印とは、書類に記載された事実の正しいことを証明するために奥書に印をおすこと。町役人が公証機能を果たしていたのです。奥印を押してもらったら町役人には御礼をする決まりのようで、今日の御礼は酒1升でした。
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文政12年5月10日(1829年)雨
この頃毎日体調不良で不快。どうにもよろしくない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今月5日から持病の喘息が再発してしまい、それ以降、体調不良が続いているようです。時は旧暦5月で梅雨時。昨日も今日も雨ですから、なかなか体調も戻らないのでしょう。
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付1:大町の隠売女の件の処分
(日記の訳)
先般の大町の隠売女の件につき本日処分が言い渡された。
六ツ時、山屋等を御呼び出し。町役人は奥井吉右衛門殿が参加。
今回の件は不届き至極であるので、
山屋 弥助:手鎖の上、過料7貫文
江戸崎屋 伊助 : 手鎖の上、過料5貫文
大屋 定四郎 : 科料3貫文
表組合の者ども:各科料700文
「今回の件は、隠売女に似た者を置いていたという大変不届き至極な行為であり、本来であれば3年間の科料を申し付け、屋敷や株を取り上げ、厳科に処するところであったが、御宥免により、上記の処分に留めた。謹んでこの処分を受け入れるべきである。」
名主・年寄等の町役人へは、「その方町方の役人としてよくやったので満足している。今後は奉行所へ届出るには及ばない。取締りをしっかりとするように。」とのご称美あり。町役人一同有り難くお請けした。

(コメント)
大町(現土浦市大町)には、飯盛女・隠売女を置いているという噂の宿があり、町役人が深夜その宿に踏み込んだところ、女性がいる現場を押さえて、検挙に成功しました(4月26日条)。町役人は土浦藩にこのこと届け出て、口書も作成しています(4月27日、28日条)。
5月3日に関係者の処分が言い渡されました。検挙された宿の経営者2名には手鎖+過料7貫文・5貫文、宿の大家は科料3貫文。組合の者にも科料700文という処分です。これで大町の隠売女の件はスッキリと片が付きました。







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