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地蔵尊北011  お首地蔵尊  昔 辻斬りが よく出たところ 改装されました

2017年09月06日 21時11分18秒 | 地蔵尊

2016年12月19日 撮影

土台には

道しるべ が

左  おむろ  さが  あたご

お首地蔵尊装具の解説

旧祠に掲げていたお首地蔵尊名称額は、当時の清水寺高僧松本大円師の書であると伝えられている。裏面に記載されている内容を見ると、長年地元の世話役を務めた旧祠建立者で宮大工曾根傳七氏のご令室が逝去された時の戒名や俗名があり、昭和34年3月吉辰の記載がある。この名称額を、新祠後部の柱に掲げ、旧祠棟木(建立年月記載)とともに永久に保存する。

更新した名称額は、念佛寺住職真空雅明師に依頼の上、永観堂九十世義空玄禮師の書によるものである。ヒノキを使った名称額および正面上部の卍意匠(蟇股 かえるまた)は、匠の技を駆使したもので大工中家政男氏の作である。正面の格子の建具の板は米ヒバで、建具師竹中朗氏の作である。棟札は、ヒノキの赤身材で上白梅町河合康子氏の書による。お首地蔵尊の由来説明板は、平成9年12月京都新聞社からの資料提供により上白梅町河合康子氏、神谷順子氏の考案により作成されたものである。新祠完成を機にお地蔵様の前掛け、毛氈は、上白梅町井田章乃氏のご厚意により全て新作のうえ奉納されたものである。

 

お首地蔵尊奉祀の年月は不詳であるが、古老の語り伝える所によると、江戸時代からこの地に祀られていたと言われている。昭和初期生れの古老の幼少期の記憶では、旧祠建立の前は、数体のお地蔵さまが地上に置かれていたとのことである。

建て替えの前の祠は、昭和29年8月に当時の世話役であった上白梅町(現在の傳七すし、串八のところに在住)で、清水寺などの建立に携わった宮大工曾根傳七氏が住民の融和や町内安全を祈願して自ら建立し、寄進されたものである。

(昭和29年1954年8月から平成28年2016年2月まで存在)

平成28年3月25日に新祠が完成し、3月26日に開眼供養を、北区等持院西町にある念佛寺住職司式のもとに行った。新祠の卍のついた屋根瓦は、現在では入手困難なため、昭和29年のものをできうる限り再使用している。正面上部の卍の彫刻(蟇股 かえるまた)をはさむ上下の梁は、節なしのヒノキの正目、両側の壁材は、重要文化財などで使用されている赤身の杉板を使用している。柱、梁の嵌め合わせ部は、ほぞ穴をあけ、込み栓(こみせん)を駆使して、釘や支持金物を使用しない日本古来の伝統建築様式である在来軸組工法を採用している。

お地蔵さまは、全部で33体祀られている、正面左側(西側)には、2体の立像と1体の座像があり、2体の立像は、宝暦11辛巳(かのとみ)年(1761)7月24日 尾州中嶋郡一之宮(現在の愛知県一宮市) 六十六部供養佛と彫られており、約255年前のものである。立像は3体あったが1体は、下京区の旧日影町に譲ったとの記録があるが現存していない。なぜ当地に存在するかは不明であるが、この北側の旧紅梅町(現在の東紅梅町)あたりから出土したものと伝えられている、その他御影石のお地蔵さまは刻印などが無く、詳細は不明であるが、すぐ東側を流れる紙屋川の改修工事のときに出土したものをお祀りしていると伝えられている。

(辛巳(かのとみ、しんし)は千士の一つ)

昭和29年旧祠完成時の町名は、北野紅梅町、北野白梅町の二町であったが、その後昭和30年に上京区から北区に分区された時、町名変更があり現在は三町になっている。近隣三町で構成するお首地蔵尊協力会、北野紅梅町、北野東紅梅町、北野上白梅町が持ち回りで、例年8月24日ころに地蔵盆を開催している。紅梅、白梅の町名は、北野天満宮で有名な梅に由来しているものと思われる。当地は、京都市北区の南東端にあり、現在地より数十メートルの紙屋川橋以東は上京区になる。

所在地 京都市北区北野東紅梅町22番地先

平成28年3月 お首地蔵尊協力会

北野紅梅町会、北野東紅梅町会、北野上白梅町会

 

六十六部

書き写した法華経を全国六十六ケ所の霊場に一部ずつ納める目的で諸国の社寺を遍歴する行脚僧。鎌倉末期(1300年頃)に始まる。江戸時代には俗人も行い、鼠木綿の着物を着て鐘を叩き、鈴を振り、あるいは厨子を背負い家ごとに銭を乞い歩いた。

金閣寺と竜安寺との分かれ道にあたるこの一帯は、当時竹藪で人通りもなく、夜ごと現れる辻斬りに村人はおびえ、寄り合っては思案にくれていた。誰某か、不幸にも辻斬りにあい命を落とした人々の菩提を弔い併せて村人の安全を願ってお地蔵さんを祀ってはいかがかと建議した。村人は皆これに賛同し、三体のお地蔵さんを祀り、辻斬除を祈願した。

 

2015年4月11日の記事

小さな 祠です 中の様子は わかりません

 

三体のお地蔵さんをお祀りした やがて 辻斬りがなくなると 

お地蔵さんの 首が 三体とも 一刀のもとに 切り落とされていました

地元の人はおそれ敬い 身替地蔵と崇めるようになった

現在は 二体しか残っていません

首から上の病気に霊験あらたかといわれ、親しまれています

花も供えてあり ほったらかしではないようです

 

何か 文字が彫られているようですが 判明できません

 

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五七五

都大路 着崩れしている 偽舞子 /中村

ことわざ

柳に雪折れなし