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石碑伏0100 寺田屋恩賜紀念碑  伏見の寺田屋で

2017年01月07日 19時41分22秒 | 石碑

 

 

寺田屋恩賜紀念碑

 明治37(1904)年2月の日露戦争開戦直前,明治天皇皇后(のちの昭憲皇太后)の夢に坂本龍馬が現れ,日本海軍の勝利は確実だと告げた。皇后はこの夢を坂本の忠魂のなせるものだと誉めたたえ,偶然に坂本の手紙を持って逓信大臣大浦兼武を訪れた寺田伊助(寺田屋とせ養子)らに坂本を援助した功により手元金を下賜した。寺田伊助らはこの記念に霊山にある坂本龍馬の墓前に忠魂碑を建立し,坂本の忠義を顕彰した。この碑は忠魂碑と同様の趣旨を寺田屋を中心にして記念したものである。

 

 恩賜紀念之碑【題額】

 

      皇后宮大夫従二位勲一等子爵香川敬三題額

 

 山城国伏見町の寺田屋は昔より淀川船客の旅宿を業とせり其第六代の主人伊助の妻とせは元治元年九月三十五歳の時夫を喪ひたれとも引きつゝき家業を営み且性頗る義侠に富みたりしかは当時勤王諸藩の浪士東奔西走せる際此家に宿りとせの扶けを受けたる者も少なからさりき文久二年四月薩藩の有馬新七氏始九烈士の王事に殉したりしも此家にして世に之を寺田屋騒動とよへり殊に土佐藩の坂本龍馬氏は常に此家に潜みて天下の大事を図りたるにとせは厚く之を庇ひて其偉業を助けたりとそ惜いかな明治十年九月七日四十八歳にて身まかりぬ今茲に明治三十七年二月我邦の露国と戦端を開かむとするや其月六日の夜不思議にも皇后陛下相模国葉山の御用邸にて御夢に坂本氏の忠魂を認めさせられけることありしか其後余公事を以て關西地方に出張し京都より奈良へ赴く途次五月六日伏見町の大黒寺に詣り九烈士の墳墓を展し又寺田屋の遺跡をも憑吊せしに其事を伝聞けりとて六月に至りとせの三女きぬの夫なる大坂の荒木英一とせの嗣子伊助か保存せる有馬氏の遺墨を携へて上京し余を訪ひて其際尚斯るものもありとて坂本氏よりとせに贈りたる数通の書翰を示せり余之を展観するに及ひて皇后陛下の 御夢を思合せ益々事の不思議なるに感したるまゝ陛下に拝謁して右の次第を上聞し坂本氏の書翰を御覧に供し奉りたるに深く御満足に思召され又とせの義侠をも嘉みし給ひて八月二十五日皇后宮大夫子爵香川敬三氏を以て余に御内旨を伝へられ且若干の御賜ありしかは伊助之を拝戴せり実に格外の光栄と云ふへし伊助感泣の餘英一と相謀り曩に其旧宅の跡に建てられたる九烈士の碑の側に一碑を建て恩賜の忝きを紀念せむとて余に文を乞へり余乃ち喜ひて事の顛末を記し淀川の清き流れと與に永く之を後の世に伝へしむ

  明治三十七年十二月

           逓信大臣従三位勲一等大浦兼武撰

             御歌所参候正八位大口鯛二書

  京都 貝島辰之助刻

 

石碑 前回の記事 ➡  石碑伏0099 坂本龍馬の碑  伏見寺田屋で

関連記事  ➡  史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

 

川柳                                        

 

テレビではなくて誰かと笑いたい /日向の母

 

ことわざ

空き家で声嗄らす(あきやでこえからす)

人が住んでいない家で、声がかれるまで案内を求めても返事がない。いくら努力しても人に認められないこと。

類・空き家で棒振る

 ・縁の下の力持ち

 ・縁の下の舞

 

 

 

 


まち歩き伏338  伏見 変な道

2017年01月07日 07時54分41秒 | まち歩き

フェンス の向こう側にも 道がある  

以前は川だったのだろうか  柵がある

ここは 伏見区 深草泓ノ壺町

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き伏0337  伏見・棒鼻の車石

川柳                                        

捨て印をなんでするのかわからない /藤田

ことわざ

秋葉山から火事(あきばやまからかじ)

火難よけの神を祀る秋葉神社(静岡県周智郡秋葉山にある)から火事を出す。人を戒める立場にある人が、自ら過ちを犯してしまうたとえ。

類・火消しの家にも火事

 

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石碑伏0099 坂本龍馬の碑  伏見寺田屋で

2017年01月07日 06時36分35秒 | 石碑

 

坂本龍馬の碑

明治37(1904)年2月の日露戦争開戦直前,明治天皇皇后(のちの昭憲皇太后)の夢に坂本龍馬が現れ,日本海軍の勝利は確実だと告げた。皇后はこの夢を坂本の忠魂のなせるものだと,誉めたたえ,偶然に坂本の手紙を持って逓信大臣大浦兼武を訪れた寺田伊助(寺田屋とせ養子)らに手元金を下賜した。寺田伊助らはこの記念に霊山にある坂本龍馬の墓前に石碑を建立し,坂本の忠義を顕彰した。それが京都霊山護国神社にある坂本龍馬忠魂碑であるが,この碑は霊山の碑と体裁・碑文が同一で,霊山の碑の忠実な複製だと思われる。

    贈正四位坂本龍馬君忠魂碑【篆額】

           皇后宮大夫従二位勲一等子爵香川敬三題額

  明治三十七年二月六日我邦ノ露国ト交際ヲ絶ツヤ皇后陛下時ニ葉山ノ御用邸ニ在ラセラレテ不思議ニモ御夢ニ白衣ニシテ袴ヲ穿チタル三十七八歳ノ男子恭シク御前遥ニ跪キ微臣ハ坂本龍馬ニ候ガ今回露国ト戦端ヲ開カセ給フトモ決シテ御心ヲ煩ハサセ給フコト勿レ微臣モ及バズナガラ我海軍ヲ護リ候ヘバ我邦ノ勝利ヲ得ルコト疑フベクモ候ハズ冀クバ御心安ク思召シ給ヘト言上スト見給フヤ其姿失セタリシカバ陛下ニハ深ク龍馬ノ忠魂ヲ嘉ミシ給ヒタリトゾ其後兼武公事ヲ以テ關西地方ニ赴キ五月六日山城国伏見町ノ大黒寺ニ詣リ文久二年四月寺田屋騒動ノ難ニ殉セシ薩藩ノ士有馬新七以下九烈士ノ墳墓ヲ展シ又寺田屋ノ遺跡ヲモ憑弔セシニ六月ニ至リ寺田屋ノ親戚荒木英一其義兄寺田伊助ノ保存セル坂本氏ガ王事ニ奔走中伊助ノ母寺田屋とせニ与ヘタル数通ノ書翰ヲ携ヘ兼武ヲ東京ノ官舎ニ訪ヘリ兼武一見輙チ皇后陛下ノ御夢ヲ思ヒ合セ益事ノ不思議ナルニ感ジタルマヽ陛下ニ拝謁シテ右ノ次第ヲ上聞シ其書翰ヲ御覧ニ供シ奉リタリシニ八月二十五日ニ至リ皇后宮大夫子爵香川敬三氏ヨリ陛下ニハ御覧済ノ上深ク御満足ニ思召サレ殊ニ龍馬ガ国事ニ尽力シ遂ニ不慮ノ難ニ遭ヒタルヲ御哀悼アラセラレ亡霊弔慰ノ為金若干ヲ下賜セラルトノ御内旨ヲ兼武ニ伝ヘラレタリ是ニ於テ伊助英一感戴拝喜遂ニ相謀リテ一碑ヲ京都霊山ニ在ル坂本氏ノ墓側ニ建テムトシ兼武ニ文ヲ乞ヘリ嗚呼皇后陛下ガ常ニ国事ニ御心ヲ煩ハサセ給フコトノ深キト王事ニ殉セシモノヲ御追悼アラセラルヽノ切ナルトハ今更申スモ畏シ坂本氏ガ歿後殆ンド四十年ヲ経ルモ其英魂ハ今猶国家ヲ守護シ御夢ニマデ現ハレ以テ陛下ノ御心ヲ安ンジ奉ラムトスルニ至リテハ何ゾ其レ誠忠ナルヤ惟フニ開戦以来我陸海軍ノ連戦連捷スル所以ハ一ニ大元帥陛下ノ御稜威ト將士ノ忠勇ニ由ルト雖モ亦安ゾ坂本氏ノ如キ誠忠ノ士常ニ我邦ヲ冥護スルニアラザルヲ知ラムヤ感激ノ餘其顛末ヲ録シ永ク坂本氏ノ忠魂ヲ表ス

  明治三十七年十二月

                       逓信大臣従三位勲一等大浦兼武撰   従七位近藤富壽書

建立年 1904年   建立者 寺田伊助・荒木英一

 関連記事  ➡  史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0098  天壌無窮  昭和17年

 

川柳                                        

握手してどうしてカメラの方向くの /トロモン山

ことわざ

秋の日は釣瓶落とし(あきのひはつるべおとし)

水を汲む釣瓶が手を放すと勢いよく井戸の中に落ちていくように、秋の日脚は速くすぐに暮れるというたとえ。

類・秋の日の鉈落とし