旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

リーガの街を歩く

2013-10-11 12:26:09 | ラトビア
RIGAは、ラトヴィア語では「リーガ」と発音される。ラトビア人の集落はそれ以前からあったが、1201年にブレーメンの司教アルベルトがやってきたことが、現代の商業港リーガのはじまりだ。ブレーメンとは今でも姉妹都市で、有名な「音楽隊」の像が置かれている。
13世紀のバルト海を我が物としていたドイツハンザ商人たちは、この町にたくさんの倉庫を建設した。それらは今でも旧市街の基本的な顔となっている。この三つの北ドイツ風建物は、右から16世紀、17世紀、18世紀に建設されたもので、通称「三兄弟」と呼ばれる
いちばん右の建物が右に少し傾いたような水平線を持っているのは、わざとそのように造られているそうな。元はパン屋で、屋根裏の小麦樽を転がしやすくするためだった、とか。

より新しい時代の商人の館、頂上右手に猫がとりつけられているのが見えるだろうかガイドブックによると、のネコはかつて逆の向きで、ここに住むラトヴィア商人が加盟を拒まれた大ギルドの方向に尻を向けていたとされる。現在はその大ギルド商館自体が無くなって、こちらの商館が残った。

旧市街北の路地、古い城壁にあるスェーデン門18世紀にロシア支配がはじまった際、拘束されていたスエーデン兵がこちらから祖国へ帰されたからその名前になったと解説された。

火薬塔は赤く紅葉した蔦で覆われ、美しい横に新しく建てられているKARA(戦争の)博物館。

市内には1991年のソ連からの独立闘争の時の弾痕も残されている。この内務省では銃撃戦が発生し窓の近くには(修復されているが)多数の弾痕がある

ヤコブ教会のすぐ横に「バリケード記念碑」があったこれは、1991年の独立闘争時に、ソ連の戦車が街を動き回れないように各所につくられたバリケードを意味している。ちょうど大聖堂前の広場で25周年記念の写真展が行われていて、その様子がよく分かった

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新市街との境目を流れる運河沿いは素晴らしい秋の景色

国の三つのエリアをあらわすラトヴィアを捧げ持つ記念像
この運河とダウガヴァ川を巡るクルーズがあると聞いたのだが、そろそろシーズン終わりだったらしい。またの機会がありますように。


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13世紀カトリック時代に建造された聖ヨハネ教会は、内装は新しくなっているが、外観にその昔の雰囲気が感じられる。教会建築を守る人柱として、志願して壁の中に入った修道士たちがあり、彼らに食べ物を投げ入れるためだったと言われる穴同じ壁に取り付けられた顔これは、ガイドブックによると違う解説なのだが、その修道士を思い出させる記念物に見える。

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午前中の最後に「石鹸作り」の趣向を入れてみた。このお店にてこちらからご覧ください。

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ガイドさん情報で、今日正午から大聖堂で短いオルガンのコンサートが行われると知った。お昼を予約していない《手造の旅》はこういう時に効果を発揮できる。入場料5ラッツと聞いたが、支払ってみると小銭でおつりがきた。すでに7ユーロになっていたのだ。ラトヴィアは来年から通貨ユーロに切り替わるのである。

このパイプオルガンのお披露目コンサートで演奏されたのは、かのフランツ・リストがこのオルガンのために作曲した曲。幸いなことに今日の一曲目にその曲が演奏された今日は女性奏者、最後に顔をだしてご挨拶してくれた。

この教会にはかつて修道院時代の中庭がある。赤い小さなリンゴがたわわになっていた齧った方は「けっこうおいしい」との感想。

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コンサートの後、遅めの昼食へ。魚料理をウリにする店へ入ってみる。
お勧めのLake Perch=辞書によるとぺルカ科淡水魚日本人の口にもとてもあう調理。
バルト海のサーモンは、おひとりだけ注文されたのだが、「鮭」というイメージとは全然違った説明してもらうと、バルト海の鮭とノルウェーの鮭とは身の色も全然違うのだそうだ。バルト海は塩分濃度が普通の海の十分の一しかないのだから、同じ魚でなないと言われればそのとおり。いずれにしても、こちらもおいしかったとのこと(^^) 1ラッツ硬貨にも描かれる、ラトヴィアらしい食材のひとつでありましょうか

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遅い夕食をゆっくりたべてからペテロ教会の70メートル級の塔に上る。ここは世界大戦で破壊された後にソ連時代に再建され、エレベーターがある。しかし・・・あいにく雲がとても低くなってきた。お昼の青空から天候は急に変わった。
それでも、入場してみればわかることはいろいろあり、このニワトリはかつて頂上にあったもの戦火でこのような廃墟になった時に焼け焦げたのだろう

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駅の逆側にある世界遺産指定されたという1936年建造の市場を訪問かつて飛行船の格納庫だった建物でもあるということだが、これが何故「世界遺産ん」なのか、ちょっと行ってみているだけではよくわかりません。
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