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旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ムルテンの城壁を歩く

2012-11-05 13:27:10 | スイス
ムルテンはベルンをモデルに作られた城壁に囲まれた街である。中央の大通りの突き当りには同じように時計塔がある

1476年にスイス(いや、当時は「盟約者同盟」という呼び名であった)にとっての重要な戦いのあった土地である。
↓この湖をわたってきたブルゴーニュ公国軍はムルテンを包囲した。

城壁は今でも街を取り囲んでいる。上って歩くと15世紀の雰囲気を感じることができる。
頑丈な城壁の壁を利用して家屋が建てられるのはよくあること。

ドイツ・ロマンチック街道のローテンブルグよりも湖が見える分おもしろいかもしれない。

家々の煙突がそれぞれ違ってみんなおもしろい。

城壁の乗降口はドイツのプロテスタント教会横の細い路地にある。

この教会はもともと1399年のカソリック時代に建てられたが、1710年に現在のバロック式で再建された。
かつての装飾豊かな彫刻はみんな廃棄されてしまったのだろう。
シンプルな内装である。
古い教会は祭壇奥の一部にだけその面影が残されていて、
そこから持ち込まれた説教壇が正面突き当りに置かれている。

城壁沿いにもうひとつフランスのプロテスタント教会の外観。
ここはフランス語とドイツ語、両方の住民が居住している街である↓

メインストリートの突き当りにある15世紀頃と思しき建物(実は1874年後期ゴシック風につくられた建物だそうで、騙された(笑))
かつて収穫したニンジンを貯蔵する穴を持っていたので「リューベン(リューブリ=ニンジン)ロッホ(穴)」と呼ばれる。

ムルテンの鉄道駅へ直通する道をつくろうと、この建物を破壊する計画がもちあがったが、
幸い予算不足で実現されず、この建物は生き残った。
**
城壁を出てすぐのところに伝説の菩提樹がある。

ムルテンの戦いの勝利を知らせるため、ベルンに向かって走った伝令は、
その印に菩提樹の枝を持っていた。
それと同じ枝から現代まで続いている木だというのである。

ムルテンの博物館はかつての水車小屋を改造してつくられた。

ムルテンは戦いののちベルンとフリブールに五年毎に交代統治されることになった。
この石の紋章は真ん中に帝国自由都市の双頭の鷲
※ムルテンは帝国自由都市13世紀には帝国自由都市の称号を得ている
左にベルンの熊・右にフリブールの白と黒の紋章が刻まれている。
サポーターとして立っているライオンがムルテンの紋章からきているのだろう。


この椅子は街の「お代官様」が使っていたものだそうだが、
はて、この台座の引出はなぁに?
係員に訊ねると「暖房用の炭を入れていた」とのこと。
寒いところなんですね。


選挙で選ばれた議員さんも、
最後にこの袋に入っている籤をひいて当たらなくては代表になれなかったそうだ。
金の玉は本当に当選。
銀の玉は落選。
神によっても選ばれることが必要だった
わけですな。



この祭りの面はムルテンの紋章になっているライオンをあらわしている。
ちょっとコワイ


ムルテンの戦いで使われた銃が一番下の階に展示してあった。
種子島に伝わる半世紀前のものだが、
まるで木の棒に鉄の筒を埋め込んだだけのような構造をしていた。
先込めで火薬に点火するための火縄をつける穴だけが手元にある。
引き金さえも見当たらないが・・・下にちょこっと出ているのがそれ?

鉄砲というものの原型を見た気がした。

勝者ブーベンベルグ家のアドリアン(英語読みでエイドリアン)の像。彼の像はベルンにもある。

こちらは敗者、ブルゴーニュ家のシャルル突進公↓

彼の死によって、ブルゴーニュ家の中世の秋は終わり、一人娘のマリーが嫁いだ先のハプスブルグによって次の時代に引き継がれていった。

この日の夕食は、小松には珍しくチーズフォンデュ⇒次の日記をご覧ください。
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