屛東の荒地を沃野に変えた「地下ダム」は1923年、鳥居信平(とりいのぶへい)によって建設された↑この写真は伏流水を取水した水路が地表に出てきたところ↑畑に流す水量を調節するために二本に分けてある。
↑水量が多い時は右側の水路で川に戻す水を増やす仕組み↑
左側を流れる水が網目状の水路に分岐してサトウキビ畑を潤した↓
台湾の水利システムに貢献したのは烏山頭ダムを建設した八田與一だけではない。
*
朝、高雄を出発して南へ向かう。
高屛川を渡り高雄市から屏東県に入る。
正面に標高3092mの北大武山、2841mの南大武山が見えてきた。
この何気ない道を超えるときに「185号線は『ばんかい』でした」と言われた。
「ばんかい」って何?
『番(蕃)界』とは、台湾原住民の住むエリアとの境界線を指す言葉だった。
台湾の原住民は首狩りの習慣まであり
日本も統治時代にも多くの犠牲があった。
調べてみると、清朝時代から(それ以前という話もあり)外からやってきた人々と原住民のあいだの紛争を防止するため、堀をつくって碑を立て「永禁民越密開」などと刻んでいた。
「防止する」とは都合のよい言い方で、要は動物のように隔離していったのだ。
先住民が侵略者に追いやられて居住区に押し込められる構図はアメリカインディアンだけではない。
今でもここを境にパイワン族の人々の村になっているのだそうだ。
↑たしかに村を歩く人々の服装が違う↓選挙ポスターの大看板の女性も
↑民族衣装姿である。
↑学校の正門左右にはパイワン族の巨像↑
独自の文化を大事にしていると感じられる。
堤防にも彼らの絵。
ずっと続いている
毒蛇が多い場所だが、このあたりの部族の守り神だそうだ。
↑地下で伏流水をとっていると言われても地上から分かる場所は限られている。
↑この展示の右端に地下へ降りる入り口塔がある↓
↓中を覗くと地下へ降りる梯子が見えた↓
地下の道は水量が多いと水没する危険がある。
↓下の絵の右上にこの塔が描かれている↓
↑水をろ過する三角形の装置が地上に再現されていた↓
↑これだけ見ても何かわからないけれど↑解説図をちゃんと見れば理解できる。
↓下の地図の右上、三つの点線が交差する「D」がこの場所↓
↑地図上で川の上を右から左に地下水路が流れ↑左の街から畑へと誘導されてゆく↑
地下にこれだけの設備を建設するには、原住民パイワン族の理解と協力=労働力が不可欠だった。
鳥居信平は時には族長たちと飲み明かし信頼関係を築いていった。
この工事が彼ら自身の生活を向上させることを理解してもらった。
そして、工事がはじまる。
当時の標準以上の労働条件だった。
※ノンフィクション作家 平野 久美子さんがこちらのページに詳しく書かれています
工事技術以上に、現地に住む人々への真摯な向き合い方があったからこそ「地下ダム」は成功したと言える。
近くの公園に鳥居信平氏の胸像が置かれたのは2014年↓
それより先の2009年に鳥居の出身地静岡県袋井市に設置された。
製作したのは許文龍という実業家。台湾の大企業CHIMEI(奇美)の創業者は彫刻もつくる。
※2019年に台南のCHIMEIの博物館を遠望しておどろいた
パイワン族の昔からの暮らしがわかる↑丸いのは高床式の穀物倉庫
石を積んだ家↑ここではコンクリートを使っているがほんとうは石だけで精緻に積まれる。
村を見下ろす岩山の材質がこの硬い石↑
パイワン族の村を歩く
↑これはタロイモの干したのと落花生
村を抜けて少しいくと冒頭写真の「出水口」に至る。
さらに下流にもうひとつ「出水口」
大量のパイプが突っ込まれていてびっくり!
なんと、勝手に各家庭に水をひいているパイプなのだそうだ。
↑「森林保護に協力して樹木伐採をしない原住民に補助金が支給される」↑その申し込み期間を告知している↑原住民にだけ特別補助金を出すのもよくある構図。
「113年度」は中華民国建国の1911年からはじまる台湾独自の年号。
1911+113=2024年。
取水した水が畑の入り口に至ると、三方向に分配する円形の分配器がある。
↑覗き込むと一方から流れ込んだ水が三方向へ分かれて出てゆく↓
ここにたたずむ鳥居信平と台湾製糖の社長↓
すぐそばに「台湾公司」の看板↓
↑戦後、日本時代の製糖会社は合併させられ「台湾糖業公司」となった↑
鳥居が完成記念に植えた木は、台風で折れたりしながらも立ち続けている↓
↑巨大な枝豆みたいなのがぶらさがった木は何?
ドライバーさんがやってきて、
枝から落ちた乾いた実をパリンと二つに割った。
***
十数年前に大規模な山崩れがあり、
政府が平地に新しい村を用意して移り住んだ地域を通った。
↑遷村記念記念碑がある
整然と画一的にならんだ住宅街には、
同じパイワン族の村でもさっき歩いて通ったところのような雰囲気は、ない。
↑教会の壁にはパイワン族の服装をした聖家族↑
原住民部族にはキリスト教信者が多い。
キリスト教の宣教師たちを最初に受け入れたのは、
権力に虐げられた人々だったということだろう。
日本と同じように。
***
川から水を引いて沃野をつくりだす…
鳥居信平は百年前の中村哲だと思った。
長い治水の歴史を持つ日本人は、かかわりを持った土地でその力を発揮していたのか。
「蕃界」を超えて異民族の中で仕事をした鳥居氏が
中村氏のように命を落とすようなことにならなくてよかった。
↑水量が多い時は右側の水路で川に戻す水を増やす仕組み↑
左側を流れる水が網目状の水路に分岐してサトウキビ畑を潤した↓
台湾の水利システムに貢献したのは烏山頭ダムを建設した八田與一だけではない。
*
朝、高雄を出発して南へ向かう。
高屛川を渡り高雄市から屏東県に入る。
正面に標高3092mの北大武山、2841mの南大武山が見えてきた。
この何気ない道を超えるときに「185号線は『ばんかい』でした」と言われた。
「ばんかい」って何?
『番(蕃)界』とは、台湾原住民の住むエリアとの境界線を指す言葉だった。
台湾の原住民は首狩りの習慣まであり
日本も統治時代にも多くの犠牲があった。
調べてみると、清朝時代から(それ以前という話もあり)外からやってきた人々と原住民のあいだの紛争を防止するため、堀をつくって碑を立て「永禁民越密開」などと刻んでいた。
「防止する」とは都合のよい言い方で、要は動物のように隔離していったのだ。
先住民が侵略者に追いやられて居住区に押し込められる構図はアメリカインディアンだけではない。
今でもここを境にパイワン族の人々の村になっているのだそうだ。
↑たしかに村を歩く人々の服装が違う↓選挙ポスターの大看板の女性も
↑民族衣装姿である。
↑学校の正門左右にはパイワン族の巨像↑
独自の文化を大事にしていると感じられる。
堤防にも彼らの絵。
ずっと続いている
毒蛇が多い場所だが、このあたりの部族の守り神だそうだ。
↑地下で伏流水をとっていると言われても地上から分かる場所は限られている。
↑この展示の右端に地下へ降りる入り口塔がある↓
↓中を覗くと地下へ降りる梯子が見えた↓
地下の道は水量が多いと水没する危険がある。
↓下の絵の右上にこの塔が描かれている↓
↑水をろ過する三角形の装置が地上に再現されていた↓
↑これだけ見ても何かわからないけれど↑解説図をちゃんと見れば理解できる。
↓下の地図の右上、三つの点線が交差する「D」がこの場所↓
↑地図上で川の上を右から左に地下水路が流れ↑左の街から畑へと誘導されてゆく↑
地下にこれだけの設備を建設するには、原住民パイワン族の理解と協力=労働力が不可欠だった。
鳥居信平は時には族長たちと飲み明かし信頼関係を築いていった。
この工事が彼ら自身の生活を向上させることを理解してもらった。
そして、工事がはじまる。
当時の標準以上の労働条件だった。
※ノンフィクション作家 平野 久美子さんがこちらのページに詳しく書かれています
工事技術以上に、現地に住む人々への真摯な向き合い方があったからこそ「地下ダム」は成功したと言える。
近くの公園に鳥居信平氏の胸像が置かれたのは2014年↓
それより先の2009年に鳥居の出身地静岡県袋井市に設置された。
製作したのは許文龍という実業家。台湾の大企業CHIMEI(奇美)の創業者は彫刻もつくる。
※2019年に台南のCHIMEIの博物館を遠望しておどろいた
パイワン族の昔からの暮らしがわかる↑丸いのは高床式の穀物倉庫
石を積んだ家↑ここではコンクリートを使っているがほんとうは石だけで精緻に積まれる。
村を見下ろす岩山の材質がこの硬い石↑
パイワン族の村を歩く
↑これはタロイモの干したのと落花生
村を抜けて少しいくと冒頭写真の「出水口」に至る。
さらに下流にもうひとつ「出水口」
大量のパイプが突っ込まれていてびっくり!
なんと、勝手に各家庭に水をひいているパイプなのだそうだ。
↑「森林保護に協力して樹木伐採をしない原住民に補助金が支給される」↑その申し込み期間を告知している↑原住民にだけ特別補助金を出すのもよくある構図。
「113年度」は中華民国建国の1911年からはじまる台湾独自の年号。
1911+113=2024年。
取水した水が畑の入り口に至ると、三方向に分配する円形の分配器がある。
↑覗き込むと一方から流れ込んだ水が三方向へ分かれて出てゆく↓
ここにたたずむ鳥居信平と台湾製糖の社長↓
すぐそばに「台湾公司」の看板↓
↑戦後、日本時代の製糖会社は合併させられ「台湾糖業公司」となった↑
鳥居が完成記念に植えた木は、台風で折れたりしながらも立ち続けている↓
↑巨大な枝豆みたいなのがぶらさがった木は何?
ドライバーさんがやってきて、
枝から落ちた乾いた実をパリンと二つに割った。
***
十数年前に大規模な山崩れがあり、
政府が平地に新しい村を用意して移り住んだ地域を通った。
↑遷村記念記念碑がある
整然と画一的にならんだ住宅街には、
同じパイワン族の村でもさっき歩いて通ったところのような雰囲気は、ない。
↑教会の壁にはパイワン族の服装をした聖家族↑
原住民部族にはキリスト教信者が多い。
キリスト教の宣教師たちを最初に受け入れたのは、
権力に虐げられた人々だったということだろう。
日本と同じように。
***
川から水を引いて沃野をつくりだす…
鳥居信平は百年前の中村哲だと思った。
長い治水の歴史を持つ日本人は、かかわりを持った土地でその力を発揮していたのか。
「蕃界」を超えて異民族の中で仕事をした鳥居氏が
中村氏のように命を落とすようなことにならなくてよかった。