国際関係研究に大きな足跡を残された、スタンレー・ホフマン氏(ハーバード大学)がお亡くなりになったことを研究仲間から知らされました。
永井陽之助先生が、ホフマン教授を高く評価されていたことから、私は、大学院生時代、ホフマンの論文をよく読みました(ホフマン氏の来歴や学問的スタンスなどは、P. グルビッチ氏の追悼文が参考になります)。しかし、ケネス・ウォルツ氏のホフマン批判が、私にとって、あまりに強烈で説得的だったため、それ以降は、ホフマンをあまり読まなくなりました。
ホフマン氏の訃報に触れ、彼が最も気に入っていたエッセーの1つである「響きと怒り―歴史における社会科学者対戦争」を読み返えそうと思い立ちました。本棚から、このエッセーが収録されている、S. Hoffmann, Janus and Minerva: Essays in the Theory and Practice of International Politics (Westview Press, 1987)を取り出すと、アレキサンダー・ジョージ氏の本書に対する賛辞を裏表紙に見つけました。少し意外に思いました。
本をペラペラめくっていると、ホフマン氏のただでさえ深い思索を英語の学術エッセーを通して理解しようとして、苦しんだ当時の記憶が蘇ってきます。しかし、誠にありがたいことに、今では、ホフマン氏の主要論文やエッセーが、中本義彦氏(静岡大学)のご尽力により日本語で読めます。
そこで、今回は中本氏の名訳に頼ることにします。
「響きと怒り」は、奇しくも私が生まれた年に書かれたものです。内容は、歴史における人間の自由と必然の哲学的な考察です。この論考の基底には、当時の時代背景、すなわち冷戦真っただ中の核戦争に対する危機意識があります。このエッセーは、戦争研究の方法論にも言及しており、戦争原因を理論的・実証的に明らかにしようとする、無謀な試みをしている私の胸をグサッと刺すような、ホフマン氏の鋭い指摘も散見されます。
このエッセーを再読して、ホフマン氏が言わんとしていることは、何となく理解できるのですが、その核心を正確にとらえている自信は全くありません。思慮の深さが、そこにはあります。ただ、一読者として、彼の以下の主張は強く印象に残りました。
「平和主義者やブレヒト主義者のシニシズムに共感するのはたやすい。(中略)平和主義者(とブレヒト主義者)の『明快さ』は彼らが局外者の立場に身を置いている(ことによる)。…局外に立って非難する者は皆、曖昧な立場に身を置くことになる。局外者は、自分自身が所属する共同体の上に絶対的な道徳基準―たとえば人命の尊重―を位置づけることになる。…なるほど、人間を戦争に導く連帯の主張には、ある種の道徳的盲目さがつきまとうものである。しかし、平和や人命を語って連帯を否定すれば、ある種の道徳的傲慢さが生じてしまう」(『スタンレー・ホフマン国際政治論集』437-439ページ)。
鋭い指摘です。ホフマンは、こうも言っています。「いわばつま先たちになって政治家よりも少し遠くを見る権利と義務が批評家にはある」(17ページ)と。もちろん、学者と批評家は同義ではありませんが、ここで彼は、社会科学者が政治家そのものや国家の政策を論評するときの道徳的スタンスのことを言っているでしょう。果たして、それが妥当なのかどうか。「何とも言えない」としか、今の私には答えられないのが、もどかしいところです。
永井陽之助先生が、ホフマン教授を高く評価されていたことから、私は、大学院生時代、ホフマンの論文をよく読みました(ホフマン氏の来歴や学問的スタンスなどは、P. グルビッチ氏の追悼文が参考になります)。しかし、ケネス・ウォルツ氏のホフマン批判が、私にとって、あまりに強烈で説得的だったため、それ以降は、ホフマンをあまり読まなくなりました。
ホフマン氏の訃報に触れ、彼が最も気に入っていたエッセーの1つである「響きと怒り―歴史における社会科学者対戦争」を読み返えそうと思い立ちました。本棚から、このエッセーが収録されている、S. Hoffmann, Janus and Minerva: Essays in the Theory and Practice of International Politics (Westview Press, 1987)を取り出すと、アレキサンダー・ジョージ氏の本書に対する賛辞を裏表紙に見つけました。少し意外に思いました。
本をペラペラめくっていると、ホフマン氏のただでさえ深い思索を英語の学術エッセーを通して理解しようとして、苦しんだ当時の記憶が蘇ってきます。しかし、誠にありがたいことに、今では、ホフマン氏の主要論文やエッセーが、中本義彦氏(静岡大学)のご尽力により日本語で読めます。
そこで、今回は中本氏の名訳に頼ることにします。
「響きと怒り」は、奇しくも私が生まれた年に書かれたものです。内容は、歴史における人間の自由と必然の哲学的な考察です。この論考の基底には、当時の時代背景、すなわち冷戦真っただ中の核戦争に対する危機意識があります。このエッセーは、戦争研究の方法論にも言及しており、戦争原因を理論的・実証的に明らかにしようとする、無謀な試みをしている私の胸をグサッと刺すような、ホフマン氏の鋭い指摘も散見されます。
このエッセーを再読して、ホフマン氏が言わんとしていることは、何となく理解できるのですが、その核心を正確にとらえている自信は全くありません。思慮の深さが、そこにはあります。ただ、一読者として、彼の以下の主張は強く印象に残りました。
「平和主義者やブレヒト主義者のシニシズムに共感するのはたやすい。(中略)平和主義者(とブレヒト主義者)の『明快さ』は彼らが局外者の立場に身を置いている(ことによる)。…局外に立って非難する者は皆、曖昧な立場に身を置くことになる。局外者は、自分自身が所属する共同体の上に絶対的な道徳基準―たとえば人命の尊重―を位置づけることになる。…なるほど、人間を戦争に導く連帯の主張には、ある種の道徳的盲目さがつきまとうものである。しかし、平和や人命を語って連帯を否定すれば、ある種の道徳的傲慢さが生じてしまう」(『スタンレー・ホフマン国際政治論集』437-439ページ)。
鋭い指摘です。ホフマンは、こうも言っています。「いわばつま先たちになって政治家よりも少し遠くを見る権利と義務が批評家にはある」(17ページ)と。もちろん、学者と批評家は同義ではありませんが、ここで彼は、社会科学者が政治家そのものや国家の政策を論評するときの道徳的スタンスのことを言っているでしょう。果たして、それが妥当なのかどうか。「何とも言えない」としか、今の私には答えられないのが、もどかしいところです。