7月30日
後
7月もあと一日と少し。「暑い、暑い」と言っているうちにもう8月です。早っ
最近友人から紹介された方が軽井沢
に別荘
をお持ちのようで、絵葉書
が届きました。羨ましいです
涼しそうです。
最近生協に加入したため買物時間が浮き、放置されて倉庫状態のkazukichi姉の部屋の模様替え兼片付けを始めました(大げさにいうと、これからの人生をどう生きるか?という方針が決まらないと、残す本
も決められない、という悪循環に陥って片づけられなかったのです)。
クーラーをガンガンつけ、頭に描いたイメージ通りに、あちこち本棚を移動して、本棚別に分野を決めました。作りつけの本棚を注文しようかと思いましたが、とても高いので、やめました(そのお金で旅行した方がいいような気がします
)。
ビデオデッキは処分してしまったので、ビデオのシリーズは郷里の庭の片隅にある倉庫行きにしましょう。郷里の図書館に寄付する教育的な価値のありそうな本も…
スッキリ、片付いたら、害虫(梅雨の時、蛾とヤスデのような気持悪い虫がいたのです
)をチェックし、ベッドを購入し、書斎兼寝室にする!
8月の目標がこれではちょっと夢がなさすぎですが
<インドの旅>
第2章 デリーの印象-カルチャーショック第2弾
翌朝8時頃起床、インドで初めての朝を迎えた。ホテルの庭には日本でよく見かける花、サイネリア、金魚草、キンセンカ等が種々の彩りで、咲き乱れている。思ったほど暑くはなく、さわやかで澄んだ空気がちょっぴり張りつめたような日本でいえばちょうど5月頃の朝の感じである。まぶしい朝の光を浴びながらセッちゃんと私はカメラのシャッターを押した。掃除人の男たちは朝の仕事が済んだのだろうか?3、4人コンクリートの廊下に座りながら、うつろな眼差しで私たちを見つめていた。
朝食のメニューにはインド料理と西洋料理の二通りがあった。最初からインド料理は無理だと思ったので、全員“Western Style”を注文する。しかし、ホテルの食堂内は様々な香料が混じり合った独特の臭気が漂っている。この、臭気を「香り」と感じるようになれば、平気でインド料理を食べられるようになるのかもしれないと思った。
2月のデリーは日本人にはちょうどいい気温だが、食後のコーヒーを付き合ってくれたボガートこと、バジャージ氏はワイシャツの上にセーターを着込んでいる。その日一日のスケジュールを打ち合わせ、早速二日目の行動を開始した。まず、デリーの街、オールドデリーとニューデリーの両方をバジャージ氏の愛車フィアット(イタリア製ではなく、技術提携してインドで生産されたもの)で見物する。
ニューデリーはインドが英国の植民地となってから出来た新しい街であるだけに、近代的な建物が並び、道路もきちんと整備されている。赤砂岩造りの国会議事堂は、実に堂々とした建物である。他方、オールドデリーはまさにここぞインドという感じで、何千年もの垢が街の隅々までしみついている。
人、人、人…、牛、牛、牛…。それにポンコツに近くてやたらクラクションばかり鳴り響く自動車、自転車、リキシャー(日本の人力車が東南アジアからインドへ渡って行ったものが起源らしいが、人が引っ張るのではなく、自転車の後部に二人乗りの二輪車を取り付けたものが多い。最初に動かすとき、運転手は力がいるので、立ったままでペダルを踏む)。その他に、物売りの屋台、乞食もたくさん…道路というよりは、いろいろな物を置いたり、動かしたり、あるいは自分自身が移動するための通り、広場といった方がふさわしいような気がする(日本でいう「雑踏」とは程度が異なる)。交通信号も見当たらず、騒音だらけの街中に強烈なインドの民衆のバイタリティが溢れている。極彩色のサリーの店が建ち並ぶところを、バジャージ氏の愛車フィアットはノロノロと走った。
アメリカに旅行した経験のある中山さんを除く女性3人組には初めての異国の地であり、同じアジアの国とはいえ、日頃慣れ親しんでいる西洋文化とは全く違う文化に接しているわけだから、そのカルチャーショックには凄まじいものがあった。オールドデリーの街中を歩くということは、突然アラブや北アフリカのバザールに放り出されたと同じような感じではないだろうか?従ってインドの“銀座”を優雅に散歩、というわけにもいかず、二日目の午前中は、市内観光といっても、車の窓からざっと街の様子を眺めただけにとどまった。
午後のティータイムはバジャージ氏宅で過ごすことになった。出迎えてくれた夫人は細面、上品な顔立ちの女性で、薄茶色無地のサリーがとてもよく似合っている。バジャージ氏の兄にあたる方も、大学生の息子さん、娘さんを連れて茶会に参加した。50歳くらいの端正な顔立ちで、アメリカの世論調査機関「ギャラップ社」のデリー支局に勤務とのことだった。息子さんは会計学、娘さんは英文学、とインテリ一家であった。
私たち4人、それにバジャージ氏の家族で、狭い応接室はいっぱいになった。夫人の額に付いている赤い丸印について尋ねたら、インドの既婚女性はみな付けるとのこと。訪問記念にケースに入った沢山の色粉を各自プレゼントされた。私は一週間分とか言いながら欲張って7色を分けてもらった。金色の粉はお目出度い儀式のときにでも使うのだろうか?付け方をきいたら、額の真中にニベアクリームを塗り、その上にサリーの色に合わせた粉を付け、直径5ミリくらいの大きさにしてガーゼで丸く型をとるだけでよいとのこと。3人で、早速額に赤丸をつけてもらい、既婚婦人になりすまして記念撮影をした。その後、薄い銀紙に包まれたココナッツケーキをご馳走になった。強いクセのある味で、日本人には甘過ぎてとても食べられない。一口食べただけであとは辞退した。
お菓子ひとつを例にとってもこのような有様であるから、その後の食べ物の苦労は大変なものだった。日本にいるときのように和洋中の料理を毎日三食いろいろ変化のある食事をすることができない。インド化された西洋料理か、辛くて飛び上がりそうなごった煮のスープ(日本のカレーとイメージは遠いが、みなXXカリーという名前がついている)のどちらかを、細長くてぱさぱさしたゴハン粒の上にかけて食べるのが通常の食事パターンであった。
バジャージ宅を辞した後は、ニューデリーのコンノートプレースにあるICEOの事務局を訪れた。コンノートプレースは植民地風の列柱を持つ洒落た建物が円形に並んでおり、中には銀行、商社のオフィス、それに商店も入っている。人々は強い日差しをよけてアーケード風のこの通路を歩く。薄いクリーム色の建物が多いせいか、埃っぽいインドの風土では汚れがひどく目立ってしまう。
ICEOの事務局が入っているビルはエレベーターがなく、ホテルをすでにチェックアウトしていた私たちは4階まで重い荷物を持って昇らなければならなかった。事務局ではラム氏の秘書のミセス・ラジーニ(20代半ば位?)がタイプライターーのキーをたたいていた。優雅なサリー姿でてきぱきと仕事をこなしている様子に敬服する。壁には各国のグループが訪印した時の写真や記事が貼られていた。以前日本からやってきたグループの写真もあった。そこで、私たちは全行程のアテンドをしてくれる協会のワーキングスタッフのラジェーシュ(以下ラジ)さんを紹介された。
ラジさんは29歳、独身の青年。堂々とした体格の持ち主だが、事故で不幸にも目を傷めてしまったせいで、度の強い眼鏡をかけている。人懐っこい笑顔から温厚そうな人柄があふれまずは安心する。
ラム氏の説明によると、私たちは4人だけの少人数であるため、最初のスケジュールを変更し、途中アーメダバードでドイツ人のグループと合流するということだった。ドイツグループは大勢らしい。インドでドイツの人々に会える!それも何日間か行動を共にすることが出来る。ドイツ語は全く話せないが、ドイツ人は英語が出来る人が多いときいていたので、何とかコミュニケーションは出来るだろう。ドイツ人の一端をうかがい知るよい機会でもある。また、予期せぬチャンスが訪れることになり私の胸は躍った。