Gute Reise!!

実りの秋が近づいていますが、お天気が安定しません。
旅行の計画がある人はちょっと心配ですね。

半世紀以上前の通知表発見!

2010年07月31日 | Weblog
7月31日

 今日はまいける兄が帰省しているので、我が家は賑やかです。

 昨日は、kazukichi姉小学校1年のときの通知表が出てきてびっくりしました。だいぶ前に母が「片づけものをしていたら出てきたから…」と渡してくれたのをそのまましまいこんであったのです。

 先生のコメントに「算数の態度に関する評価が良くないのは、算数セットのこまごまとしたものの管理がよくできずに、紛失させたりするから…」というようなことが書いてありました

 親の欄に「常日頃整理整頓をしつけているのですが、これからはいっそう気をつけたいと思います」と恐縮しながら(?)と書いてあるのをみて大笑い。

 これは生まれつきだわ。この性格はまいけるには遺伝しませんでしたが、兄の方にばっちりいってしまいました。

 この性格を自覚しているので、忘れ物はしますが、紛失は今まであまりしなかったような気がします。でも、年齢からいうとこれからはますます気をつけなくてはね

 そのほかは、25歳の記念に日本橋三越の写真館で写真を撮ったのが出てきたことです。お見合い写真には使いませんでした(お見合いしなかったから)。

 まいけるはブログにその写真を載せてたくさんのコメントをもらったようです。

 後は、まいける大学3年のときの通知表も出てきました。届いたときはさっと見て、「卒業できればいいか。」と思って放置しておいたのです。昨日よく見たら、数学の成績が悪い!「何!この成績は」と怒ったけれど、効果なし、「時効」でしたね。

 どれも笑いあり、で面白かったですが、こんな調子なので少しも片づけが進みません

 今日はインドの旅をお休みします。
 

部屋の片づけ&インドの旅(昔)-第2章

2010年07月30日 | Weblog
7月30日

 7月もあと一日と少し。「暑い、暑い」と言っているうちにもう8月です。早っ

 最近友人から紹介された方が軽井沢に別荘をお持ちのようで、絵葉書が届きました。羨ましいです涼しそうです。

 最近生協に加入したため買物時間が浮き、放置されて倉庫状態のkazukichi姉の部屋の模様替え兼片付けを始めました(大げさにいうと、これからの人生をどう生きるか?という方針が決まらないと、残す本も決められない、という悪循環に陥って片づけられなかったのです)。

 クーラーをガンガンつけ、頭に描いたイメージ通りに、あちこち本棚を移動して、本棚別に分野を決めました。作りつけの本棚を注文しようかと思いましたが、とても高いので、やめました(そのお金で旅行した方がいいような気がします)。

 ビデオデッキは処分してしまったので、ビデオのシリーズは郷里の庭の片隅にある倉庫行きにしましょう。郷里の図書館に寄付する教育的な価値のありそうな本も…

 スッキリ、片付いたら、害虫(梅雨の時、蛾とヤスデのような気持悪い虫がいたのです)をチェックし、ベッドを購入し、書斎兼寝室にする!
8月の目標がこれではちょっと夢がなさすぎですが

<インドの旅>

第2章 デリーの印象-カルチャーショック第2弾

 翌朝8時頃起床、インドで初めての朝を迎えた。ホテルの庭には日本でよく見かける花、サイネリア、金魚草、キンセンカ等が種々の彩りで、咲き乱れている。思ったほど暑くはなく、さわやかで澄んだ空気がちょっぴり張りつめたような日本でいえばちょうど5月頃の朝の感じである。まぶしい朝の光を浴びながらセッちゃんと私はカメラのシャッターを押した。掃除人の男たちは朝の仕事が済んだのだろうか?3、4人コンクリートの廊下に座りながら、うつろな眼差しで私たちを見つめていた。

 朝食のメニューにはインド料理と西洋料理の二通りがあった。最初からインド料理は無理だと思ったので、全員“Western Style”を注文する。しかし、ホテルの食堂内は様々な香料が混じり合った独特の臭気が漂っている。この、臭気を「香り」と感じるようになれば、平気でインド料理を食べられるようになるのかもしれないと思った。

 2月のデリーは日本人にはちょうどいい気温だが、食後のコーヒーを付き合ってくれたボガートこと、バジャージ氏はワイシャツの上にセーターを着込んでいる。その日一日のスケジュールを打ち合わせ、早速二日目の行動を開始した。まず、デリーの街、オールドデリーとニューデリーの両方をバジャージ氏の愛車フィアット(イタリア製ではなく、技術提携してインドで生産されたもの)で見物する。

 ニューデリーはインドが英国の植民地となってから出来た新しい街であるだけに、近代的な建物が並び、道路もきちんと整備されている。赤砂岩造りの国会議事堂は、実に堂々とした建物である。他方、オールドデリーはまさにここぞインドという感じで、何千年もの垢が街の隅々までしみついている。

 人、人、人…、牛、牛、牛…。それにポンコツに近くてやたらクラクションばかり鳴り響く自動車、自転車、リキシャー(日本の人力車が東南アジアからインドへ渡って行ったものが起源らしいが、人が引っ張るのではなく、自転車の後部に二人乗りの二輪車を取り付けたものが多い。最初に動かすとき、運転手は力がいるので、立ったままでペダルを踏む)。その他に、物売りの屋台、乞食もたくさん…道路というよりは、いろいろな物を置いたり、動かしたり、あるいは自分自身が移動するための通り、広場といった方がふさわしいような気がする(日本でいう「雑踏」とは程度が異なる)。交通信号も見当たらず、騒音だらけの街中に強烈なインドの民衆のバイタリティが溢れている。極彩色のサリーの店が建ち並ぶところを、バジャージ氏の愛車フィアットはノロノロと走った。

 アメリカに旅行した経験のある中山さんを除く女性3人組には初めての異国の地であり、同じアジアの国とはいえ、日頃慣れ親しんでいる西洋文化とは全く違う文化に接しているわけだから、そのカルチャーショックには凄まじいものがあった。オールドデリーの街中を歩くということは、突然アラブや北アフリカのバザールに放り出されたと同じような感じではないだろうか?従ってインドの“銀座”を優雅に散歩、というわけにもいかず、二日目の午前中は、市内観光といっても、車の窓からざっと街の様子を眺めただけにとどまった。

 午後のティータイムはバジャージ氏宅で過ごすことになった。出迎えてくれた夫人は細面、上品な顔立ちの女性で、薄茶色無地のサリーがとてもよく似合っている。バジャージ氏の兄にあたる方も、大学生の息子さん、娘さんを連れて茶会に参加した。50歳くらいの端正な顔立ちで、アメリカの世論調査機関「ギャラップ社」のデリー支局に勤務とのことだった。息子さんは会計学、娘さんは英文学、とインテリ一家であった。

 私たち4人、それにバジャージ氏の家族で、狭い応接室はいっぱいになった。夫人の額に付いている赤い丸印について尋ねたら、インドの既婚女性はみな付けるとのこと。訪問記念にケースに入った沢山の色粉を各自プレゼントされた。私は一週間分とか言いながら欲張って7色を分けてもらった。金色の粉はお目出度い儀式のときにでも使うのだろうか?付け方をきいたら、額の真中にニベアクリームを塗り、その上にサリーの色に合わせた粉を付け、直径5ミリくらいの大きさにしてガーゼで丸く型をとるだけでよいとのこと。3人で、早速額に赤丸をつけてもらい、既婚婦人になりすまして記念撮影をした。その後、薄い銀紙に包まれたココナッツケーキをご馳走になった。強いクセのある味で、日本人には甘過ぎてとても食べられない。一口食べただけであとは辞退した。

 お菓子ひとつを例にとってもこのような有様であるから、その後の食べ物の苦労は大変なものだった。日本にいるときのように和洋中の料理を毎日三食いろいろ変化のある食事をすることができない。インド化された西洋料理か、辛くて飛び上がりそうなごった煮のスープ(日本のカレーとイメージは遠いが、みなXXカリーという名前がついている)のどちらかを、細長くてぱさぱさしたゴハン粒の上にかけて食べるのが通常の食事パターンであった。

 バジャージ宅を辞した後は、ニューデリーのコンノートプレースにあるICEOの事務局を訪れた。コンノートプレースは植民地風の列柱を持つ洒落た建物が円形に並んでおり、中には銀行、商社のオフィス、それに商店も入っている。人々は強い日差しをよけてアーケード風のこの通路を歩く。薄いクリーム色の建物が多いせいか、埃っぽいインドの風土では汚れがひどく目立ってしまう。

 ICEOの事務局が入っているビルはエレベーターがなく、ホテルをすでにチェックアウトしていた私たちは4階まで重い荷物を持って昇らなければならなかった。事務局ではラム氏の秘書のミセス・ラジーニ(20代半ば位?)がタイプライターーのキーをたたいていた。優雅なサリー姿でてきぱきと仕事をこなしている様子に敬服する。壁には各国のグループが訪印した時の写真や記事が貼られていた。以前日本からやってきたグループの写真もあった。そこで、私たちは全行程のアテンドをしてくれる協会のワーキングスタッフのラジェーシュ(以下ラジ)さんを紹介された。

 ラジさんは29歳、独身の青年。堂々とした体格の持ち主だが、事故で不幸にも目を傷めてしまったせいで、度の強い眼鏡をかけている。人懐っこい笑顔から温厚そうな人柄があふれまずは安心する。

 ラム氏の説明によると、私たちは4人だけの少人数であるため、最初のスケジュールを変更し、途中アーメダバードでドイツ人のグループと合流するということだった。ドイツグループは大勢らしい。インドでドイツの人々に会える!それも何日間か行動を共にすることが出来る。ドイツ語は全く話せないが、ドイツ人は英語が出来る人が多いときいていたので、何とかコミュニケーションは出来るだろう。ドイツ人の一端をうかがい知るよい機会でもある。また、予期せぬチャンスが訪れることになり私の胸は躍った。

インドの旅(昔)ー第1章後編

2010年07月29日 | Weblog
7月29日
 久しぶりの雨です。涼しいです。梅雨が明けてから初めての雨でした。暑さのため卓球教室は2週続けて休みましたが、来週は暑さにも慣れた頃でしょうから、参加の予定です。

 さて、ジャズボーカルは今日が夏期の前半最終日でした。これから1カ月夏休みに入ります。間が空きすぎて調子が狂うといけないからと、夏休みに1回だけみなさんで市内の有名カラオケ店に行くことになりました(そのご報告もまた後日に…)。

 インドの旅、まだまだ始まったばかりで面白さもイマイチ、というところですが、これから波乱万丈(?)の旅が続きます。

<インドの旅>

第1章後編 インドで最初のカルチャーショック

 4人とも初めてのインド旅行とあって勝手が分からない。空港にはインド国際文化協会(ICEO)のラム会長が出迎えてくれることになっていた。彼を見つけ出さないことには、私たちはホテルさえ行けなかった。つまり、滞在先のホテルが分からないのである(日程表にホテル名が記入されていないのに、よく何の不安も抱かずに飛行機に乗ったものだ)。中山さんが、薄暗い空港(電気代を節約?)の出口で、「ミスターラム、ミスターラム」と大声で呼ぶのだが全く応答なし。傍で客待ちのタクシー運転手たちが「俺が、ラムだよ」と口ぐちに言いながら彼をからかっている。それを見ていた周囲の人々がどっと笑い出す。12、3歳くらいの薄汚れたシャツを着た裸足の少年も何人かいる。こちらの4人はいよいよ困惑し、「とんでもない所に放り込まれてしまった」と思わずにはいられなかった。

 しかし、ひたすら待つこと30分、やっとラム氏の代理としてバジャージ氏の一行が現れた。裸足の少年たちが、頼まれもしないのに私たちの荷物を車のトランクまで運ぶ。早速チップウを請求されたがほとんど無視することにした。とにかく、一刻も早くその場を離れたい私たちは慌てて車に乗り込んだ。

 「飛行機の到着時間がスケジュール通りじゃなかったので…」と、挨拶もそこそこにして、くどくどと迎えが遅れたことの弁解が始まる(そして、それからずっとインド滞在中、この独特の自己弁護癖に悩まされることになる。話は横道に逸れるが、ある人はこのインド人共通の習癖は英帝国植民地時代の名残だという。被支配者の立場にあった人々の悲しさか?)。

 ラム氏代理の一行が運転していたアンバセダーという名の国産車は車体が高く、昔の日本の道路を走っていた車の型によく似ていた。デリーの夜の街並みは東京のようにネオンの色が華やかではない。真っ暗な闇の中に、ヘッドライトで照らされた木立や建物がすうっと浮かび上がっている感じである。石造りの古い建物を幾つか目にしたとき、つくづく古代の歴史が生きている国に来たという実感がわいてきた。デリー随一豪華なアショカホテルを横目に、二台の車に分乗した私たち一行は、無事サフダルジャングローカル空港近くのRホテルに着いた。

 ホテルの入口には、赤いターバンを巻き、黒い制服を着た体格のよいシーク教徒のガードマンが二人立っている。ポーターが、荷物を部屋まで運んでくれたが、現地通貨ルピーを持ち合わせていないのでチップを払うことができない。ともあれ、空港で最初の“異国の恐怖”を体験した私たちはホテルのガードマンやポーターの鋭い目付きにさほど驚かずにすみ、部屋に着くなり早速シャワーを浴びた。

 ほっとくつろいだのもつかの間、中山さんから早速、女性3人部屋に電話があり、協会役員を紹介するから身支度をして彼の部屋に来るようにとの指示が出る。一刻も早くベッドに横たわりたかったけれど、早速「国際交流」が始まる。

 ICEOのラム会長とのやっとの対面である。ラム氏は眼光鋭く、文化人というよりはギャングのボス、という風格の持ち主だった。バジャージ氏は空港ですでに会っていたが、ラム氏とは対照的で映画『カサブランカ』に出ていたハンフリー・ボガートに似て男前(少々出っ張り気味のお腹さえ引っ込めば、という条件付きだが…)。彼はチャータード銀行、デリー支店勤務のビジネスマン。デリー滞在中は「ボガート氏」が私たちの世話をしてくれることになった。

 各自自己紹介が終わると、スーツ姿のラム氏一行に交じって白衣のドーティ(民族衣装)を着た大柄の男性(使用人らしい)が一人交じっていて、女性の私たちにプレゼントをせがんできた。「初対面の人に物をねだるとは何ということか!」と思ったが、別に恥ずかしいことではないらしい。チップを出す習慣のない日本人の方が無神経なのかもしれない。私のトランクからは、早速トランプ一箱が消えた。

インドの旅(昔)ー第1章前編

2010年07月28日 | Weblog
7月28日 暑いですが、図書館の本も返却しなければならないし、ほかの用事もたまっていたので、外出しました。

 短い時間、途中カフェで休憩もしたのに、帰宅した頃は心拍数が上がり、熱中症の前触れかと慌てました。

 一生懸命冷やして何とか正常に

 ブログのアップも遅れてしまいました。

 今日は『インドの旅』の最初の部分をアップします。

 *1970年代のインドは現在とはだいぶ違っていると思います(もちろん、歴史的建造物などはそのままの状態と思いますが)。また、用語も現在では不適切な表現もあるかもしれません。なるべく原文を生かし、そのままにしています。ただし、

1.プライバシーに配慮して、個人名などは仮名にしてある人もいます。
2.あまり冗長な表現は適宜短くしました。
3.love affairsに関しては差しさわりがあるので、さらっと書いておこうかと思っています。

 他にもありますが、kazukichiコメントを時々入れる予定なので、そのときに補足する予定です。

 では、始まり、はじま~り~…

<インドの旅>

 第1章前編 民間の文化使節としてインドに行く

 197X年、日本国際文化協会(JICE)主催の「インド文化交換プログラム」の一行4名は羽田空港を飛び立った。「団体」というには、あまりにも少人数のメンバーで同協会の役員の中山さんが引率者、セッちゃんにイッちゃんと私の3人が参加者で総勢4名のグループである。
 中山さんとイッちゃんは千葉県の同じ市内に住んでいるので多少の面識があったが、とにかく4名とも、全く別々の生活をしてきた人間同士であった。小柄でやせ気味の中山さんや私とは対照的に、セッちゃんもイッちゃんも体格がよく、とても丈夫そうな様子だった。たとえ、1か月足らずとはいえ、熱帯性気候の地を旅するにはあのくらいの体格ではないと無理なのかなと、貧弱な我が身を憂いつつ飛行機のタラップを昇った(ただし、インドに着いてから、彼女二人は意外と南国の気候に弱く、私が一番病気もせずに丈夫であるということが分かった)。郷里の母もわざわざ上京し、羽田まで見送りに来てくれた。
 文化使節の使命を全うせねばという気負いもあるせいか、生まれて初めての飛行機の旅はとても緊張する。それでも、離陸後しばらくすると次第に気持もほぐれリラックスしてきた。JALのDC-10はジャンボ機のように大型ではないので乗員の人たちとのコミュニケーションも密である。
 気流が安定し、シートベルトサインが消え、機内を歩けるようになると、私たちは後部ドアのところに立って、窓から眼下の雲を見ながら、乗員の人たちと雑談を交わし始めた。
最初は乗員の方たちが、JICEのロゴの入った私たちのお揃いのショルダーバッグに興味を持って質問をしてきた(それから何を話したかは覚えていない)。
 「国際文化交流」という大義名分はなくとも、私はインドという国に対し興味を持っていた。たいていの人はインドに対してあまり良いイメージを持っていないようだ。激しい貧富の差、万年人口増加、食糧不足、伝染病、不安定で暑すぎる気候などなど…。インド文化交換プログラムの参加人数が欧州方面のプログラムに比して少ないのも、インドに憧れる人があまりいないせいかもしれない。少数派の私がインドに関心を寄せるきっかけとなったのは、一枚のカレンダーであった。
 郷里の家で過ごした子供時代、古くて薄暗い日本家屋の座敷には不釣り合いな美しいカラーのカレンダーが掛けてあった。世界の有名建築物がテーマであったと思う。ニューヨークの摩天楼にそびえ立つエンパイヤ・ステートビル、インドのアグラにある、タジ・マハール(マハル)廟の写真などがあった。左右完全対称の白い大理石の建物。前庭の美しい緑、南国の真っ青なそら、色とりどりの美しいーサリー姿の女性たち。一度でいいからあそこに行ってみたいという強い憧れを抱くことになったのだ。カレンダーが撤去されてから何年か経てチャンスが巡ってきた(当時は社会人になったばかりではあったが、会社を退職し、国際文化交流の旅にチャレンジすることになったのである)。
 真冬の服装だった私たち一行は、給油のために立ち寄ったバンコックの空港に着き初めて猛暑に襲われ、南国に来たとの感を深くする。免税店の販売員女性はタイ人であるが、小柄で浅黒い肌をしている。顔の表情は日本人に似ていてあまり違和感を覚えない。待合室で小一時間も待った後、ハイジャック防止のため、男性の係官が男性の乗客のみボディチェックをした(女性客はなぜかフリーパスだった。インドでは女性係官が女性乗客のボディチェックをしていたが…)。
 再び搭乗券を手にタラップへ向かう。飛行機は東から西に向かっているので、いつになっても日が暮れない。一時間ごとに腕時計の時刻を調整する。やっと夕方になり、日没に近いヒマラヤの山々を眼下に見る頃、旅の疲れが出てきたとみえ少しまどろみかけた。どのくらい眠ったのだろうか?目を開けて窓の外を見ると、真っ暗闇の中、遥か彼方に紫色の無数の(空港)誘導灯が点滅していた。
 デリーのパラム空港に着いたのは現地時間の午後7時30分、約3時間半の時差を考えると、日本時間では午後11時にあたる。飛行機から降りて空港内のバスに乗る。真っ青なサリーを纏ったJALデリー支店の美しい女性スタッフが案内係だった。運転手も浅黒く彫の深いインド人男性。「やっとインドに着いた!」と一同お互いに顔を見合わせる。若干の不安と緊張、それに多くの期待が入り混じった複雑な表情である。バスを降り、入国手続きのため空港ビルに入った。羽田より、ずいぶん小さなビルのような気がする。
 私たち一行の前を行く二人の日本人ビジネスマンは、頻繁にインドを訪れているのか入国係官とは顔見知りになっていたようだった。税関の役人はインド訛りの強い英語でスーツケースの中身を一つ、一つチェックする。日程の半分近くが家庭滞在であったので、各々ホストファミリーに簡単な土産品を持参していた。しかし、「ギフトです」というと課税されてしまうので、「これは私の個人的な持ち物です」とJICE事務局の指示通りに答えた。
空港の手続きは出発前のオリエンテーションで受けたマニュアル通りスムーズに進んだ。しかし、それからが大変であった。私たちは出口のところで、前途多難な旅の第一歩を迎えたのである。



料理をテーマにしたドラマに夢中

2010年07月27日 | Weblog
7月27日

 梅雨が明けて10日くらい経ちますが、毎朝夕花の水やりをする作業が一つ加わりました。

写真のフクシアは好きな花ですが、なかなかきれいに開きません。水やりが間に合わなくてしおれたり、蕾が虫食いになったり

 何とか形が整った花を撮影しました。

 今夜はTVドラマ『天使のわけまえ』が楽しみです

 一番楽しみにしているのは、ケーブルTVで見る韓国ドラマ『食客』です。

 (『チャングムの誓い』で韓国料理に興味を持って以来です。)

 天才的な才能を持つ主人公が、行商トラックで全国を回りながら、新鮮な材料で、美味しい料理を作り、周囲の人を幸せな気分にする。
 
 本当は名門料理人の末裔なのですが、寅さんのように風来坊のような生活を好むところがあるようです(料理対決は日本にも似た
マンガがありましたね)。

 食べ物、韓国各地の美しい風景、主人公を密かに想う女優さんのファッション等、たくさんの見どころがあって楽しいです。

 kazukichi姉自身は消化器系が弱く辛い料理ばかり食べると、胃腸をこわしてしまうのですが、唐辛子を入れない、あるいは少なめがいいです。
宮廷料理なら大丈夫でしょうか?でも、お財布には優しくなさそうです。

 一番感動したのは、主人公のガールフレンドの実家に泊めてもらったとき、朝早く起きて、周囲の山や畑から新鮮な材料を取ってきて、
豪華な朝食を作り、(病気のために味の感覚を失っていた)彼女の母親が味を
感じることができたのを見たときでした。

 kazukichi姉もどこかの農家に泊めてもらい、夏の朝早起きして新鮮な材料で
ご馳走を作ってみたいです(腕はまあまあですよ)。

 
 母が他界して一年になりますが、母が元気で畑にたくさん野菜を作っていた頃、
もっといろいろ料理を作ってあげればよかったなあ、とも思いました
(洋裁、和裁、手芸は得意だけれど、料理はあまり得意ではなかったので)。


追記

部屋の片づけをしていたら、30数年前にインドを旅した時の、紀行文が出てきました。
今年の夏は海外旅行の予定がないので、番外編として『インドの旅』を時々載せる予定です。

原稿用紙の文字をPCに入力してからになりますので、毎日は無理かも?

原稿用紙が行方不明にならないうちにデータを保存しておくよい機会になります。

 

暑さで注意散漫にー買った扇風機を置き忘れ

2010年07月25日 | Weblog
7月25日

昨日は猛暑の中、月に一回の勉強会に都心まで出かけました。都心はさらに自宅の周辺より数度は気温が高かったです

 夕暮れ時に帰宅しましたが、きれいな空を見ることができたので、まあまあ良い一日でした。

 今日は日曜日ですが、パソコン台と電話台を粗大ゴミ収集場所まで運びました(収集券を貼れば、前もって出すことができるシステムなので、
家族に手伝ってもらえる日にしました(パソコン台は引き出し無なのに、電話台の倍以上の金額でした)。

 午後は家電量販店へ扇風機を買いに行きました。扇風機を買う前に別の店で夏用の敷物、クッションなどもまとめて購入(こちらは配送を依頼)。

 大型店は広いのでなんでも揃っていますが、歩き回ると疲れます

 突然眠気に襲われたので、買物の後、ハンバーガーショップで冷たい飲み物を飲んで休憩。

 そのままバス停へ。

しまった!買った扇風機をハンバーガーショップに忘れてきてしまった!! 

 大慌てで店に電話(こういうときにレシートを取っておくと便利ですね)。

 運良く置引きにもあわずにすんだので、店に取りに戻りました。

 炎天下の中をバス停まで二往復したので、体調がますます悪くなってしまい大変でした。

 暑さで頭がボーツとしてしまい、注意力散漫になったようです(でも、冬にも買った物を置き忘れたから、暑さのためだけではないのかも?)。

 他の店では置き忘れをしないのに、家電量販店で二回も失敗をするとは!

 ー洋服屋さんでは絶対ないのですけれどね

 クーラーだけでは、暑さをしのげないので扇風機を買ったのですが(以前の家で使っていたのは古くなったので昨年処分)、
レジには同じ扇風機を持って並んでいる人がいたので人気のある型のようです。

 今日の写真はハイビスカス、さすが南国の花、暑さの中でとても元気です。

         
 
 ちなみにランチはインド料理レストランで、カボチャとチキンのカレー、ナン、サラダ、チャイをいただきました(スタミナ付けて買物に行ったつもりでしたが、
頭の働きが付いていかなかったようで…)。

昔の映画で、「エアコンのない夏」を思い出す

2010年07月24日 | Weblog
 朝、日経を読んでいたら、コラム欄に『張り込み』という古い映画のことが書いてありました。

 家にDVDがあったので最初だけ見ました(残りは、夜ゆっくりと)。

 冷房のない夜行列車の風景が出てきます。2人の刑事が横浜駅から飛び乗ります。

 駅には市電(路面電車)の案内表示なども写っていました。

 映画が公開されたのは1958年だそうです。SL列車にはいろいろな人が乗っていました。

 男の人たちは暑いので上着を脱いで、ランニングシャツ姿です。若い母親は赤ちゃんを
抱いてノースリーブのワンピース姿でした(白黒なので、ワンピースの色は不明)。

 刑事2人は最初席がなく、通路に座っていましたが、途中下車する人がいて、
目的地の九州に着く前には何とか座ることができました。

 これからストーリーが展開していくのですが、昔の人はエアコンない夏を過ごして
 いたので、暑い、暑いといいながら、暑さに慣れていて、熱中症にかかる人は今ほど多くなかったのでしょうね。

 そういえば、子供の頃は田舎の家に住んでいたので、それほど暑さは感じなかった
(フェーン現象の時を除いて)のですが、エアコンのない学校は暑かったです。

 高校生のころ「暑い」と言った人は、言う度に10円を寄付し、みんなでお金を集め、
アイスクリームを食べたことを思い出しました。

 

夜の侵入未遂者

2010年07月24日 | Weblog
7月24日

 昨夜はとても怖い思いをしました。夜遅く、ドアをドンドン、ドアノブをガチャガチャ回す人がいたのです。

 ドアが壊れるかと思うほど大きな音でした。

 たぶん、酔って家を間違えた人だろうと善意に解釈して警察には届けなかったのですが、必死で叫びました
「家を間違えています!!」


 しばらくして、別の家のドアを叩く音が消え、いつのまにか静かになりました。

 おそるおそる、ドアを開け、壊れていないか確かめました。OKでした。

 転居したての頃は自分の家だと思って、鍵を入れたら入らないので、確かめたら違う家のドアだったということが一度ありました。

 集合住宅なので、間違えやすいのです

 戸建てに住んでいたときも一回、屈強な男性が夜中に「開けろ!」と玄関を叩き、開けてもらえないと知ると、裏口にまわってまた叩いたことがありました。

 怖くて110したら、担当警察官に「あなたの声が冷静なので、本当かどうか疑わしい…」と言われてしまったのですが、それでもパトカーで駆けつけてもらいました。

 雪の日で足跡があり、裏口のドアのところに男性が寝ていたので疑いは晴れたのですが、大柄の男性でした。後で、その方が認知症だったことが分かり、ご家族の方がお詫びのケーキをもって挨拶に…放置していて凍死なんてことになったら大変でした。

 二度とこういう経験はしたくないと思っていてもあるんですね

 戸締りはしっかりしよう!