行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『春日 酔いより起きて 志を言う』(李白)

2016-02-29 01:30:21 | 日記


昨晩は愉快な仲間に囲まれ、至福の時を過ごした。ビールとワイン、焼酎と白酒を合わせ飲んだが、目覚めはさわやかだった。晴れ晴れとした心持のせいだろう。李白の詩『春日 醉いより起きて 志を言う』を思った。

世に処(お)ること 大夢の若し
胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を労する
所以(ゆえ)に終日醉い
頽然として 前楹(ぜんえい)に臥す ※前楹は「入口の柱」の意
覚め来たって 庭前を眄(なが)むれば
一鳥 花間に鳴く
借問す 此(こ)れ 何(いづ)れの時ぞ
春風 流鶯(りゅうおう)に語る ※流鶯は「鳴きながら飛ぶ鶯」
之に感じて歎息せんと欲す
酒に対して還(ま)た自ら傾く
浩歌して明月を待ち
曲尽きて已に情を忘る
(松浦友久編訳『李白詩選』)

時は春である。庭の梅が満開だ。鶯が梅花の間に見える。仲間に囲まれ、ついうれしくなって飲み過ぎてしまった。春眠暁を覚えず、と言うではないか。酔いから目覚めたが、まだ酔っているような余韻がある。酔っているのか覚めているのか。人生も所詮は同じ。あくせくしてもしょうがない。夢か現かの境などは、もともとあいまいなものなのだ。『荘子』には荘子が夢の中で胡蝶になり、目が覚めた後、胡蝶が目の前にある「現実」の夢を見ているのではないかと自問する有名な「胡蝶の夢」の物語がある。李白の文『春夜 桃李の園に宴するの序』には次の言葉がある。

「夫れ天地は、万物の逆旅(げきりょ)にして、光陰は百代(ひゃくだい)の過客(かかく)なり。而して浮生は夢の若し、歓を為すこと幾何(いくばく)ぞ。古人 燭を秉(と)りて夜遊ぶは、良(まこと)に以(ゆえ)有るなり」

「浮世は夢のごとし」とは荘子への共感だろう。この境地が、月と影を相手に独酌する詩を生んだ。夜の遊びを高らかと称賛するのは酒仙の心意気だ。私もそれに乗じて羽目を外させてもらったわけである。

人の意識はかくも確固としたものではない。現代の大量情報化社会において、個人の覚醒を維持し続けるのは容易でない。ひとたびインターネットの海に飛び込めば、迷路と知らずに迷い込むか、混沌の中で自分を見失うか、夢と現実の境さえもあいまいになってしまうだろう。眼前の世界をみなが共有しているという幻想に支えられているからこそ成り立つ空間なのだから。むしろ、仲間に囲まれ酒に酔っている方がより目覚めていると言えるかもしれない。

駆けつけ三杯を中国では「罰として三杯」と言う。もともとは遅れてきた罰ではない。気の利いた詩を詠めない罰である。酔いつつ覚めていなければできない遊びが詩作だったというわけだ。眠くなってきたが、今夜はどんな夢を見るのか。それとももう大夢の中にいるのか。うるう年のおまけもまた夢の如し。

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