行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

夏休みの終わり、新学期の始まりに③

2019-08-28 04:36:37 | 日記
昨年開設した新たな科目「AI時代のメディア」が好評で、毎学期、多数の学生が定員枠を競っている。この授業でも答えを探すのではなく、問いを立て続け、考えることに主眼を置いている。インターネット時代に育った若者たちは、それまでのメディア環境が想像できない。だからこそ、人類の進化とともに変貌を続けているメディアを、大きな時間軸の中でとらえる視点が必要となる。

では、メディア(媒体)とは何か。辞書を引く必要はない。人間が周囲の環境と接する橋渡しだと考えればよい。生まれた瞬間から、人はメディアを必要とする。人間と環境の間にあって、手段や道具となる。手足をばたつかせることから始まり、身体の機能をさらに拡大させ、脳が文字を生み、時間と空間の制約を超越した世界を生じさせた。

マクルーハンは「メディアは身体の拡張である」と言ったが、車や飛行機、貨幣もまたメディアとなる。彼の言葉でより注目すべきは、「メディアは
はメッセージである」との独特な表現だ。主観と客観を考えるキーワードとなる。媒体は客観的、中立的に存在しているのではなく、それ自体が意味を持ち、主観的な振る舞いをする。私流に解釈すれば、メディアは環境と接する人間の主観性から逃れることができないからである。

しかも、人間の視点、思考はある一点に固定されているのではなく、環境に対応し、その周りを廻っている以上、相互作用という複雑な要素が入り込む。ドースキンに言わせれば、「遺伝子の長い腕」によって、生物はみな環境に対応して身体を拡張しており、それはビーバーのダムや鳥の巣、トビケラの幼虫の巣などもその例なのだ。人間は道具とテクノロジーによって、とてつもない規模と質の拡張を成し遂げた。

肉声による、ひざを突き合わせた対話から、印刷技術の時代以降、時空を超えた文字によって大規模な共同体が生まれ、国家が誕生した。形を持った媒体がバーチャルな世界に拡散し、メディアは隙間なく環境を覆い、際限なく環境を広げた。AIは脳の拡張だが、もはやメディアの範疇に収まらず、人間そのものに近づいている。環境から脱し、人間の中に入り、一体化しようとしている。利用する手段ではなく、共生や共存を語るべきパートナーにのし上がってきそうな勢いだ。

メディアの発展は、時間的空間的な一回性を突破した複製テクノロジーの発展だと言ってもよい。時空の制約を受けた身体性は弱まり、コピーによるメッセージの氾濫が、人間の主観性や環境との相互作用を脅かしている。身体さえも複製しようとするのが、AIロボットの究極的な姿である。だが、忘れてならないことが一つある。人間は孤立して存在しているのではなく、生まれながらにして社会を持っていることだ。

その社会を支えているのは、進化の過程で、人間が複製遺伝子に導かれ獲得した心である。人の心は、メディアを通じた環境との相互作用によって、柔軟に広がっていく。脳の中に閉じ込められているのではなく、そこから自由自在に飛び出し、環境に反応し、結びつき、また新たな環境を創造する。心にとって、脳は主要なメディアとなるが、脳だけでなく内臓やその他の器官を含めた身体全体をメディアとみなすことができる。その身体は同時に、複製遺伝子を持ちながら、可塑性に優れ、非常に個性的で、個別的なメッセージを持っている。そして身体と心によって生み出される社会もまた、多様で、柔軟な性格を持つことになる。

これがいわゆる「拡張した心(extended mind)」の、メディア論的把握である。身体がメディアによって拡張されるのと同様、身体に宿る心もまた
、環境との相互作用を通じて拡張する。では、AIは心の拡張にいかなる影響をもたらすメディアとなり得るか。あるいは、AIそのものに心は存在し得るのか。新学期からの教室が、私と学生たちにとって、この問いかけを発する思考のメディアとなる。

本日28日、日本を離れ、北京に数日滞在して旧友や卒業生と懇談した後、いよいよ新入生の待つキャンパスに戻る。

(完)

夏休みの終わり、新学期の始まりに②

2019-08-26 08:03:21 | 日記
学生たちが自分の進路、将来についてしばしば口にするのが「迷茫」と「焦虑」だ。日本語で言えば「迷い」と「焦り」。自分の好きなこと、進むべき道が見つからずに迷い、焦る。かつてに比べれば選択肢は増えているはずだが、選択の基準がわからない。「汝自身を知れ」という問いに対する答えが見つからない。ただし、あきらめ、放棄したとしたら迷いも焦りもないのだから、答えを探そうとしていることは間違いない。それが尊い。なんとか手を差し伸べようと思う。

報道は客観的に、自分の主観を排除せよと教えられる。それはジャーナリズムの技法については当てはまったとしても、我々の実感からは外れる。10人の記者が記事を書けば、十通りの記事ができるからだ。脳も心も、三人称ではなく、一人称で語るしかなく、普遍的な客観が存在しているようには思えない。思考も主観でしかあり得ず、客観はしばしば主観による重荷から逃れるための隠れ蓑になる。

「我思う、故に我在り」とはデカルトの個人的な経験でしかない。個人の思索を出発点として、周囲の環境に問いかけ、言葉に置き換え把握していくことで、西洋の科学は進歩してきた。神の存在に支えられた絶対的真理が背骨だった。だが今や人間自らが自身を超えるAIを夢想し、神に代わる創造主の座を奪わんとしている。座標軸が大きく崩れ、客観は足場を失っている。

主観を排除したところで自由や独立を語る価値はあるのか。抵抗が自由の証であった時代は終わった。インターネットは当初のユートピア幻想から大きく隔たり、人を受動的立場に追いやった。洪水のような情報の中で、どうやって選択すればいいのか。その自由をアルゴリズムに譲った結果、受け身に立たされていることの自覚さえ失っている。だからこそ主観を取り戻さなければならないのではないか。

情報は客観という装いをもったメディアが航空便のように運んでくるものではない。しっかりとした主観をもって受け取るものだ。主観を失えば、価値ある情報は目の前を通り過ぎていく。ネットをいくらさまよっても、ざるで水をすくうようなものである。主観をぶつけ合うことによって、集合知の価値も生まれる。

では、主観とは何か。これはそのまま自分とは何かという問いにかかわる難題となる。自分は非常に不確かな存在だ。我々の脳はしばしば錯覚をするし、我々の心は無意識に支配されている。幻肢痛やラバー・ハンド・イリュージョンの実例をみても、身体の境界さえあやふやなのだ。リベットの実験によれば、人はある行動を意図する前、脳がすでに活動を始めているというのだから、そもそも自由意志の存在に議論が沸騰するのもやむを得ない。

ここでも、問いの立て方自体が問われる。既成の概念に縛られ、ありのままの姿を見過ごしていないか。明確な因果律による物理法則にとらわれ、複雑で柔軟な脳と心の働きを見失ってはいないか。進化を後付けのわかりやすい合理性によって理解してはならない。一個体のDNAは不変である。生殖によって偶然が生まれ、それが環境の中で自然淘汰されるに過ぎない。だから進化の物語はあっても、継ぎはぎだらけの作品だ。いい加減さもあり、それが同時に生き延びるために獲得した知恵でもある。

我々が、意志や行動といった自分たちで作った概念に縛られ、あたかもそれが形のあるものとして存在するかのように議論するからおかしくなる。概念が生まれる前に人間は存在したし、世界もそこにあった。この点を突いたのがデネットである。彼は、意志をある時間の点からみるのではなく、無意識と意識を包含した、時間的な広がりを持った異なるプロセスとしてとらえようとする。物質と精神、理性と感情、人工と自然といった二元論ではもはや、人間とは何かの答えを得ることはできない。

脳の柔軟さに対応した新たなパラダイムが必要なのだ。それはきっとコペルニクス的転回を要する思考となるに違いない。地動説が天動説に正統の座を譲ったように、自分を中心にして世界をみるのではなく、自分が主観的に、身体を用い、環境に対応して世界を巡航しているような人間観が必要なのではないかと思える。

ネット空間は、人間の主観を奪って受け身に追いやり、バーチャルの中に埋没して身体を忘れさせ、実体世界との接触から遠ざけて単一のコミュニケーションを生む危険を多分にはらんでいる。自由な議論、独立した思考というが、制約のない自由、完全な独立といったものが果たして可能なのかどうか。新たな問いを立てなければならない。

(続)

夏休みの終わり、新学期の始まりに①

2019-08-24 07:45:54 | 日記
7月初めからの夏休みが終わり、間もなく新学期が始まる。涼しい風が秋の気配を運んでくる。昨日は雨上がりのつかの間、虹が出た。東京にもしばし別れを告げる



広東省、汕頭大学での教師生活はすでに当初契約の3年を経たが、大学側や学生たちの強い支援に支えられ、さらに3年の延長が決まった。初心に帰ると同時、人工知能(AI)を中心とした加速度的な科学技術の発展、それにともなうメディア、コミュニケーション環境の激変にあって、これまで以上の精進が求められる。

内向きになる一方の日本に対し、中国では、特に若者層を中心に、ますます日本への関心が高まっている。「爆買い」だけを騒ぎ立てても、彼らのことは何もわからない。日本の伝統文化からサブカルチャー、環境問題から高齢化社会、地域振興まで、関心の対象は幅広く、そして深い。だから学内唯一の日本人教師として、求められる内容も桁違いだ。多くの共通点、相違点を持つ隣り合わせの文化間を行き来しながら見えてくるものがある。複眼的な視点、思考を学生と共有していくことが、最も自分を生かす道だと考える。

学び、教えることにおいて、いかにして問いを立てるか、こそが根源的な問いとなる。ここでボタンを掛け間違えれば迷路に陥る。

インターネットは革命的な情報環境の変化をもたらしたが、忙しく、移り気な現代人は、その意味をじっくり考える余裕がない。情報の洪水に飲み込まれ、身を任せ、漂流しながら、こま切れで、わかりやすく、安価な処方箋にすがる。ネット検索に慣れた若者は、教室でもすぐに答えを求めることが習い性となっている。答えにたどりつくまでの道のりを効率で測り、問い自体の重要さに気づいていない。問いを与えられるのではなく、自分で探さなければ、思考と呼ぶことはできない。

「何か質問は?」と尋ねても沈黙に包まれる。私が授業でしばしば「人間とAIの違いは?」と問いかけ、

「それは、疑問を持つこと、問いを発すること」

と伝える。科学と技術が手を携え、真理の探究と人間の幸福を旗印に、高速で疾走を続ける。哲学の問いは傍らに追いやられ、ますます遠ざかっている。だからこそみなが問いを発しなければならない。グローバリゼーションによる単一化に抵抗し、異なる文化がそれぞれの存在意義を主張しなければならない。ちょうどドーキンスのいう「利己的な遺伝子」が複製によって自己主張を続けるように。

人は古来、「人間とは何か」「汝自身を知れ」と自問自答してきた。おそらく他の生物にはない、自らの存在を問わざるを得ない「意識」を持った。それは実際、生まれて間もなく、進化の過程を凝縮する中で始まっている。

母親から切り離された嬰児はまず、生存のため手と口を通じて環境を模索し始める。ベンフィールドのホムンクルスが物語るように、脳の働きも多くを手や口からの情報に頼っている。だが特殊な例を除き、母親に守られなければ生きてさえいけない。個体だけをみれば非常にか弱い存在だ。だから自分を守るため、やがて心の中に、自己の存在、自分のものという意識を持ち、次に他者の心に気づく。自分の心を用い、他者の異なる心を推し量る「心の理論」を身につけていく。

遺伝子が人の心を設計し、身体を使って自意識を生み、環境と接触する中で他者の心を知る。それはすべて遺伝子の複製、つまり種の保存につながっている。心は、身体もって生きるために不可欠であり、集団生活が求めた結果であり、社会の中で育っていくものだ。

もはや、大学の教室で「心はどこにあるのか」と問われ、心臓に手を当てる学生は少数になったが、では脳の中にすべてがあると決めつけるのも時代遅れだ。身体から切り離した脳、社会から隔離した脳は、納得のいく答えを与えてくれない。だからいくら脳を切り刻んで、心の所在を確かめようとしても、「人間とは何か」の答えは得られない。

問いの立て方が問われているのはそのためだ。

(続)

中国の若者に刺激され日本の妖怪学を再訪

2019-08-20 17:10:28 | 日記
本日、中野区立歴史民俗資料館の企画展「井上円了没後100年展~円了の妖怪学~」を見てきた。



自宅の近くなのでいつか行こうと思いつつ、新学期で大学に戻る時間が迫り、ようやく重い腰を上げた。歩いて行こうかと思ったが、いかんせんこの暑さなので、中野図書館に行ったついでに、中野駅からバスを使った。企画展尾の概要は以下の公式サイトを参照。

https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/219000/d027351.html

なぜ妖怪を、といぶかる声を先取りして説明すると、まず第一に、中国の学生たちが日本の妖怪(大半は中国伝来なのだが)に強い関心を持っていて、しばしば質問を受けるので、彼ら/彼女らに企画展の内容を伝えてあげたいと思ったこと、同時に自分でも勉強をしなければならないと迫られたこと。もう一つは、この夏休み主要研究テーマの一つなのだが、人間の認知、主として脳と心、身体、環境の関係について何か示唆を得られるのではないかと思ったことだ。

円了は自然科学の知識をもとに、妖怪の非合理性を実証し、存在しないことを訴える。迷信を打破し、科学的な思考を広める啓蒙の使命感を帯びている。なぜならば、彼は幼少からこの不可思議な妖怪に接し、時には怯えながらも、その怯えと向き合い、自問自答の中で乗り越えようとしてきたのだ。そのプロセスは尊い。











絶対的な真理そものも確かでない以上、しょせんは主観的な思考によって落としどころを見つけるしかない。だが、脳神経学の発展やそれを基にした新たな認知モデルの構築によって、人間の普遍的な認知プロセスが明らかになっている。人間の脳の働きは決して数学モデルのように固定的なアルゴリズムには従っておらず、直感や錯覚、思い込みといった意識下の世界にあふれ、理性が情動の奴隷とさえなっている。単一ではなく、双方向で複雑なメカニズムなのだ。

だとしたら、円了が科学的な思考によって排除しようとした「迷信」も、実は、人間の正直な姿を物語っているのではないか、それを否定することは人間らしさそのものを否定することにはならないか、そんな問題意識を持ったのである。

企画展の目玉は、円了が残した哲学堂公園の正門・哲理門の両側に置かれている「天狗」と「幽霊」の像。修復後、初の展示という触れ込みだ。その前に立ち、しばし対話をする。





だがあきらめた。現場から切り取られ、コンクリートの展示室に置かれた「妖怪」は霊気を失い、逆に憐れみを誘った。魂を抜かれた物体に過ぎなかった。だが、まさにその憐憫の情によって、二つの像は私に何かを訴えようとしていたのか。理性によって迷信を打破した結果なのだとすれば、一応のストーリーにはなっているのだろうが、根を失った文化の薄っぺらさだけが目立つ。科学の勝利は万能ではない。

この点において、忘れたはならない人物がいる。妖怪を文化の一断面としてとらえ、人々の心の中に入りこみ、合理的な解釈を試みた柳田国男を併置させてこそ、円了の妖怪学も輝きを増す。時に相対立する議論を交わしたにせよ、人間とは何かという問いに向き合い、人間に対する強い関心を持ち続けたことにおいては、ともに我々が学ぶべき思索的遺産を残した。

貴重な一日であった。長かった夏休みを終え、間もなく新学期が始まる。