独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

着々と世界との門戸を広げている中国

2017-02-28 18:05:25 | 日記
先日、羽田から上海虹橋空港に到着し、通関手続きをしていたときのこと。隣の窓口で外国人の男性が入管の職員とビザを巡ってやり取りをしていた。よく聞いてみると、英語で「モーリシャスはビザなしのはずだ」と言っている。中国側の職員が「ビザがない」と突っ返そうとしたことに反論しているのだ。職員が同僚に確かめたところ、確かにビザ免除であることがわかり無事に通過できた。彼は係官に「You make me afraid」と言い、不快感を表していた。

以前からビザ免除の特別待遇を受けている日本人には縁遠い驚きだが、私はモーリシャスがビザ免除になっていることを初めて知って驚いた。それまで中国にビザなしで訪問できるのは、日本のほかシンガポール、ブルネイだけだと思っていた。調べてみると、ここ数年の間、相互協定によって、モーリシャス、サンマリノ、セーシェル、バハマ、グレナダの計5か国がビザ免除となっていた。つまり中国人も相手国にビザなしで訪問できるということだ。モーリシャスは2013年10月からの措置で、おそらく入国者数が多くないため入管職員も知らなかったのだろう。



中国外交部がこの2月明らかにしたところによると、中国人は37の国家・地区で、イミグレでビザを取得することができる「Visa on Arrival」(アライバル・ビザ)の待遇を受け、11の国家・地区では片務的にビザ免除となっている。先進国の間ではまだ制約が多い。日本に比べれば微々たるものかも知れないが、着実に対外的な人的往来が活発化していることは間違いない。「爆買い」現象を奇異な目で見ているだけの日本人は、その奥にある中国の現状に目が向いていない。一時帰国中感じたのは、日本社会が中国に対し、聞きたくない、見たくないと急速に関心を失っている状況だった。内向き志向は国際認識においてもガラパゴス化を招く。由々しき事態である。

グローバル化を議論することには熱心だが、隣国の現実から目を背けていてはまともな戦略は立てられない。日本はまだ世界第3の経済大国であり、中国は総体としては今年で間違いなく日本の3倍を超える規模に膨らんでいる。量だけではない。中国の若者は、単なるアニメブームを超えた日本への旺盛な関心を持っている。中国のメディアでは伝えられない、本当の日本を知りたいと思っている。ネット規制はあっても、ファイヤーウォールを飛び来えるソフトを駆使し、世界の情報をかき集めている。年間1億人の中国人が海外に行き、1億人の外国人が中国を訪れる時代なのだ。

日本の中国研究者がしばしば中国訪問中に拘束され、関係者の間に「怖くて中国に行けない」との不安が広がる。確かに底知れない闇を抱えた一党独裁国家である。だが中に飛び込めば見えてくるものも多い。危ないかどうか、自分の目で確かめなければ何もわからない。「怖くて行けない」と尻込みしている中国研究者が、公の場では臆面もなく中国情勢を語っているのは滑稽だ。行きもしないで、自分の見聞もないまま、見てきたかのような論評をするいわゆるチャイナウオッチャーは論外である。

タコツボに入って、人のあら捜しをしていても取り残されるだけだ。外野で野次を飛ばしているのではなく、グラウンドに降りてプレーをしなければ、だれも認めてくれない。そろそろ目を覚まさないと、取り返しのつかないことになる。
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地下鉄の中でメンコ遊びをする子どもを見て感じた事

2017-02-26 10:58:14 | 日記
上海の地下鉄でメンコ遊びをする子どもたちがいた。おそらく姉と弟だろう。日本と同じように、手にしたメンコで地面に置いた別のメンコをを直接たたき、ひっくり返れば勝ち、というルールだ。中国語では「拍紙牌」といい、読んで字のごとくである。日本語のメンコ(面子)は、漢字を読むと面子(めんつ)と混同するが、「小さな面」という意味である。

目の前の子どもたちが使っているメンコは、新聞や広告の紙を重ね、セロハンテープで固定してある。昔のおもちゃはもう売っていないのか。かりにあっても、キャラクター商品になっていて、値が張るのかもしれない。身なりを見れば、明らかに出稼ぎの家族だ。





父親はだまって見ているが、母親は身を乗り出して遊びに加わっている。車両には数人しか乗客がいない。私以外、だれも気に留めていない。地下鉄は昨年開通したばかりの11号線で、終点のディズニーランド駅に停まった。家族は列車を降り、エスカレーターに乗ったが、しばらくすると男の子があわてた様子で「メンコを落とした」と騒ぎ始めた。結局、見つかったようだったが、ディズニーランドとは反対の方向に歩いていった。

床にじかに座り込んでいるので汚いと顔をしかめる人、地下鉄でメンコをするのは公共道徳に反すると冷たい視線を送る人もいるに違いない。貧しい出稼ぎ家族の悲哀を読み取る人もいるかもしれない。ただ一緒に夢中になっている母親、それを眺めている父親を視野に入れれば、ほほえましい家族の風景になる。

拙著『中国社会の見えない掟─潜規則とは何か』(2011、講談社現代新書)のあとがきに書いたことを思い出した。

「二〇一〇年の春節、夕刻に見かけた光景は印象的だった。交通費が足りず、里帰りができないのだろうか、出稼ぎ農民の家族三人が路上で空き缶を高く積み上げ、その上を飛び越える他愛もない遊びに興じていた。日焼けした笑顔からのぞく白い歯を見ながら、民族が持つ底抜けの明るさを感じた。そうした民族の性格が、現状を追認し、被支配者に甘んじる歴史を繰り返してきたとしても、生活の芸術を根底から否定する論拠とするのは不当だろう」

物事を立体的に眺める視点を考える。文化の多様性、多元性を認め、尊重するためには不可欠な視点である。人は自分が属する文化の価値観や社会通念、あるいはいわゆる世論と呼ばれるものに縛られ、異文化への理解が点的、線的にとどまりがちだ。よほど気を付けていないと、独善的で、誤解や偏見に満ちた見方をしていることがしばしばある。

社会科学の方法論に、「トライアンギュレーション(triangulation、三角測量)」という考え方がある。ノーマン・K・デンジンが提唱したもので、データや調査者、理論、方法論の四つについて、それぞれ複数の選択を取り入れ、分析の精度を高める。自分の視点だけでなく、他者の異なる目線にも配慮し、国際関係を語る際も二国間だけでなく第三国の存在も視野に含めることで、多元的、複眼的な分析が可能となる。

残念なのはメディアに書かれているのはほとんどが点や線の平面にとどまっていることだ。記者は紙面スペースに限りがあることを言い訳にし、編集サイドは「読者にわかるように」を逃げ口上に使う。結局は安全なタコツボに閉じこもり、真相を見極める熱意と努力を惜しんでいるに過ぎない。中国語で新聞や雑誌などの紙媒体を「平面メディア」と呼ぶ。言い得て妙である。
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ここまで深刻だとは思わなかった日本のタコツボ社会

2017-02-25 06:56:56 | 日記
新学期の準備をするため3週間ほど一時帰国した。以前、日本を旅行した中国人から、地下鉄でみなが読書をしている光景に感動したと聞かされたが、今はかなり様変わりした。だが、社内がシーンと静かなのは変わっていない。騒々しい中国の社内光景を見慣れたものには異様に映る。



都内滞在中、昼間は図書館に通い、夜は旧友と過ごす生活だった。最も印象に残った出来事の一つは図書館で起きた。

自宅近くの区立図書館では、小さなパソコン専用スペースがあり、使用を申し出ると折りたたみいすと、希望者には電源コードが提供されることになっている。さすが日本式のきめ細かいサービスだ。いすを出しておくと一般の利用者に占拠され、PC専用スペースがふさがってしまうとの気づかいなのだろう。コンセントは机のすぐ後ろにあるので、私はPC用のコードを持参して使っていた。

ある日、いつもと同じようにPC用の席を申し込み、椅子を借りたところ、電源コードも提供するのでそれを使ってほしいという。見慣れない若い男性職員だった。長いコードがあっては作業の邪魔になるので、私は断った。

「自分でコードで間に合いますから結構です。いつもそうやっていますから」

すると男性は困った表情を浮かべ、

「いやコードを貸し出すことになっているので・・・」

と取り合ってくれない。

「なんで?」。予想外の対応に接し、私はふと、自分が無茶を押し通そうとしているのではないかと自省した。利用者のコードを直接、電源に差し込むことによる図書館側の不利益、責任問題、法的リスク・・・だがどう考えても館で用意したコードを使わなければならない合理的な理由が見つからない。

「面倒なやり取りをするより借りてしまおうか」
「親切で言ってくれているのかも知れないから、それを無にするのもどうか」

刹那に様々な考えが頭を巡った。しょせんはささいなことである。だが、自分の判断が正しいと思っているのなら、あいまいな決着をせず、それを通すべきだというのが信念としてある。わざわざ無駄なことを強いられるのも不愉快だ。中国での生活は、まさに自己主張の連続である。主張のないもの、すぐに妥協するものは、原理原則に欠ける優柔不断な人間の烙印を押される。信用も、尊重も、尊敬もされない。

私はやり取りの過程を楽しむぐらいのつもりで、男性職員に尋ねてみた。

「どうして自分のコードを差し込んじゃいけないんですか?」

彼の表情は凍り付き、動きが一瞬停止した。沈黙のすえ、出てきた言葉は、

「ちょっと聞いてきますので、少々お待ちください」

だった。戻ってきたあとの返事は推して知るべしだ。「問題ありません」。わずか数分のやり取りだったが、石ころを飲み込んだような違和感が残った。日本のマニュア社会が個人の思考を奪っている現状については当ブログでも以前、『マニュアル社会は思考と自由だけでなく感情をも奪う』のタイトルで書いたことがある(1月17日、http://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/63ff31892448d7107b6229fe098e4604)。だがここまで深刻だとは思いもよらなかった。

個人が集団の中に埋没し、「ルール」「マニュアル」という隠れみのの中に逃れて暮らすタコツボ社会を想像してみる。人と人の間に多くの膜を張れば、直接肌が接するような面倒は避けられる。タコツボに身を隠していれば、傷つく危険は避けられる。だが取り繕った笑顔や敬語はあっても、感情は消え、他者への関心は失われている。周囲への反応は過敏にみえるが、実は冷淡の裏返しであって、鈍感なのだ。温室の中で育てられた心は、太陽を浴びていないためどんどんひ弱になっていく。

その反面、集団の枠を取り払い、少しでもタコツボに手を入れようものなら、たちまち過剰な反応が引き起こされる。これがいわゆる「切れる」という現象だ。お互いのコミュニケーションによって問題を解決していく空間は閉ざされている。だから人々は、相手が「切れる」のを恐れ、極力、他人のタコツボには近づかないよう気を付ける。こうして人間関係のオモテウラ、本音と建て前はかけ離れ、ますます疎遠になっていく。いくら図書館に通っても、世間話をするような打ち解けた関係を築くことはできず、逆によそよそしさが際立つことになる。

ある場面を思い描いてほしい。地上にラインが引いてあり、その向こう側である集団が楽しそうに踊っている。ラインを気にせず集団に近づいて手拍子をし、気が付けば一緒に踊っているような人がいる。また別の人は、ラインを超えることについて何か説明書きがないか、あたりをきょろきょろ探し回る。「立ち入り禁止」と書いてあれば安心してとどまり、何も書いていないとどう身を処していいか不安にかられる。タコツボ人間とはこうしたものを言う。匿名のインターネット空間では逆に、抑圧された感情を爆発させ、攻撃性をむき出しにする人々だ。

半日、秋葉原を歩いてみた。日本発のオタク文化は、こうしたタコツボを増殖させているのか、あるいはタコツボを打ち壊すパワーを秘めているのか。また少し距離を置いて眺めてみようと思う。

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中国の「外」ではなく「隣」にあった日本の存在意義

2017-02-23 22:07:56 | 日記
「日本」という国号が中国なしにはあり得なかったのと同様、今の中国も日本なしには存在しなかった。近代以降の活発な人的交流、反作用としての抗日戦争勝利、改革開放への経済援助だけではない。中国が「真ん中の国」であっても、「国の中の真ん中」であっても、周辺がなければ存在しない。その中にあって、唯一漢字を受け入れ、言葉の交流を続けてきた日本の意義は大きい。

冗談半分に言う言葉がある。「中華人民共和国のうち、『中華』以外は日本人がつくったものだ」。近代以降、西洋概念の翻訳は日本が中国に先んじた。中国の古典に通じた日本の知識人が、漢字の原義を踏まえながら創意工夫の末、多くの西洋言語を翻訳し、漢字を共有する中国がそれを輸入した。中国にとっては、漢字の「逆輸入現象」だった。

実際、英語と中国語の翻訳は中国にわたった宣教師がまず取り組んだ。英語と中国語の辞書としては、モリソン『英華字典』(1822)、ロブシャイド『英華字典』(1866~69)、ウィリアムズ『英華字彙』(1844)が知られている。「people」の訳は「百姓」が圧倒的に多く、ロブシャイドにならった井上哲次郎編『訂増英華字典』(1844)でようやく「人民」が登場する。

「共和(republic)」制には、日中とも頭を痛めた。なにしろ君主をいただかない制度が想像つかない。日本では江戸末期の1845年、学者の箕作省吾が地理書『坤輿図識』で最初にオランダ語から「共和」と翻訳した。中国の西周時代に存在した「共和」を取り込んだものだ。もちろん王制下なので、現在使われているよう「民衆による政治」の意味ではなく、王室の腐敗に際し、二人の政治家が共同で政務をつかさどったことによる。

こうして生まれた「人民共和国」を、中国共産党は国名として採用したのである。日清・日露戦争での日本の勝利が引き金となって、日本への中国人留学生が殺到し、日本人が漢字に訳した和製漢語の「自由」「憲法」「社会主義」「資本主義」など約1000語がそのまま中国に逆輸入された。多くの西洋学術書は、日本語から中国語に翻訳された。



毛沢東は1942年、陝西省延安で行った演説「党八股に反対しよう」の中で、

「われわれは外国の言葉を無理に取り入れたり、乱用するのではなく、外国の言葉のなかのよいもの、われわれに適するものを吸収しなければならない。それは、中国語の語彙では足りないからである。現在、われわれの用語のなかには外国からたくさんのものが吸収されている。たとえば、今日開いている幹部大会の『幹部』という二字は、外国から学んだものである」

と語っている。「幹部」もまた和製漢語だ。抗日戦争中ではありながら、言葉の輸入についてこだわりのない態度を示したことは評価されてもよい。1949年10月1日、天安門広場で「中華人民共和国」の建国を宣言したのも毛沢東である。毛沢東は「外国」としか言っていないが、漢字を共有する日本以外はあり得ないことだった。

「外」と言うと、内外を分断し、自分以外の世界を示すだけにとどまる。だが「隣」と言い換えれば、境をはさんでかかわりあう関係になる。「日本」、「中国」の言葉の成り立ちからも、そんな関係を思い描くことができる。
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「日本」という国の名前をきちんと説明するためには・・・

2017-02-23 10:44:55 | 日記
日本語を習う外国人から、「日本」は「にほん」なのか「にっぽん」なのかと聞かれ、即答できる日本人は相当の勉強を積まなくてはならない。「大日本帝国(だいにっぽんていこく)」が国名を変更して以来、各方面が議論を重ねてきたが統一見解はない。二つの発音を持つ国名は世界にも例がないし、漢字の読みが多様であることを説明するためには、文字の伝来・受容から始めなくてはならないので、容易な仕事ではない。それを特異だと感じるか、多様なユニークさだととらえるかによって、日本文化に対する認識も大きく分かれる。

645年から始まった大化改新で「日本」が正式な国号となったことは教科書に書いてある。当時は「やまと」とも呼ばれ、それ以前は、「大和」「倭」などの漢字があてられていた。「日本」への固定は、統治者の漢字表記に対するこだわりがある。「日」は唐代に伝わった漢音では「ジツ」、それ以前の呉音では「ニチ」と読まれる。「ニチ」にならったのは、呉音が日本人により親しみやすい語感を持っていたことを意味する。

日本が「日の本(もと)」、太陽の昇る場所を意味することはだれでもわかる。視点は日本の西側に置かれている。中国から見ているのだ。統治者のこだわりとはここにある。すぐに思い浮かぶのは、607(推古15年)、聖徳太子が遣隋使の小野妹子に持たせた手紙の文言である。

「日出処天子至書日没処天子無恙云々」(日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや・・・)



隋の煬帝は、中国の皇帝にしか使われない「天子」を、東方の小さな島国の当主が名乗ったことに対し激怒する。だが、聖徳太子は太陽の運行を用い、朝貢関係ではない対等の関係を築くことにこだわったのだ。「日出ずる」日本は、「日没する」中国がなければあり得ない。つまり「日本」という国号は、隣にあった大国の中国によってもたらされたものだということになる。

日本に文字のなかった時代、中国が与えた名が「倭」である。蔑視が含まれているというが、それほどとは思えない。周辺の少数民族に対しては「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と、けものを連想させる言葉が与えられているが、「倭」は「にんべん」である。白川静『字統』によれば、「委は稲魂(いなだま)を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう」とある。米文化がこんなところにも顔を出してと思えば、実に興味深い。

実際、3世紀末に書かれた『魏志倭人伝』には稲作や養蚕を含め、日本の風俗について詳細な記載がある。見たものをそのまま伝えようとする努力が感じられる。

「其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年」(集まりの際は、父子・男女の区別がなく、人々は酒を好む。長老に対しては、手を打って、うずくまり、拝むようにして敬意を示す。長寿で、百歳や九十、八十歳の者もいる)

また、「女は慎み深く、嫉妬しない。盗みはなく、争い事も少ない」との記述もある。

その後、漢字が伝わり、「倭」が「日本」を名乗るようになると、中国はそれをすんなり受け入れた。8世紀半ばのこと。遣唐使としてわたり、そのまま長安で官吏として要職にあった日本の阿倍仲麻呂が帰国することになった。交遊のあった詩人の李白は詩を送り、「日本の晁卿(ちょうけい=仲麻呂の中国名)」 帝都を辞す」と詠んでいる。

西安の公園には、李白の詩を刻んだ阿倍仲麻呂の碑が建っている。



同じように「中国」もまた、どんなに厄介ではあっても、日本という隣人がいなければ今の姿はないことを、次回は書いてみたい。相互に意識しあい、学びあい、影響を与えあい、ともに歩んできた関係であることがよくわかる。



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