行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

天皇陛下が語った「旅」と寅さんの「旅」(続)

2018-12-24 09:14:29 | 日記
天皇陛下として最後の誕生日会見では、災害被災地への訪問が特に思い出深い出来事として挙げられた。そこは悲しみを共有し、傷をいたわる場であると同時に、再建への営みを励まし、勇気を讃える場でもあった。

「日本のどこかで地震や水害などの災害があると、テレビのニュースからは目を離さなかった」。そんな両陛下の姿を側近から聞かされたことがある。できるだけ早く現場に足を運び、被災者とじかに触れあうことを重んじた。国民の象徴としていかにあるべきか、身をもって示そうとしていた。

皇室担当記者として同行した中で、鮮明に記憶に残っているのは2001年4月、神戸市長田区への訪問だ。1995年、阪神・淡路大震災の直後、両陛下が真っ先に足を運び、特に皇后陛下が車中からガッツポーズをした光景は、だれの目にも印象に残っているだろう。それに続く2回目の訪問だった。

初回、皇后陛下がスイセンをたむけた場所は、すでにスイセン通りと呼ばれ、住民たちが心から再訪を歓迎していることがわかった。両陛下と平屋暮らしていた人々の間に垣根は感じられなかった。遠いところにある象徴ではなく、庶民が手を触れることのできる存在だった。

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震災から8か月後の1995年10月、『男はつらいよ』最終作(第48作)のロケが、全焼した長田区菅原市場で行われ、市場の関係者もエキストラで参加した。被災地でボランティアをした寅さんが1年ぶりにやってきて、営業を再開した商店主らと再会を喜ぶストーリーだ。広場では在日韓国・朝鮮人の祭り「長田マダン」の演舞が続き、復興への願いを託すように六甲の山々が映し出され、終幕となる。

当時、第48作はすでに台本が出来上がっていたが、地元からの強い依頼を受け、山田洋治監督がシナリオを書き加えた。渥美清はがんとの闘病中で、無理を押しての撮影だった。まだ死体が埋もれているかも知れない現場でのロケに躊躇したが、やはり住民の熱意にほだされた。下町人情は東西を問わない。

実は渥美清が亡くなって3年後の1999年夏、私は長田区を訪れ、『男はつらいよ』ロケにかかわる記憶を尋ね歩いた。駅のコンコースには木像の「寅地蔵」が置かれていた。旧菅原市場を、地元の関係者に案内され歩いた。多くの店舗が姿を消し、区画整理が進んでいた。市場の入り口には、「寅さん 勇気と希望 ありがとう」とペンキで書かれた看板が立っていた。

寅さんもまた、弱者に温かい目を注ぎ続けた。

両陛下に同行した長田区視察は、私にとっても2回目の訪問だった。両陛下と寅さんの姿がだぶって見えた。庶民との距離において、まったく差異はなかった。

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『男はつらいよ』は1969年から95年までの26年間、全48作が公開され、1人の俳優が演じ続けた映画シリーズとしてギネスブックにも認定された。その足跡はまた、1人の役者を固定されたキャラクターに閉じ込めることにもなった。『砂の器』の映画館主として渥美清が出演すると、観客は「あっ、寅さんだ」と受け止めた。芸の幅を広げたい役者としては、重い足かせとなった。

渥美清は長田区ロケの翌年に亡くなった。最後の撮影現場で、「ウルトラマンは大変だよね」とテレビの取材に答えたのを覚えている。みんなの前でずっと同じ役を演じ続けなければならない自らの宿命を、ウルトラマンにたとえたのだ。病との闘いはきっと、周囲からの期待に応えるプレッシャーとの闘いでもあったに違いない。

天皇陛下の生前退位に思いを寄せる。

皇室担当記者には毎週、両陛下の公務日程関するレクがあるのだが、ほぼ毎日、びっしりのスケジュールで埋められていた。少しでも空き時間があると、必ず何かの用事を入れないと気が済まない。それが象徴天皇のスタイルだった。寸分も力を抜くことなく、国民に寄り添うことを忘れない。

高齢で体が衰え、従前通りに務めを果たせなくなったときの胸中は察するに余りある。十分に力を果たせなくなったとき、形だけの存在に意味はない。現場に足を運び、身をもって体現してきた象徴としての旅もピリオドを打たなければならない。それが築き上げてきた象徴の姿を守ることになる。

陛下の「旅」と寅さんの「旅」は、どこまでも重なって見えるのだ。

(完)

天皇陛下が語った「旅」と寅さんの「旅」

2018-12-23 21:59:59 | 日記
天皇陛下の誕生日会見で最も印象に残った言葉は、「人生の旅」「天皇としての旅」だ。戦後の憲法が定めたあいまいな「象徴」という立場を、いかに生身の人間として体現すべきか。それを求めてきたのが、「天皇としての人生の旅」であった。そして、皇后陛下は何よりも得難い伴侶だった。

だが、政治は、社会は、真剣に「象徴」の旅を共有しただろうか。陛下の言葉には常に孤独の寂しさがつきまとう。退位も自らがリスクを冒して口にするしかなかった。

「人生」という生々しい響き、「旅」という不確かな感覚、わずか数年だが皇室担当記者を経験した身として、行間に込められた万感の思いを感じる。

そして、寅さんの温かく、そして寂しい「旅」を連想した。私がかねてから抱いている感覚なのだ。天皇陛下と寅さんには通底する何かがある、と。

両陛下の地方視察に同行し、農家を通り過ぎた。柿の木に枯葉がわずか残り、赤い実が寂しくぶら下がっているのを見た。すぐに思い浮かんだのは映画『男はつらいよ』で見かけた同じような冬枯れの風景だ。

日の当たらないところに光を当てる。それが両陛下が貫いた姿勢だった。貧しい人々、寂しい人々、困難な人々、我々が忘れかけていることに気づかせてくれる。どこにも人情があり、笑顔があり、たくましさがある。人目を気にし、耳障りのよい言葉を吐き、打算のために嘘をまき散らす、そんな虚偽の政治世界とは無縁だった。

寅さんもまた、自分の思いをしのびながら、社会の底辺で暮らす人々に夢と生きる希望を与え続けた。人から誤解され、ののしられることはあっても、悲哀はすべて心にしまい込み、鞄一つを手に田舎道の旅を続けた。

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もう何十年も前のことだが、渥美清が主演した『拝啓 天皇陛下様』(1963年)をビデオで観た時の印象は強烈だった。無学でお人好しで、戦時中、敬愛する天皇陛下に手紙まで出そうとする一兵卒が、戦争後、ようやく幸せをつかみかけたところ、不慮の自動車事故で亡くなる。ラストシーンには

「拝啓天皇陛下様、 あなたの最後のひとりの赤子がこの夜戦死をいたしました」

と字幕が流れる。戦争を断罪する意図を深読みしては薄っぺらになる。底辺の視点から、どこまでも愚直な人間のありのままを描いた作品だった。

当時、渥美清と天皇陛下の取り合わせが奇抜に思えたのは、すでに寅さんのイメージが根付いていたからだ。全く正反対の世界に住んでいる存在に思えた。

渥美清は私生活を一切に明かさず、世間の前では役者一徹を貫いた。彼の他界から3年後、私は仲間の記者2人と、彼の知人友人を通して、ベールに包まれた素顔に迫る計71回の連載記事を書いた。連載は中央公新社から単行本、文庫本としても出版された。タイトルは『拝啓 渥美清様』だった。

もちろん前述の映画を意識した命名だったのだが、その時でさえ、両者を関連付けたことはなかった。ただ、その後の発見を思えば、結果的には奇縁であった。

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2002年夏、両陛下の東欧訪問に同行した。オーストリア・ウィーンでまたまた思いがけず、寅さんの足跡をたどることになった。寅さんは唯一、海外に出かけているが、それがウィーンだった。『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(第41作、1989年)。ウィーンで日本人の美人ツアーガイド(竹下景子)に恋をするが、案の定、失恋のン結末で帰国することになる。

ウィーンのシェーンブルン宮殿で両陛下の通訳をした日本人女性は、現地のガイド国家資格を有する語学力の持ち主だった。公務外で雑談をしているうちに、男はつらいよのロケでも山田洋治監督の通訳を引き受け、渥美清とも言葉を交わしたと話してくれた。

彼女は高知県出身で、歌手の夢に破れ、失意のまま単身でシベリア鉄道に乗り、ウィーンにやってきた。その際、たまたま道を尋ねた現地の男性と運命的な結婚をした、という稀有なロマンス談の持ち主である。

渥美清も若いころは不遇で、すさんだ生活を経験した。同じように苦難を経た彼女に対し、「二人とも一回転んで起き上がったんだよ」と言葉をかけたという。私はそのエピソードを聞きながら、まるで寅さんがスクリーンから飛び出してきたようなシーンを思い描いた。

相手の目線で感じ、考える。それは両陛下にも通じているのだ。

(続)



ファーウェイ事件についての雑感ー5

2018-12-21 10:57:22 | 日記
「祖流我放」=「“祖”国も“流”氓(ヤクザ者)だから、“我”(私)は“放”心(安心)だ」の流行に、侵略を受けた歴史の傷跡を見出すのは難しくない。中国の王朝が固持した朝貢体制は、思想の閉鎖性を示すと同時に、高価な文物を贈呈する寛容さの表現でもあるが、その恩恵を無視して、不平等な条件のもとで対等な貿易を求める外国人はヤクザ者に映る。そのヤクザに軟弱な態度をとった文弱が国家を危機に陥れた、との歴史観がすっかり根付いている。

だからこそ、ファーウェイ創業者の任正非総裁が、西洋の優位を認め、西洋人の価値観に立った文化への理解を呼びかけ、

「孔子、孟子が言った“わが身を養い、家をととのえ、国を治め、天下を平和にする”の教えは、みな内向きだった。中国は西南を山に囲まれ、北は砂漠が広がり、東は海に面し、このために閉鎖された環境が生まれた。この地理的環境が思想に大きな影響を与えた」

と自ら民族の不足、不明を振り返ることは容易でない。

米中貿易摩擦の中で、ネットではもう一つの流行語が生まれている。国営新華社通信が意図的につくったスローガン「共克時艱」だ。国家の艱難な時局に際し、民族がみな一つに団結して克服していこう、との呼びかけである。トランプ米政権の高圧的な態度に刺激され急速に拡散し、国家政策だけでなく、一般企業でも「共克時艱」と愛社精神を呼びかけているのを耳にする。

もちろん、国内の矛盾から目をそらせるために外圧を利用するのは、日本の戦時中をみれば明らかなように、あらゆる国家の常とう手段である。権力者もネット時代に対応し、メディアの操作技術に磨きをかけている。

だが、多様化する世論を従来のプロパガンダ論だけで説明するのは無理がある。多くの中国人がかつてないほどの自信を持ち、それゆえに冷静で、理性が勝る場面が増えている。だが実際は、自信を支える確証がまだ不十分で、一方で、自信に見合った評価を周囲から得られていない二重の矛盾が国民心理に影を落としている。

その矛盾があるからこそ、「共克時艱」に共鳴する心理が生まれる。

そして、中国に対する不当さを際立たせたファーウェイ事件はタイミングよく「共克時艱」の契機をさらに提供したことになる。米国のスタンドプレーは、第三者の目にもフェアーには映らない。敵に塩を送ったようなものだ。こうして、上からの「共克時艱」と、下からの「祖流我放」が絶妙なバランスをとる状況が生まれている。非情に複雑な心のメカニズムだ。

無秩序にみえる中国のネット世論だが、数々の教訓を繰り返しながら、言論空間として少しずつ成熟しているようにみえる。習近平総書記が旗を振って「国家の自信」を呼びかけているのは、まだ自信に欠けている証拠である。だが、いつの日か、本当の自信を身につけ、もはや「自信」を口にしなくなる日が来るに違いない。

中国の言論はすべて政府や党がコントロールしていると思っている日本人がいるとしたら、相当、自国の“官製”メディアに毒されていると反省した方がいい。隣国の変わりつつある姿から目をそらし、旧体制の中に閉じこもっていては、いずれ自分たちの道を誤ることになる。ファーウェイへの敵視を煽るトランプの腹の底を見透かし、中国側の対応をじっくり観察する態度が求められている。

(完)

ファーウェイ事件についての雑感ー4

2018-12-20 14:57:00 | 日記
ファーウェイは改革・開放政策がスタートした広東省深圳で、1987年に創設された。逮捕された孟晩舟同社副会長の父親で、同社総裁の任正非氏が創業者だ。事件後、彼が9月の時点で行ったという社内講話が、「アメリカが我々を認めなくても、我々はもっとよく5Gを成功させる(そして、多くの西洋の顧客を獲得する)」とのタイトル付きでネットに流れ、話題になった。講話の内容を紹介する前に、任正非氏とファーウェイについて、日本ではあまり報じられない内容に触れておく。

任正非氏の父親は教師で、知識階級の家庭で育った。重慶の大学で建築を学び、人民解放軍で16年間、エンジニアとして働いた経歴がある。軍の機構改革で除隊し、深圳の石油会社に就職したものの仕事は不調で、軍時代の友人と電話交換機の販売会社を起業した。



中国では「狼心」を持った野心の強い企業人とのイメージが強い。当時としては必ずしも正統とはみなされなかった民営企業を裸一貫で興し、未知の分野を開拓してきた以上、そうした評価も当然だろう。海外ではもっぱら軍出身との経歴がクローズアップされ、共産党政権の意向を受けた「赤い企業人」として語られることが多い。だが、18万人の社員を抱え、世界170か国以上でビジネスを展開している実績を考えれば、もっと多面的に彼と彼の企業を分析する必要がある。

同社の売り上げは半分以上が海外からのものだ。欧米日の先進国だけでなく、アジアにも積極的に事業を展開している。社員持ち株制やCEOの輪番制によって組織の競争力を高める一方、売り上げ全体の10%以上を技術開発に投じている。日本をはじめ欧米の企業や学術機関と共同研究もさかんに進めている。衆目の一致する通り、中国を代表するグローバル企業である。

さて話題の講話だが、ネットに流れた刺激的なタイトルとは別に、内容は極めて冷静な現状分析に基づく世界戦略の哲学が語られている。実際のタイトルは、「人類文明の結晶から、世界の問題を解決する鍵を見つける」だ。国際的な問題を解決する鍵を手に入れるため、哲学、歴史、社会学、心理学など人類の文明の結晶を生かした企業広報の指針づくりを呼びかけている。

注目すべきは、ソクラテスやプラトンの思想から、ルネサンスが生んだシェイクスピアの演劇やミケランジェロの彫刻、さらには米国の海洋大国化をもたらしたマハンの海権論まで、欧米を貫く開放の文明史を評価する一方、中国が夜郎自大になって世界の潮流から取り残された文明史を反省している点だ。100年までの義和団のように、自分たちを盲信してはだめで、広い世界的視野を持ってウィンウィンの広報活動を行わなければならない、と寛容で進取の精神に富んだ世界観を説いている。

冒頭では、「西洋で遭遇した問題を解決するにはまず、西洋の価値観を十分に認識し、彼らの立場に立って彼らを理解しなければならない」と訴えかけ、中国人がこれまで自分たちの考え方で世界を理解しようとしてきたことを戒めている。イギリスが世界を支配し、各国の芸術品を自国に集めたことを、中国人は略奪だと考えるが、イギリスの側からみれば、生命を危険にさらして芸術品を収集し、リスクを冒しながら継承してきたということになる、と大胆に事例を示している。彼の言葉でなければ、たちまち愛国主義者たちの攻撃にさらされる発言だ。

中国の改革開放も、鄧小平が「窪地を切り開き、税率を下げて外資を招いた」ことから始まったことを指摘し、「現在解決すべきビジネス環境の大きな問題は、西洋の価値観を十分に認識し、ファーウェイの価値観と西洋の一致した部分を明確にし、ある程度の共通認識を形成することである」と説く。中国人の西洋に対する深い理解と認識はまだ不十分で、「西洋が世界での発言権と主流価値観で優位を占めている現状において、我々はただ西洋の立場で西洋の価値観を理解し、西洋の思考方法で対話を行ってはじめて有効な意思の疎通ができ、問題を解決する方法が見つかる」とまで言い切っている。

「ファーウェイの価値観を伝える広報活動にあたり、重要任務の一つは、いかにして当地の文化を重んじ、当地の言葉を用いてファーウェイの物語や地元への貢献を語るかということだ」とし、成功例として、日本企業がドイツ進出に際し、ボンやデュッセルドルフなどの都市に桜を植樹し、観光名所にまでなったケースを紹介している。

講話の随所に、謙虚に他国の先例を学ぼうとする姿勢がひしひしと感じられる。ファーウェイ事件で頭に血が上った愛国主義者たちの熱を冷ますのに十分な内容だ。

米国が言うことを鵜呑みにし、それに従っていれば間違いないと盲信する一方、台頭する隣国のことはなんでも疑ってかかっている日本人に対しては、偏った世界観はいずれ落伍者を生むだけだ、という教訓を読み取ることもできる。

(続)

ファーウェイ事件についての雑感ー3

2018-12-18 18:26:18 | 日記
民族感情の表現が成熟してきていることの背景として指摘できるのは、中国が名実ともに米国に伍すことのできる唯一の大国として成長した自信である。国内に深刻な難題を抱えながらも、GDPだけを比較すれば、中国はすでに日本の約3倍に達している。日本はもはや対抗や抵抗すべき羨望の先進国ではなく、すでに対等の、あるいは乗り越えた周辺国の一つに過ぎなくなった。たとえそれが幻想であっても、自信を生む心理的効果は十分だ。簡単に言えば、金持ち喧嘩せずの域に達したということになる。

18日は中国の改革・開放政策40年を記念する大会が人民大会堂で開かれた。ちょうど40年前の1978年12月18日、中国共産党第11期中央委員会第3回全会で、文化大革命の反省に立ち、閉鎖体制から開放体制への転換が決まった。習近平総書記は大会での演説で、改めて開放政策のさらなる拡大を堅持することを表明した。「閉じこもれば必ず落ちこぼれる」との苦い経験に裏付けられた国家の生き残り戦略である。内向き志向の際立つ日本はぜひ、他山の石とすべきである。

さらに大会では、改革開放に対する官民の功労者として中国人100人のほか、外国人10人の名前が表彰された。外国人の中には、初期に工場を建設したパナソニックの創業者、松下幸之助氏と、鄧小平の改革開放を支援した大平正芳元総理大臣の日本人2人のほか、世界経済フォーラム(ダボス会議) のクラウス・シュワブ会長も含まれた。

自画自賛だけにとどまらず、海外からの貢献も同じように認め、積極的に顕彰する姿勢も、大きな変化である。これもまた自信の表れとみることができる。

侵略を受け半植民地となった弱小国から抜け出し、ようやく米国と主導権争いをするほどになった。世界を敵視するのではなく、積極的に世界のルール作りに関わっていこうとする意欲が生まれたことじは、改革開放40年の成果と言える。習近平は大会演説で改めて「人類運命共同体」を訴えたが、この用語はすでにネットのの流行語にまでノミネートされるほどである。

米中摩擦のさなか、南京事件記念日の前日にあたる12月12日、任剣涛中国人民大学政治学部教授の「報復心理によって形成された中国の独善的な世界観は徹底して抑制しなければならない」と題する一文がネットで流布した。被害者感情から他国を敵視するのではなく、理性的な世界観、平等な契約に基づく国際関係の感覚を身につけなければならないと呼びかけた内容だ。大国としての自信がなければ、タイミングとしても容易に世論には受け入れられない内容である。

もう一つ忘れてはならないことがある。

日本のメディアでは、反腐敗の政治闘争で実権を掌握した習近平総書記を独裁者として伝える報道が圧倒的だろう。だが、習近平政権下で、それまでさんざんメディアをにぎわせたいわゆる“反日”デモがパタリと途絶えたことはほとんど注目されていない。

国内をしっかり掌握した指導者の登壇は、中国でビジネスをする日系を含めた外資系企業にとっても、非常に歓迎すべきことなのだが、そろばん勘定をはじく人々はそんな恩恵に対して沈黙を守っている。

過去の大規模な“反日”デモは、日本の国連安保理入りに反対した2005年、漁船船長の逮捕に端を発した2010年、尖閣諸島の国有化に抗議した2012年と、政権基盤の弱い胡錦濤時代に集中している。歴史的にみれば、抗日運動は1919年5月4、山東省の権益を求めた日本の対華二十一か条要求に抗議した五・四運動が始まりだが、当時も軟弱な中国政府を非難する側面が強かった。

特に日系のスーパーや工場が甚大な被害を受けた2012年のデモでは、共産党中央の規律調査を受けた元治安トップの周永康元党中央政法委書記(元党中央政治局常務委員)が、抵抗を示すため背後で糸を引いたとの見方が強い。デモの先頭に「便衣」(私服警官)がいたとの指摘もある。周永康は習近平を暗殺し、政権を転覆させるクーデターまで企図していた。

習近平はその後、周永康一派を反腐敗キャンペーンで根こそぎ摘発し、治安部門の実権を手中に収めた。最高指導部である常務委の定数を9から7に減らしたうえ、常務委に席のあった政法委書記を政治局員に格下げし、総書記自らが政法委を統括する体制を整えた。周永康の後ろ盾として、胡錦濤時代も院政を強いた江沢民元総書記の影響力は一掃された。

“反日”デモを含め、民族感情を刺激する排外運動は動員力が強く、政権の抵抗勢力による反政府運動や政治闘争を誘発しがちだ。多数の高位高官を摘発し、習近平は恨みも相当買った。隙あらば足元を救おうとしてる勢力は数多く存在するだろう。政権基盤が弱ければ綱渡りの内外政策を強いられる。裏を返せば、毛沢東時代がそうであったように、強力な指導者のもとで、不規則な「現代版義和団事件」は起きない、というのが中国の政治力学だ。

指導者が毅然とした態度を取っている以上、メンツを立てて口出ししないのが中国人の発想である。だからこその「祖流我放」=「“祖”国も“流”氓(ヤクザ者)だから、“我”(私)は“放”心(安心)だ」なのである。

(続)