独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

【期末雑感⑥】”観察と感受”が通うワームホールの道

2017-06-26 13:45:20 | 日記
ある女子学生は期末課題に「二つの夏」と題する一文を寄せた。メディア論の核心は、いかに外部の環境から有益な情報を受け取り、いかに正しい世界観を構築するかにある。その答えを、彼女は身近な問答を通じて探索した。

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--みんなの理想的な夏の生活はどんなもの?

私は二人の友だちに聞いてみる。

「山小屋の前に小川が流れていて、時々釣りをしたり、畑に入って食材を採ったり、一番いいのは料理の得意な人がいて、三食を一緒に作ること。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。ふだんは部屋にいて音楽を聴き、本を読み、絵を描き、ギターを弾き、したいことをする。携帯もパソコンもなくて、一、二週間に一回は自転車に乗って海辺に行く」

「海の近く、必ず海の近くに住んで、それも竹で編んだ家で、一匹のネコかイヌだけがそばにいる。いつもは海辺でエビを採ったり、魚を捕まえたり、時には水上バイクで海の上を走る。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。家には電気製品はなくて、自分で三食煮炊きをする」

--じゃあ、実際の夏の生活はどう?

「バイト、テレビ、エアコンで睡眠」

「いつもと同じ、エアコンの生活」

--夏を連想させるのはどんなもの?

「エアコン、スイカ、みんなの薄着」

「汗、スイカ、みんなの薄着」

私は彼女たちの答えに驚かない。なぜなら、夏の生活に対する理想と現実の差は、家庭環境によって決まるもので、自分の力ではどうにもならないから。ただ、三つ目の質問に対する答えには疑問が湧く。理想の夏の生活は大自然に接することだ。実際には手の届かないものであっても、それならどうしてふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補おうとしないのか。

彼女たちは特別な事例ではない。多くの人は理想の夏と現実の夏を交わらない世界に置いて、前者は精神の中に、後者は大脳の中にあると思っている。二つの世界の間を行き来するワームホール (wormhole=時空をつなぐ虫食い穴)がなければ、差異は大きく、縮めることはできない。人々は”二つの夏”を過ごしていても、個人には大きな影響がない。”二つの夏”の大きな落差に耐えかねて異常な行動に出たという話も聞いたことがない。

でも、人は”夏の生活”についてだけ二つの交わらない世界を持っているというのだろうか?

”夏の生活”を”仕事””暇な時間””友人との時間”など日常の活動に置き換えても、人々は二つの問いに対して同じような”大きな差異”の法則を見出すことになる。日常生活全体が交わらない二つの世界から成っているとすれば、精神と大脳は完全に隔離されたままの状態に置かれる。

こうした隔離状態は、確かに空虚ではなく、第一に退廃文化(喪文化)の表れである。ネットには”無意味な生””希望喪失”などの顔文字が流行り、テレビドラマを見てもそうしした人間の表情が登場する。第二に”先延ばし病”だ。仕事の締め切りまでまだたっぷり時間はあるのに、手を付けようとせず、気楽で楽しいことばかりを追いかける。そして、やがてもうすぐ手に負えなくなる、あるいはもうすでに手に負えない段階になってようやく取り掛かる。この緊張状態をやり過ごすと、新たな任務を引き受け、また同じことを繰り返す。

退廃文化の本質は、個人の精神と大脳が長期にわたって隔離された状態のユーモアであり、交わることのない二つの世界を確認するだけで、何の変革も生み出さない。
一方、先延ばし病は、二つの交わらない世界を変えようとするが、そのやり方が焦って目先の利益を求めるだけなので、根本に触れることはない。

精神と大脳の距離を近づけ、二つの交わらない世界の差異を縮めるための根本は、両者の間に設けられた、長期に安定したワームホールなのだ。まさに冒頭で触れたように、理想的な夏の生活は大自然に親しむことであって、現実には難しい。それならば、ふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補えばよいではないか。

”ふだんの観察と感受”こそ、交わることのない二つの夏の世界をつなぐワームホールである。この二つの世界に対し、ワームホールはこうしてわずかでも心が求めるままに振る舞うことができ、複雑な現実に振り回された時には、自分の心の中にある熱情を守ってくれる。

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彼女は両親が働いているため、ほとんど祖父に育てられた。その祖父が亡くなったショックで、一時、授業にも出られなくなったが、しっかり立ち直った。強さと、優しさをもって目を外に向けられるようなった成長がうれしい。「観察と感受」は、ネットの虚偽空間に慣れきった現代人にとって、貴重な警句である。彼女の言葉の一部は、授業でも紹介し、みなの共感を得た。

今日は学内の卒業記念コンサートで、ジブリの「天空の城」と「風たちぬ」が演奏される。知り合いの先生がせっかくだからと、私に貴重なチケットを一枚回してくれた。大人気でチケットの奪い合いになっている。



(続)


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【期末雑感⑤】同性愛論を通じて探る教室の身分関係

2017-06-25 10:56:12 | 日記
中国のある大学で昨年、実際に起きた事件である。だがなお若者たちの心には深く刻まれている。だから期末課題のテーマ「身辺の出来事を報じる」にも複数、昨年の事件に触れた記事があった。

社会科学の理論課程で、学生が同性愛に対する社会の認識について発表をした。学生が、同性愛者に対する社会の不理解を指摘し、弱者としての立場を強調すると、教師はいきなり話を打ち切らせ、壇上から降りるよう命じた。教師は、「同性愛は自然の法則に反し、同性愛の婚姻を認めることは反社会的だ」と言って譲らなかった。

学生たちはSNSで不満をもらし、それが拡散して学内に広まった。同性愛に対する見解の是非ではない。偏った意見に固執し、異なる意見を一切認めず、教師の権力をかざして学生に専制を強いる、そのやり方が問題なのだ、と。人格を侮辱し、学問の自由を侵し、礼節に反し、人道主義にももとるものだ、と。学生の声が力を得て、教師は結局、公開の学内サイトで謝罪を迫られた。「自分の考えは改めない」との前置きがあったが。

中国では小中高を通じ、教師の権威は非常に高い。親たちも、教師ににらまれたら進学に不利なので、ことのほか気を遣う。人質に取られたようなものだ。教師への過剰な贈答が「教育腐敗」として社会問題化するのはこうした背景がある。教師もその権威を利用し、生徒の前で居丈高に振る舞う。成績の悪い子を問答無用に切り捨てることも厭わない。進学率は教師の考課に直結する。子どもたちは服従を強いられ、教師を畏怖する対象として崇める。教師と生徒の間には深い溝ができる。

権威の裏付けがない権力は、監視されにくい状況の中で、抑制がきかなくなる。特に、人望がなく、権威の薄れた教師は、権力を振りかざすことによってしか、自分の存在感を示すことができない。そして、専横が助長される。子どもたちはこれまで、教師の不当な権力行使にも黙って従うしかなかった。だが、SNSの発達は権力をけん制する力をもたらした。

期末課題で昨年の事件を問題視した女子学生の一人は、授業でも「メディアにおける同性愛者に対する偏見」のテーマで研究発表をしたが、実は、こうした教師に対する不満の表明でもあったことを、私は後で知った。彼女の期末ペーパーには最後にこう書かかれていた。

「自由な意見表明の場を与えてくれたことに感謝します。小さな火でも明かりになります。自由な気持ちをもって生きれば、明日はもっと明るくなる」

まっさらな学生たちの目は、こんなふうに教師を、社会を凝視している。私は、学生たちの目の奥底から、こちらの腹の底を探るような視線を感じることがある。意見を押し付け、反対意見に耳を貸さない大人の態度は、圧政の象徴となる。それでなくとも、身の回りは言論や思想の規制に縛られているのだ。警戒心は非常に強い。自由や権利、性の問題は、押さえつけられているほど、その反作用が大きい。インターネットは、すでに閉鎖的な言論空間を打破してしまった。情報を封鎖し、思想をかごに押し込める旧式の手法はもはや通用しない。

彼女たちは、学生と同じ目線で接し、対等に議論し、そのうえで、視野を広げてくれる存在を求めている。長い間、かごの中に閉じ込められた小鳥が、外の世界に飛び立つのをとても怖がっている。かごの中で従順にいるほうが、不自由なりに安全なのではないか。いったん外に出たら、迷子になって、見知らぬ外敵に食い散らされてしまうのではないか。そんな不安を抱えている。恐る恐る、かごから飛び立つすべを探しているのだ。

一クラス30人の学生を前にして、常に肝に銘じていることがある。彼ら、彼女らの目の奥に、単一な社会で育ったわれわれには想像のつなかい複雑な社会が広がっていることだ。目の前に座っているのはまだ20前後の若者だが、私が向き合っているのはこの社会そのものなのだ。社会の実情をしっかり把握しなければ、学生一人一人を理解することもできない。

今日は卒業生たちとの記念撮影があった。まだ就職の決まっていない学生もいる。働き始め、すでに給料を手にしている者もいる。すべての者に幸多からんことを!







(続)

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【期末雑感④】継承の危機にさらされる少数民族文化

2017-06-24 17:53:07 | 日記
卒業作品の中に「盤瓠(パンフー)」というタイトルの記録フィルムがあった。初めて耳にする名前に惹かれ、上映会に行った。少数民族の伝統文化に関する地味な内容で、鑑賞に来た学生は少なかったが、根気よく取材を続け、山奥に隠れたテーマに光を当てた秀作だった。



「盤瓠」は、中国伝説の皇帝「帝嚳(ていこく)」の時代、皇帝の命を受け異民族を退治した英雄の名だ。「後漢書」に記載がある。だが人ではない。宮女の耳から生まれた硬い甲羅をつけた虫をウリ(瓠)の中に入れ、皿(盤)でふたをしてをして飼っていたら犬になった。それが「盤瓠」の由来だ。虫も犬も人間に近い存在だったのだろう。皇帝はほうびとして、人の姿に化けた盤瓠に娘を嫁がせ、夫婦は山に隠れた。その後、王女は6人の男児と6人の女児を生み、国王はその一族に特別な待遇を与え、「蛮夷」の称号を授けた。





この伝説を信じ、「盤瓠」の末裔を名乗るのが少数民族の一つ、畬(シェ)族だ。居住地は福建や浙江省に広がるが、その本家とされるシェ族が広東省潮州の鳳凰山に住んでいる。鳳凰山は、潮汕の銘茶「単樅(ダンツォン)茶」の産地である。渋みと甘みを併せ持った半発酵の茶だ。私も愛飲しているが、油を抜く効果が強く、この茶を飲むとすぐ空腹になる。

漢族は自分たちを竜の子と呼ぶが、シェ族は犬の子だと自称する。山奥で独自の言語と風俗習慣を守り続けてきた誇りがある。最も重要な伝統儀式が3年に1度、冬至の前後に行われる祖先「招兵節」だ。村の長老が主宰し、祖先の「盤王」に感謝するとともに、民族の繁栄を願う。文化大革期、封建的だとして中止を余儀なくされ、1993年に復活した。それだけに、人々の祭りにかける思いはなお強い。





学生のフィルムはこうした現状を淡々と描いていく。派手な題材、刺激的な画面が市場を席巻する現代の映像文化にあって、こうした地道な作品の存在価値は大きい。

招兵節の主宰者は、多くの祭祀と同様、男児でなければならない。現在の主宰者には3人の男児がいる。本来は、長男が継ぐべきだが、父親は「自分に男児がいなくて、どうして継承ができるのか」と一蹴する。三男は都会の文化に触れ、伝統文化には冷淡だ。そこで父親の期待は次男に向けられる。だが、先行きは決して明るくない。山村は貧しく、みなが出稼ぎに行ってしまう。次男も深センで事業を始めたところだ。いつも実家にいるわけではない。

学生たちはカメラを通じ、中国の現代社会が抱える多くの問題を追い続ける。大学から山奥への往来だけでも1日がかりの作業だ。作品の内容もさることながら、そんな若者の真剣なまなざしが、見る者の心を打つ。

(続)

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【期末雑感③】シリコンドールにすがる中国人父子の物語

2017-06-22 10:35:59 | 日記
汕頭大学・長江新聞與伝播学院(ジャーナリズム・コミュニケーション学部)の映像学科では、毎年、卒業論文の代わりに映像作品の制作も奨励している。ほぼ1年をかけ、劇映画から記録フィルム、アニメまで多様な作品が完成する。1人で対象を撮り続ける学生もいれば、俳優から脚本、美術、照明、音楽まで下級生数十人のスタッフを従え、監督とプロデューサー役としてドラマを仕上げる者もいる。その発表会が6月15日から18日まで、汕頭市内の映画館や大学図書館を会場に行われ、約30作が上映された。





マイナーな地元方言の潮汕語によるヒップホップに挑む若者たちを描いた「Teoswan Hustlers(潮汕のハスラー) 」や、汕頭に出稼ぎに来ている農民家庭の教育問題を取り上げた「外省仔」、うつ病を抱える若者と家族の苦悩を追った「與抑郁同行」など、議論の分かれる社会問題を、独自の視点で、困難な人間関係を築きながら、よくやり遂げたものだと感心する。



特に驚いたのが、シリコンドールに囲まれ、貴州の山奥で暮らす59歳の父と18歳の一人息子の奇妙な生活を撮った「她不是充气娃娃(彼女はダッチワイフじゃない)」。女子学生3人の共同作品だ。



父親は出稼ぎ労働者だった。離婚し、女性の友だちが何人もできたが、結局、長続きしなかった。大きな理由が、過剰なネットゲーム癖だった。その生活から脱するため、彼は3年前、実物大のシリコンドールを購入する。常にそばにおき、わが娘のように可愛がる。入念に髪を解かし、食卓に座らせ、時にはハイキングに行き記念撮影もする。ドライブにも連れていく。気が付くと人形は7体に増えていた。自分たちは地下に住み、彼女たちのために新しい部屋を建築中だ。彼にとって、人形たちは「性」の対象ではなく、家族なのだ。





一人息子は、学校でいじめに遭い、友だちもいない。父と同じようにネットゲームに熱中し、家事も手伝わない。父親は、息子がそうなった原因が自分の放任にあると反省し、彼を救うため、成人の記念に新たなシリコンドールをプレゼントする。そうすれば、生活の関心が人形に向かい、ゲームの世界から脱することができると考えたからだ。確かに、周辺の整理整頓はするようになった。だがゲームの世界からは抜けきれない・・・。

物語はまだ進行中だ。父子がこのまま仮想世界の中にとどまって暮らし続けるのか、それとも、人形に依存した生活から脱し、実物の世界に戻ってくることができるのか。作品はまだ結論を引き出しようがない。カメラを回した彼女たちも、同世代の彼が孤独から抜け出すことができるのか、答えが見つからない。ネットの仮想世界を浮遊する多くの若者たちに、深刻な警句を発しているようにみえた。

(続)


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【期末雑感②】「世界一”可愛いい”先生」

2017-06-22 00:58:19 | 日記
春季学期はジャーナリズム学部の選択科目「現代メディアテーマ研究」と、全校を対象にした「中日文化コミュニケーション」の二科目を担当した。後者の授業では、日本が好きだ、日本に関心があるという多くの若者に囲まれ、日中文化の歴史的なつながりや相違などについて語り合った。定員枠は30人に抑えたが、毎回欠かさず出席する傍聴生が何人もいた。最後、全員にアンケートをとったところ、「もっと日本語を話してほしい」というリクエストまであった。学部も多種多様だったが、専攻にはまったく関係なく交流ができた。

中国文学専攻の1年生女子は最後の授業で、漢族の伝統衣装である漢服を着て現れた。授業では、日本の女子高生制服とロリータファッション、そして中国の若者の間で静かなブームを呼んでいる漢服との比較をしてくれた。授業後、彼女は私のところに来て、記念撮影をし、そして手作りの官服の折り紙をプレゼントしてくれた。






「宝剣鋒自磨砺出 梅花香自苦寒来」と書いてある。剣は磨かれることによって鋭くなり、梅の花は寒さの中で香を放つ。困難や苦労があるからこそ、尊い実りがあるとの処世訓だ。おそらく彼女が自分に言い聞かせている言葉なのだろう。その気持ちがありがたかった。

授業が終わって校舎を出ようとすると、工学部2年の男子学生が追いかけてきて、「忘れられない授業でした。先生、抱擁してもいいですか」と言ってきた。中国でも親愛の情を示す場合、抱擁することがある。私たちはみんなの見ている前で、しっかり抱き合った。彼の目から涙があふれそうだった。おとなしい男子学生だったが、一度、専門知識を生かし、パソコンソフトの不具合を直してくれたことがあった。

商学部の女子学生は終業直後、仲間のグループチャットに私のことを書いた。それを知り合いの学生が見つけ、転送してくれた。彼女は同じ商学部の学生と一緒に私の授業をとり、課題研究では、日中の居酒屋文化を比較した。中国にはない日本の居酒屋の特色について、「地元の人が集まり、店の主人と雑談をしながら、親密な雰囲気を楽しむ場」と紹介した。何度も日本に行っているという。彼女の書き込みは以下の内容だ。

「十数年の日本ファンだが、日本人の先生の授業は初めてだった。耐心(辛抱)、熱愛(情熱)、用心(真剣)、これが加藤先生の身の上から発せられた光だ。中国語は特別に流暢というわけではないが、とても熱心に私たちを指導し、毎回、私たち一人一人がする発表をまじめに覚えていてくれた」

両科目とも最後に学生のギターに合わせ、キロロの「未来へ」を歌った。





ジャーナリズム学部の選択授業では、ふだんから親しいだけに、いろいろな反応があった。携帯のチャットで話題になったのが、広告専攻の女子学生が送った次のひと言だった。



中国語の「可愛」は、日本語の「かわいい」とは異なり、「愛すべき」といったニュアンスになる。私にとっても、みな我が子のように愛すべき学生たちだ。

今日6月21日は1939年、日本軍が汕頭を空爆し、占領した記念日だった。瀋陽でも、南京でも歴史を記憶するため同様の記念日がある。日中、学内では防空サイレンが鳴り続けた。これもまた打ち消すことのできない歴史の傷跡である。私は教師のグループチャットに「黙哀(黙祷)」とだけ書き込んだ。いろいろな声に囲まれながら暮らしている。

来週、卒業式を終え、いよいよ長い夏休みに入る。私にとっては、秋季学期に向け、日本でしっかりと準備をするための勉強期間となる。


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