独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

学生たちがいなくなった春節前の大学キャンパス

2017-01-19 22:47:11 | 日記
秋季学期が終わり、月末からの春節を前に大学の学生はほとんど帰省してしまった。校訓碑前の掲示板には「恭賀新春」のあいさつが掲げられた。中国では春節から干支がサルからトリに変わる。



学内を散策してみた。静かである。時折、スーツケースを引いていく学生の姿を見かけるだけだ。ダムに出かけた。いつになく湖面が透き通って見えた。



亜熱帯なので落葉樹はほとんど見かけないが、遠景のスギが赤みがかっていた。スギも紅葉するのだろうか。不思議な自然の営みを受容した。



小さな池の周りで枯葉を掃き集めている光景に出くわした。枯れた風景に心が揺さぶられるのは、日本人の感性なのだろうか。



落ちていた枯れ枝や竹の葉を部屋に持ち帰って飾ってみた。



中国人はあまり「わび」「さび」を好まない。「寂しい」光景は気持ちも寂しくなるといって嫌われる。日本には歌でも失恋や感傷的なものが多いが、中国ではさほど多くない。

間もなく完成する工事中の「茶館」をのぞいてみた。潮汕地区はお茶の習慣が根強く残っている土地柄だ。どこでも茶道具を出して、おしゃべりの時間を過ごす。中の看板には「汕頭大学文化創意園(SHANTOU UNIVERSITY CREATIVE PARK)」と書いてある。木製の家具がすでに並べられている。





「和」と「敬」の書が見える。「清」「寂」と続くのだろうか。日本の茶道精神も理解されるのだろうか。ただのコピーなのか。じっくり観察する楽しみがひとつ増えた。
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毛沢東vsニクソンを思い起こさせる習近平とトランプの巡り合わせ

2017-01-19 12:47:56 | 日記
ドナルド・トランプ氏が11日、当選以来初めての記者会見を行い、CNNテレビに対し、「あなたたちあ偽ニュースだ(You’re fake news) 」と反撃した。ロシアでのセックススキャンダルを報じたことへの応酬でもあろうが、トランプ氏の「左翼」メディア批判は今に始まったことではない。昨年11月にはニューヨーク・ポスト紙が、トランプ氏がメディア人を招いた私的なパーティーで「CNNはうそつきを恥ずべきだ」と公言した、とのゴシップを伝えている。(http://nypost.com/2016/11/21/donald-trumps-media-summit-was-a-f-ing-firing-squad/)

あれだけメディアが一斉にヒラリ支持につけば、さぞ面白くなかっただろう。だが、既得権益層を代弁する米主流メディアの「偏向」が、庶民の心情を反映するSNSとの乖離を生み、トランプ氏に勝利をもたらしたとすれば、メディア批判は巧妙に仕掛けられた戦略ということになる。新聞がテレビによる情報市場の寡占状態にある日本ではなかなか実感できない。だが、共産党主導の官製メディアに飽き飽きし、ネットの言論空間が急速に拡大している中国においては、他人事とは思えない現象だ。

だからトランプ氏のCNN批判は、中国では受けがいい。「アメリカの指導者がとうとう本音を言ってくれた」「トランプは男らしい」とネットの書き込みは続く。CNNをはじめ米国メディアが中国批判を繰り返してきた腹いせもあるのだろう。そのうえ、中国人は強い者に対し本音で立ち向かう人物を率直にたたえる。米国メディアの報道を有り難がって、無批判に追随する日本メディアとは大きく異なる。

米国が抱える所得格差が生む社会の分裂、グローバル化による国益の損失は、中国では都市と農村の格差、欧米ソフトパワーの席巻として、共通の問題に通底する。大国である米中はともに、国内でヘビー級の難題を抱える。だからこそ同じように難局を乗り切る強い指導者の台頭が求められる。

トランプは巨額の対中貿易赤字をやり玉にあげ、「中国にわが国をレイプさせ続けるわけにはいかない」と挑発的な発言をする。ツイッターで、中国の南シナ海での人工島造成や為替操作を批判し、「我々の了承を求めたのか」と気勢を上げるた。米国の庶民は留飲を下げ、中国の人民は習近平国家主席の反攻に期待する。中国の台頭を強力に引っ張る習近平がトランプを生み、トランプが習近平の権威をさらに高める。こうした反射的関係が生まれるほど米中は接近している。

トランプ当選を受け、多くの中国人がまず想像したのは、米国の新たな対中政策ではない。トランプ大統領と習近平主席が国家の利益を背負って向き合い、二大国のリーダーとして世界の課題を語り合う姿だ。米国の大統領と丁々発止の攻防を演じる我が指導者の姿なのだ。これが、見た目は大国でありながら、内実が伴っていない中国のメンツなのである。

トランプ氏は、既成概念を打ち破る派手なパフォーマンスで、社会不満を抱える低所得層の支持を集めた。その姿は、不文律を打破する高位高官の腐敗摘発と親民スタイルの演出で大衆の人気を得ている習近平氏と重なる。両者は、国家利益を前面に打ち出し、エリート層からはじかれた社会大衆の幅広い支持を得ている点で似ている。中国の反体制派による習近平批判に引きずられ、米中の対立や衝突ばかりに目を向ける日本メディアの報道は、国際社会の真実から国民の目をそらしている。

1971年、ニクソンが日本の頭越しに中国と手を結んだショックを忘れてしまったのか。日本人が疑わなかった米国に不信感を抱き、これがきっかけとなって異文化コミュニケーション研究がさかんに進められた。だが研究室の中に閉じこもり、その成果が十分生かされていない。日本の対中認識は年々劣化の一途をたどり、米中接近の実態が見えていない。好き嫌いにとらわれ、真の姿から目をそらしている。米中のホットな接近が、内向き志向によって世界への関心を失速させている日本世論と際立った対照をなすことは、銘記しておいた方がいい。



ニクソンは反共の闘士として名をあげながら、電撃訪中によって20年に及ぶ敵対関係を終結させた。ベトナム戦争やインドへの対応をめぐり、対ソ連包囲網で米中の利害が一致したからだ。国家利益のため融通無碍に重大決断のできる指導者が生んだ歴史的事件だった。毛沢東は北京でのニクソンとの会談後、主治医の李志綏に、

「あの男は本音で話をする。持って回った言い方をしない。本音と建前を使い分ける左派の連中とは訳が違うな」

と話した。米中間にはイデオロギーを度外視したプラグマティックな発想が横たわっている。

習近平氏が30年前に引用した故事がある。

孔子の弟子、子路は勇を好んだが、分別のなさを師に諭された。子路は衛の高官に取り立てられたが、戦乱に巻き込まれる。敵に冠の紐を切られたが、気骨を重んじる子路は、たとえ殺されてでも冠を守ろうと、武器を捨てて落ちた紐を拾おうとした。そして命を落とした。

習近平氏は、これを「なんとバカげた考えだ」と一蹴した。「原則上の問題は気骨を守るとしても、原則にかかわらないことには戦術が必要だ」というのだ。これが習近平氏のプラグマティズムである。蛮勇をいさめ、冷静沈着に情勢を観察し、損得の利害を判断することが必要だと説く。国家利益を守るためには、政策選択の幅が十分にあることを知っている。この点、ビジネスマン出身のトランプとは共通のテーブルにつける余地が大いにある。

毛沢東とニクソンが国際世論の裏をかいて演じた離れ業が再演される可能性に、日本の世論はもう少し注意を払った方がいい。
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マニュアル社会は思考と自由だけでなく感情をも奪う

2017-01-17 15:07:12 | 日記
「道」の話を続ける。茶道の家元制が免許代と称する功利主義を持ち込み、精神を伴わない形式の墨守に流れている、と柳宗悦は手厳しく批判した。家元制度が日本文化の継承に果たした功績は過小評価すべきではないが、最も洗練された礼法として生まれた「道」が、長い年月を経て形式に縛られ、肝心の魂を失うことはしばしばある。日中を往来していて強く感じるのは、日本の充実したサービスだ。日本人はそれを「接客道」にまで高めているが、果たして魂、心、感情があるかどうかは疑わしい。

おもてなしは今や日本文化の代名詞である。各国で開かれる万博で、日本館のきめ細い、行き届いたサービスが好評なのはよく知られている。私の若いころ、ホテルのウエイターやデパートの売り子をしたので、接客の苦楽も多少かじってはいる。日本人は、接客する相手の満足を自分の達成感として楽しむ。相手が喜んでも自分の収入が増えるわけではない。ただ自分が満たされるからそうするのである。

中国人旅行者が日本で道を聞いて、わざわざ目的地まで連れて行ってくれて感動したという土産話を聞く。チップが目当てなのではない。人に親切をする、困っている人を助けると、善行を積んだように自分が気持ちよくなる。親切そのものに価値があると思うからそうするのである。ただそこには、ある一定のルールのもとに、与えられた役割を演じるという枠がはめられている。もし相手がそのルールを踏み外すと、親切はたちまち反感と嫌悪に一変する。

サービスのマニュアル化を考えればいい。メニューにないものを注文したとする。豚肉は嫌いだからこの野菜炒めは鶏肉にして、と。店員はどうしていいかわからず店長に聞きに行き、店長はメニューにないものは値段が決められないから出せない、と伝える。「お客さまは神様」といっても、既定のルールがある。中国のレストランなら、迷いなく「問題ない」と返事が戻ってくる。材料がある以上、作れない道理はない。ルールは当事者間でその都度適当に当てはめていけばよいと考える。規則を絶対視し、それを守ることに生きがいを見出す日本人にはなかなか生まれない発想だ。

日本企業では、職場での私用電話は厳禁され、当たり前の社会通念になっている。だから廊下に行ってひそひそ話をしなければならない。中国であればたいていの場合、家族や友人と電話をするのに何の気遣いもない。そのことが当人にとって会社よりも大事だからだ。周囲も「家で何かあったのか。大変だなあ」と当たり前のように受け入れている。「空気読めない」と白眼視される心配は全くない。逆にひそひそ話は、何かよくないことを企んでいるのではないかと勘繰られる恐れがある。

昨日の朝はこんな経験をした。間もなく春節を迎え、多くの学食が閉じてしまう。自分で料理をしようとバスを二駅分乗り、市場に食材を買いに出かけた。大きなテントの下に、肉、魚から野菜、調味料まで約100店舗が並ぶ。値札もない。包装もされていない。豚の頭がぶら下がり、大きな包丁でさばいたばかりの肉を刻んでいる。店と客の間にいくつもの仕切りが設けられたスーパーでなく、店主と客がじかに向き合いお互いの言い分をぶつけ合う場だ。

買い物を終え、両手にいっぱいの荷物をぶら下げて近くのパン屋をのぞいた。すると女子店員や近づいてきて、トレーとトングを取り「どれが欲しいのか」と尋ねる。両手がふさがっている私に代わって、パンを取ってくれるというわけだ。冷やかし半分で入っただけだったが、彼女の「おせっかい」がうれしくてかなり余分に買ってしまった。商売っ気のあるサービスではない、とっさのごく自然な行為だった。

中国のサービスは全体を見れば日本にはるか及ばない。店員が客の前でも平気で私語をするし、繊細さがなくがさつだし、衛生的にも問題が多い。マニュアルもなかなか浸透しない。日系のコンビニでも、「歓迎光臨(いらっしゃいませ)!」の声が、いかにもいやいや言わされている感じで耳障りだ。

文句を並べたら一冊の本でも足りないだろうが、困っている人や弱い人には、ルールを度外視して手を貸そうとする。そんな素朴なところがある。順法精神には欠けるが、ルールに縛られない自由がある。型にはまっていないから、感情がストレートに表れ、余計に真心を感じる。組織の利益ではなく、個人の感情が先行しているので、わざとらしさがない。

どうもこの国の人たちはマニュアルが合わないようだ。上からの指令で振り回された悲惨な歴史を幾度も味わってきたからだろう。押し付けられるルールに対してはどこか懐疑的なところがある。堅苦しく考えず、お互いが納得できればいいではないか。法よりも人の方がはるかに尊いと考える合理性、人間性がある。

日中で仕事の進め方も大きく異なる。日本人は事前に入念な調査をし、あらゆるリスクを計算したうえでゴーサインを出す。ひどいときにはさんざん検討した結果、やっぱりやめますと言われることもある。しかもその理由が、「だったら最初から言ってほしい」と思えるものが多い。

中国人は、なるべく早く手を付けようとする。十分な検討は後からでいい。とりあえずスタートを切らなければ何も始まらないではないか。走りながら、問題に対処すればいい。なんとか方法はあるものだ。そんな大雑把なところがある。

双方に優れた点、マイナス面がある。どちらがいいかということではない。日本人は日本式に仕事をしなければ不安になり、ストレスがたまってしまうだろうが、逆に中国人は日本式の几帳面さに耐えられない。ただ外から見ていると、日本はずいぶん損をしているのではないかと思えるのは確かだ。

「道」にとらわれず、柔軟に考えた方が、より自由に、独立した思考を探求し、感情を表現できるのではないか。精神の尊さが自由にあることを、もっと大事に考えてもいい。
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112歳の生誕記念で語られた中国知識人の良心

2017-01-17 07:45:52 | 日記
中国語には読み方をアルファベットで表記した「ピンイン」がある。これを生み出した言語学者の周有光氏は、上海のミッション系聖ヨハネ大学で経済学を専攻し、1930年代、東京大学に留学した。マルクス主義経済学の権威、河上肇を慕って京都大学に移籍したとのエピソードが伝わる。彼が1月14日未明、北京で亡くなった。前日、満111歳の誕生日を迎えたところだった。数え年では享年、112歳となる。



晩年は海外のメディアを通じ、中国共産党の独裁体質を批判し、民主化を求める発言を繰り返した。もちろん国内では封じられ、訃報で初めてその名を聞いたという若者がほとんどだ。

実は彼が亡くなったその日、上海で「世界と中国への正しい認識--祝周有光先生112歳誕生日座談会」が開かれ、地元在住の知識人や周有光氏の親戚約30人が集まった。それぞれが彼の功績をたたえると同時に、中国知識界の現状について意見交換をした。結果的に誕生記念がそのまま追悼に変わる特異な会となった。会の開催自体は聞いていたが、詳細な発言までは追っていなかった。



今朝、グループチャットを通じ、上海師範大学歴史学部の蕭功秦教授の発言全文が送られてきた。一読し共鳴するところが多かった。



蕭教授は、「周老(周有光氏への敬称)に常識の理性、つまりイデオロギーを超越し、宗教の熱狂やロマン主義の信仰信条にもとらわれず、経験的な理性によって問題を判断し、選択をする態度を感じる」と述べた。中国語でイデオロギーは、「意識形態」のほか「意底牢結」とも訳される。意識の底にこびりついて固まったものを指す。信仰や信条に振り回され、正しい世界の把握を阻害する元凶だ。単純な理想だけでは極端なロマン主義に陥り、経験に偏り理想を忘れれば大局を見失う。常識と理想のバランスをもった理性を言っている。

そのうえで蕭教授は「周先生の文章には、清く、済んで、冷静で、素朴な常識的理性がある」とする。

スピーチの主題は、米国政治への分析に移る。蕭教授は、先の米大統領選を、左翼イデオロギーを前面に出したヒラリーと利益を重視する保守右派のトランプとの対決ととらえる。オバマ民主党政権のもとで、イデオロギーに縛られた過剰なグローバル化、理想主義、平等主義が横行し、結果的に多くの国民が不利益を被った。そこで自国民の利益回復を掲げたトランプの勝機が到来した。彼の勝利は、「保守主義の超革新主義に対する、実務的現実主義のロマン的理想主義に対する、経験主義の原理的理性主義に対する勝利」なのだという。

蕭教授は、トランプの過激で、突拍子もない、時には荒唐無稽な発言にとらわれるのではなく、彼が担っている米国社会の病根や利益重視の政治スタイルに注目すべきだと説く。これもまた周老の常識的理性に従ったものの見方だとうわけだ。日本の中国報道にはとかく安易な二者択一の体制論が目立つが、こうした脱イデオロギーの視点が存在していることも見逃してはならない。中国知識人の理性を軽視してはならない。常識に従った理性的判断は、日本人も共有すべき人類の文化遺産である。

昨日、「道」について語ったが、その際に「依存や従属による思考ではなく、個人の独立した思考を支える独自の価値観、社会認識、世界観を指すのだろう。要するに常識と良識だ」と触れた。肝心なのは常識なのだ。鈴木大拙が指摘するように、日本人は禅において、茶道において、不立文字(ふりゅうもんじ)、静寂を説いてきた。西洋の認識方法とは異なり、知ろうとするのではなく、心を虚しくして見ること、わかることを重んじてきた。それが仏教では「大知」と言われる。柳宗悦は『臨済録』の「無事はこれ貴人、ただ造作するなかれ」を引用し、無為による茶の美の至極を語っている。

知をイデオロギーと置き換えれば同じことが当てはまるだろう。偏頗な知識の蓄積、おごった知識のひけらかしは、賢しらとして疎んじられる。「道」は迷信や根拠のない主観に頼るのではない。人生の経験と知恵によって培われた良識の目が見通し、切り開くものだ。112歳と聞いて、自分がまだその半分にも達していないことに気付き、なお常識に達するまでの長い道のりを思った。


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「武道」ではなく「武術」、「茶道」ではなく「茶芸」・・・日中文化の妙

2017-01-16 12:47:01 | 日記
中国メディア学界のある老教師と話をした。彼曰く、

「今の学生は功利主義に走り、知識や技術(テクニック)ばかり求めるが、肝心の『道』を知らない」

という。「道」とは何かと尋ねると、「それは人生の道理だ」と答えが返ってくる。わかったようでわからない。さらに質問をすると、「自分にかかわる浅薄な関心ばかりでニュースをみて、社会で共有すべき意義を持った本当のニュース価値を知らない」という。今に限った現象ではないが、携帯文化が席巻する時代にあって、特にその傾向が強まっていることは確かだ。世界共通のものである。

老教師のいう「道」を私なりに解釈すれば、依存や従属による思考ではなく、個人の独立した思考を支える独自の価値観、社会認識、世界観を指すのだろう。要するに常識と良識だ。簡単なように見えて、実はこれが一番難しい。日ごろ、しばしば「非常識」な行為にいらだつが、それを判断する自分の基準は理に適っているのかと問われれば、どこまでいっても正解がないように思える。「道」は求道者という言葉があるように、生涯をかけて探し続ける真理なのかも知れない。

「道」は中国人が2000年以上にわたり問い続けてきた。『論語』は「朝(あした)に道聞かば夕べに死すとも可なり」と諭す。「道」を求める覚悟はかくも激しい。「正しい人の生き方」と簡単に訳してしまっては意を尽くせない。悟りや解脱に似た宗教的な境地としなければ理解できない。老子、荘子は宇宙を含めた無辺広大な道を探求し、無為自然による人と道との合一を説いた。道家と言われるゆえんだ。

それだけに中国人は「道」や「道理」にこだわる。長い歴史の中で築かれてきた道徳、規範、知恵の体系とでも呼ぶべきものだ。堅苦しい儒家の礼法だけではない。自然との一体、社会との調和を重んじる道家が教える人生を楽しむ芸術である。林語堂は『My Country and My People』の「Art of Living(生活の芸術)」の章で以下のように書いている。

But even without humanism,an old civilization must have a different standard of values,for it alone knows “the durable pleasures of life ”
(人文主義がなかったとしても、中国の古い文化はきっと異なる価値基準を持っただろう。なぜなら古い文化だけが゛“長続きする人生の楽しみ”を知っているからだ)

そして、人生の楽しみとは「単なる食、酒、家、庭、女、友といった感覚の問題に過ぎない」とされる。人生の楽しみこそ中国人が求める道なのだ。老教師の嘆きは、「今の若者は人生の本当の楽しみを知らない」と言っているように聞こえる。

別の中国人インテリから「中国人は道を忘れた」と聞かされたことがある。日本には武道があり茶道があるが、中国人は「武術」「茶芸」と、技術や技巧だけを求めてきた。精神、魂がないのだ、というだ。確かに字面をみれば、日本人はあらゆる技能や趣味を、みな精神を重んずる「道」にしてしまう。細かい規範の中に身を置くことによって、人生の価値を探索する。束縛の中に精神の自由を見出そうとする。あたかも「道」そのものに価値があるかのように。

だが中国人にとっての「道」は、大きく人を覆っている宇宙ではあっても、人生の価値はあくまで楽しみにある。茶や花は楽しむ対象や手段であって、そこに精神を埋没させ、がんじがらめの茶道や華道にしてしまうことは理解できない。1人1人が主人公でなくてはならない。「道を忘れた」との嘆きは、人生の価値にかかわるもっと深いところにつながっているはずだ。

日本人は島国の地理的条件によって、古来、東西の文化を書籍とモノを通じて取り入れてきた。人の往来、接触によって文化そのものを体感する経験をしていない。近代以降、大量の書を翻訳することによって西洋文化を吸収した結果、実態からかけ離れ、理想化された西洋像に築き上げてしまったことは、多くの目利きたちが指摘するところである。「道」についても、中国の古書を忠実に読み込み、金科玉条のごとく奉ったことで、仮想の像を作ってしまったのではないか。「道」の背後に人生を楽しむ豊富な知恵があることは、おろそかにしてきたのではないか。

日中の文化は漢字を共有しているため、時に安易な比較に陥りがちだ。使われる文字ではなく、それを話す人を理解しなければ、価値あるものを共有することは難しい。だからこそ往来することが大切なのだ。メディアに頼っていては、浅薄で、偏った、狭い知識しか得られない。この点において、私は老教師と意見の一致をみた。インターネット時代の落とし穴である。
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