独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

『人民の名義』で意外な人気の役人

2017-04-25 17:15:44 | 日記
反腐敗キャンペーンを題材にした『人民の名義』は、単純な勧善懲悪ばかりでなく、現実に即した血なまぐさい権力闘争のストーリーで庶民の広い人気を得ている。舞台となっている漢東省は架空の名称だが、撮影場所は南京だ。

ドラマでは、漢東省の京州市副市長に対する腐敗捜査(本人は米国に逃亡)から、芋づる式に癒着の構図が暴かれていく。主人公は、最高人民検察院から同省反腐敗局長に就任した侯亮平だ。正義感が強く、度胸もある。彼が、同市トップの李達康同市共産党委員会書記の公用車を停車させ、同乗している同書記の前妻で銀行幹部の欧陽青を連行するシーンはハイライトの一つだ。前妻とはいえ、通常の検察官であればとうていできない離れ業である。



興味深いのは、捜査に口を挟まず、前妻が連行されるのを黙って見届ける李書記に人気が集まっていることだ。彼は無趣味で、仕事しか興味のないつまらない男だ。帰宅はいつも深夜で、欧陽との関係は冷え切っていた。欧陽は夫に隠れ、夫の権威を利用して私腹を肥やし、いずれ司直の手が伸びてくる。連行される直前、二人は離婚協議書にサインし、欧陽は娘のいる米国に逃げようと空港に向かう途中だった。空港まで送り届けるのが、李書記が夫として最後にみせた人情だ。

李書記は前妻を見捨て、切り捨てた冷酷な男だ。親類や友人から人事やビジネスの頼まれごとをしても、「そういう話は書記の前でしないでほしい」ときっぱりはねつける。仕事の話になると夢中に語り、人の話にも耳を貸さない。直情型のタイプだ。出来の悪い部下は容赦なく怒鳴り散らす。仕事を怠けている幹部たちを集めて反省会を開き、「やる気のない奴は辞表を書け」とまで言い放つ。

出世欲は人一倍強いが、私的な人脈に頼ったり、金品で地位を買収したりするようなことはしない。あくまで都市開発や民生向上の事業で実績を上げようと努める。だから、「原則を守る」との評価を得ている。毀誉褒貶が多いが、省トップの沙瑞金同省委書記からは重用される。率直で、正直、ときには滑稽に思える感情表現は、舞台で場数を踏んだ俳優、呉剛の名演によるところが大きい。チャットには李書記の顔文字が多数広まり、人気のほどを物語る。









メディア論の授業で、学生がこのドラマの人気と社会背景について発表した。それによると、李達康書記は、「しっかり仕事ができ、責任を負い、清廉であるという、官僚の理想像を体現している」ことで、好感されているという。確かに、コネや人情、メンツによる人間関係でがんじがらめになっている社会の中で、自分の信念を貫き、公私を峻別し、公正な行政を行うことは容易でない。不可能といってもよい。だから李書記に人間として多少のデコボコがあっても、むしろそれは人間味として受け取られる。

私は、別の視点を語った。中国の庶民は、突破力を持った強い指導者を好む。法律による正義よりも、権力による公正の実現を重んじる。手続きよりも実体、形式よりも中身が大事だと考える。社会があまりにも複雑で、細かいことにこだわっている余裕がない。だからこそ李書記のような、確固たる信念を持ち、そのためには独断専行とも思える強引さで突き進む人物を待望し、崇拝する。特に庶民が最も忌み嫌う腐敗への態度が重要だ。習近平総書記が、今まで手の付けられなかった党や軍の大物を次々になぎ倒し、幅広い人気を得ているのも同じことだ。

一方で、強権政治は、民主派から批判の目にされる。私のもとに届いた典型的なコメントは、「権力を人民の手に渡してこそ民主主義が実現される。強い指導者に頼っていては、いつまでも施しを受ける臣民でしかない」というものだ。確かにこの視点は見過ごすことができない。中国の憲法は、「中華人民共和国の一切の権利は人民に属し、人民が国家権力を行使する機関は全国人民代表大会と各クラスの人民代表大会である」とし、政府ばかりでなく司法機関への監督機能も定めている。

だがドラマではこれまで、人民代表大会の存在がまったく無視されている。個別案件に対する介入はできないが、人材の登用や腐敗官僚に対する日常的な監督において、人民代表大会はしかるべき機能を果たさなくてはならない。党がすべてを決めているのが現実だとしても、官製ドラマである以上、視聴者に正しい認識を普及する責任がある。

最新の回では、トップの沙瑞金省党委書記が、李書記の独断的やり方に危惧し、いかに監督すべきかということに言及がある。どうなるか、さらなる展開をみないとわからない。いずれにしても、李書記が目の離せないキーパーソンであることは間違いない。
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権力内の暗殺計画まで描く中国の反腐敗ドラマ

2017-04-24 15:38:46 | 日記
日本取材ツアーから戻ったら、大ヒットしているテレビドラマ『人民の名義』のことを知らされた。3月28日からスタートし、すでに計51回シリーズの終盤を迎えている。クラスの学生に聞いたら、半分以上は見ているという。



最高人民検察院、日本でいう最高検察庁と、江蘇省共産党委宣伝部、中央軍事委員会後勤部が制作にかかわっている。政治的な深読みをすると、この仕掛けはかなりえげつない。

習近平総書記の主導する反腐敗キャンペーンで摘発された超大物の代表は周永康・元党中央政法委書記だが、彼の統括下にあって有名無実化していたのが検察であり、裁判所だ。ドラマ中の腐敗案件が主として公安を含む政法部門を舞台としているのも、皮肉な設定だ。また、徐才厚と郭伯雄の元中央軍事委副主席も摘発されたが、その端緒となったのが、軍の資産を管理する後勤部の公金横領事件である。江蘇省閥を形成する現職の李源潮国家副主席は、失脚した令計劃・元党中央弁公庁主任と密接な関係にあり、すでに周辺関係者が根こそぎ取り調べを受け、死に体となっている。

要するに、今秋の第19回共産党大会を前に、制作者自体が自己反省を試される舞台仕掛けになっている。党幹部の教育、庶民に対する反腐敗キャンペーンの宣伝も制作目的の一つに違いない。かつてない大掛かりな反腐敗ドラマではあるが、視聴者にそっぽを向かれては意味がない。人気の政治小説家の作品をもとに、脚本は、恋愛や婚姻、夫婦の矛盾、親子の関係など多様な要素を含み、娯楽番組としてもよくできている。ネットでの視聴がゆうに3億を超えたというのもうなずける。

高位高官が実際に有罪判決を受け、結果が出ている腐敗摘発があるからこそ、視聴者も引き付けられる。ヒットの核心はリアリティにある。トラック何台分もになる収賄紙幣の海、親の七光りで好き放題をする国有企業経営者、学閥や近親者による不当な人事や執政、男を惑わす酒と女・・・。メディアによる大量の報道を通じ、みなが多少なりとも知っている話が、当局制作のドラマで語られるのは新鮮味がある。

腐敗摘発は大掛かりな政治闘争を背景に描かれる。権力闘争をめぐるストーリーは、三国志、水滸伝、さらには上海租界時代のマフィア抗争に至るまで、そもそも庶民が興味を抱く題材だ。それが官製番組の中で示されることで、現実を連想させるリアリティをもって迫ってくる。反腐敗キャンペーンにおいて、宣伝工作は重要な役割を担うが、この意味でもよく考え抜かれた筋書きである。

政治権力のぶつかり合いはし烈だ。さまざまな背後の権力がうごめき、手に汗握るどんでん返しが起きる。明らかな悪党を退治するのにも、家族関係や人情、メンツ、利益が絡み合い、一般人からはとうていうかがうことのできない複雑な政治的駆け引きが先行する。腐敗摘発は、それまで出来上がっていた既得権益集団による政治的なバランスを崩すため、猛烈な反発を招く。老練な権力ゲームの中で、「法の正義」は子どもじみた机上の論に見えてくる。

捜査機関内部での盗聴も描かれる。驚いたことに、腐敗疑惑の対象となった省の公安庁長、祁同偉が、大学時代の法学部同級生だった2人の反腐敗局長を、続けざまに暗殺しようとするシナリオまで含まれている。1人目の陳海は酔っ払い運転の車にひかせ、意識不明の重体になった。その後、真相解明のために乗り込んだ後任の侯亮平に対しては、プロのガンマンを雇って射殺しようとし未遂に終わった。日本で言えば、警視総監が東京地検特捜部長を暗殺しようとしたようなものだ。





現実離れした空想ではない。実際、薄熙来や周永康事件では、党最高指導部への盗聴事件が発覚している。現実に起きたこと、あるいは起こりうることを下敷きにしていることは明らかだ。周永康一派による習近平暗殺計画は、国外では多くの報道があるが、国内では党高級幹部を除き一般に伝えられていない。それだけにドラマが堂々と描く「暗殺」は、党指導者の強いメッセージを暗示させる。党内の暗黒をさらけ出した大胆さは評価してよい。

かつて、警察を巻き込んだ犯罪マフィアのネタは、香港映画が圧倒的に面白かった。闇社会の暗躍が背景にあった。だが、腐敗摘発部門の廉政公署が力を発揮し、社会の浄化に努めるとともに香港映画の犯罪物モノも勢いが衰えた。一方、大陸では反腐敗キャンペーンで次々とおぞましい腐敗の実態が暴かれた結果、大ヒット番組が生まれた。なんとも皮肉な巡り合わせである。

もちろん、権力が制作する以上、ドラマにはごまかしもある。それについては日を改めて論じることとする。
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胡耀邦夫妻が一緒に葬られた共青城とは

2017-04-24 11:41:41 | 日記
日本でもなじみの深い胡耀邦元総書記の夫人、李昭女史の遺骨が4月15日、夫の眠る江西省共青城の富華山霊園に埋葬された。日本取材ツアーの記録をまとめているさなか、北京の友人からニュースを知らされ、万感の思いだった。この日はちょうど胡耀邦氏の28回忌だった。





「合葬」のセレモニーには胡耀邦ファミリーのほか、夫妻をしのぶ2000人が集まったという。

李昭女史が病気で亡くなったのは3月11日。享年95歳だった。17日には北京西郊の八宝山で告別式が行われたが、この間、北京の路地裏にある自宅には花輪と弔問客が絶えなかった。北京に住まいのある私の大学同僚も弔問に行き、教師のグループチャットに多数の写真を送ってきた。質素な暮らしぶりを伝える部屋の様子に加え、その中に中曽根元首相からの献花と弔電があった。





胡耀邦ファミリーと関係の深い企業家、姜維氏を通じ、長男の胡徳平氏にあてた弔電にはこう書かれている。

「私は首相時代、胡耀邦氏と『平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定」の日中関係における四原則が両国間に永遠続くよう確認しました。ここに、絶えず私と胡耀邦氏との友情と信頼関係が深まるよう支えてくださった胡夫人に心より感謝申し上げるとともに、深く哀悼の意をささげます」

李昭女史は夫を陰から支え、北京服装協会会長や服装時報社社長の身分で各国との文化交流を行うことはあったが、表舞台に出ることは少なかった。その慣例を破ったと言われているのが、1984年3月24日、胡耀邦氏が、訪中していた中曽根元首相夫妻を中南海に招いた際、李昭女史がその他家族とともに同席した事例だ。前年の胡耀邦訪日で、中曽根氏が自宅に招いた返礼だった。

李昭女史の逝去にあたり、改めて胡耀邦夫妻と日本との深い縁を思った。

作家・山崎豊子氏の代表作の一つ『大地の子』は胡耀邦氏の強力なバックアップによって誕生した。同作品は月刊『文藝春秋』に連載され、その後、出版された。山崎豊子氏が1991年6月、共青城の墓前に同著上中下3巻を捧げた写真が残っている。

胡耀邦氏は、共産主義青年団リーダーとして10年間、開墾や植樹、文化学術振興を奨励した。自ら十数歳で革命に身を投じた「小紅鬼」だけに、若者の育成にことのほか心を砕いた。新国家建設の理想に燃える上海の青年団98人が1955年、江西省九江市の鄱陽湖畔に開墾した共青城は特に思いが深く、当時と総書記時代の2回足を運んでいる。「共青城」の名も彼がつけた。

晩年は民主化を求める学生たちへの寛容な態度が批判され、総書記から平の政治局員に格下げされる。なすこともなく不遇の晩年を過ごし、「死んだ後は(党幹部が埋葬される)八宝山には行きたくない」と遺言を残した。血なまぐさい政治闘争から逃れ、かつて、若者たちとともに理想と情熱を傾けた思い出の地に、ようやく夫妻そろって返ることができたのだ。

胡耀邦氏が共青城に埋葬された際、傍らに置かれた石碑には、李昭女史の字で、

「光明磊落 無私無愧」(公明正大 私心なく恥じることもない)

と刻まれた。どんな巨大な石にもまさる重い言葉だ。
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【日本取材ツアー・最後に】学生が深夜に届けてくれた缶ビール

2017-04-22 09:31:17 | 日記
3月25日から4月2日までの9日間、九州を巡った環境問題取材ツアーの回顧も今回で区切りとする。学生たちは日々、徹夜をしながら原稿や記録フィルムの作成を続けている。夜中に「先生、翻訳してください」と依頼が来ることもある。すでに数本の原稿は著名雑誌への掲載が内定した。本人たちが多くを学んだうえ、それをさらに広く伝えることができるはうれしい。

今回、大学が派遣する初の本格的な日本取材ツアーにあたり、私は、大学においては日本人教師としての役割を期待され、中国人学生を引率する中国の大学の責任者として日本人、日本人社会と向き合った。一人二役のような立場だった。ビザ申請から、取材のアポ、車の手配、ひいては食事、宿泊の手助けまで、多くの人たちに支えられた。私は、特異な立場で、中国人学生への温かいまなざしを感じることとなった。

さらに「中国」にかかわる多くの縁に救われた。体験、感覚を共有しているからこそ非常に力強い関係だ。合鴨農家の古野隆雄氏は、消費者が農作業を体験することで、農業の楽しさ、難しさを知り、作物のありがたさを知る「縁農」を提唱している。まったく同感である。確かな人の関係は、同じ時間と空間を共有し、同じことを一緒に経験することによって築かれる。インターネット時代に生きるわれわれは特に、肝に銘じなければならない。

学生たちに励まされることも多かった。取材団の中でちょっとしたいざこざがあった。私が落胆した様子だったのを、学生たちはひどく気にかけたようだ。夜のミーティングが終わり、私が部屋で資料の整理をしていると、3人の学生が入ってきた。「私たちがいたら、先生は外に出てのんびりお酒を飲みにいけないでしょう」。そういってビールとスナックを置いて行った。



ある学生は翌日、自由時間を与えると、古本市に興味を持ち、わかる限りの本を物色した。そして、「先生へのプレゼント」としてサントリーが発行していた広報誌『洋酒天国』の32号を買ってきた。裏表紙には「★昭和33年12月25日発行・・・★編集発行人 開高健」とある。当時の定価は30円だが、ネットで調べると2000円だった、学生にとっては安くない買い物だ。



よほど酒好きだと思われているのだろう。私が以前、上海や北京で「酒仙」のあだ名で呼ばれていたことも、しっかり調べ上げている。

先日、私がふろ上がりに学生とチャットで原稿のやり取りをしていた。綿棒で耳を掃除していたら、綿が外れて耳の奥に残ってしまった。前にも上海で同じ経験があったので、翌日、耳鼻科に行こうと思った。冗談半分で学生に言うと、「そんなことを放っておいては菌が入るので、すぐに病院に行かなければだめですよ」という。すでに夜中の12時近くだったので、翌日に回そうとしたが、いつの間にか2人の学生がタクシーで宿舎の入り口まで来ていた。そのまま市内の大学付属病院に連れていかれ、急患で綿を取り出した。

その翌日、日本語インタビューに中国語の字幕をつける作業を一緒にやっていると、私は昼を抜いて参加したため、お腹がグーグー鳴ってしまった。「別に一食ぐらい抜いてもかまわない」と笑い飛ばしたが、学生がこっそり出前を手配し、30分後にはアツアツの焼きそばが届いた。




こんな温かい気持ちのある学生たちである。素晴らしい思い出をくれた彼女たちにも感謝しなければならない。(完)
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【日本取材ツアー⑳】「守る」とは何かを学んだ9日間

2017-04-22 07:18:32 | 日記
4月1日、地熱料理研究家の山口怜子氏が自ら車を運転し、私たちを熊本から福岡へ送り届けてくれた。思いがけなかったのは、その途中、彼女が高速を降り、自ら10代目女将を務める久留米市の酒造場に立ち寄ったことだ。江戸時代から続く老舗である。パッチワークの作品も現物を見ることができた。



何よりも学生たちを喜ばせたのは、燕が商家の中に巣を作り、自由に飛び交っていたことだった。夢中で撮影を始めた。自然が身近にあり、人と共生している姿を実感することができた。取材の最終日、学生たちにとって最高のプレゼントとなった。

福岡に戻り、水問題に関心のある一部学生は、九州大学応用力学研究所で海洋環境を研究する千手智晴准教授を訪れた。メールだけで取材が実現した、実にありがたいケースだった。私は後からビデオで取材の様子を知った。稚拙な質問にも、嫌な顔一つせず、辛抱強く答えていただいた。頭が下がる思いである。海洋環境に関する専門的な内容ばかりでなく、学生たちにとっては、学者の社会的責任に関するやり取りが印象に残った。

千手氏はこう述べた。

「社会的責任・・・難しいけど、私が海の研究をしているのは、海が好きだから。海は美しいし、いろんな生き物が暮らしている。それを守りたい、ずっときれいであってほしいと願っている。どうして潮の干満があるのか、どうして海流ができるのか。みな仕組みがある。こうした原理がわからないと、将来の予測もできない。わかれば、将来こうなるだろうということが予測できる。これが研究者がやるべきことなのでは」

山口氏の取材からずっと通訳をしてくれた九州大学の中国人留学生がこんな感想を送ってくれた。

「日本のアニメを見ていると、いつも『あるもの、ある人を守っていく』という言葉が出てくる。私はずっと、意味がわからなかったが、今回の取材を通じ、それがわかった。・・・1人の人間にとって、守ろうと思ってもどうにも抗しがたい力はある。だが人生には無限の選択がある。その基準となるものは、実は簡単で、『いいものはいい。それを残したいと思うかどうか』ということなのだ」

環境保護という。保護とはなにか。そっくりそのまま保存する博物館のような保護もあるし、生かして、手を加えながら受け継いでいく保護もある。時代の流れとともに絶えず変化しながら、継承されていく言葉は後者の最たるものだ。価値あるものは残り、いったん消えても、またよみがえることさえある。それを決めるのは、抵抗できない巨大な力ではなく、やはり自然の中で暮らす1人1人の人間である。

千手氏は、東日本大震災後の被災地を視察し、独自の感慨を持ったことにも触れた。津波に備えるため、高いコンクリート塀が築かれ、海を見渡す景観が絶たれてしまった。漁師も塀に設けられたドアを通じて海を出入りをしている。住民の生命を守るためには必要な対策なのだろう。だが、人がだんだん海から遠ざかっているような気がする、と千手氏は寂しさも感じる。美しい海への愛着がそう思わせるのだ。

これを聞いた学生は、「ガラス張りにすれば見えるのではないか」と即答したが、それは無知なのか、知恵なのか。見える見えないは本質でなく、心の距離を言っている。私はコメントに戸惑った。ただ、「守る」営みの尊さは、そこに利益や利害があるからではなく、愛があるからではないのか。「守る」行為を語る人たちの言葉に、大げさでもなく、複雑でもない、素朴な、原初的な響きがあるのは、愛のゆえではないのか。4月2日、9日間の日本滞在を終え大学に戻ってから、こんなことも話題にした。(続)
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